名作マンガで精神医学
         
    林 公一 著  中外医学社
      2012年5月発売

 

実に11年ぶりに、マンガを素材にした本を書きました。
1999年の『大人になったのび太少年』、2001年の『大人になった「矢吹ジョー」』、この2冊はいずれも、「半分まじめ、半分あそび」というコンセプトの本でしたが、今回は、中外医学社という、医学専門の出版社からの、医学書としての本です。11年前の表現にならえば、「90%まじめ、10%あそび」といったところでしょうか。「統合失調症」「うつ病」「高次脳機能障害」「パーソナリティ障害」の4章から成り、精神医学的な解説とともに、名作マンガを語るといった内容です。「監修者の序文」と「あとがき」が、いま私の手元にあり、出版社の許可をいただきましたのでここに掲載いたします。『名作マンガで精神医学』、2012年5月半ばに発売予定です。

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監修の序

ひとりでも多くの人に精神医学を。
本書は、そんな著者の思いの結晶である。
素材は現代の名作マンガだ。マンガというといかにも軽い。誰もがそう思うであろう。私もそう思った。そう思ったが、読んでみたら大間違いだった。
これは、精神医学の専門書である。
それもそのはず、本書の元々の企画は医学生向けだったと聞く。「若い読者にとって親しみ深いマンガを題材として扱う」とともに「臨床の現場にも応用できるような内容を目指す」というのが企画趣旨だという。
いかにも軽い外観と、すらすら読める文章で構成されているが、正体は専門書なのだ。
本書の内容の正確さは、取り上げられた原作の質によるところも非常に大きい。特に各章の中心となる次の四作品は秀逸だ。
一章 統合失調症─『わが家の母はビョーキです』 (中村ユキ)
二章 うつ病─『ツレがうつになりまして。』 (細川貂々)
三章 高次脳機能障害─『日々コウジ中』 (柴本 礼)
四章 パーソナリティ障害─『ブラックジャックによろしく』 (佐藤秀峰)
これらのうち、一章から三章までの三作は、当事者家族の体験談に基づく作品である。臨床医学を学ぶ時、最も有用な資料は実例のケースレポートであるが、現代では個人情報の問題等のため、実例の発表は学会でもかなりの制約がかかるようになっている。そんな状況下にあって、『わが家の母はビョーキです』『ツレがうつになりまして。』『日々コウジ中』は、医学文献としてもきわめて貴重なものである。私もこの機会にこれら作品を読んでみて、その医学的に正確な描写に驚嘆した。どの作品の作者ももちろん精神医学の専門家ではないが、家族として病者本人に親密に接し、喜怒哀楽をともにし、しかもその一方で冷静に観察する眼も持っていたからこそ、これだけ正確な描写ができたのであろうと推定できることは、本書で著者も繰り返し指摘している通りである。そして四章『ブラックジャックによろしく』(「精神科編」単行本九巻から十三巻)は、フィクションではあるものの、綿密なリサーチに基づいて描かれていることは多くのコマから読み取ることができ、医学論文に匹敵する正確さを有する作品となっている。監修者としての立場をいささか逸脱した提言になるが、読者にはぜひ本書とあわせてこれらの作品をお読みになることをお勧めしたい。
本書はこれら四作品を軸に、数々の名作マンガを取り上げ、フィクションと医療現場を奔放に行き来することで、学問という空間に収まりきれない精神医学の魅力が語られている。たとえば『ヒミズ』(古谷 実)、『夜が摑む』(つげ義春)、『ワンピース』(尾田栄一郎)、『ドラえもん』(藤子・F・不二雄)、『美味しんぼ』(雁屋 哲・花咲アキラ)、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』(安彦良和)、『ホムンクルス』(山本英夫)、『狂人関係』(上村一夫)、『MONSTER』(浦沢直樹)など。これらと精神医学がどこでどう関係するのか? それは本書をお読みになってのお楽しみである。本書を手に取ってぱらぱらめくってみていただければ、原作コマが豊富に掲載されていることがすぐおわかりになるであろう。精神医学的なポイントがこれらの絵とともに解説されることで、読みやすさと訴求力が何倍にも高まっている。だから読者を選ばない。皆が読める。精神医学をちょっとだけのぞいてみたい人も。正確な知識を望む人も。さらには興味本位の人も。
ひとりでも多くの人に精神医学を。

       村松太郎 (慶應義塾大学医学部精神神経科 准教授)


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あとがき

精神医学を、精神科の実像を、一人でも多くの方に知っていただきたい。それが本書執筆の動機である。
今や精神障害は「五大疾病」の一つである。平成二三年に厚生労働省がそう定めたのだ。従来は、癌・脳卒中・急性心筋梗塞・糖尿病が「四大疾病」だった。そこに新たに精神疾患が加えられた。背景には、精神疾患の増加があるとされる。
増加するもしないも、精神疾患は元々とても多い病気だった。無視されていたその現実に、ようやく公式に目が向けられたと言うべきであろう。現代日本の入院患者の四分の一は精神科への入院であるが、この比率は何十年も前から続いているのである。
入院患者の多くを占めるのは、統合失調症(本書一章)である。この病気は一〇〇人に一人という高率に発症する。受診患者数は癌とほぼ同数である。にもかかわらず、統合失調症の知名度はあまりに低い。このこと一つをとってみても、精神科の実像と人々の認識はかけ離れている。
実像が、なぜ知られる必要があるのか。治療法があるからである。対応法があるからである。支援する社会資源があるからである。これらが活用されるためには、まず実像が知られるという第一歩が必須なのだ。
統合失調症の患者数は、時代・文化・国に関係なくほぼ一定であるというのが定説であるが、うつ病(本書二章)は、近年、著しく増えたと言われている。
現に、厚生労働省の統計では、うつ病の受診患者数が、平成十一年の二四万三千人から、平成十四年には四四万四千人、平成二〇年には七〇万四百人に増加している。十年間で三倍近くの数だ。いくら何でもこんなに急激に患者数が増加するはずはなく、この中のかなりのパーセンテージが擬態うつ病であることは明白である。うつ病の知名度は統合失調症に比べるとはるかに高いが、よく知られているのは「うつ病」という名前だけであって、実像は大きく歪んだ形で流布している。真のうつ病と擬態うつ病の混合物が、巷において「うつ病」と呼ばれているものの正体である。治療法・対応法・社会資源を最大限に活用し、病める人を救うためには、実像が正確に知られなければならない。
高次脳機能障害(本書三章)は、精神医学と脳科学がホットに交錯する地点にある。その意義は、治療法・対応法・社会資源という観点にとどまらない。確かにそこにある脳の損傷が、確かにその人の心を変える高次脳機能障害では、脳と心の関係が目の前に姿を現す。それは、現代精神医学の真価が試される臨床場面である。脳科学の知見が、心の診断、検査、治療、リハビリに直接応用できる現場。精神医学が科学を標榜するのであれば、高次脳機能障害を射程に入れなければならない。
哲学者を、思想家を、科学者を、そして人々を、魅了し惑わし苦悩させてきた脳と心の関係。これがさらに生々しく顕現するのは、パーソナリティ障害(本書四章)である。脳と心についての議論は尽きない。しかし犯罪という現実が発生すると、尽きない議論に結論を出すことが求められる。その結論は死刑から無罪まで無限大とも言える振れ幅がある。遺伝子、環境、脳の関係を追究していけば、脳と心、さらには自由意志という概念に人は直面せざるを得ない。心に問題があれば悪。脳に問題があれば病。そういう単純な二分法は、もはや通用しなくなっているのである。精神医学が人間を見つめる医学であるのなら、脳と心について問い続け、そして、答え続けなければならない。

本書を支える主役は言うまでもなく現代名作マンガの数々であるが、陰で支えるのは各章に挿入された実例である。それらは私のサイトhttp://kokoro.squares.net/ 開設以来十五年にわたって蓄積された読者からの一万を超える実例報告が基になっている。公開を前提に貴重な体験をお寄せいただいた読者の方々に深く感謝したい。読者からの事実の報告、病気についての明るい事実、暗い事実、すべての事実の報告があってはじめて、本書が成り立っている。病に関する世の本の多くは、明るく希望の持てる面だけが強調されている。これではネットが普及した現代では説得力がない。ネットには病の暗い面が、ほとんど誹謗中傷と同じレベルにまで脚色されて跋扈している。この混沌を収拾に向けるには、暗い面についても事実を正確に伝える以外にない。
明暗すべてを網羅した実像を多くの人々に伝える媒介として、今回はマンガを選んだ。実は過去にも私は、マンガを素材とした本を書いている。『大人になったのび太少年』『大人になった「矢吹ジョー」』(宝島社)の二冊だ。いずれもイマジネーションとジョークの本だが、このころから私は、マンガを素材とした精神医学の専門書というものがあり得ると考えるようになっていた。それから十数年。日本のマンガ文化の着実で限りない発展がそれを可能にした。名作マンガを読むうちに、可能であるという確かな予感が生まれた。『わが家の母はビョーキです』『ツレがうつになりまして。』『日々コウジ中』の三作を読んだ時、予感は確信に変わった。その確信を形にしていただいた、中外医学社企画部岩松宏典さん、編集部上村裕也さんをはじめ、本書の出版までの作業に携わっていただいたたくさんの方々に感謝したい。

                                 林 公一

 

(2012.5.5.)