京都アニメーション放火殺人事件

1 被告人Aを擁護も非難もしない。本稿はこの方針を堅持して書き進める。

2 京都アニメーション放火殺人事件は2019年7月18日に京都市伏見区で発生した事件である。36人が亡くなり、32人が重軽傷を負われている。放火した41歳(当時)の男性=被告人Aの公判が2023年9月5日から京都地裁で開始された。本稿は報道によって公開された情報を事実であると仮定して論じるものである。公判の内容については、私の把握している限りにおいて、産経新聞が最も具体的に報じているので、原則として同紙の記事を情報源とする。以下、この事件を「京アニ事件」と略称し、この裁判を「京アニ1審裁判」と呼ぶ。

3 (9月6日公判:  41歳、「パクられた」)
6日の公判では、A被告が救急搬送される前に警察官とやりとりした動画の音声が再生された。その中で「パクられた、小説」「お前らが知っているだろ」などと発言していた。
(緑文字は産経新聞からの引用。以下も同様。但し引用にあたって実名は伏せてある)

4 被告人Aは過去において統合失調症と診断されている。精神科で治療を受けたことはあるが、治療は自己中断し、薬も飲んでいなかった。

5 統合失調症の妄想の一つに、自分の作品を盗作されたというものがある。それは統合失調症の妄想の中で、典型的とまでは言えないが、特別に稀なものでもない。精神科Q&A【2195】統合失調症と思われる知り合いから、定期的に手紙などが届きます はその実例である。【2195】のケースは、自分のネタを友人がパクってシナリオを製作したとして、その友人を非難している。

6 【2196】自分が作詞したヒット曲のお金が口座に振り込まれているはずだと言い張る兄 のケースは、実家の家族に「振り込まれた通帳はどこへやった? 捨てただろ」という電話を毎日のようにかけている。また、一人で大声を出しているなど異様な言動も見られるようになっている。

7 すると京アニ事件の被告人Aは、【2195】や【2196】のような妄想が嵩じた結果、あの犯行に出たのか。そうだとすれば統合失調症が適切に治療されていれば京アニ事件は起こらなかったのか。

8  以下、裁判についての報道から得られた情報に基づいて、この点について考察する。その前に本稿1に記した基本方針を再確認しておく。本稿は、Aを、たくさんの人々の命を奪った犯人として非難することもしないし、治療を受けられずに病状が悪化した患者として擁護することもしない。ただ事実を考察するのみである。

9 (9月6日公判: 14歳ころ、不登校)
「中学2年以降、学校に行かなくなった」「何となく、ずるずると」
一般に、不登校の理由は様々であるが、その一つに、統合失調症の潜在発症、もしくは特有の病前状態という場合がある。たとえば【1417】中学で抑うつ状態、今は統合失調症と診断されている私の、統合失調症の発症はいつだったのでしょうか のケースは、中学2年で不登校になり、22歳になって統合失調症と診断されている。

10 (9月6日公判: 14歳ころ、人を避ける)
弁護側は冒頭陳述で中学時代、被告は人のいない道を選んで通学しており、理由は「人がいるとその人が話しかけたり、寄ってきたりすることがあったから」と説明していた。
弁護人「人が寄ってくるとは」
A「人混みの中だと、寄ってきて何かを言おうとしているのが感じられた」
弁護人「悪いこと、攻撃してくる感じ」
A「そうなります。主要道路を避け、遠回りして通学していた」
弁護人「医者や保健の先生などに相談は」
A「ない」
弁護人「どれぐらい続いた」
A「(定時制)高校の初期ぐらい。自然になくなっていった」

統合失調症の初期または前駆期として典型的な症状である。すなわち、客観的には、理由不明の人を避ける行動。主観的には、他人から攻撃を受けるという漠然とした感覚。このような状態に続いて顕在発症、すなわち、幻聴や被害妄想がはっきりしてくるのが最も典型的な統合失調症の経過だが、そのようにはならず、一過性でおさまることもある。【3626】私は統合失調症だったのでしょうか、 【3281】軽い精神病が自然に治ったようなのですが などがその例である。
他方、統合失調症の方に過去のことをよく聞くと、このような体験、すなわち、幻覚や妄想と解釈できないこともないが、曖昧な体験のため幻覚や妄想であると確定的には言いにくい体験が一過性にあったことがわかることも少なからずある。こうした体験はMicropsychosis (マイクロサイコーシス。日本語では「軽い精神病症状」などと訳されている)とも呼ばれ、いわゆるARMS (At Risk Mental State)、すなわち、統合失調症を将来発症する可能性を示唆する体験の一つであることが統計的に実証されている。ARMSの段階での対処については倫理的な面を含め複雑な問題がある。【2007】統合失調症らしい症状が私にはあるのですが、悪化のおそれがないのなら病院には行きたくありません のケースにそれを垣間見ることができる。

11 (9月6日公判: 28歳、下着泥棒と暴行)
平成18年、28歳だった被告は下着の窃盗や女性への暴行容疑で逮捕される (そして執行猶予付きの有罪判決となった)
弁護人「下着泥棒を何件もやったのはなぜ」
A「性欲に困っていたというのがある」
弁護人「一番幻覚がひどかったと」
A「人には会いたくなくなるし、仕事をするにしても体とか重いし、コンビニの時にはパニック障害でいきなり動悸(どうき)がして。2分ぐらい動悸がしている時期もあった」
弁護人「その延長線上に事件があった」
A「そうです」

この28歳ころの「人には会いたくなくなる」については、その理由が10のように「人から攻撃される」という漠然とした感覚に基づくものなのか否か、この記載からは不明であるが、もしそのような感覚に基づくものなのであれば、統合失調症の初期または前駆期の症状と見ることができる。統合失調症のその時期には、身体の不調や、うつ状態や、いわゆる神経症(現代でいうパニック障害はその一つに分類することができる)が見られ、この時期の症状を指して「汎神経症」と呼ぶこともある。
「仕事をするにしても体とか重いし、コンビニの時にはパニック障害でいきなり動悸(どうき)がして。2分ぐらい動悸がしている時期もあった」
ということからは、当時のAがその状態であったと見て矛盾はない。

12 (9月6日公判: 幻覚と無治療)
上の11には
弁護人「一番幻覚がひどかったと」
と記されており、後の文脈からみるとAはそれを肯定したようだが、ここでの「幻覚」がどのようなものであったかは不明である。
次の問答にも幻覚への言及がある:
弁護人「母親や兄から精神科の受診を勧められたことは」
A「中学2年のころにも幻覚的な症状があったが、兄は『根性で治せ』といっていたので、根性で治すと思っていた。『いかない』と突っぱねた」

ここから読み取れるのは、14歳頃と28歳頃に幻覚らしきものがあったことである。家族がそれについてAに治療を勧めたのか勧めなかったのかは不詳である。「兄は『根性で治せ』といっていた」という記載からは勧めなかったと読めるが(統合失調症の徴候があっても、家族が精神科受診をむしろ禁ずることはよくある。たとえば【4528】精神科にかかりたいのですが親が納得してくれないので逮捕されたいです【1807】統合失調症で治療中ですが、母・祖母の反対により通院も服薬もできなくなりました)、他方、「『いかない』と突っぱねた」という記載からは、勧められたがA自身が拒否したと読める。あるいは当初は「根性で治せ」だったが、Aの症状が悪化したのを見て精神科受診を勧めたのかもしれない。家族が精神科受診を強く望んでいても、本人が頑なに拒否するのは統合失調症ではよくあることである(たとえば、【1832】統合失調症と思われる姉が病気ではない!!!と言い張ります【1661】統合失調症と思われる暴力的な弟を受診させるには【0280】治療を促すと激怒する弟)。

13 (9月11日公判: 30歳、リーマン・ショックの予言 )
30歳だった20年、リーマン・ショックが起きる
弁護人「(栃木県内の工場での)派遣の仕事を辞めた理由は」
A「派遣切りがくるのが分かったから」
弁護人「確信していたのか」
A「間違いなくこれは派遣切りにつながると分かった」
弁護人「なぜ」
A「リーマン・ショックが来ることがわかっていたからです」
《インターネットの情報やテレビ番組を基にリーマン・ショックを予期したと身ぶり手ぶりを交えて主張する被告。「日本は財政破綻する」と危機感を抱いたという》

自分はリーマン・ショックを予言していた。統合失調症の症状の一つにmagical thinking (正式な訳語は「魔術的思考」。実際は「神秘的・超自然的な考え」と呼んだ方が適切と思われる)というものがある。【2005】宇宙の真理に気づいた 【4665】私は超能力者なのに統合失調症と決めつけられています  がその例である。Aのリーマン・ショックの予言は、【2005】、【4665】に比べると異様感は薄いが、magical thinkingを思わせるものであるとまでは言える。もしこの発言が精神科の診察場面で発せられたものであれば、なぜ予言できたのかをさらに詳しく本人に問うところである。それによって思考障害や妄想の具体的内容がより明らかになることがしばしばある。

14 (9月11日公判: 30歳、政治家への言及)
《当時の経済財政担当相にメールを送ったり、2ちゃんねるに関連の書き込みをしたりした被告。担当相がそれを読んでいると感じていたという。ほかにも日本の政治家が米中央情報局(CIA)に暗殺されたなどとする持論を展開する》

これは上記13に続く記述である。ここには実際の問答が記されていないこともあって詳細不明であるが、「経済財政担当相にメールを送った」「2ちゃんねるに関連の書き込みをした・・・担当相がそれを読んでいると感じていた」「日本の政治家が米中央情報局(CIA)に暗殺された」は、「持論」という言葉で描写できる範囲を超えた、「妄想」と呼ぶべき言動である。ここはAの精神状態を評価するうえでかなり重要な事項であるが、その割には記載が簡単にすぎる。
このように、統合失調症ないしはその近縁の精神病性疾患の症状については、真に精神病的で診断価値の高い異常なレベルの言動については、当事者の周囲の人々からはあまり具体的に報告されず、正常心理としても理解できそうなレベルの言動が中心に報告されることが多いものである。その結果は異常性が過小評価され、正常性が過大評価されることにつながる。非常に異常な言動はしばしば「意味不明のことを言っている」「わけのわからないことを言っている」などと片付けられてしまうが、その「意味不明」「わけのわからないこと」の具体的内容、つまり、どのように意味不明なのか、どのようにわけがわからないのかという情報こそが、精神科的診断では重要なのである。そこには、それをどのような言葉で表現したか・どのような態度で表現したかということも含まれる。(13の「リーマン・ショックを予期したと身ぶり手ぶりを交えて主張する」という描写から、Aの妄想の確信度の高さを読み取ることは可能であろう)
この14のように、Aの発言内容がごく簡単にしか引用されず、しかも「持論」という正常心理的な言葉で表現されているのは、異常性が過小評価されるときの典型的なパターンである。

15 (9月11日公判: 30歳、自分に関する情報の漏洩)
《平成20年12月からは茨城県内の雇用促進住宅に入居する》
弁護人「仕事は」
A「郵便局で働き始めた。兄から『そこでやれ(働け)』といわれて」
弁護人「どのくらい」
A「3カ月くらい」
《辞職した理由を、自身の前科が職場や配達先に知られたからと説明する被告。兄が情報を漏らしたと考えたという》

自分についての情報がばらされ知れ渡っているというのは、統合失調症に非常によく見られる妄想の一つである。【2004】監視されている。盗聴されている。みんなが私に関する情報を共有しあっている 、【0305】インターネットなどで私の情報が流されているとか考えてしまいます などがその例である。本人は、情報がばらされていることがわかる根拠として、多くの人々が、自分について知っているという素振りをするとか、言葉の端々に自分のことを知っていることがほのめかされている、などということを挙げるのが常である。そうした「ほのめかし」あるいはそれに関連した内容が、幻聴として体験されることもよくある。【4737】統合失調症を発症し退学になった友人について、私たちはどうすればよかったのでしょうか などがその例である。
そして、ばらされている情報は、事実無根の中傷の場合もあるし、事実である場合もある。事実である場合には、自分が人に隠したいと思っている内容のことが多い。Aのいう前科はまさにそれにあたると言える。

上の「兄が情報を漏らしたと考えたという」については、9月14日の記事に追加説明が記されている:
兄のつてで働き始めた郵便局も、3カ月ほどで退職。理由は兄が職場で被告の犯罪歴について話し、「おしゃべりで有名なおばちゃん」に知られたため。
もっとも、兄がばらしたというのも「おばちゃん」が知ったというのも全て被告の推測。本人に確認はしていない。「暗ににおわせるのは、知っていると思うべきだ。直接確認するまでもない」

9月14日の記事の記述はここまでで、最後の「暗ににおわせるのは、知っていると思うべきだ。直接確認するまでもない」という発言は、Aによるただの一方的な決めつけないし「推測」にすぎないからAを批判する根拠になると感じられるかもしれないが、このように「暗ににおわせる」と主張して、その「におわされた」内容を確信するのは、統合失調症に典型的な妄想で、後述24のAKB48の歌詞の中に自分との関係を読み取るのとかなり同質の症状である。精神科の診察場面でAからこの話が出たら、その「推測」とは、誰の(おそらくこの「おしゃべりで有名なおばちゃん」の、と思われるが)どのような言葉や態度からそう考えたのかを詳しく聞くところである。それによって、これが通常の「推測」という言葉で表現である思考とは質の違う病的な思考(妄想と呼ぶに値する思考)であることが明らかになることがほぼ確実だからである。

16
上の14と15は Aが統合失調症であることを示すかなり強い根拠であると言える。それに対し、12の「幻覚」という記述だけでは根拠にはなりにくい。幻覚は確かに統合失調症によく見られる症状であるが、その幻覚の具体的内容についての情報がなければ、それが統合失調症らしい幻覚かとそうでないかはわからない。また、13のリーマン・ショックについての予言についても、「自分はリーマン・ショックが来ることを予想していた」と主張する人は健常者の中にも一定程度存在するであろうから、このこと単独では統合失調症らしいとは言えない。もっとも、10の「人を避ける」(中学生ころ)もあわせて総合的に考えれば、統合失調症の兆候があったと言うことはできるが、それは後から振り返ってみれば言えることであって、リアルタイムで彼を見た場合には、まだ正常範囲とみる余地は十分にあったであろう。統合失調症の初期や前駆期というのはそういうものであって、統合失調症の早期発見は容易でないのである。

17
しかしそのあと14の 「経済財政担当相にメールを送った」「2ちゃんねるに関連の書き込みをした・・・担当相がそれを読んでいると感じていた」「日本の政治家が米中央情報局(CIA)に暗殺された」、そして15の、自分についての情報(前科)がばらされ知れ渡っているという段階になると、統合失調症らしさは非常に濃厚である。この時点で精神科を受診すれば、統合失調症であろうという推定のもとに診療が開始されていたはずである。

18 (9月11日公判: 30歳、小説家を志望)
A「犯罪(前科)をばらされると生活がその都度、不安定になる。実力さえあれば暮らしていける何かに就かないといけないと思った。小説に全力を尽くせば、暮らしていけるのではないかと書き始めた」

「自分についての(よくない)情報がばらされている」という妄想(=統合失調症に典型的な妄想) が小説家志望につながっている。これがこの後の、2009年に発足した『京都アニメーション大賞』への応募、さらには2019年の京アニ事件につながることになる。

19 (9月11日公判: 30歳、恋愛妄想)
弁護人「いつ、京アニに作品を送ろうと」
A「まずは様子見で、2ちゃんねるで京アニのことを調べ始めました」
弁護人「分かったことは」
A「京アニ所属の女性監督が書き込みをしていた」
弁護人「本人だと」
A「本人だと思った」
そして2ちゃんねるでこの女性監督とやりとりをするようになったとAは主張している。おそらくその具体的な内容も裁判の証拠になっていると思われるが(つまり、その女性監督とのやりとりであると考える根拠が客観的には全くない内容を、Aはその女性監督とのやりとりであると確信していた、すなわち妄想を持っていたことが示される証拠)、報道はされていないので詳細は不明である。しかしいずれにせよ、著名人と自分が恋愛関係にあるというのは、統合失調症には少なからず見られる妄想の一つである。【1193】芸能人と恋愛関係にあると言い張る友人【1194】プロ野球選手と恋愛関係にあると言い張る友人 【2254】著名な芸能人への恋愛妄想  などがその例である。

20 (9月11日公判、「レイプ魔」)
《その後、関係が悪化し、女性監督から「レイプ魔」といわれたと語る被告。「京アニが探偵を雇って前科を調べた」とも訴える》

これだけの記載しかないので推定する以外にないが、2ちゃんねるの何らかの記載を見て、それが「女性監督から「レイプ魔」といわれた」ことを示しているとAは確信したのであろう。自分には関係のないはずのことを自分に関係づけるのは統合失調症に非常によくある症状である。そしてその関係づけは被害妄想的なものであるのが典型的である。「女性監督から「レイプ魔」といわれた」はまさに被害妄想的であるし、そのように言われた理由として「京アニが探偵を雇って前科を調べた」と言っているのだとすれば、それは先の「自分についての情報漏洩」と結びついている。このように、妄想同士を関連づけて新たなストーリーを構築していくのは、統合失調症や妄想性障害で典型的に見られるパターンである。

21 (9月11日公判: 34歳、闇の人物ナンバー2の暗躍)
《平成24年、34歳だった被告は茨城県内でコンビニ強盗を起こし、懲役3年6月の実刑判決を受ける》
《刑務所で同部屋になった人物が自身の過去を把握していると感じ、「警察の公安部」に尾行されたとの認識を持つ》
弁護人「公安部には誰の指示が」
A「闇の人物でナンバー2と呼ばれる人」
弁護人「ナンバー2とは」
A「詳しくは分からないが海外や官僚レベルにも人脈がある」

「刑務所で同部屋になった人物が自身の過去を把握している」も、自分の情報が漏洩しているという妄想の一つの現れである。このように、たまたま自分の近くにいる人物(または、いるようになった人物)が自分の情報を知っている、と感じるというのは、統合失調症に典型的な体験で、ここには書かれていないが、そのように感じる根拠として、その人物のちょっとした言葉や態度を挙げ、それが動かぬ証拠だと強く主張するのは統合失調症では非常によくあることである。
そして次の段階として、自分がそのような被害ないしは嫌がらせにあっていることの背後には大きな組織や陰謀がある、という形に発展するのもまた、統合失調症として典型的なパターンの一つである。このときの「組織」は、【1719】大きな組織に監視されているという母 のように、特定されない漠然とした「大きな組織」ということもあれば、本人の知識や体験などによって特定されることもある(たとえば【3668】朝鮮総連に嫌がらせをされている感じが拭えません)。Aの場合はそれは「公安部」であった。そこには黒幕にあたる人物がいるというのも比較的よくある妄想で、【4352】姉の被害妄想に困惑しています では「黒幕」という言葉が出てきている。Aではそれは「闇の人物」と表現され、さらには「ナンバー2」という正体不明の特定の人物になっている。

22 (9月13日公判: 34歳、闇の人物ナンバー2からのメッセージ)
《刑務所では『闇の人物・ナンバー2』からさまざまなメッセージが送られ、それにあらがうような状態だったと振り返った》
弁護人「刑務所で繰り返し聞いた言葉は」
A「『結婚』という言葉がやたらと出てきた」
弁護人「どういう場面で」
A「テレビで福山雅治さんが結婚したという話や(芸人の)あばれる君が結婚したりとか」
弁護人「それを見聞きしてどう思った」
A「結婚させたがっているのかなと」
弁護人「Aさんを」
A「はい」
弁護人「誰と」
A「京アニ所属の女性監督(※発言は実名)になるのではないか」

テレビ番組などに「結婚」という言葉が出てくるのはごく普通のことであるが、そのように、自分に関係あるはずのないことを自分に関係していると確信して妄想を発展させるのは、統合失調症に典型的な症状である。【0863】偶然の一致にすべて意味があると強く言い張るがその一例である。この症状は犯行動機、すなわち自分の作品をパクられたという妄想にも密接にかかわってくるので、後の29でもあらためて述べる。

23 (9月13日公判: 34歳、闇の人物ナンバー2からの干渉)
(上記22からの続き)
弁護人「誰が結婚させたがっていたのか」
A「おそらく闇の人物ナンバー2」
弁護人「どうしてそう思った」
A「結婚させてしまえば守りに入ることになる。自分勝手なことができなくなる。自分がやんちゃやっていたので見かねた部分があるのではないか」

「闇の人物ナンバー2」は、Aを支配する全知全能に近い存在であることが窺われる。
このように、何らかの大きな力によって自分が、そして世界が、コントロールされているというのも、統合失調症に典型的な妄想である。

24 (9月13日公判: 34歳、闇の人物ナンバー2の影響力)
刑務所内で耳にした、アイドルグループAKB48のヒット曲「恋するフォーチュンクッキー」のいくつかの歌詞を引用しながら、自分と自分を付け狙う「闇の人物でナンバー2と呼ばれる人」との関係をうまく表現していると述べた。「ナンバー2の存在をまだ知らなかったが、向こうは(自分に)何らかの興味を持っていたようだ」。

ヒット曲の歌詞が、Aのような個人について描写する内容であることなどありえないが、このように、自分に関係したことをその中に読み取るのは統合失調症の典型的な症状の一つである。なぜそのように読み取れるかということを本人は「ほのめかされている」「間接的に示されている」「うまく表現されている」などと説明するのが常である。さらに説明を求めると、それが歌詞であれば、歌詞の中の一つの単語とか、一つの表現などを取り上げて、それが自分に関係したものであることは明らかであると主張する。先の22のテレビで見た「結婚」という言葉についてのAの説明がそれにあたる。
妄想は、世の中の現実的な出来事を自分に関係づけることで、強化され発展していくことがしばしばあるが、「恋するフォーチュンクッキー」の歌詞との関係づけはその典型的な一例であると言える。Aにおいては、この歌詞が、「闇の人物ナンバー2」についての妄想の強化・発展の一つの因子になっている。
(この24は 9月14日の記事からの引用だが、内容からみて9月13日公判についての記事であると推察し「24 ( 9月13日公判)」と記した)

25 (9月13日公判: 34歳、闇の人物ナンバー2と京アニ事件の接点)
《刑務官への反抗的な言動などで13回の懲罰を受けたA。こうした受刑態度を改めさせるためにナンバー2が『結婚』というメッセージで関与してきたと述べた。またIoT(モノのインターネット)についてAが持っていた独自のアイデアを、ナンバー2がつぶそうとしていたと『陰謀論』めいた持論も展開。この点は作品コンクール『京アニ大賞』への自作小説の応募と落選、そして京アニ放火という動機にもつながっていく》

弁護人「刑務所では13回も懲罰を受けたが、どうしてそんなに反抗した」
A「いろんな圧力にあらがうために反抗を繰り返した。『結婚』という言葉もそうだし、圧力を受けていた」
弁護人「出所後に長編小説と短編を応募しているが、結果は」
A「落選になります」
弁護人「どう思った」
A「がっかりした。裏切られた気持ち。頑張って書いた小説だから、なんで通らなかったのかという気持ちがあった」
弁護人「誰が落選させたと思う」
A「(少し言いよどみ)ナンバー2という人だと思う」
弁護人「どうしてナンバー2が関わっていたのか」
A「落選の圧力がかかったのでは」
弁護人「どうして圧力をかけた」
A「IoT。自分の言うことに、発言力を持たせたくなかったのではないか。IoTの進化は海外から良い視点で見られていない。海外の雇用を破壊することになる」
弁護人「ナンバー2の狙いは」
A「世界のバランスを取っていると思う」

統合失調症の妄想は、「自分は〇〇につけ狙われていて、いつか殺される」のように具体的かつ明確なものもある一方、もっと漠然と、「何となく人から見られている」といったもの、さらには「何だか理由はわからないが恐ろしいことが起きている気がする。恐ろしいことが起きそうな気がする」といったもっと漠然として無形的なものまで様々なものがある。このうち、「妄想」という言葉の定義に厳密にあてはまるためには具体的かつ明確であることが必要だが、実際の統合失調症においては、非常に漠然としたものから始まり、徐々に具体化し、さらには具体化した内容が相互に関連づけられてさらに体系化したものに発展するというのが一つの典型的なパターンである。【3477】地球の破滅が徐々に迫りつつあるような漠然とした、しかし逃げ場のない大きな不安を最近感じます は、この体系化・発展の経過が生き生きと描写されている貴重な例である。
そうした経過の中、統合失調症の人の訴えの典型的な表現というものがいくつかある。「見られている」「見張られている」「つけられている」「噂されている」「悪口を言われている」などが最も典型的だが、そこまで典型的ではないが比較的よくあるものとして、「圧力」という表現がある。この意味でAが(闇の人物ナンバー2から) 「圧力を受けていた」と述べていることは注目される。どのような圧力を受けていたとAが語っているかが精神科の診断的には重要だが、記事にはそれについての記載がないので不明である(語った内容が記事になっていないのか、それとも弁護人が「圧力」についてさらに質問しなかったためそもそもAが「圧力」について法廷で詳しく語っていないのかは不明である。24の「恋するフォーチュンクッキー」の歌詞は、何らかの圧力であるとAが認識していた可能性はあるが、記事にはそこまでは明記されていない)。
そんな中でひとつだけ具体的に語っているのは、応募した自作小説がナンバー2からの「圧力」によって落選したという思いである。このときAが「(少し言いよどみ)ナンバー2という人だと思う」と、言いよどんでから答えた理由はいくつか考えられる。たとえばこのときは確信度が低かった、すなわち、落選させたのはナンバー2の力によるものかもしれないが他の理由かもしれないと考えたとか、あるいは逆に確信度が高く、そしてナンバー2の力が桁外れに強大であると考え、法廷という公の場でナンバー2を批判すると強烈な報復が来ることをおそれた、などである。
そのほかにどのような圧力を感じていたかは不明だが、「いろんな圧力にあらがうために反抗を繰り返した。」という言葉からは、多くの圧力を様々な形で感じ取っていたことが窺われる。

26 (9月11日公判: 35歳ころ、統合失調症と診断)
《たびたび身辺調査をされていると感じたとする被告。刑務所内で13回懲罰を受け、統合失調症と診断される》

何らかの形で自分は監視されているというのも統合失調症に典型的な被害妄想である。統合失調症の前駆症状として、なんとなく「見られている」という漠然とした感覚の場合もあれば(【4617】「誰かに見られている」という感覚について【4575】常に誰かに見られてる気がする【4524】ただの自意識過剰か統合失調症の初期症状か など)、よりはっきりと監視されているというケースもある。【1975】「見張るな」と言ってくる隣家の女性 【2092】隣のマンションの住人が盗撮しているとのことで毎日のように怒鳴りちらされ最近では恐怖を感じています【4493】カメラや虫による監視【1167】集団で監視され嘘の噂を流されているという姉  などにその例を見ることができる。Aの「たびたび身辺調査をされている」もそのような被害妄想の一つの現れであると見ることができる。ここまでの経過とこの時の症状を総合すれば、Aが統合失調症と診断されたのはごく自然のことである。(注 この26は9月11日公判の記事からであるが、22-25は9月13日公判の記事からである。Aが統合失調症と診断された理由が、「たびたび身辺調査をされている」という訴えが中心であったのか、それとも22-25のナンバー2からの圧力が中心ないしそのこととあわせてであったのかは、記事からは不明である。)

27 (9月11日公判: 37歳ころ、服薬不規則)
出所後、Aはメンタルクリニックに通院を始める。薬をちゃんと飲んでいたかという弁護人からの質問に対するAの答え:
A「たまに飲んでいた。何かに対して怒り散らして、上の階の人がうるさいとか、そういうことがあるたびに飲まなくなった」 

Aが答えたとされるこの記述は、Aの言葉をかなり圧縮したものと思われ、Aが実際にどのように話したのかが不明で、解釈が困難であるが、この記述から推定できる範囲で考察すると、少なくとも確実に言えることは、医師から処方された薬をAはきちんと飲んでいなかったということである。統合失調症の多くは、きちんと服薬していれば症状はよくなり安定しているが、薬をやめたり減らしたりするとてきめんに悪化するものである。そのような例は、【3896】統合失調症の姉は、薬をさぼる癖があり、再発して入院しました【3881】統合失調症の妻が私は病気ではないと突然言いだして薬をやめ、症状が悪化して医療保護入院になりました【3761】何回も薬をやめ再発している統合失調症の息子【2670】7年間安定していた統合失調症の妻が、薬をやめて4カ月で大変な状態になってしまいました【2265】統合失調症と診断されましたが、通院をやめました。攻撃性と被害妄想が肥大化してきました。【2179】症状がなくなったので病院に行くのをやめたら妄想が出てきました【1791】統合失調症の姉が薬を飲まなくなり、敵意とともに暴力も出てきた【1624】服薬をやめたら、「男性とお付合いすれば治る」などと言い出した統合失調症の従妹【1308】退院後、薬を飲まない統合失調症の姉【1211】統合失調症の妻が再発し、治療を拒否している【1140】薬を飲まず再発し、自分の世界だけに生きている妻【1074】統合失調症の姉が再発し困り果てています  、【0157】統合失調症患者の薬の拒否について のように多数あげることができる。

28 (9月11日公判: 37歳ころ、服薬と症状)
上の27のAの言葉の中の、「たまに飲んでいた。」の後の部分、すなわち、「何かに対して怒り散らして、上の階の人がうるさいとか、そういうことがあるたびに飲まなくなった」については、Aがどのように話したのか、Aの言葉通りの内容を知りたいところである。なぜなら、統合失調症においては、上下左右などの部屋などからの音がうるさいという訴えは、統合失調症の症状そのものに基づく訴えとして非常に典型的なものであるから、「音がうるさいから薬を飲まなくなった」ではなく「薬を飲まなくなったら音がうるさくなった」という方が統合失調症の臨床ではむしろ普通だからである。

上で述べた「統合失調症においては、上下左右などの部屋などからの音がうるさいという訴えは、統合失調症の症状そのものに基づく訴えとして非常に典型的」ということの背景には、実際の音に過敏という場合 / 幻聴として音を体験している場合 / 音は嫌がらせ等であると認識している場合 / 単なる音ではなく嫌味や悪口などの声が聞こえるという幻聴の場合 など様々なケースがある。たとえば 【4710】隣の部屋の人が被害妄想がひどくとても困っています【4102】嫌がらせのように物音が聞こえるのは統合失調症の症状でしょうか【2080】上下の階の音を異常に気にする母【1975】「見張るな」と言ってくる隣家の女性【1858】いわれのない非難を続ける隣人は人格障害でしょうか【1853】精神障害だと思われる隣人がしょっちゅう怒鳴りこんでくる【1840】階下の統合失調症と思われる奥様が怖いのですが、ご主人が動いてくださらない【1809】隣家の咳払いが気になる【1311】隣人が毎年夏になるとひどい嫌がらせをしてきます【1261】隣人が仕返しに音を出していると訴える妻【1106】近隣の住人の方から音がうるさいと言われとても困っています【1084】両隣からの嫌がらせに悩んでおりますが私は統合失調症でしょうか、 【1070】以前より音や陰口で悩んでいる私は統合失調症でしょうか【1046】隣人からの嫌がらせばかり受けている私は統合失調症でしょうか【1027】30歳の息子が周囲を気にするようになりました。統合失調症でしょうか。【0979】2年前から嫌がらせが続いています【0396】一人暮らしの隣人に被害妄想の矛先を向けられ恐怖でいっぱいです など。これらの例からわかるように、「監視されている」「(音以外にも)嫌がらせをされている」「盗聴・盗撮されている」などの被害妄想を伴うことも多い。なお、どの場合も、統合失調症の本人は「音がうるさい」としか訴えてこないことがあるので、精神科的診断のためにはさらに詳しい問診が必要である。
そしてこうした「音がうるさい・気になる」という言葉に集約される体験が統合失調症の症状である以上、薬を飲むことによって症状が軽くなる・消滅するのが常である。もしAが「何かに対して怒り散らして、上の階の人がうるさいとか、そういうことがあるたびに飲まなくなった」のだとすれば、薬によってよくなるチャンスが失われ、統合失調症はさらに悪化していったと考えるのが普通である。

29 (9月11日公判: 38歳ころ、「Free !」にパクりがあると疑う)
《被告は平成28年9月、京アニ大賞の短編部門に「仲野智美の事件簿」を、同年11月には長編部門に「リアリスティックウェポン」を応募するも落選。検察側は「金字塔を落選させられた上、アイデアを盗用された」との妄想を募らせたと言及している》
《京アニ側も盗用を否定しており、証拠調べでは、「Free!」「ツルネ―風舞高校弓道部―」「けいおん!」の一部シーンが、被告の小説と対比される形でモニターに映し出されていた》
弁護人「『Free!』を見てどう思った」
A「また盗っているのかと。垂れ幕が下ろされるところ。自分の小説では、削除した」
弁護人「応募作品にそのシーンはなかった」
A「はい」
弁護人「ではどこからパクったと」
A「流出した原稿からパクったと。そう考えざるを得ない」
(中略)
《改めて「Free!」のシーンが法廷に流される。校舎から垂れ幕が下ろされ、風でめくれる》
A「垂れ幕が下がっている部分を盗用されたと思いました」

本稿冒頭近く3に引用した通りAは、放火直後に「パクられた、小説」と発言している。本項目29からはそれに直接関連する事項、すなわち京アニ事件の動機にかかわると思われる部分についての被告人質問になる。
「Free !」についてのAの上の発言は、
.            「Free !」の「垂れ幕が下がっているところ」が自分が京アニに応募した小説からの盗用であると思った。
と要約できる。
普通に考えただけでも、単に「垂れ幕が下がっているところ」があっただけで、それを盗用であると思うというのはおかしいと感じられるであろう。
そしてこのように、普通に考えれば無関係のものを、自分に関係するなんらかの事実(事実であると本人が信じているものを指す。すなわち実際には事実ではなく妄想である)に結びつけるのは、統合失調症における一つの典型的な思考パターンである。このことは先の22で【0863】偶然の一致にすべて意味があると強く言い張るを例として挙げた。その【0863】の「映画も好きで、セリフを詳しく自分なりに解説し、ノートに記しています。その自分で記した言葉をテレビで他の人が発すると、真似している、又パクッテるよ~と言っています。」「たまたま読んだ本、観た映画、聞いた音楽、その内容が偶然に自分の身の回りで起きたことと少しでも一致すると、必要以上に説明してきます。」「唯の偶然じゃなく、意味のあること…。と。名前が一緒というだけで一喜一憂しています。」という内容と、先の22のAの「『結婚』という言葉がやたらと出てきた」「テレビで福山雅治さんが結婚したという話や(芸人の)あばれる君が結婚したりとか」「結婚させたがっているのかなと」「京アニ所属の女性監督(※発言は実名)になるのではないか」という言葉に共通点を見出すことは容易であろう。また、先の5で言及した【2195】統合失調症と思われる知り合いから、定期的に手紙などが届きます  の「彼女が触れたものに関して、自分で何か共通点をみつけるとそれ=私が書いた(パクッた)、となるようです。椅子の形が似ていると、「これは私の部屋ですね」というような…。」についても同様のこと(普通に考えれば無関係のものを、自分に関係するなんらかの事実(事実であると本人が信じているものを指す。すなわち実際には事実ではなく妄想である)に結びつける)が指摘できる。

30 (9月11日公判: 38歳ころ、「けいおん !」にパクりがあると疑う)
《『けいおん!』のシーンも流れる。登場人物が「これからは同級生なんだよ」と後輩に伝える》
A「『留年しちゃった』という場所。(自身の小説の)はじめの方にあります」
弁護人「それ以外は」
A「ない」
弁護人「『間違いなくパクられた』なのか、『パクられたかな』というものか」
A「当時は『パクられたかな』のレベル」
弁護人「確信はなかった」
A「当時はなかった」
裁判長「当時とは初めて映像を見たときか、事件の日のことか」
A「初めて見たときです」

前記29の「Free !」は「垂れ幕が下がっている部分」、本項目30の「けいおん!」は「留年しちゃった」が自分の作品のパクりであるというのがAの主張である。29の説明の通り、どちらも普通に考えれば無関係で、パクり(盗作)の疑いなどいささかでも発生するような場面ではない。それなのにパクりだと考えるのがまさに「妄想」であって、健常者に見られるいわゆる「思い込み」とは質が異なる精神病症状である。ただこの段階ではAは、パクりであるという「確信」まではなかったと述べている。このことからは、妄想の単純な定義、すなわち、「訂正不能の誤った確信」とは異なるようにみえるかもしれないが、統合失調症や妄想性障害の病状が十分に進行していない時期においては、確固不動の確信ではなく、半信半疑的というレベルであることもしばしばある。Aの「当時は『パクられたかな』のレベル」という言葉は、この時点のAの病状はまだそうした時期であったことを示唆している。統合失調症の病識(自分が病気であるという認識)は、ある・ないの二分法で割り切れないことがむしろ多いのであって、自分の体験(症状としての体験)が事実なのかそうでないのか迷いがあることは少なくない。【4192】私は統合失調症を発症しているのか、あるいは今後発症したとき気づくことができるか【4173】統合失調症と診断されていますが、いまだに半信半疑で、薬を飲むことに抵抗があります【4166】訳の分からない思い込み【2003】みんなが陰口を言っている。車も人も私を邪魔だと思っている。自意識過剰でしょうか。【2018】「皆に嫌われている、笑われている」と思う自分と「そんなわけない」と思う自分がいます。などにその例を見ることができる。【4567】純粋な被害についての相談を林先生にする方がいるのはなぜでしょうか【3158】病識の無さのレベルについて などもこれに関連した内容である。

31
病識が、ある・ないの二分法で割り切れないという点に限らず、統合失調症においては、その症状や体験の、いわば輪郭が明瞭でないことがしばしばあって、健常者から見るとなかなか理解しにくい、不思議なものになっている。それは統合失調症のあらゆる症状・体験の特徴だが、たとえば幻聴について言えば、「幻聴」というからには、何かが聞こえているという体験なのであろうと健常者は推定するのが当然であるし、統合失調症の本人も、「声が聞こえる」のように表現するのがごく普通である。しかし、その「声が聞こえる」という体験について、統合失調症の本人によくお聞きすると、それは健常者が想像するような「声が聞こえる」という体験とはかなり異なっていることがわかることが少なくない。すなわち、幻聴について正確に把握するために、具体的にどのような言葉が聞こえるのか、と尋ねると、明確に答えられる場合もあるものの、逆に明確には答えられず、「そういう意味のことが聞こえる」とか、時には「意味が聞こえる」という答えしか得られない場合もある。つまり統合失調症の幻聴は、普通の意味での「(音声が)聞こえる」という体験とは異なるのである。

32
また、統合失調症の症状の一つに「独語」があるが、これも単なる「ひとりごと」とは異なっている。独語は幻聴と密接に関連した症状なのである。このように書くと、「聞こえている幻聴に対して何か答えているのが統合失調症の独語」というように理解されやすいが、そのような独語もあるものの、統合失調症の独語はそういう単純なものではない。この点については幻聴か独語か  にも記してある。

33 (妄想としての闇の人物ナンバー2)
統合失調症の妄想もまた、単に「事実ではないことを思い込んでいる」という単純ものではない。被告人Aは「闇の人物ナンバー2」についてしばしば語っている:

「警察の公安部につけられていた。指示したのは闇の人物でナンバー2と呼ばれる人だ」「おそらくハリウッド、シリコンバレーに人脈があり世界で動いている…官僚のレベルでも人脈がある」「政治的な考えを通せる闇の世界のフィクサーだ」

闇の人物ナンバー2は、Aの説明からは、世界を、そしてAを、支配する全知全能に近い人物像が浮かび上がる。そして犯行動機にも密接に関係している。裁判官・裁判員がこの「人物」について詳しく聞き出そうとするのは当然であろう。法廷では次のような問答もなされている:

裁判員「ナンバー2は1人なんですか」
A「そこまで考えたことはない」「実際の話、何者なのかは分からない」
裁判員「どういう人なのか分からないということか」
A「分からない」

この問答からは裁判員に困惑が発生したことが推定できる。Aはさんざん「闇の人物ナンバー2」について語っておきながら、それが1人かどうかもわからないのだという。そして何者なのかもわからないのだという。「闇の人物ナンバー2」が、Aの妄想であることは確実であるが、この説明からは、その妄想は輪郭不明瞭で、したがってAはそれほど強く確信しているわけではないのではないかという推定も生まれかねない。だがこれがまさに統合失調症の妄想の特徴なのである。「何かの強大な力によって自分が、あるいはまた世界が、コントロールされている」というのがその妄想の本質で、揺るぎないのはそこまでであって、その「強大な力」が具体的に何であるかは本質ではない。それは統合失調症の当事者ひとりひとりによって様々である。Aの場合はたまたま「闇の人物ナンバー2」と名づけられているにすぎない。

34
本稿14で「統合失調症ないしはその近縁の精神病性疾患の症状については、真に精神病的で診断価値の高い異常なレベルの言動については、当事者の周囲の人々からはあまり具体的に報告されず、正常心理としても理解できそうなレベルの言動が中心に報告されることが多い」と指摘した。この指摘は、統合失調症当事者のご家族・友人からの報告について、そして、報道される内容について言えることで、その結果、しばしば、真の症状がなかなか知られにくいという結果を生んでいるが、裁判においてはもっと深刻な問題を生んでいることがよくある。それは、「真に精神病的で診断価値の高い異常なレベルの言動」が、その理解しにくさのために、症状の重さが理解されないことにとどまらず、症状が軽いことの証拠であるとみなされたり、さらには、被告人の供述が信用できない=被告人がいい加減なことを言っているとか、嘘をついているなどとみなされるという結果につながりがちであるという問題である。

35
上の33の裁判員の質問「ナンバー2は1人なんですか」は、報道されている情報から読み取れる限りにおいては、かなり奇妙に感じられる質問である。Aは「闇の人物ナンバー2」と言っているのであるから、それは1人の人物を指しているとみるのがごく自然であって、普通はどこからも、「1人なんですか」という疑問は生まれない。にもかかわらずこのような質問が出たということは、その裁判員が特に洞察力に富んだ人物であったという可能性も否定はできないものの、Aの発言の中に、「闇の人物ナンバー2」が1人の人物を指すにしてはどうもおかしいという内容があって、その部分は報道されていないことが推察される。そうだとすれば、それも、本稿14の「統合失調症ないしはその近縁の精神病性疾患の症状については、真に精神病的で診断価値の高い異常なレベルの言動については、当事者の周囲の人々からはあまり具体的に報告されず」の一例ということになるが、このようにして、統合失調症の異常性は記録上は希薄化されるものである。そして裁判においては、被告人による自らの症状の説明の曖昧さが、症状が軽いことの証拠であるとみなされたり、さらには、被告人の供述が信用できない=被告人がいい加減なことを言っているとか、嘘をついているなどとみなされるという結果にもつながるものである。

36
法廷での裁判員からの質問は、素朴な疑問に基づくものであって、それはそれで価値の高いものであるが、他方、裁判官からの質問は、責任能力判断を意識したものであることがありありと読み取れる。本稿30の、

弁護人「『間違いなくパクられた』なのか、『パクられたかな』というものか」
A「当時は『パクられたかな』のレベル」
弁護人「確信はなかった」
A「当時はなかった」

という弁護人とAのやり取りについて、裁判長が

裁判長「当時とは初めて映像を見たときか、事件の日のことか」
A「初めて見たときです」

と「当時」がいつであるかを明確化する質問をしたのは、犯行当時の妄想の確信度を確認したもので、これは責任能力を判断するうえでの重要な要素になるものである。

37
私はこの文章を2023年10月22日に書いている。明日10月23日からは法廷で鑑定人尋問が開始される。鑑定人尋問は、検察官と弁護人からの質問が主で、さらに裁判官・裁判員が補充の質問をするという形で進行する。本件の争点がほぼ責任能力に絞られている以上、検察官は、本件はAの性格によるところが大きいことを引き出す質問をし、弁護人はAの精神病症状によるところが大きいことを引き出す質問をすることになる。それらに対する被告人の答えを、裁判官・裁判員がどう判断するかによって判決は決定される。

38
出廷を予定されている鑑定人(精神科医)は二人で、一人はAを妄想性障害と診断している。もう一人は別の診断名をつけているようである。二人とも統合失調症とは診断していない。

39
現代の精神医学において、妄想性障害という診断名は、非常に幅広いものを含んでいる。その中には統合失調症にかなり近いものから、人格の発展とみなしうるものまでの幅があり、京アニ事件の被告人Aは、仮に妄想性障害と診断されるとしたら、統合失調症にかなり近いものにあたる。というより、Aは30代半ばに統合失調症と診断され治療も始められているのであるし(その後に治療は中断しているが)、また、京アニ事件後に報道されている内容からみて、統合失調症と診断する方が妥当であると考えられるが、妄想性障害という診断を正しいとする立場も考えられるであろう。そのように診断が曖昧にならざるを得ないのは、現代の精神医学において、妄想性障害という診断名は、非常に幅広いものを含んでいるからである。

40
精神科の臨床においては、妄想性障害と診断した場合、それが統合失調症にかなり近いものとしての診断名であれば、統合失調症と診断した場合と実質的にはあまりかわるところはない。治療法としてはほぼ同じになるからである。

41
だが刑事裁判においては、統合失調症と診断されるか妄想性障害と診断されるかは、非常に大きな違いを生むことになりうる。

42
なぜなら、妄想性障害には、性格の影響が強いという考え方が精神医学界にはあるからである(それは現代の精神医学界の定説ではない。「そういう考え方がある」というレベルである)。

43
検察官はそうした考え方が正当であるという印象を裁判所に持たせるようにし、さらには、動機の形成から放火の実行に至るまでの経過に、Aの性格(人格とかパーソナリティと言っても事実上同じである)の影響が大きかったという印象を持たせるように尽力するであろう。

44
それに対して弁護人は、動機の形成から放火の実行に至るまでの経過に、Aの精神病症状の影響が大きかったという印象を持たせるように尽力するであろう。

45
京アニ事件の判決は2024年1月25日に下されることが予定されている。現時点までの裁判の経過から予想される判決書を示してみよう。現時点とは2023年10月22日で、鑑定人尋問開始の前日である。

46
念のため本稿冒頭で述べたことを繰り返す。被告人Aを擁護も非難もしない。本稿はこの方針を堅持して書き進めている。47もまたこの方針を堅持して作文したものであって、判決書がこうなるであろうという予測を事実として記したものである。判決がどうあるべきであるとか、どうあるべきでないとかいう要素は一切いれていない。

47 (判決予測; 2023年10月22日現在)

.
京アニ事件  1審判決書 (2023年10月22日現在の予測)

主文
被告人を死刑に処する。

(判決書の結論部分)
 被告人が犯行に及んだ動機は、被告人の作品を盗作した被害会社に報復するとともに、自分に数々の陰湿な干渉を行なってきた闇の人物へのメッセージを送るためというものであるが、そもそも盗作されたというのは被告人の思い込みにすぎず、その一方的な思い込みに基づき何の落ち度もない被害会社社屋に放火したものであって、身勝手というほかない。もっとも,被害会社から盗作されたという思い込みや、闇の人物にかかわる点などは、被告人が罹患していた妄想性障害の影響があり、そのような考えを前提にすれば、被害会社とその関係者に悪感情を抱くのもやむを得ない面がある。しかしながら、被告人は、被害会社から何ら現実に危害を加えられていたわけではなく、また危害を加えられるという恐怖を感じていたわけでもなく、闇の人物からの干渉も被告人に切迫した恐怖をもたらす性質のものではなかったのであるから、主な動機は報復である。そうすると、他に様々な選択肢がある中、放火という手段を選んだその意思決定には病気の影響は乏しく、被告人の性格によるところが大きいといわざるを得ないから、酌むべき余地はほとんどない。また被告人は、放火により多数の尊い人命が失われる可能性を考慮していなかったことも窺われ、あまりに短絡的な行動というほかはない。一方、被告人は、当時に至るまでの生活史上、いくつもの不幸な経験をしてきており、心身ともに疲弊し、高いストレスを感じていたと考えられるが、それは犯行を正当化する事情とはならない。
 本件は我が国の犯罪史上最多の犠牲者を出した未曾有ともいえる大事件である。にもかかわらず被告人は、法廷において、被害会社に対して、未だに盗作されたとして強く批判するなど侮辱し、自己の犯行を正当化し続けるなど、全く反省していない。被告人には前科があり、刑務所内で受けてきた矯正教育の効果が認められていないこともあわせると、被告人に更生可能性は乏しいといわざるを得ない。そして、このような被告人の態度に加え、前記のような凄惨な犯行態様によって家族や社員の命が奪われたことからすれば、被害者遺族らの悲しみ、怒りは察するに余りあり、極めて峻烈な処罰感情をもって、被告人に対して極刑を求めているのも当然といえる。
 よって、主文の通り判決する。

 

48 (冒頭陳述)
この48からは2023年10月23日、すなわち、鑑定人尋問初日の記事が出てから書いている。予定では、48では直ちに鑑定人尋問の内容について論ずるつもりだったが、10月23日の新聞には冒頭陳述が初めてかなり詳しく掲載されたので、その内容について先に論ずることにする。

49
冒頭陳述は、公判の初日に、検察官・弁護人それぞれが、この裁判で証明しようとすることを発表するものである。京アニ1審裁判では被告人Aの責任能力が最大の争点である以上、冒頭陳述の内容を証明するためには、鑑定人尋問が公判最大のヤマ場で、検察官・弁護人それぞれ、自らの冒頭陳述の内容が正しいことを裁判官・裁判員に印象づける証言を、鑑定人から引き出そうとするのが鑑定人尋問である。したがって、鑑定人尋問内容の理解のためには、冒頭陳述の理解が前提として必要である。

50
繰り返しになるが重要なことなのであらためて記す。この文章は、報道されている内容が正しいと仮定して書いている。冒頭陳述も鑑定人尋問も、文言の細部まで正確に報道されているとは限らず、というより、大筋では正しく報道されているとしても、細部までは正確に報道されていないと思われ、すると、責任能力という繊細な事項については、報道のわずかな不正確さが大きな誤解に増幅される可能性が十分あるが、情報が報道内容しかない以上は、そうしたリスクがあることは承知のうえで論を進めている。

51 (検察官 冒頭陳述)
まず検察官の冒頭陳述を、報道に記載されている一つ一つについて論じていく。検察官の冒頭陳述は、報道ではこのように始まっている:

責任能力とは、良いことと悪いことを区別する能力や、良いことと悪いことの区別に従って犯行を思いとどまる能力。それらがない場合は無罪、著しく低下する場合には刑が軽くなる。

52
「責任能力とは」で始まる51は、責任能力の概念についての説明である。刑法39条には次のように記されている:
心神喪失者の行為は、罰しない。
心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。

刑法の記述はこれだけの単純なもので、そこには心神喪失とは何か、心神耗弱とは何かということは一切書かれていない。これについては、1931年(昭和6年)の大審院の判決がある:
心神喪失ハ精神ノ障碍ニ因リ事物ノ理非善悪ヲ弁識スルノ能力ナク又ハ此ノ弁識ニ従テ行動スル能力ナキ状態ヲ指称シ心神耗弱ハ精神ノ障碍未タ上叙ノ能力ヲ欠如スル程度ニ達セサルモ其ノ能力著シク減退セル状態ヲ指称スルモノトス

これが現代でも、心神喪失・心神耗弱それぞれの事実上の定義として用いられている。この判決によれば、心神喪失とは、「精神障害により理非善悪を弁識する能力が完全に失われている状態、あるいはまた、その弁識に従って行動する能力が完全に失われている状態」を指し、「完全に失われている」ではなく「著しく減退している状態」が心神耗弱である。

53
51の検察官冒頭陳述の「良いことと悪いことを区別する能力」は「理非善悪を弁識する能力」のことで、「良いことと悪いことの区別に従って犯行を思いとどまる能力」は「その弁識に従って行動する能力」を指す。「それらがない場合は無罪」は心神喪失、「著しく低下する場合には刑が軽くなる」は心神耗弱を指す。但しここでそれらがない場合は不正確な表現で(検察官がそう言ったとは限らない。報道の段階で検察官が言った内容が不正確に引用された可能性がある)、この表現だと、「理非善悪を弁識する能力」と「その弁識に従って行動する能力」の「両方がない場合」なのか、「どちらが一方でもない場合」なのかが不明である。正しいのは「どちらか一方でもない場合」である。これは細かいことのようだが、どちらが正しいかによって責任能力判断が全く異なることになるから、重大な違いである。責任能力判断によって、判決は死刑から無罪まで大きく変わりうるのである。

54
弁護側は、妄想性障害という精神障害によって妄想が犯行に影響しており、心神喪失状態または著しく低下した心神耗弱状態であったと主張。一方、検察側は妄想性パーソナリティー障害または妄想性障害という精神障害があり、その症状として妄想はあったが、犯行はパーソナリティーが表れたもので完全責任能力が認められると主張する。

京アニ1審裁判では、二人の鑑定人(精神科医)が出廷することになっている。精神科医Pによる被告人Aの診断は妄想性パーソナリティ障害である。精神科医Qによる診断は妄想性障害である。診断名と責任能力は直結しないが、ある程度の対応関係はあり、パーソナリティ障害という診断の場合は、それはパーソナリティ(性格・人格)の偏りであって精神病とは異なるとするのが優勢な考え方であることから、完全責任能力になる可能性が非常に高い。それに対して妄想性障害では、完全責任能力・心神耗弱・心神喪失のいずれもありうる。したがって弁護人が精神科医Qの診断=妄想性障害が正しいと主張し、検察官が精神科医Pの診断=妄想性パーソナリティ障害または妄想性障害が正しいと主張するのは、刑事裁判が形式上弁護人vs検察官という構造を取る以上は当然である。

55
54の説明は次の通り整理できる:

精神科医Pの診断: 妄想性パーソナリティ障害 → 完全責任能力
精神科医Qの診断: 妄想性障害 → 完全責任能力・心神耗弱・心神喪失

上の矢印の右の部分は法的判断であって、精神医学とは直接は関係しない。だが事実上は、診断名によって、法的判断はある程度までは絞られるのである。

56
するとこの時点で、この裁判は検察官が圧倒的に有利であることがわかる。なぜなら、精神科医Pの診断が正しいと裁判所が認めれば、その時点でAは完全責任能力確定で、検察官の勝ちである。精神科医Qの診断が正しいと裁判所が認めた場合でも、検察官には十分な勝算がある。

57
この構造を弁護人の側から見れば、裁判所が精神科医Pの診断が正しいと認めればその時点で敗北確定である。裁判所が精神科医Qの診断が正しいと認めた場合でも、勝てるとは限らない。

58
このように、最初から検察官が圧倒的有利というのは、この種の裁判としては異様な事態である。通常の事態であれば、一方の精神科医が正しいと裁判所が認めれば検察官が勝ち、他方の精神科医が正しいと裁判所が認めれば弁護人が勝つというパターンになっているところ、この京アニ1審裁判は、どちらの精神科医が正しくても検察官に勝算があり、Pが正しいということになればその時点で勝負がついて検察官が勝つというパターンになっているのである。

59
検察官の冒頭陳述の引用に戻ろう:
事件の動機は、京アニ大賞の落選や何をしてもうまくいかないという被告の人生歴、そして自己愛が強くて他人のせいにするというパーソナリティーによって「自分は全て失ったのに、京アニは成功していて許せない」という筋違いの恨みを募らせ、復讐(ふくしゅう)を決意したことが基盤となっている。

犯罪の分析は動機から始まるものである。検察官はこのようにまず、動機がAのパーソナリティから生まれたと主張している。検察官の立場としては当然の戦術である。

60
実際にはAの動機は、自分の作品を京アニにパクられたという妄想から生まれていることは明らかであろう。しかし59の通り検察官は、それには全く触れず、Aのパーソナリティのみを強調している。これは事実に反する主張であるが、検察官の立場というものを考えれば理解できる主張である。もし妄想が動機であるということになれば、それは犯行に至る一連の経過の出発点が妄想ということになって、妄想に支配された犯行であるとか、妄想に非常に強く影響された犯行であるということになりうるから、検察官としては、まず動機の地点で妄想の影響を排除しなければならないのである。

61
妄想が怒りを大きくしたものの、動機形成の過程は正常心理として十分に了解できる。

Aの法廷での一連の供述を聞けば、妄想の影響がなかったと主張するのはさすがに無理がある。だから検察官は、「怒りを大きくした」という部分に妄想の影響を限定し、動機への妄想の影響を否定するという工夫をしているのである。妄想が動機に影響していないというのはどう見ても事実に反する主張だが、59の主張を強調することによって、「動機形成の過程は正常心理として十分に了解できる」という印象を裁判官・裁判員に持たせようしているのである。

62
犯行でも、被告は何度もためらった上、自らの意思で実行した。

犯罪を分析するとき、その出発点の動機の段階と同等かそれ以上に重要とされているのは、最終部分である犯行の意思決定の段階である。また、責任能力の事実上の定義の中の重要部分が、本稿51-53に記した通り、理非善悪の弁識に従って行動する能力 = 良いことと悪いことの区別に従って犯行を思いとどまる能力 である以上、「犯行を思いとどまることができたか否か」は重要なポイントになる。62はこの部分についての検察官の指摘・主張である。実際には、「犯行を思いとどまることができたか否か」は、回答不可能な問いである。なぜなら、現に犯行をしてしまった人物について、それは、犯行を「思いとどまることができたのにしなかった」のか「思いとどまることができなかった」のかを知る方法は存在しないからである。

63
そこで検察官の立場としては、「思いとどまることができのにしなかった」と推定できる論拠を主張することになる。その一つが62の「被告は何度もためらった」である。これはこの種の事件における検察官主張の定番である。Aが「ためらった」ことを示す記事がある:
事件当日、京アニ第1スタジオに放火する直前の約13分間、被告はなお実行をためらっていた。「自分のような悪党にも小さな良心がある」。その13分間で自身の半生を振り返った、という。

これは2023年9月18日の記事である。すなわち被告人質問のライブ的記事が終了した後で追加的に掲載されたもので、実際にAがどのような質問に対してどのように述べたかは記事には記されていない。したがってそれについては推定する以外にないのであるが、通常、このような被告人の供述は、検察官から誘導されて引き出されたものである。検察官としては、上述の通り、被告人が「犯行をためらった」という事実を引き出し、それをもって「責任能力があった」と主張するという戦略を立て、被告人質問はその戦略にそって組み立てられるのである。上の記事の中にはAが「自分のような悪党にも」と述べたという記載もあり、これは、Aが、自分がしていることは悪いことだとわかっていたという論拠になりうるから、上に引用した部分は、責任能力としての「理非善悪を弁識する能力」「その弁識に従って行動する能力」の両方をAが有していたと検察官が主張する有力な論拠になりうる。検察官はこの供述を引き出したとき、ポイントを上げたと感じたであろう。

64
記事は、63の「その13分間で自身の半生を振り返った、という。」の後に続けて下のように記されている:
検察官「自分の半生はどうだったと考えた」
A「あまりにも暗いんじゃないかと。京アニは光の階段を上っているように思え、自分の半生は暗い。それで、ここまで来たら、やろうと思った」

このことから読み取れる重要な点の一つは、この部分の被告人質問は検察官からの質問によるものであるということである。これは非常に重要な点で、被告人質問とは、検察官・弁護人それぞれが、自らの主張を支持する供述を被告人から引き出すために行われるものであるから、検察官・弁護人どちらの質問であるかということが確認できなければ、記録されている供述の真の意味を読み取ることはできない。63の引用部分は、その内容からみて、検察官からの質問であろうと推定はできるがあくまで推定にすぎなかったところ、64の記載が記事にあることから、やはり検察官の質問であったという推定はかなり強化される。また、供述は、本人の言葉通りに記録されていなければ、真の意味からは大きく逸脱する危険があることにも注意しなければならない。ここには「その13分間で自身の半生を振り返った、という。」と書かれているが、Aが犯行前に「自身の半生を振り返った」が事実であったとしても、その時間をAが計測していたとは到底考えられないから、「13分間」という数字がAの口から自発的に出たということはまずありえない。あるいは何らかの証拠事実から、Aが犯行現場に到着してから犯行に着手するまでの時間が13分間であることが証明されており、その時間内に何を考えていたのかと問われたAが「自身の半生を振り返った」と答えたとしても、それをもって彼がその13分間のすべてにわたって自分の半生を振り返っていたということにはならないし、そうしていたと推定するのも不合理である。その13分間の中の一部の時間に、Aの脳裏を半生がよぎっただけかもしれない。いずれにせよ「その13分間で自身の半生を振り返った」という部分の記載は、検察官からの何らかの誘導によって引き出され、裁判の記録として残されたものであろう。検察官としては、「犯行に踏み切るかどうか、13分間も考えたのであるから、思いとどまる機会は十分にあった」と主張する予定なのかもしれない。

65
検察官の冒頭陳述に戻ろう。先の62の引用、すなわち、

犯行でも、被告は何度もためらった上、自らの意思で実行した。

には、2つのポイントがある。一つはここまで示してきたとおり「何度もためらった」であるが、もう一つは「自らの意思で実行した」である。これはこの裁判における検察官の主張を支える非常に重要な点である。少なくとも検察官はこれが非常に重要であると裁判官・裁判員に思わせようとする意図を持っている。すなわち検察官は、「自らの意思で実行した」以上は、妄想の影響ではないと主張しているのである。

66
検察官のこの主張には重大な誤魔化しがある。

67
なぜなら、人が何かの行為をしたとき、それは「自らの意思で実行した」に決まっているからである。たとえ妄想の影響であっても、そのほかいかなる精神病症状であっても、最終的な行為におよんだのは「自らの意思」であるのは当然である。ではなぜ検察官はこのような当然のことを殊更に強調するのか。それは、精神病についての非常によくある誤解・錯覚に基づいて、検察に有利な誤った判断をするように裁判所を誘導しているのである。

68
すなわちここには、「妄想」と「その妄想を持っている人」を截然と分割する錯覚がある。

69
身体の病気であればこの分割は正当である。たとえば「インフルエンザ」と「そのインフルエンザに罹患した人」は截然と分割できる。したがってインフルエンザに罹患したとき人は、自分がインフルエンザに罹患したことを自覚し、その自覚に基づいて、自分の行動を考え、決めることができる。

70
精神の病気であってもこの分割は正当な場合がある。たとえば「パニック障害」と「そのパニック障害に罹患した人」は截然と分割できる。したがってパニック障害に罹患したとき人は、自分がパニック障害に罹患したことを自覚し、その自覚に基づいて、自分の行動を考え、決めることができる。

71
ところが一定以上に重症の精神病ではそうはいかない。たとえば妄想という症状では、自分が妄想という症状を持っていることを自覚して、その自覚に基づいて自分の行動を考え決めることは困難であり、一定以上に妄想が重ければ(妄想の確信度が高ければ)不可能である。「自分が妄想という症状を持っていることを自覚」すること自体が不可能だからである。

72
被告人Aの妄想の確信度はきわめて高く、全く揺らぐことはない。したがって被告人Aが「自分が妄想という症状を持っていることを自覚」することは不可能であるから(治療を受ければ別である)、被告人Aがある行為に出るときの彼の意思決定は、妄想に著しく強く影響されたものである。妄想に完全に支配されたものであるということもできる。

73
したがって検察官が主張するところの「自らの意思で実行した」は、実際には、何ら検察官に有利な結果をもたらすものではない。人が行為に出るとき、最終的には自分の意思によるのは当然であるし、被告人Aにおいてはその自分の意思とは妄想に完全に支配されたものか、少なくとも著しく強く影響されたものであるからである。

74
こんなあたり前のことを検察官が理解していないはずはないが、実際には裁判所はしばしば精神病について大きく誤解しており、いかに精神病症状が重篤でも、「最終的に犯行に及んだのは自分の意思による」と判断して重い刑罰を科すことが稀ではない。検察官はそのことをよく知っているから、「自らの意思で実行した」という、実際には全く当然であって、殊更に言い立てても無意味なことをあえて強調しているのである。

(続きは後日書きます)

05. 10月 2023 by Hayashi
カテゴリー: コラム, 妄想性障害, 精神鑑定, 統合失調症 タグ: |