金閣寺

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ふと思い立って、三島由紀夫の『金閣寺』の英訳本を読んでみた。

Yukio Mishima: The temple of the Golden Pavilion
Translated by Ivan Morris
Vintage Books  New York  1959

冒頭の有名な一行目は次のように始まっている。
p.3
Ever since my childhood, Father had often spoken to me about the Golden Temple.

見事な訳文だ。対応する三島の原文はこうだ。(新潮文庫 金閣寺 p.5。以下、『金閣寺』原文はこの本から引用する)

幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。

原文の語順をいかにして維持するかが、翻訳という仕事における重要な課題の一つである。と少なくとも私は思っている。なぜなら、人間が文章を読むとき、ひとつひとつの語は当然ながら書かれている語順の通りに脳に入力されるのだから、語順が変わったら原文とは異質の認知方法で理解することになる。そして、特に文学作品の訳では、原文の意味だけでなく雰囲気を伝えなければならないから、語順は特に重要な要素になる。しかし言語の構造上、外国語の語順をそのまま訳文に反映させることは不可能である。この難題をどう処理するかに翻訳者の技術がある。
その観点からすると、この冒頭部分の訳は秀逸である。極限まで原文の日本語に近づけた英文が綴られている。そもそも『金閣寺』という小説は、この冒頭の一行が、いわば呪縛のように主人公の心理を規定し、行動を展開させ、ついに作品の収束に至るという構造を取っている。と少なくとも私は読んでいる。だから翻訳する場合も、この一行をどう訳すかが翻訳書全体の価値を左右するとさえいえる。その冒頭部分が上記のように見事に訳されているのを見て私は感銘を受けた。そして最後まで読んだ。一行目の感銘は維持されたばかりか、強化された。一行目からの予感通りの、すぐれた翻訳書だった。

2

『金閣寺』(昭和31年初版)の背景には、金閣放火事件(昭和25年)がある。
当時、鹿苑寺(金閣寺。以後、本稿では簡明のため「金閣寺」を「鹿苑寺」と同義に扱う)の修行僧だった林養賢(三島由紀夫の『金閣寺』では「溝口」という名の「私」。以後、簡明のため「林養賢」に統一する)が、昭和25年7月2日未明に金閣に放火し全焼させた事件である。これを受けて作成されたのが、三島由紀夫の『金閣寺』であり、それを映画化した『炎上』であり、水上勉の『金閣炎上』である。これら作品に共通するテーマは、林養賢はなぜ金閣に放火したのかという問いである。三島由紀夫の『金閣寺』では、美への嫉妬を軸に、自身の吃音、あるいは寺での修行生活、あるいは現実の金閣への失望などが展開されている。
もちろん『金閣寺』は、いかに現実の事件に基づいているとはいえ、それ自体は小説であり、フィクションである。だが私は本稿で、『金閣寺』という小説と、「金閣放火事件」という事実の違いに言及していく。そのような作業が芸術作品の読み方として有意味か無意味かは意に介さず書き進める。そんな本稿を私に書かせた理由はただ一つ、林養賢が、統合失調症だったことである。

3

金閣放火事件の犯人・林養賢は統合失調症だった。
なぜそんなことがわかるかというと、彼を診察した複数の医師の記録が公表されているからである。その一つがこれだ。

三浦百重: 金閣放火事件
日本の精神鑑定 内村祐之・吉益脩夫監修 みすず書房  東京 1972 (2002復刊)
pp.305-350

金閣放火事件は昭和25年7月2日。林養賢は直ちに逮捕され、同年8月から10月にわたり、当時京都大学精神科教授の三浦百重により精神鑑定が行われた。その鑑定書が上記『日本の精神鑑定』の一章として公表されている。裁判所が全面的に採用したこの精神鑑定書の結論部分で、三浦百重は林養賢を、

「分裂病質」として、精神病質者に加へるが至当である。但し、その程度は未だ高度のものとは思はれぬ。

と診断している。「分裂病質」は、性格の特性であって、病気の範疇には入れない。少なくともこの鑑定書で三浦百重は、「異常性格」のひとつに分類している。(にもかかわらず私が「金閣放火事件の犯人・林養賢は統合失調症だった」と断定した理由は後述する)

林養賢は、放火の背景として、自分が老師(金閣寺の住職)や徒弟から排斥されていたことを述べている。これについて三浦百重は

精神病学に所謂優越観念に属する。

として、妄想ではないと結論している。

優越観念とは、優格観念とか支配観念と呼ばれることもある。(優越観念、優格観念、支配観念は同義と考えてよい。最近は優越観念という言葉はあまり使われない。支配観念と呼ぶほうが普通である)
支配観念は、正常範囲の思考とみなされる。健常者にもよく見られる支配観念として、恋愛時の心理がある。 【2505】芸能人に恋焦がれる私は狂っているのでしょうか の回答でも「このような思いを、支配観念あるいは優格観念と呼ぶ場合もあります。」とお答えした通りである。

三浦百重は、「分裂病質」と「優越観念」をキーワードとして、金閣放火事件と林養賢の心理を次のように分析している。

周囲より擯斥さるヽとの観念も、かヽる分裂性々格者には不平家、気難し家、空想家が多い事実を思へば、その性格に基くものであることは容易に理解される。
但し、該考慮が普通健康なる精神の所産なるか、はた又病的現象であるかは更に吟味を要する。
玆に於て、先づこれが妄想に非ざるかを観るに、既に証言中にも、他より嫌はれて居った旨の供述があり、又、長老より叱責せられたことも事実なるべければ、事実に相反する妄想とは異り、加かも、検診に知り得たる所では、他人の無関係なる挙止に就いては、何等被害妄想的意義を付する等のこと等もなく、従って、俄にこれを妄想とは謂ひ難い。
(中略)
該念慮は恒に彼の脳裡に在りて、他の反対観念を抑圧し、彼の日常生活を支配したとして誤なかるべく、従って、該擯斥考慮は精神病学に優越観念に属する。かヽる観念は迷信、心配等に伴ひ、常人にも発することがあるが、殊に性格異常者、病者に於て屡々見られ、しかも常人のそれに比し、その力強く且つ長きに亘るを毎とする。

そして鑑定主文は次の通り。

昭和25年7月2日本件犯行当時及その前後に於ける被告人林養賢の精神状態は本鑑定期間乃至その平生と大差なく、軽度ではあるが、性格異常を呈し、「分裂病質」と診断すべき状態にあったと推定される。而して本犯行は同症の部分現象たる病的優越観念に発するものである。

三浦百重が優越観念に「病的」を付し、「病的優越観念」としていることは意味深長で、正常範囲内のものではないという趣旨であることは確かだが、しかし妄想とは認めていない。そして林養賢は性格異常であって統合失調症(当時の病名でいえば精神分裂病)ではないという結論である。
さらに、鑑定書の補足説明と題する文章の中に、優越観念について、以下の説明がある。
優越観念  これは、些細なことが原因となり、ある一定の観念或は観念群が異常に重要性を帯びて、他の何れの観念よりも優勢になり、思ふまいとしても思ひ出され、除こうとしても除き難く、云ひ換へれば患者自らでは之を制御することが出来ない時これを優越観念と云ふ。

もちろん上記は正確な説明であるが、実際には妄想と優越観念(支配観念)の区別は非常に難しいことも多い。三浦百重は

優越観念は「客観的事実に就て誤れる」妄想とは異なるが、この観念から妄想が発展することはある。

と追記し、すなわち、客観的事実と合っているか、合っていないかが、優越観念と妄想の違いであるとしているが(これもまた記載としては正しいと言えるが)、これも実際にはそうきれいに分けることができるとは限らない。そして、「この観念から妄想が発展することはある」という書き方は、字義通りに読めば、優越観念がまずあって、そこから妄想が発展することがある、という意味であると解釈できるが、現実のケースでは、妄想の初期の形として優越観念が現れることもしばしばある。そして、林養賢のように、「周囲から排斥される」あるいは「周囲から嫌われている」という思いは、特に病気でなくても10代20代の多感な時期にはありがちなことであり、しかし同時にこれは統合失調症にしばしば見られる被害妄想に一致しているので、診断は容易でない。たとえば 【2068】信頼していた先輩に裏切られ、しかも悪評をふりまかれている は、信頼していた先輩に裏切られたのが事実だとすれば、それ以後、人が信頼できなくなったり、周囲から陰口をたたかれているのではないかと疑い深くなるのは正常心理として理解できる面もある。また
 【0835】みんなが自分の悪口を言っているという留学生 のように、新たな環境での生活が始まり、しかもそこが言葉が通じにくい環境であつた場合、周囲に過敏になることは、これもまた正常心理として理解できる。だが他方、これら【2068】、【0835】はいずれも、症状そのものからみて、統合失調症の前駆期または初期の疑いがある。

また、自己臭症や醜形恐怖症と呼ばれる病態も、支配観念か妄想かの区別が難しいことがしばしばある。
【2453】母に臭いと言われてから自分の臭いが気になっています は、「母に臭いと言われた」のが事実だとすれば、それにこだわってしまうという心理は、上述の「些細なことが原因となり、ある一定の観念或は観念群が異常に重要性を帯びて、他の何れの観念よりも優勢になり、思ふまいとしても思ひ出され、除こうとしても除き難く、云ひ換へれば患者自らでは之を制御することが出来ない」にあたり、したがって定義上は優越観念ということになるが、【2453】の本人がここまでこだわっているのを見れば、正常範囲とみなすのは困難である。また、 【2346】口臭外来で臭いは無いと言われたが、他人は私が臭いというしぐさをする は、【2453】のようなきっかけ(人から臭いと言われたというきっかけ)はないが、症状の本質としては【2453】と【2346】はかなり類似しており、これらをきっかけの有無を根拠に別の病態であるとするのは難しいであろう。これらはいずれも自己臭症と呼ぶ以外にないと思われるが、自己臭症が、 【0774】自己臭恐怖症と診断された弟の自殺未遂 のように、統合失調症の前駆症状であることが少なからずあることからすると、
a. 正常範囲の優越観念
b. 病的な優越観念
c. 妄想
a, b, cは連続的なものであり、すると正常範囲の優越観念の中にも、妄想の初期症状とみなすべきものが含まれていると考えざるを得ない。
自己臭以外にも、醜形恐怖症と診断される病態、たとえば 【0945】頭髪が薄くなってきたことを気にして他の事が手に付かない【1752】醜形恐怖症の娘が、妄想性障害と診断されたが、治療を拒否している 【1166】コンプレックスを持っている容姿のことをひそひそと言われる などにも同様の事情があるといえる。

三浦百重は、林養賢の優越観念を「病的優越観念」であると記している。であれば、まだ妄想とは言えないレベルのものであっても、彼の優越観念は妄想の初期の形として現れたのかもしれず、すると統合失調症の疑いを払拭することはできない。また、統合失調症の初期や前駆期には、突然予期せぬ自殺などの激しい行動に出ることがあり、林養賢も金閣放火の計画の時点で自殺も同時に計画しており、ある意味この事件は金閣との心中未遂ととらえることができることとあわせ、三浦百重は当然、林養賢が統合失調症である可能性を考えたはずである。しかし、この時点では、妄想とは言い切れず、優越観念であると結論した。その背景には林養賢の異常性格があるとした。それはそれで妥当な結論であったかもしれない。その後に統合失調症に発展する可能性があっても、その時点では発症していない以上、そして将来発症するかどうかは断定できない以上、統合失調症とは診断できないと判断したのは、科学的に尊重すべき姿勢であるといえよう。
だが、林養賢はその後、明らかな統合失調症の症状を呈するようになったことがわかっている。彼の主治医を務めた医師の手による論文があるのだ。

4

林養賢は有罪の判決を受け、懲役刑に服した。そして刑期を終えた同じ日に、精神科病院に措置入院となり、約5ヶ月後に他界した。この時の精神科病院の主治医が、後に次の論文を発表している。そこには、林養賢が重症の統合失調症で慢性の経過をたどったことの記録を読むことができる。

小林淳鏡: 金閣放火僧の病誌
犯罪学雑誌 26巻4号 126-134 1960年(昭和35年)

論文には林養賢の発症前の生活史も記されている。
林養賢は昭和19年に金閣寺に入寺した。無口、孤独、明朗性にやや乏しく、偏屈、短気で、徒弟間で争うことが度々あったが、大きな問題を起こすには至らず、昭和22年には大谷大学予科に入学した。当初は真面目に登校、熱心に勉強し、成績は中の上であった。ところが昭和24年(予科3年)、突然に成績が急落し最下位となった。但し生活や行状には特に変化はなかった。
その夏から、それまで尊敬していた老師(小林淳鏡の論文では「長老」と記されている。英訳本では “Superior” である)に対する見方が変化する。論文の記載を引用する。

同年夏から、それまで尊敬していた長老に対し、「何か好感が持てず、自分をよくみてくれない不平とか反抗の気持ちが急に出て来た」「長老は親切のようで、何か奥歯にものがはさまったようで、自分だけを除け者にする」「長老の他の徒弟に対する態度と、自分に対する態度とが確かに違っていました。朝出会っても、晩並んで挨拶する時も、目付きなんか確かに違っていました。横眼つかいとか、上眼つかいとか、変な目つきで」などと体験するようになった。
さらには「行く行くは誰かが鹿苑寺を支配するがそれが自分を含む三人の徒弟であるとわかった。三人の中自分が最も劣るから仕方ないと思ったが、長老が自分を変な目でみるのが癪にさわり住職になるのが不可能」との考えが発展した。これらの確信も内容も、長老及び徒弟の否定証言のみならず、前述の住職選任方法及び林自身の以前の言明よりして、明らかに根拠のない非条理のものである。
長老は「林はそれ迄はさほど朗らかでなかったが、そう憂鬱ではなかった。この頃より何か憂鬱そうにみえた。しかし青年期によくある憂鬱だと思って放っておいた」と述べている。

後の経過から見れば、上記、老師に対する被害妄想的な見方は、統合失調症の初期または前駆期の症状であったことがわかる。この時期には、周囲の人は、本人の変化に気づいていても、統合失調症という病気には思い当たらず、「何となく落ち込んでいる」「うつっぽい」などと認識していることが大部分である。上記老師の「この頃より何か憂鬱そうにみえた。しかし青年期によくある憂鬱だと思って放っておいた」も典型的な反応の一つであるといえる。事情は昭和20年代当時も現代もほぼ同じである。

昭和24年 9月(2学期)からは、大学へはほとんど登校しなくなり、11月からは全欠席となった。金閣放火は翌昭和25年7月である。
昭和25年12月28日に懲役7年の判決を受けた林養賢は、昭和26年1月28日に刑務所に入るが、2月からは異常状態のためしばしば夜間独居拘禁の処置を受けるようになった。
そして昭和26年4月には体感幻覚、被害妄想がはっきりと現れ、統合失調症であることが明らかになる。
昭和28年3月、精神障害および肺結核のため移送された八王子医療刑務所では、拒食、緘黙、幻聴、被害妄想、被毒妄想、感情鈍麻が主。しばしば独語、涕泣し、時に衝動行為があった。
昭和30年10月30日満期釈放となり、ただちに京都府立洛南病院に措置入院し、入院後10日間は拒絶、緘黙が続き、その後は幻聴、被害妄想、被影響体験、作為体験がさかんな状態が続いた。
昭和31年2月、肺結核悪化。昭和31年3月7日 死亡。

以上の経過を小林淳鏡は次の通り要約している。

昭和24年夏頃を境として、明かに人格様態の変化がみられ、全体として、また結果からみて、病的過程の介入を想定すべきである。そして、その被排斥体験を妄想の萌芽とするのが妥当であろう。林は少くとも、体感幻覚や被害妄想のみられる昭和26年春には、分裂病であることは確実で、その病型はほぼ破瓜病に属するが、発病はさらに遡り、上記の昭和24年夏頃と考えられる。かくの如く、林の精神病は拘禁前に始ると考えられ、拘禁後に激化しているが、長期にわたり進行性の典型的の分裂病像を示し、且つ釈放後一般精神病院に於いても、拒絶症の軽減を除いては、病像に何ら変化がない。従って拘禁の影響は、拒絶症については認められるが、それ以外の病像や進行との間には本質的な関係は考えられず、林の精神障害が拘禁性精神病でないことは云うまでもない。

慢性の経過をたどり、最終的には人格荒廃に至る。かつて、統合失調症はこういう経過が多かった。治療薬が存在しなかった。幻聴や被害妄想をおさえることもできなかった。林養賢のように精神科病院で一生を終えるのは、例外的なことではなかった。統合失調症を初めて病気概念として確立したクレペリンが、早発性痴呆と名づけた、そのままの経過を林養賢はたどったのである。

5

あらためて林養賢の一生を年表ふうにまとめてみる。

昭和4年3月 出生  臨済宗東福寺派西徳寺 同胞なし。父は住職
昭和16年4月 京都府立舞鶴中学に入学、伯父の家に寄留
平均的な中学生だった。
昭和17年12月 父他界
昭和19年4月 金閣寺に入寺  花園中学4年に編入
昭和22年4月 大谷大学予科入学
真面目に登校、熱心に勉強した。成績は1年時24/83番、2年時35/77番。
昭和24年 予科3年 生活、行状はそれまでと特に相違なし。しかし成績が急落し、最下位となった。
同年夏から、それまで尊敬していた長老に対して被害妄想的となる。
長老は「林はそれ迄はさほど朗らかでなかったが、そう憂鬱ではなかった。この頃より何か憂鬱そうにみえた。しかし青年期によくある憂鬱だと思って放っておいた」と述べている。小林淳鏡は、林養賢の統合失調症はこのころに発症したと結論している。妥当な推定といえよう。
昭和24年 9月  2学期から登校しなくなる。心配した友人に誘われて2,3日行っても「おもしろくない」といって何となくさぼる。友人は「この頃の林には笑いが少なくなり、荒んだ感じになったと」という。
昭和24年11月 まったく登校しなくなる。
昭和24年12月 学校は林養賢と長老を呼び出した。が、林養賢は反応もなく返事もしなかった。
昭和25年1月 3学期になっても全く登校しなかった。
昭和25年7月2日 金閣放火
8月から10月 精神鑑定 (三浦百重教授)
12月28日 判決  懲役7年
昭和26年1月18日 加古川刑務所に入る
2月末 異常状態のためしばしば夜間独居拘禁
昭和26年4月 体感幻覚、被害妄想
昭和27年4月 手紙は支離滅裂で奇怪な表現が多くなる
昭和28年3月 精神障害および肺結核のため八王子医療刑務所に移送
拒食、緘黙、幻聴、被害妄想、被毒妄想、感情鈍麻が主。しばしば独語、涕泣。時に衝動行為。肺結核および分裂病と診断。
昭和30年10月 京都刑務所に移送
昭和30年10月30日 満期釈放、ただちに京都府立洛南病院に措置入院
当初は拒絶、緘黙
10日間で拒絶、緘黙は解けたが、幻聴、被害妄想、被影響体験、作為体験 さかん
昭和31年2月 肺結核悪化
昭和31年3月7日 死亡

金閣放火のころ、遡って、学校の成績が低下したころ。
そのころが統合失調症の前駆期であったことが、振り返ってみればわかる。
昭和24年12月、学校は林養賢と長老を呼び出したが、林養賢は反応もなく返事もしなかったとある。思えばこのときが介入のチャンスだった。現代であれば、このような状態であれば、「うつ病ではないか」と考えられ、精神科の受診につながっていたかもしれない。そうすれば、金閣放火は回避できていたかもしれない。現代の私たちも、京都に行けば、足利義満が建てた本物の金閣を観ることができていたかもしれない。

結果から見れば、林養賢の統合失調症発症は昭和24年夏。金閣放火は昭和25年7月。だが昭和25年8-10月に精神鑑定を行った三浦百重の診断は、統合失調症ではなく異常性格。放火の動機となったのは妄想ではなく優越観念。
三浦百重は、統合失調症の可能性を強く感じつつも、それでも昭和25年の症状だけを純粋に見れば、妄想とは言えず、統合失調症とは言えないと厳密な判断を下したのであろうか。そうだったのかもしれない。しかし別の可能性として、三浦百重が政治的判断を行ったことも考えられる。当時の裁判では、統合失調症と診断されれば、心神喪失で無罪になることが多かった。すると金閣という国宝を燃やし、社会から轟々たる非難を浴びた犯人が、無罪だ。なぜか。統合失調症だからだ。となれば、社会の怒りはおさまらず、統合失調症への偏見は強まるであろう。すると林養賢を統合失調症と診断することは政治的に避けるべきという判断があったのか。林養賢の統合失調症は不都合な事実だったのか。だから目をそらしたか。それも考えられなくはないが、今となってはわからない。

6

三島由紀夫は『金閣寺』執筆の時点で、林養賢が統合失調症で悲惨な経過をたどったことを知っていた。三島由紀夫の『金閣寺』創作ノートに、刑務所での林養賢の精神症状についての詳細な記載が残されている。それはこの雑誌に収載されている。

平成12年11月1日発行 新潮11月臨時増刊 『三島由紀夫没後三十年』
pp.86-115
「金閣寺」創作ノート 校訂 佐藤秀明
pp.117-140, 149-156
「金閣寺」嘱目(取材ノート)  校訂 佐藤秀明

『金閣寺』の構想は主に「創作ノート」に、取材記録は主に「嘱目(取材ノート)」に書かれているが、明確に分けられているわけではなく、創作ノートにも取材記録の一部が、嘱目にも構想の一部が書かれている。
「創作ノート」に、林養賢の悲惨な精神症状がありありと記されている。
p.95より:

その後の林
八王子の医療刑務所の独房で、
精神分裂症と結核に侵され、
自分を救ふものは、湯川観音(博士)とアメリカとあらかは観音(担当看護婦 — 旧姓荒川、堀江まさ)の三つだとわめく。
中央線
八王子駅から南へ徒歩で七分、
八王子が展望できる高台に白いコンクリートの壁。
これが医療刑ム所。
林の独房はその第三病棟三号室。
二十六年一月十二日 懲役七年の刑確定、
滋賀刑務所へ、その後
加古川刑務所へ移され、
ここで、結核と精神薄弱の診断をうけ、
二十八年三月 ここへ来れり。
入所当時は、所長の顔もよく判り、常人の反応もあった。
起居動作も僧家出身ゆえ、たしなみもあり、
座禅も几帳面に組み、仏名をとなへるといふ軽さ(所長談)
しかし二十八年七月ごろから時々
拒食、
泣いたり、
宗旨
ちがひのナムアミダブツをときどき唄ふ。
九月ごろから年末にかけ
動機不明の衝動行為現はれ、房内を
わめきあばれること度々。

先の論文に記されている経過に照らし、矛盾はない。三島由紀夫は、林養賢が統合失調症(当時は精神分裂症あるいは精神分裂病と呼ばれていた)であることも、その具体的な病状も、直接取材して知っていたのである。
上記に続く記述:

幻聴ひどく、
フトンのわたをひきちぎり、耳をふさぐ。
妄想にとらはれ、喰物に毒入れり
「殺される」と泣きわめいて拒食。
→ 栄養不良 → 極度に衰弱 → 一時は生命危険、ブドウ糖の注射、鼻孔注入、輸血治療。やっと持直す。
このため結核はさらに進行。相当大きな空洞が透視さる。電撃療法や強い冬眠療法不可能。
最近は痴呆症状。現はる。
表現することききとれず、意思の疎通ゼロに近く
雑誌を与へても、めくつたページをいつまでも見ている。
「湯川博士」「アメリカ」「ナムアミダブツ」と口走る。

この悲惨な状態は、もちろん結核の影響もあるが、統合失調症の進行によるところが大きい。幻聴、独語などはおさまらず、意思の疎通はほとんどゼロ。治療法が未発達な時代の統合失調症患者は、このような状態になることがしばしばあった。
現代でも、治療されずに放置されれば同じことである
最悪の経過をたどった場合は精神科病院に長期入院を余儀なくされるので、精神科Q&Aに質問が届くことは非常に少ない。それでも、20年以上家庭で放置されて悪化してしまった、【0510】異様に不潔な生活を続けている54歳の叔母のような例もある。
中には治療を受けたのにもかかわらず悪化が進んでしまった
【1437】55歳、統合失調症の従兄弟は自立できるか のような例もあるが、昭和30年頃に比べれば、このようなケースは著しく減っている。

なお、上記、三島由紀夫のノートに
電撃療法や強い冬眠療法不可能
という記載がある。電撃療法とは、現代でいう電気けいれん療法で、この治療法は昭和15年にドイツから導入されて以後、長年にわたって統合失調症の中心的な治療法の一つであった。改良が繰り返された現代では、麻酔によりけいれんを起こさせず通電のみで行う修正電気けいれん療法 (modified Electric Convulsive Therapy; m-ECT) が主流で( 【0086】の頃とは時代が違う)、うつ病や統合失調症の急性期等に対して、有効な治療法として広く認められている。三島由紀夫の記載からは、林養賢の場合は栄養不良など身体的な状態が悪かったため電撃療法は行えなかったことが読み取れるが、現代の修正型電気けいれん療法は、身体的な状態が悪い場合はむしろ薬より安全な場合もあり、林養賢のように拒食から栄養不良になるようなケースでは、迅速に精神状態を改善させるため優先的に行うべきであることも多い。たとえば 【0865】70歳の母のうつ病が悪化し、食事がほとんど摂れない は、一刻も早く電気けいれん療法を行うべきケースの典型である。

安全で有効な治療法であるにもかかわらず、電気けいれん療法には現代でも根拠のない偏見が多く、【0086】ある都立病院の電気けいれん療法【0394】うつ病の電気けいれん療法について に見られるような誤った情報・一方的な情報が流布することにより、救える患者も救えなくなっているという現状が現在もなお散見される。

もう一つ、三島由紀夫のノートに記されている冬眠療法とは、現代は行われていない治療法であるが、1950年(昭和25年)頃にフランスのLaboritが創出した治療法で、冬眠状態にして代謝を緩慢にすることで症状(対象は精神症状とは限らなかった)を改善しようとするもので、そのために用いられた薬の一つが抗精神病薬のクロルプロマジンである。クロルプロマジンが日本に導入されたのは昭和30年(1955年)で、商品名のウィンタミンは、「冬眠」(Winter-眠)から来ている。私は精神科病院で当時のカルテ(縦書き)を読んだことがあるが、「クロルプロマジン療法、1クール施行」というような記載があり、つまり現代とは違って、抗精神病薬はある期間にまとめて何日間か投与され、以後は中断して経過を見る、という形が取られていたようである。クロルプロマジンは現代でも用いられており、統合失調症の治療薬として優れたものであるが、当時はその使い方がまだ手探りの状態であったため、効果は不十分だったと思われる。なおクロルプロマジンのもう一つの商品名のコントミンは、「コンコンと眠る」という意味だという話もあるが、こちらのほうの真偽は知らない。

三島由紀夫のノートには、林養賢自身が書いたものの記録もある。
p.96より:

最近のなぐり書き。
「あらかは先生、救けて下さいよ。お願ひ致します。
たとへ私の死が如何にしても刑務所において
さけられない宿命であっても、あらかは先生
何とかして下さいよ、アメリカの権威に話して下さい。・・・
死はいとはぬ所ですが、思ふにたえない悲しい苦悶 —
あらかは先生、私の犯罪も反則ガラスの破壊
も御飯を捨てたのもすべてお許し下さい。
お許し下さい。チャイナ単語の様なのも
お許し下さい。お許し下さい。切にお願い致します。
(中略) 南無三! アメリカの権威。
南無大慈大悲救苦観世音あらかは先生!」

精神科病院入院中の統合失調症の方が、このような文章を書いて主治医に持って来られることは時々ある。最近はネット上の掲示板などにも、悪化した統合失調症の人の支離滅裂な文章がアップされることがあり、一般の人にもこうした状況が知られるようになっている。精神科Q&Aにも、 【0869】大司令症候群のテレパシー (【0580】の回答に対する意見)
【2444】私は自然治癒力で統合失調症を治しました などの例がある。
たとえこのような状態であっても、適切な治療を受ければ
【2482】やはり統合失調症は自然治癒力では治せませんでした (【2444】のその後) のように回復するケースが多いが、昭和30年頃の精神科治療ではそれを期待するのは無理だったのであろう。林養賢も不治のまま刑務所、そして精神科病院で生活を続けていくことになる。

p.96、さきほどの「なぐり書き」に続く三島の記述:
一日の食事は
パン二ヶ、牛乳二合、タマゴ二ヶ、砂糖三十グラム
そのほか夕食には病薬として特別な副食が堀江さんによって与へられているが、林は両手をあはせて
「荒川先生いただきます」
「ごちそうさまでした」といつてこの時ばかりは平静な心にたち返っている。
林はこの精神分裂症のため
二年四ヶ月の減刑措置を受け
九月二十九日に刑期満了で出所する。
この看護婦と別るヽあはれ。

先の小林淳鏡の論文によれば、出所は10月30日なので、9月29日というのは誤記であろう。そのほかにも、細かい点については誤記と思われるものがいくつもあると、佐藤秀明(新潮のこの記事の校訂者)は指摘している。だが大筋は小林淳鏡の論文等と一致しており、誤記は数字などの細部に限られていると思われる。

このように三島由紀夫は、林養賢が統合失調症(当時は精神分裂症または精神分裂病と呼ばれていた)であることも、その具体的な病状も正確に把握していた。しかしこれらは小説には反映されていない。
 精神疾患が、演劇や小説に登場することは多いが、その大部分は、精神症状や言動を、正常心理からの延長としてとらえている。人の意外な行為は周囲の多数の人々の興味をひき、時には芸術作品の題材となるが、その行為が精神病によるということになると、その瞬間に興味が失われるか、または、精神病であることから目をそらして、正常心理からの何らかの解釈をつけるのが人の常なのである。

三島由紀夫の創作ノートの校訂を行った佐藤秀明も
放火が精神の病に結びつけられては、動機を描く小説は成り立たない。
と記している。(p.156)

創作ノートの冒頭に、三島由紀夫は太いマジックで囲いをつけて、次のように記している。

◎ 主題
美への嫉妬
絶対的なものへの嫉妬
相対性の波にうづもれた男。
「絶対性を滅ぼすこと」
「絶対の探求」のパロディ

そしてノートには、「プラン」としてⅠからⅥが示されており、これらは上記主題を具体化するための案であると読める。さらに、プランと明記されていないが、プランの一つであったと思われる記載もいくつかある。たとえばこれだ。p.97より。これも太い四角で囲われている。

僧房生活を
芸術家生活のアレゴリーとし、
それより離脱して、髪を脱ばし、
一見人生へ乗り出すも、
ニセ物の意識脱けず、
しかし人生は容易にして、
一層成功し、勝者と
なり、強者となり、「人生は変え得る」
といふ確信を抱くにいたるも、
ニヒリストにして、根底的に何一つ信ぜず、
完全にニセ物也。何事も可能なり。
この世に不可能事なし。この世は凡て
相対的にして、虚無のみ。絶対の
強者、 — 絶対のニヒリスト — への道を
歩み、この世に何ものも軽蔑すべから
ざる者をなくすために、
最後のコムプレックスを解放せんとし、
金閣に火をつける

上記をはじめ、『金閣寺』にはいくつもの構想が当初はあったことが、「創作ノート」から読み取れる。しかしそこには、林養賢が統合失調症になったとか、あの放火は統合失調症の初期や前駆期にしばしば見られる逸脱行為の一つであったとするプランは存在しない。三島由起夫は、林養賢の統合失調症という事実を知りながら、それを無視したのである。

 

7

金閣放火事件を題材にしたもう一つの文学作品として、水上勉の『金閣炎上』がある。この作品は、時に「小説」に分類されているが、形としてはノンフィクションである。語り手の「私」が水上勉であることは明らかであるし、「あとがき」の中に次のように記されていることからも、水上勉自身、ノンフィクションとして書いたことがわかる。

彼がなぜ金閣に放火したか、そのことを、つきつめて考えてみたかった。だが、本当のことはいまもわからない。当人が死んでしまっているのだからわからない。しかし、いろいろと周囲のことを調べ、事件にかかわった人から話をきいてゆくうちに、私なりの考えがまとまっていったことも事実である。その時間に二十年かかったというのである。
(新潮文庫 『金閣炎上』 p.341。以下、引用はこの本からのページである)

「二十年かかった」とある。『金閣炎上』の出版は昭和54年である。金閣放火事件は昭和25年。林養賢の他界は昭和31年である。水上勉は、20年以上かけて、この事件を綿密に調べた。多くの関係者から直接話を聴いた。その調査の綿密さ・正確さは、三島由紀夫のそれの比ではない。『金閣炎上』の中には、金閣放火事件についての貴重な情報が充満している。
本稿2で私は、
本稿で、『金閣寺』という小説と、「金閣放火事件」という事実の違いに言及していく。そのような作業が芸術作品の読み方として有意味か無意味かは意に介さず書き進める。
と書いた。三島由紀夫の『金閣寺』は、小説である。内容と事実の一致・不一致は、作品の価値に何の関係もない。だが『金閣炎上』は、小説でなくノンフィクションである。である以上、内容と事実に不一致があれば、問題点として指摘されるべきものである。そして、『金閣炎上』には、20年以上にわたる調査の成果であるにもかかわらず、事実との重大な不一致がある。『金閣炎上』における事実との重大な不一致、それは、林養賢が統合失調症であることの否定である。水上勉は、林養賢の統合失調症という事実を知りながら、それを無視したのである。本稿6で私は、
三島由紀夫は、林養賢の統合失調症という事実を知りながら、それを無視したのである。
と書いた。それは単なる指摘にすぎない。しかしノンフィクションにおいて事実を無視するのは、書き手として誠実な態度とは言えないであろう。

但し水上勉は、決して悪意を持って林養賢の統合失調症という事実を無視したわけではない。むしろ逆だ。水上勉は、林養賢と同郷で、同じ相国寺派で修行をした経験まである。しかも林養賢の少年時代に一度だけであるが実際に会ったこともある。こうした事情から水上勉は、林養賢に深く感情移入し(だからこそ20年以上もかけて調査したのである)、何とかして彼の心情を理解しようとした。事件当時の新聞には、「気違い」「白痴小僧」など、林養賢を激しく非難する文言が連ねられていたという。「精神分裂症」という言葉も、非難の用語として書かれていた。水上勉は、林養賢の擁護者として、『金閣炎上』を書いた。精神病であることイコール彼に対する非難であったとすれば、水上勉としては、どうしても林養賢は精神病ではなかったという結論に持っていきたかったのであろう。その意図は理解できる。だが事実でないものは事実でない。

水上勉は、林養賢の統合失調症という事実を無視した。結果的には「無視した」というしかないが、そこには上記の意図に加え、統合失調症という病気の経過についての、一般的によくある無理解もあった。たとえばp.201。まず、林養賢が親しかった学友の言葉の引用である。

まあ、二年生まではふつうでした。ところがその二年の終りから、三年になり、きわだって変りました。出席率もわるく、二、三ヶ月行方不明になりました。私は、金閣へも行って、彼の部屋で一しょに泊ったり、また長老さんにもよく話しかけられて、養賢君と一しょの時間割なんかもつくって、試験勉強なんかもしてたんで、もっとも親しかった友人としての自覚もあります。が、三年生からのこの急な学業放擲の理由はわかりません。

これを受けて水上勉は次のように書いている。p.202

親しかった学友にさえ、長期欠席や急な成績低落の原因はしかとつかめていない。
とるすと、学問しても将来に希望がもてないとする判断が養賢に生じたのだろうか。それなら重要となる。

水上勉がこのように考えたくなるのは理解できないことではない。客観的に突然の精神的変化が認められれば、何かそこには理由が、心理的な理由があると考えるのは自然である。だが他方、このような不可解な変化は、統合失調症の前駆期や初期にしばしば認められるものでもある。リアルタイムではそのどちらであるか(心理的な理由があるのか、統合失調症の発症なのか)がわからないことも多い。しかし林養賢の全経過を見れば、小林淳鏡の論文にあるように、このころが統合失調症の発症であったことは間違いない。
水上勉はしかし、自らの経験に照らして、次のように考察している。p.203

私なども、瑞春院での生活にいや気がさしてくると、般若林に通うのが重くなり、やはり、養賢のように、朝、寺は出るけれども、学校は休み、そこらじゅうを歩いた。千本や京極へ出て映画を見て時間をつぶしたり、山へ入ってぼんやりして、あたかも学校へいっていた顔をして、寺へ帰った日もあった。勉強も学校で習う仏教史、禅宗史、語録、写経の時間はとくに耐えられなかった。僧になることへの情熱が失せた時に、学校で習う、禅関係の学問がいやになったのである。私は私なりに無意味だと断じたのである。そういう経験から、いま、養賢の成績簿の低落の内容を見ていると、二年から三年にかけて漢文で六十七点が五十三点になり、仏典のうち、六十二点が三十八点に落ちているのだ。全科目のうち、三十八点という点数は最低だし、それが仏典であることがいま、私の体験とかさなるのである。養賢に、僧侶となる情熱が失せる原因は何か。つきつめてゆけば、やはり、本人がおかれている金閣寺内での、僧侶生活のありようが、望みをうすめているというしかない。さきにあげた陳公博一行の金閣寺滞在に対する慈海師の態度、前知事の居候生活など、寺院が、本来の修行道場でなく、観光収入を得て、サロン化しつつある内情に、養賢は反撥を感じ、そこから脱出しようにもしきれない悩みにつき当たり、慈海師の一風変った吝嗇な性格といったものに、疑いを抱き、これからずっと金閣でくらさねばならぬことへの苦悶が芽生えたと見られる。さらに、この年まわりは、養賢は二十歳で、ようやく成人の年に達して、体格的にも一人前になっていたから、性的な煩悶も当然生じていい。

つまり水上勉は、林養賢の変化を、決して精神病ではなく、心理的に理解できるものであるとしている。統合失調症の発症に際し、このような誤解がなされるために、治療が遅れることは(そして手遅れになることも)しばしばある。特に、本人に身近な人ほど、本人の心情を理解できるものと考え、統合失調症の発症を看過がちである。 【1447】従兄弟が自殺してしまいました。私にできたことは? は、そのあまりに顕著な例である。水上勉も、【1447】の「叔父」も、本人のことを心から思ったうえで、精神病であることを否定している。だがその結果、本人に悲劇が訪れるのである。

あらためて言うまでもないが、20歳前後に、このような不可解な精神的変調が見られたとき、統合失調症の可能性を考えるのは精神医学の常識である。したがってp.200のこの記述、

急に勉学に情熱を失う不可解な変化は、のちに事件調査にあたった裁判官、精神鑑定医らに首をかしげさせることになる。

これは誤っている。裁判官はともかく、精神鑑定医が首をかしげるはずはない。

精神鑑定医といえば、『金閣炎上』には、三浦百重の精神鑑定書も随所に引用されているが、水上勉は鑑定書を完全に誤読している。その最たる部分はp.268 (下線は林公一による)

そうして、 (三浦は) 養賢を高度ではない分裂病質者と鑑定した。
ここで気になるのは、「環境が重大なる因子を作すは、周知の事実である」と述べつつ、「家系に於ける両親其他の気質並に家庭及び金閣寺等に於ける生活環境が、何等かの影響を及したるに非ずやとも思惟せらるヽも、之に関する精細確実な資料を欠くを以て」分裂性々格と断定していることである。いったい、重大なる因子となる、家庭、両親の気質、金閣寺での環境資料がないため、分裂病者といってしまうのはどういうことだろうか。

水上勉は、「分裂病質」と「分裂病」を混同している。本稿に既述の通り、三浦百重の精神鑑定の最も重要なポイントは、林養賢が「統合失調症(分裂病)」ではなく「分裂病質」、言い換えれば「精神病」ではなく「異常性格」であるという点である。ここを誤読した水上勉は、三浦の精神鑑定の内容を全く理解していないと言わざるを得ない。

『金閣炎上』には、小林淳鏡の「金閣放火僧の病誌」も引用されている。だが論文中の重要な事実についての歪曲が見られる。p.316

養賢の被害妄想、幻聴の傾向は、刑務所に入ってからで、刑務所を出ればすぐ、改まったことになる。

これが事実と異なることは、本稿4の小林淳鏡論文引用部分から明らかである。

水上勉は、林養賢の擁護者であろうとした。そのためには、林養賢が統合失調症であることを否定する必要があった。当時、統合失調症(精神分裂病)という病気に対する偏見は、現在よりもはるかに強かったという背景がそこにある。水上勉は故意に事実を歪曲したわけではないであろう。だが統合失調症を否定したいという気持ちがあまりに強く、その気持ちが「分裂病質」と「分裂症」に決定的な違いがあることを見落とさせ(「分裂」という言葉に過剰に反応したと察せられる)、精神病ではなく正常心理として理解できる事実を過剰に重視させたのであろう。

こうして統合失調症という事実は世の中から隠蔽される。統合失調症の人が早期に適切な治療を受ける機会が失われ、統合失調症という病気をめぐる不幸が繰り返される。水上勉は、林養賢の統合失調症という事実を無視した。 【1900】某大手新聞社の掲示板から精神病関連の投稿がカットされるようになった と同様の事情がここにもある。
無視は無関心に劣る。無関心は興味本位に劣る。私は 【2500】興味本位は無関心に優る? の回答の一行を、必要なら何度でも繰り返す。

 

8

金閣放火事件は、避けられただろうか。林養賢に統合失調症の徴候が見られた時点で適切に対処されていれば、避けられたはずである。昭和20年代当時ならともかく、診断・治療の技術が格段に進歩した現在なら避けられたに違いない。
と言いたいところだが、話はそう単純でない。
先に私は、
昭和24年12月、学校は林養賢と長老を呼び出したが、林養賢は反応もなく返事もしなかったとある。思えばこのときが介入のチャンスだった。現代であれば、このような状態であれば、「うつ病ではないか」と考えられ、精神科の受診につながっていたかもしれない。そうすれば、金閣放火は回避できていたかもしれない。現代の私たちも、京都に行けば、足利義満が建てた本物の金閣を観ることができていたかもしれない。
と書いた。金閣放火は回避できていたかもしれない。いま、私たちは本物の金閣を観ることができていたかもしれない。かもしれない、かもしれない。だがここにはまだ二段階の障壁がある。第一は、受診が実現するかどうか。第二は、受診が実現したとしても、治療が実現し、悲劇が避けられたかどうか。これら障壁は、昭和20年代に比べれば緩和されているものの、現代もなお容易に越えることのできない障壁であり続けている。

第一、受診が実現するかどうか

たとえ統合失調症であることがかなり確実と思われる症状が出ていても、先にも挙げた
【1447】従兄弟が自殺してしまいました。私にできたことは? や、【2070】社会性が低下している中1の弟は統合失調症だと思うのですが、親は姉である私の影響だと言います のような例は現代もまだまだたくさんある。そしてこれら【1447】、【2070】のご家族も水上勉と同じように、本人のためを心から思う気持ちが統合失調症を否定させ、心理的な解釈に傾けていることに注目すべきであろう。【2416】統合失調症についての無知と偏見を後悔しました は貴重なご報告である。
かなり症状がはっきりしていても精神科の受診がスムーズに進まないこの状況を見れば、統合失調症の前駆期という曖昧な症状の時期には、なおさら受診の実現が困難であることは想像に難くない。

本人のことを知れば知るほど、心理的な解釈が正しいように見えてくるという事情もある。水上勉の『金閣炎上』は、ノンフィクションとして見た場合、事実と重大な不一致があると私が偉そうなことを言えるのは、結果を知っているから言えるにすぎないのであって、リアルタイムで林養賢を統合失調症であると言えたかどうかは全く別の話である。そして言えたとして、その診断に説得力があったかどうかはさらに全く別の話である。仮想の対話をしてみよう。林養賢が登校しなくなった時、大学は彼と老師を呼び出した。だが彼は何ひとつ答えなかった。そこで大学は林養賢が精神疾患でないかと疑い、精神科医に診察を依頼した。それを受けて大谷大学顧問医の林公一が診察した。

林公一: 特に理由なく、突然に生活が変化しています。このような変化は昔から精神医学では「屈曲点」と呼ばれており、統合失調症の発症を示唆するものです。これまで尊敬していた老師への敵対心は、被害妄想の初期と判断できます。面接所見とあわせ、統合失調症の疑い濃厚です。精神科での治療が必要です。
水上勉: 「特に理由なく」というのは、速断し過ぎです。彼の寺での生活を深く観察すれば、理由はあります。
林公一: それは金閣の実態や修行のつらさを言っているのでしょうか。それだけで林養賢の今の変化は説明しきれません。
水上勉: それは浅はかな見方です。あなたは僧の修行についてどれだけ知っているのですか。
林公一: 修行がいかなるものであれ、現在の彼の症状は統合失調症の初期に一致しています。心理的な解釈によって、彼が統合失調症であることを否定するのは大変危険です。
水上勉: 私は彼と同様、寺で修行をした経験があります。その経験に照らせば、彼の心理状態は痛いほどよくわかります。
林公一: 個人の経験を一般化することは危険です。
水上勉: あなたが彼を統合失調症と判断しているのは、あなたの個人の経験に基づいているのではないのですか。
林公一: 先ほど申し上げた通り、生活上の「屈曲点」というのは、昔から知られている統合失調症発症のサインです。個人の経験に基づくものではありません。
水上勉: 私も寺での修行の時代、林養賢と同じように急に学校に行かなくなったことがあります。それも「屈曲点」ですか。私も統合失調症ですか。
林公一: いや、あなたの話をしているのではなくて・・・
水上勉: 林養賢は急に学校に行かなくなりました。急に成績が低下しました。あなたは彼の成績についてきちんと調べましたか。
林公一: ・・・そういう細かい点は病気の発症にあまり関係ありません。
水上勉: 私が調べたところによれば、林養賢は、二年から三年にかけて漢文は六十七点が五十三点になり、仏典は六十二点が三十八点に落ちています。全科目のうち三十八点という点数は最低だし、それが仏典であることは偶然とは思えません。林養賢に、僧侶となる情熱が失せたのです。私の体験からもそれは間違いないと思います。
林公一: いや、ですからあなたの体験と重ねることは危険です。
水上勉: では仏典の成績が特に低下したことはどう説明できるのですか。
林公一: ・・・一つ一つの科目についてまで検討するのは、細かすぎます。過剰な解釈を生むおそれがあります。それに、生活の変化や成績の低下だけを理由に統合失調症と判断したわけではありません。老師への被害妄想も重要な根拠です。
水上勉: 修行僧と老師の関係について、あなたはどこまで知っているのですか。
林公一: ・・・一般的な知識しか持ち合わせていませんが。ただそういう問題ではなくて、それまで林養賢が老師を尊敬していたことは事実としてはっきりしていて、それがある時期から急に敵対心を持つようになったことは、被害妄想の初期であることを示唆する重要な所見です。同じころから学校に行かなくなっているわけですから、このころに統合失調症が発症したと判断するのが合理的です。
水上勉: 林養賢は老師を尊敬していた。いいでしょう、その通りです。しかしその老師が、金閣という名前を利用して金儲けに走っていることがわかったのです。女遊びもしていた。純粋な青年が、それまでの尊敬の裏返しとして反撥心を持つのは自然ではないでしょうか。老師への失望は、自分が僧侶になることへの情熱の喪失につながる。情熱の喪失は学校の勉強への意欲も失わせる。林養賢の気持ちと、寺での修行というものを考えれば、彼の心理状態は、精神病などを持ち出さなくても十分に理解できます。
林公一: 人間のどんな言動も、深読みすれば、理解できないものはありません。たとえば人を攻撃したというような場合も、愛情の裏返しと考えることもできるわけです。それに、私が彼を統合失調症と判断したのは、学校に行かなくなったとか、被害妄想とかだけではなく、面接所見にも基づいていて、・・・
水上勉: 面接所見。彼から受ける印象ということですか。それこそまさにあなたの個人的な体験の一般化ではないですか。確かに林養賢の表情や話し方はぎこちないです。けれども彼が小さいころから自分の吃音のため劣等感を持っていたことも考慮すれば、十分理解できるものではないですか。それから深読みするなとおっしゃいましたが、林養賢についての私の理解は、修行僧に一般的に見られる心理に、さらに私自身の修行体験も加味したうえでのことであって、決して深読みというようなものではありません。
・・・

これはどうみても私の方が分が悪い。このように、本人を深く知れば知るほど、また、本人を取り巻く状況を詳しく知れば知るほど、病気ではなく、心理的な原因があるという説明が正しく見えてくるものである。さらにここに、当時のように、精神病への偏見が今よりはるかに強く、精神病の診断イコール本人への非難 といった状況があれば、心から本人の味方をしようとする人は、統合失調症の診断など決して信じないであろう。「うちの子は精神病じゃない」と一部の家族からしばしば強くなされる主張は、決して家族の頑迷さだけから来るものではなく、本人への深い愛情にも基づいている。林養賢の母・志満子は、虚栄心がかなり強い人物であったという記録が残されている。自身の修行体験と重ね合わせて林養賢を見つめる水上勉の心理分析にはかなりの説得力がある。精神科医がどう説明しようと志満子は、水上勉の説明を信用したであろう。治療は実現しなかったであろう。いや、精神病への偏見が強いのは当時だけではない。現代もまだまだ 【1877】弟が統合失調症だということを両親が認めず、心の風邪だなどと言って治療を阻んでいます のような例が跡を絶たない。老師への反撥心は被害妄想とはいえないという水上勉の主張は、【2297】その場にいたわけでもない人にどうして被害妄想とわかるのですか‏と同様、それなりの説得力がある。

だが、純粋に本人のためを思う気持ちによる、統合失調症という診断の否定は、悲劇を発生させる。金閣は焼失した。林養賢の母は事件後まもなく自殺した。治療開始の遅れが、本人のみならず家族に深い苦しみをもたらす例は数限りない。【1171】母親にナイフで切り付け殺人未遂で有罪になった息子【1869】統合失調症の姉・・・結局どこにも頼れず、他人を傷つけ措置入院となりました【1828】兄がひどく攻撃的なのですが、親族で話し合った結果、何か起こして警察沙汰になるのを待つしかないという結論に達しました【2443】息子が公共機関に自家用車で突入し逮捕され、鑑定留置となりました、・・・。

これらの中には、決して家族が診断を否認したわけではなく、わかっていたが治療を始められなかったという例もある。だが、たとえば【1828】のご家族にしても、その真剣さをもっと前に、発症のサインが認められた時期に発動していれば、治療を開始することができたはずである。

第二、受診が実現したとして、治療が実現して悲劇が避けられたかどうか

上記第一のような障壁が乗り越えられ、林養賢が、昭和24年の時点で、精神科クリニックや病院を受診したとする。
その時点で治療が開始できたかどうかは、何ともいえない。
三浦百重の精神鑑定はそれから2年後の昭和26年であった。昭和26年に、通常の精神科診察よりはるかに精密な精神鑑定を行ってもなお、林養賢は統合失調症と確定診断できなかったのである。すると昭和24年の症状はさらに漠然としており、当然確定診断はできず、せいぜい 統合失調症の前駆症状疑い というレベルの精神状態であったと推定される。この段階では、 【2007】 などにも記した通り、「統合失調症でないのに統合失調症と診断されることによるマイナス」(偽陽性)と、逆に、「統合失調症なのに統合失調症でないと診断されることによるマイナス」(偽陰性) という対極する問題がある。偽陰性の帰結は時に悲惨で、 【1075】病気ではないと診断された弟が自殺してしまいました ということにもなりかねない。
 しかしだからといって 【0752】以前、妄想にとりつかれていた自分 のような偽陽性は、他の病気であればそれほど大きな問題にならなくても、統合失調症というまだまだ偏見の多い病気では、「疑い」という形にせよ、一度でも精神科医から統合失調症の可能性を指摘されることは、その後の人生に重大な影響をおよぼす可能性がある。したがって、 【2007】統合失調症らしい症状が私にはあるのですが、悪化のおそれがないのなら病院には行きたくありません という気持ちも十分に理解できるところであるし、 【2407】中学生の統合失調症の治療について【2283】統合失調症の診断が偽陽性だった場合の投薬の害は? の質問者がお持ちの危惧ももっともである。

そして水上勉に言われるまでもなく、 【2071】成育歴を詳しく聴かなければ、統合失調と思春期の一過性の異常行動は見分けられないのではないでしょうか で指摘されている通り、統合失調症の前駆期と思われる時期の診断のためには、その本人の成育歴や、現在おかれている環境についての詳細な情報が必要である。たとえば 【2406】周りの重圧に耐えられません【2388】脳内で男の子と会話していますでは、質問メールの記載からだけからは統合失調症の解離性障害のどちらも否定できず、診断のためには長時間の面接が必要である。しかし時間をかけて詳しく聴くことがいつも適切かというとそうとも言えず、解離性障害を例にとれば、その背景には幼少時の虐待体験が潜んでいることがしばしばあるが、 【1948】7年前に父から受けた虐待の記憶がよみがえったの回答の通り、虐待の記憶を掘り起こすことが本人にとってプラスかどうかはわからない。

このように、統合失調症の前駆期疑い段階の診療には複雑な問題が山積しているが、だからといって、精神医学は、決して手をこまねいて傍観していたわけではない。寺での修行の深い実態を知らなければ林養賢の正確な診断はできないということでは、精神科診断学は使い物にならない。そこで、 【2007】統合失調症らしい症状が私にはあるのですが、悪化のおそれがないのなら病院には行きたくありません で解説した通り、多くの観察や研究から、統合失調症の前駆症状疑い項目 (正式にはアットリスク精神状態: At Risk Mental State; ARMS)が確立している。次の(1)(2)(3)である(具体的内容は 【2007】参照)。

(1) 軽い精神病症状
(2) 一過性の精神病症状
(3) 生活レベル低下と遺伝的素因

これらはデータに基づいて抽出されたものであるから、一定の信頼性はある。だが実例に適応するとなると、たとえば 【2521】私は医学生ですが、どうも精神病のようなのです。そうならば医師になるなど言語道断だと思います。 のようなケースを見たとき、彼女の体験が(1)や(2)にあたるかどうか、診察した医師によって必ずしも意見の一致はみないであろう。つまり、データを基に作成されたこの基準を使っても、客観的にすっきりと診断することはやはりできない。これは精神科の診断基準のすべてに共通する事情である。

精神科の診察とは、結局は「話を聴く」ことに帰着し、いかにその技術を洗練してもそこには明らかに限界がある。少なくとも、客観化して万人の技術として確立することは不可能で、前記、統合失調症の前駆症状疑い項目の(1) (2) (3) も、外見上は客観的な指標の形を取っているが、実地に使う段階では使う人の主観がかなり混入することが避けられない。そこで現実の臨床では、項目は項目として判定することに加えて、面接時の印象も重視することになるが、「そんなものはあなたの個人的な体験の一般化にすぎない」と水上勉あたりに指摘されると、有効な反論ができない性質のものである。

診察に限界があれば、それを補完するのは検査である。この、医学に共通する方法論が、統合失調症の前駆期・初期においても試みられている。
 その一つとして、診察室でも実施できる神経心理学的検査がある。
 神経心理学的検査(認知機能検査)によってとらえられる認知機能の低下が、統合失調症の前駆期または初期症状を反映する所見とすることができるとする研究は多数行われている。しかし1987年から2013年までに発表されたその種の研究を詳細に検討した下記論文によれば、将来の統合失調症発症を予測する所見としての神経心理学的検査に精度が高いとは言い難い。

Bora E, Murray RM:  Meta-analysis of Cognitive Deficits in Ultra-high Risk to Psychosis and First-Episode Psychosis: Do the Cognitive Deficits Progress Over, or After, the Onset of Psychosis?
Schizophr Bull. 2013 Jun 14. [Epub ahead of print]

もちろん上記論文は決定版といえるものではなく、今後潮流が変わる可能性はある。しかし、元々が脳損傷患者の検査として開発された神経心理学的検査を統合失調症に応用(悪くいえば流用)することに伴う問題、また、検査上の認知機能低下は単に陰性症状を反映しているという側面が大きいのではないかという可能性などを考えると、現在行われている認知機能からのアプローチは必ずしも大きな期待が持てる分野とは言い難い。おそらくは方法論的に、統合失調症に特有の思考機能障害をとらえる検査の開発が必要で、その意味では自我障害にターゲットを絞った下記論文、

Maeda T et al: Aberrant sense of agency in patients with schizophrenia: forward and backward over-attribution of temporal causality during intentional action.
Psychiatry Res. 198:1-6, 2012.

上記論文で開発されているSense of Agency検査は期待が持てるものであるが、まだまだ実用に耐える段階ではないであろう。

そこで、より直接的に、統合失調症という病態を「見る」ものとして、脳画像検査への期待は大きい。統合失調症の初期または前駆期と思われる段階で、脳画像検査を施行し、その結果によって、今後その人が統合失調症を発症するか、それともしないのか(偽陽性にすぎないのか)が判定できれば、とても有意義であることは論をまたない。この観点からの研究はここ15年ほどの間に多数行われており、最近のものとしては

Tognin S et al: Reduced parahippocampal cortical thickness in subjects at ultra-high risk for psychosis.  Psychol Med. 44: 489–498, 2014.

Smieskova R: Insular volume abnormalities associated with different transition probabilities to psychosis.  Psychol Med. 42: 1613–1625, 2013.

などがあり、
また、最近発表された研究をまとめた総説として

Wood SJ, Reniers RL, Heinze K.: Neuroimaging findings in the at-risk mental state: a review of recent literature. Can J Psychiatry. 58:13-18, 2013.

がある。それぞれ示唆に富む結果が認められるが、これらもまだ実用の段階に達しているとは言えない。

脳よりさらに病気の本質そのものに迫る手法として、関連遺伝子の研究がある。遡れば、精神疾患の遺伝子研究の第一ページは、おそらく1987年にnatureに発表された躁うつ病の研究論文の、

Egeland JA  et al: Bipolar affective disorders linked to DNA markers on chromosome 11. Nature. 325:783-787, 1987.

とするのが適切であろう。
 躁うつ病であっても、統合失調症であっても、その他いかなる精神疾患であっても、発症には遺伝子だけではなく、環境が影響する。これは遺伝子研究のデザインを複雑化する大きな問題であるが、上記natureの研究は、移民当時からの静謐な生活様式を維持しているペンシルバニア州のOld Order Amish (アーミッシュ)と呼ばれる民族を対象としたもので、ストレスの寡少な生活環境を共有しているアーミッシュの世界で、それでも躁うつ病を発症するのは、遺伝因子が強い人であるに違いなく、かつその遺伝因子は単一に近いものであろうという仮定のもとに、長年かけて行われた成果である。このような特殊な環境での精密な計画に基づいているという背景にも伴い、データは信頼性が高いと考えられ、「ついに精神疾患の遺伝子が見つかった」と当時は大きなニュースとなり、精神疾患の遺伝研究はにわかに活況を呈したが、その後に行われた研究の結果は様々で、特定の遺伝子に絞り込まれるデータが重ねられることにはならず、7年後のScience誌に、躁うつ病の遺伝子研究のデータはジェットコースターのように急上昇と急降下を繰り返しているという状況を指摘した論文、

Marshall E.: Manic depression. Highs and lows on the research roller coaster.
Science. 264:1693-5, 1994.

に象徴されるように、躁うつ病は単一遺伝子によるものではないことは確実となり、すると複数の遺伝子が関与していることが定説となったが、複数といってもおそらくはかなり多数の遺伝子が関与し、しかもそこに環境の複雑な影響が加わって発症するという姿がはっきりと見えてくるという結果になった。
 統合失調症でもこの事情は基本的に同様で、結局は「遺伝と環境の相互作用によって発症する」というしかなく、するとこれは分子遺伝学の導入以前からわかっていたことの再確認でしかないというのが現実である。2001年の 【0022】こころの病は遺伝しますか(2001.1.5.)  の、
病気そのものは遺伝病ではありません。
ただ、どんな病気にも、その病気になりやすい体質というものがあります。
・・・病気になりやすい体質も、似ることも似ないこともあります。
という回答の背景にあるのが上記の医学的知見である。統合失調症であっても、躁うつ病であっても、さらにその他のいかなる精神疾患であっても、遺伝についての基本的な答えはすべてこれと同じ、共通になる。

精神疾患の遺伝研究はどこに行くのかと問われることもある。もし行き着く先が 【2522】 のような思想であれば、遺伝研究など無意味であり、有害でさえある。

しかし遺伝研究の目指す地点はそこではない。病気に関連する遺伝子(それが単一であれ多数であれ)を解明することは、その病気のメカニズムの解明につながり、さらには治療や発症予防にもつながるのだ。医学上のいまや歴史的ともいえる実例は、フェニルケトン尿症である。フェニルケトン尿症は、フェニルアラニン水酸化酵素の遺伝子異常が「原因」である。だが、乳児期に飲ませるミルクからフェニルアラニンを除去すれば発症しない。フェニルアラニン水酸化酵素に異常があると、ミルク中のフェニルアラニンが適切に代謝されず、結果的に体内に過剰になったフェニルアラニンが脳に影響し、知的障害などを引き起こす。したがって、遺伝子異常は「原因」であるが、ミルク内のフェニルアラニンも「原因」である。ミルク内のフェニルアラニンを除去すれば無症状で、もちろん知的障害にもならない。このような場合、フェニルアラニン水酸化酵素の遺伝子異常を「遺伝因子」、ミルク内のフェニルアラニンを「環境因子」と呼ぶ。単一遺伝子の異常が「原因」であるフェニルケトン尿症も、遺伝因子と環境因子の相互作用によって発症する病気であり、したがって遺伝子に手を触れずとも、環境因子の調整だけで、発症を予防することができるのである。

統合失調症も、事情は同じである。但しフェニルケトン尿症より桁違いに複雑であることが大きな違いである。何らかの遺伝因子はある。だがそれは解明されていない。解明されたとしても、単一の遺伝子ではないことは確実だ。何らかの環境因子はある。だがそれも解明されていない。「ストレス」という言葉でくくることはできるかもしれない。林養賢の例ではどうか。吃音による劣等感。寺での厳しい修行。尊敬していた老師への失望。母・志満子からの過剰な期待。金閣そのものへの失望。これらのどれか一つでも欠ければ、発症しなかったかもしれない。逆にどれか一つが決定的な因子となって発症させたのかもしれない。「ストレス」という言葉でくくられる具体的内容はあまりに多様である。そして、病気の発症にかかわるストレスを研究しようとすれば、ストレスの強さを定量しなければはじまらない。しかし、 気候不順だと精神症状は悪化するか? で述べたように、ストレスの定量は、紀元前の地球の気候の変化の定量よりさらに正確性に欠けるかもしれない。

遺伝因子があることはわかっている。環境因子があることもわかっている。だがどちらも特定されていない。前駆症状があることもわかっている。だが症状は曖昧で所見は客観性に欠け、偽陽性や偽陰性も多い。・・・このような状況で、精神医学は、ご本人とご家族のために何ができるのか。統合失調症の前駆症状が疑われたケースではどのように対処するのがご本人とご家族のためになるか。
【1190】私は統合失調症の初期の可能性があると思うのですが、発症を予防するためにはどうしたらいいでしょうか や、【1418】12歳の娘に、統合失調症の前駆症状が見られるようなのですが、発症を予防するにはどうしたらいいでしょうか の回答の通り、
信頼できる精神科の先生に主治医になっていただき、今後、長期にわたってその先生にかかり続ける
このシンプルな、しかし頼りないとも取れる答えが、現時点では最善ということになると私は考える。

関連する遺伝子は多数、環境因子としてのストレスは多様。それらの解明までの道のりはまだまだ遠い。それは確かに寂しい状況ではある。
 だがしかし、将来、ゴールが近づいたら近づいたで、新たな問題が発生するであろう。病気が解明される。遺伝因子と環境因子が解明される。そのとき、フェニルケトン尿症のように、発症を予防するために、環境因子を除去する明快な方法が存在すれば、人類は幸福になれる。では明快な方法が存在しなければどうか。予防医学から 【2522】までの距離は、意外にほんの一歩かもしれない。

9

三島由紀夫の『金閣寺』に戻る。
「創作ノート」、「取材ノート」のうち、統合失調症に関する部分を三島は採用しなかったが、それ以外に目を向けると、『金閣寺』の元データともいうべき記述が豊富に認められる。
たとえばp.119。

五番町
百数十軒なり。
みな同じつくり、れんじ窓、西陣と染め
出せし、あい色ののれん。入口に店名の行燈。蛍光灯の横灯。二階建。
入口に、かつぽう着のやり手 引手婆 招く。
入ると奥に待合あり。
椅子にかけて娼婦待つ、洋装、和装、
靴下をずりさげて、しきりにかいているものもあり。

取材ノートの他の部分に、
五番町といふと引手はイヤな顔をする。
とある。五番町とは地元では遊廓街の代名詞であり、前記小林淳鏡の論文に、

書籍を売り、(6月)17, 18, 19日の夜五番町遊廓へ行った。この種の遊興は始めての経験であった。

とある。金閣放火(7月2日)の前に、林養賢が五番町を訪れたのは事実なのである。そして三島由紀夫も上記のように五番町を取材し、その結果は『金閣寺』の以下の部分に反映されている。放火を決意した後、実行の前に遊廓街に足を踏み入れる場面。p.281

・・・さて私は行燈をつらねた横丁へ歩み入った。
 百数十軒の家はことごとく同じ造作だった。ここでは総元締の親分をたよれば、お尋ね者も容易にかくまわれると云われていた。親分がベルを鳴らすと、遊廓じゅうの一軒々々にひびき渡り、お尋ね者に危険を知らせるのだそうである。
 どの家も入口の横に暗い櫺子窓を持ち、どの家も二階建であった。重い古い瓦屋根が、同じ高さで、湿った月の下に押し並んでいた。どの入口にも「西陣」と白く染め抜いた藍のれんを掛け、割烹着の遣手が、身を斜にして、のれんの端からおもてを窺っていた。

英訳本では次のように訳されている(つい忘れてしまっていたが、本稿を書き始めたきっかけは、英訳本を読んだことだったのだ)。まず前半部分:
p.223
I entered a side street which was lined with paper lanterns. The hundreds or more houses along the street were all built in the same style. It is said that a fugitive from justice put himself in the hands of the boss who managed this district, he could easily be hidden. Evidently when the boss pressed a button, a bell would ring in each of the brothels and the criminal would be warned that the police were coming

原文には警察官と明示的には書かれていないが、英文では “that the police were coming” が補われている。そうしないと意味が通りにくいということなのであろう。

上記後半、「どの家も入口の横に暗い櫺子窓を持ち」からの部分の英文:
p.223
Each house had a dark lattice window at the side of the entrance and each had two stories. The heavy, ancient tiled roofs which extended into the distance under the humid moon were all of the same height. Dark-blue curtains with the characters Nishijin dyed in white hung over each entrance, and behind them one could see the madams of the respective brothels dressed in their white aprons and bending forward to observe who was passing on the street.

「櫺子窓」という日本語は格子窓を指すことを、私は上記 “lattice” という訳語を見て初めて知った。
「遣手(遣手婆)」は、”madams of the respective brothels”、
「割烹着」は、”white aprons”、
訳者の苦労が察せられる訳語である。

上記創作メモに、娼婦が「靴下をずりさげて、しきりにかいている」という記述がある。いかにもリアリズムが感じられる描写で、映画『炎上』にも中村玉緒(当時18歳)の演ずる娼婦が、林養賢の前で、下腿や首をしきりにぼりぼりと搔いている場面がある。
この部分の『金閣寺』の原文。p.283。

とある四つ辻の角店に、「大滝」という家があった。やみくもに私はそこの暖簾をくぐった。畳六帖ほどのタイルを敷いた一間が突先にあり、奥の腰掛けに三人の女が、まるで汽車を待ちくたびれたような風情で腰かけていた。一人は和服で、首に繃帯を巻いていた。洋装の一人はうつむいて、靴下をずり下ろして、腓のところをしきりに搔いていた。有為子は留守だった。その留守だったことが私を安心させた。

この部分の英訳は次の通り。
p.224
At one of the crossroads I noticed an establishment called Otaki. I chose this place at random and went in through the blue curtains. Abruptly I found myself in a room with a tiled floor. Three girls sat at the opposite end of the room. They looked exactly as if they were sitting wearily waiting for a train. One of them was dressed in kimono and had a bandage round the neck. The other two wore Western clothes. One girl was bending over; she had pulled down her stocking and was busily scratching her calf. Uiko was out. The fact of her being out put me at ease.

「しきりに掻いていた」は、”was busily scrachting”。
「暖簾」は、”blue curtain”、文脈上はこう訳すところなのであろう。
「やみくもに」は、”at random”、これはちょっと抵抗があるところで、ここでの「やみくもに」は、文脈からすると、at randomという意味も含んでいるかもしれないが、むしろ一種自暴自棄的な心理がこめられた表現であるように読める。しかしではどう訳すべきかと問われると窮してしまう、結局 at random は妥当な訳ということになるのであろう。あるいはこの英文の文脈上、at randomから自暴自棄的な心理が読み取れるのかもしれないが、そこまでは私にはわからない。 

10

『金閣寺』の原文と英文の対比をもう少し続ける。

台風の描写である。期待を裏切るダブルデート。友・鶴川の突然の死。不安を惹起する母からの手紙の一行。これらが続いた後の夏のある夜、ひとり、寺の宿直をする窓から見る嵐の光景。p.169

私は月の前をおびただしい雲が飛ぶのを見た。南から北にむかって、山々の向うから、次々と大軍団のように雲がせり出して来る。厚い雲がある。薄い雲がある。広大な雲がある。雲のいくつかの断片がある。それらが悉く、南からあらわれて、月の前をよぎり、金閣の屋根を覆って、何か大事へいそぐように北へ駆け去ってゆくのである。私の頭上では金の鳳凰が叫ぶ声を聴くように思った。

p.132
I watched the multitudinous clouds scudding across the moon. One after another they rose up from behind the hills in the south like great battalions. There were thick clouds. There were thin clouds. There were huge expanded clouds. There were countless tufts of cloud. They all appeared from the south, crossed the surface of the moon, passed over the Golden Temple, and rushed off to the north as though they were hurrying to some important business. I seemed to hear the screech of the golden phoenix above my head.

最後に『金閣寺』を読んだのが何年前だったかさだかでないが、私はこの場面を鮮明に記憶していた。そして今回、「厚い雲がある」から始まる、雲の描写の連続がどう訳されているか、非常に興味深く思っていた。答は上の通り、”There were” の連続である。そう訳されてみれば自然に思えるが、原文の感じが見事に出ている英文だと思う。もう一度原文を示す。
厚い雲がある。薄い雲がある。広大な雲がある。雲のいくつかの断片がある。
漸進的に長くなる一文一文の連続。漸進的に長くなっているという、その形式そのものによる描写効果がある。それがそのまま英訳にも表されている。実に素晴らしい訳文だ。「いくつか」と “countless” は、辞書的には対応しない単語だが、この場面、some や a few では語感が軽すぎるという判断があって、countlessをあてたと察せられる。

原文をこうして取り出してみると、三島由紀夫らしい文章だと今さらながらに感じるが、もう一つ二つ、いかにも三島由紀夫という感じの原文と英訳を示す。

米兵とともに金閣を訪れた売春婦の妊娠した腹を踏みつける場面。p.108。

しかし私のゴム長の靴裏に感じられた女の腹、その媚びるような弾力、その呻き、その押しつぶされた肉の花ひらく感じ、或る感覚のよろめき、そのとき女の中から私の中へ貫いて来た隠微な稲妻のようなもの、・・・・・そういうものまで、私が強いられて味わったということはできない。私は今も、その甘美な一瞬を忘れていない。

倒錯した、しかしいかにも耽美的な文章。これが英語になるのだろうか。英訳はこうだ。

But the feel of the girl’s stomach against the sole of my rubber boot; the feel of her body that seemed to flatter me with its resilience; its groans; the way in which it felt like a crushed flower of flesh that is coming into bloom; that certain reeling or staggering of my senses; the sensation which passed at that moment like some mysterious lightning from the girl’s body into my own — I cannot pretend that it was compulsion that had made me enjoy all these things. I still cannot forget the sweetness of that moment.

これも原文に劣らず耽美的な文章。見事な訳だ。「押しつぶされた肉の花ひらく感じ」は、ほとんどそのまま直訳的に “which it felt like a crushed flower of flesh that is coming into bloom” とされている。「或る感覚のよろめき」を “certain reeling or staggering of my senses” としたのもまた直訳的だが、いずれも美しい英語になっている。また、これは余談だが、最近の精神医学で流行語のようになっているレジリエンスという単語が、ここでは女の腹の「弾力」にあたる訳語になっていることが目を引く。

女といえば、林養賢にとって特別な意味を持っている女性が有為子である。中学生の時に一方的な恋心を抱いた林養賢は、有為子の衝撃的な死の後も彼女の影を追い続けている。前述の遊廓の場面にも有為子は、登場しないという形で登場している。その有為子が恋人に射殺される直前の場面。p.23

月や星や、夜の雲や、鉾杉の稜線で空に接した山や、まだらの月かげや、しらじらとうかぶ建築や、こういうもののうちに、有為子の裏切りの澄明な美しさは私を酔わせた。彼女は孤りで、胸を張って、この白い石段を昇ってゆく資格があった。その裏切りは、星や月や鉾杉と同じものだった。

ここでも第一文の冒頭の並列的描写をどう訳すかだ。この描写は、有為子の最後の短い生の中にある、張りつめた神秘的な美しさに連なっている。答えはこうだ。
p.17
Amid the moon and the stars, amid the clouds of the night, amid the hills which bordered on the sky with their magnificent silhouette of pointed cedars amid the speckled patches of the moon, amid the temple buildings that emerged sparkling white out of the surrounding darkness — amid all this, I was intoxicated by the pellucid beauty of Uiko’s treachery. The girl was qualified to walk alone up those white stairs, proudly throwing out her chest. Her treachery was the same as the stars and the moon and the pointed cedars.

並列的描写には、amidの連続で対応することで、原文の効果を保持している。「澄明(ちょうめい)な」という、日本語としても使用頻度の少ない形容詞に pellucid という単語をあてたのも見事だ。

もう一つだけ美しい描写の文章を。まさに金閣に放火する直前、夜の鏡湖池である。p.317。

池のおもては夜空を映してほのかに白い。しかし夥しい藻は陸つづきのようで、細かく散らばったその隙に水の在処が知れる。雨はそこに波紋をえがくほどではない。雨に煙って、水気がこもって、池がどこまでもひろがっているように見えるのである。

p.251
The reflection of the night sky gave a dim whiteness to the surface of the pond. The dense duckweed made it look as if it were solid land and it was only from the occasional interstices between this thick covering that one could tell that water lay beneath. Where I stood it was not raining hard enough to make any ripples. The pond steamed in the rain and seemed to stretch out endlessly into the distance. The air was full of moisture.

これは相当に苦労した訳文と思われる。「雨はそこに波紋をえがくほどではない」に対して、原文にはない “Where I stood” を補足しなければならない必然性が私にはわからないが、英文としてはこれがないと良い表現にならないということなのだろう。ここでいう「波紋」は、雨滴が落下した部分から同心円がひろがっていくさまを私は想像するが、”ripple” では十分に表現できていないように思う。しかし私の読み方が間違っているのかもしれない。だが「水気がこもって」を別の文に分割して最後に持ってきたのは不満である。「水気がこもって」は、三島の原文では明らかに「池がどこまでもひろがっているようにみえる」という感じを強める役割を持っているから、何とか一文の中におさめてほしかった。しかしでは対案を出せと言われると窮するのであるが、思い切って「水気がこもって」を削除するのはどうか。「雨に煙って」がsteamed in the rainとすでに訳されており、steamedという一単語で「煙って」と「水気がこもって」の両方の意味がカバーされているとみなせるから、あえて The air was full of moisture と付加する必要はないように私は思う。

ひとつだけ誤訳・・という程でもないが、誤訳と呼ぼうと思えばそう呼べるものに一つだけ気づいたので指摘しておくことにする。金閣の歴史を林養賢が読む場面。p.26

いつ頃から金閣というようになったか、はっきりと一線を引くのは困難であるが、応仁の乱以後らしく、・・・

p.19
It is difficult to determine exactly when it first acquired the name of the Golden Temple, but it would appear to have been subsequent to the Ojin War (1467-77).

「おうじんのらん」ではなく「おうにんのらん」ですね。
訳者は応仁の乱を年表で調べ、英語の読者のために(1467-77)と追記する気配りを見せているが、「おうにん」と読むところまでは残念ながら気づかなかったようである。
 だがまあこのくらいは誤訳とは言えないだろう。考えてみると「仁」を「にん」と読むのは、「応仁の乱」の場合くらいしかないので、応仁をOjinと読んだのは無理もない。 

本稿の結びは、やはり結末の有名な場面に言及しなければならない。
その前に
『金閣寺』を映画化した『炎上』もまた名作である。市川崑監督、市川雷蔵主演。そして20代の仲代達也が、柏木を熱演している。しかし主演の市川雷蔵の演技がこの作品では何といっても白眉で、全編を通しての硬い感じは、統合失調症の前駆期に一致するものである(しかしこれは、三浦百重の診断である分裂病質=シゾイドschizoidとも一致するもので、統合失調症前駆期の診断の難しさの一端をここに見ることができる)。三島由紀夫の『金閣寺』の映画化作品であると明示しておきながら、タイトルは『炎上』で、焼かれる寺の名前も「驟閣(しゅうかく)」となっているのは、映画化に際して鹿苑寺からクレームがつき、タイトルを変えることで許可が下りたためだと、DVD付録の解説書に市川監督の文章がある。その名作『炎上』、結末だけが私は不満である。映画では彼は連行中の刑事の隙をついて列車から飛び降り自殺するという形になっているが、これは原作のかなり重要なテーマを歪曲しているように思う。三島由紀夫の「創作ノート」にある、採用されなかったどのプランを見ても、「生きる」ことが重要なテーマであったことがわかる。そして三島が最終的にたどりついたのは、生き方を最も効果的に呈示した結末を持つものであった。原文を示す。『金閣寺』最後の一文である。p.330。

一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。

そして英訳。一文を二文に分割したところにも、翻訳者が相当に練った跡が窺われる英文である。小説の冒頭第一文との対比という意味でも、全編の結びの一文という意味でも、そしてもちろん三島の原文の訳文という意味でも、見事な文章である。p.262。

I felt like a man who settles down for a smoke after finishing a job of work. I wanted to live.

 

10. 1月 2014 by Hayashi
カテゴリー: コラム