【3868】コンサータによって自己の連続性を失いつつある
Q: 私は某大学の法学部に通う21歳の男子学生です。(質問とは、直接、関係はありませんが、触法精神障害者に興味があり、それについて卒業論文を書くため、日々、資料を集めております。)
質問に入る前に、長文になりますが、質問に関わってくることなので、少し、コンサータ の服用とそれによる私自身の感じたことを書かせていただきます。
私は、精神科にてADHDと診断され、コンサータ を服用して数年になります。コンサータ 服用当初は、コンサータ によって、感覚過敏から解放され、初めて、ゆっくりと本を読むことができるようになり、感動のあまり泣いてしまいました。この感動はあまりにも激しく、「私は、もう完全に『脳』を支配した」という優越感(あるいは、副作用としての多幸感に過ぎないのかもしれませんが)を得ました。ところが、数ヶ月たち、このコンサータ 服用後の精神の変調が、私の悩みの種になってしまいました。
私は、今まで、脳と精神を分離して考えてきました。ですから、あらゆる行動に対して、私は何ら脳を意識することなく、(医学的には擬制なのかもしれませんが)意識=精神が主体となり、客体は、それ以外のものであると、経験的に認識していました。しかし、主体としての精神が、コンサータ の服用によって変容することで、私は、「自己が連続している」という、多くの人が当然考えているであろう常識を疑わざるを得なくなってしまいました。また、同時に、メチルフェニデートが、脳に働きかけているという科学的な事実が、この精神の変容という事実と合わさることで、脳=精神という、明確な結論を導き、その結論に向き合うことで非常に動揺しております。精神の座が脳であることなど、言わずとしれた常識なのですが、いざ、それが明確な形で体験されると、私は、あらゆる現象が、所詮は中枢神経の発火に過ぎないという絶望感=「副作用」を毎日、毎日、経験しているのです。
私は、いっそ、コンサータ を飲んでいる時が、真の私であり、他は全て、異常として認識することで、それを解決しようとしました。具体的には、コンサータ が切れかかったら、直ちに睡眠薬を飲み、コンサータ が服用されていない状態をできるだけ回避することで、コンサータを飲む前の私と、飲んだ後の私という自己の連続性の断絶を防いでいるのです。
しかし、客観的に見て、このような私の行動こそ、病的なのではないかという、さらなる疑問が噴出し、自分の理性を超えて、疑問がどこまでも上昇してしまいます。精神科Q&Aの質問に適しているかはわかりませんが、私は、この経験を文章にして、私より、はるかに脳や精神に関して詳しいであろう林先生に読んでもらい、「これらの疑問は全て愚問であり、体験もまた全て陳腐」と指摘されることで、解決を試みたいのです。私のわがままをお許しください。(もし、これらの疑問や、体験に何か価値があるのなら、指摘していただいても大丈夫です。その時は、さらに勉強して、自分で解決を試みたいと思います。)
林: この【3868】のご質問は、精神科の薬による治療の根底にあって、しかし普段は触れられることのない非常に深いテーマにかかわっています。
私は、いっそ、コンサータ を飲んでいる時が、真の私であり
この一文がまさにそのテーマを要約するものになっています。
つまり、コンサータに限らず、向精神薬(精神に作用する薬はすべて「向精神薬」といいます。以下、この回答内での「薬」は向精神薬を指すことにします)を飲むことで精神状態が改善・安定しているとき、では「真の自分」とは、薬を飲んでいるときの自分なのか、それとも薬を飲んでいないときの自分なのか、という問題です。
常識的な考え方としては、薬を飲んでいないときの症状で苦しんでいる自分は病気であって真の自分ではなく(この【3868】でいえば「感覚過敏」の状態。その他の例は精神科Q&Aに膨大にありますが、たとえば【3866】の「わけのわからないことを大声で叫び」「怒りやすい、空笑、行動的になる、買い物のしすぎ」「全員に「痴女、暴漢」など暴言を吐き、興奮状態」、【3729】の「神秘的な妄想にとりつかれ、自分が神さまだったと信じ込みました。その際、空に赤く光る大きな星をみたり、外に出るとわたしを哀れむような泣きそうな顔をした人に出会ったりしました。自分の日記がすべて書き換わってるような幻視を見たり、「すげー」とか「さすがだな」って幻聴がきこえたり」など)、薬を飲んでよくなったときが真の自分であるとするものです。ご家族や周囲の方々も同様で、たとえ当初は病気だということが理解できなくても、薬を飲んでよくなった状態を目の当たりにすれば、あの時は病気であって真の彼/彼女ではなかった、今の状態が真の彼/彼女だ、と納得するのが普通です。
けれども、この「普通」は、実は大変な間違いなのではないか。それがこの【3868】の質問者の大いなる疑問です。
「自己が連続している」という、多くの人が当然考えているであろう常識を疑わざるを得なくなってしまいました。
コンサータ を飲む前の私と、飲んだ後の私という自己の連続性の断絶
このように【3868】の質問者が「自己の連続性」というキーワードで言っておられる内容は、「薬を飲んでいるときの自分」と「薬を飲んでいないときの自分」の「連続性」と言い換えることができるでしょう。そしてそこからの次の段階として、
メチルフェニデートが、脳に働きかけているという科学的な事実が、この精神の変容という事実と合わさることで、脳=精神という、明確な結論を導き、その結論に向き合うことで非常に動揺しております。
という質問者の思考展開は、一方で質問者の深い苦悩を、他方で深い洞察を映し出しているといえます。(この種の議論では、質問者のいう「脳=精神」の「精神」は、「こころ」と表現されるほうが一般的ですので、以下では「こころ」と言い換えることにします)
脳は物質であって、化学的・電気的などの活動で成り立っているのはもはや確定的な事実ですから、こころが脳から生まれることを認めるのであれば、こころもまた化学的・電気的などの活動から成り立っていることを認めざるを得ません。【3868】の質問者が、
精神の座が脳であることなど、言わずとしれた常識なのですが、いざ、それが明確な形で体験されると、私は、あらゆる現象が、所詮は中枢神経の発火に過ぎない
と言っておられるのはそのことを指しています。そして質問者は、
あらゆる現象が、所詮は中枢神経の発火に過ぎないという絶望感=「副作用」を毎日、毎日、経験しているのです。
と苦悩しておられます。【3868】の質問者にはコンサータの服用によってこの苦悩が生まれたわけですが、全く同じ問題は他のすべての向精神薬の服用でも生まれ得るわけですから、この問題は、この回答の冒頭で申し上げた通り、精神科の薬による治療の根底にあって、しかし普段は触れられることのない非常に深いテーマにかかわっています。
私は、今まで、脳と精神を分離して考えてきました。
これは【3868】の質問者に限らず、ごく普通の考え方です。逆に、「こころ(精神)とは、結局は物質の活動にすぎない」などということは普通は考えません。
「脳は物質である」「こころは脳から生まれる」、そこまでは漠然と認めていても、そこからの三段論法で必然的に生まれる「こころは物質から生まれている(【3868】の質問者の表現を借りれば「所詮は中枢神経の発火に過ぎない」)という結論については、人は考えることを避けているというのが普通です。そして向精神薬によってこころが変容するという事実を実体験することで、この「普通」が破壊されるとすれば、向精神薬は黒船的存在であると言うこともできるでしょう。【3868】の質問者にとってのコンサータがまさにそうであったと言えます。
けれども多くの場合は、病気による苦しさが薬によって改善したというプラスが非常に大きいこともあって、そんな小難しい理屈は考えないか、仮に考えたとしてもすぐに考えを抑制してしまうことが大部分です。
この抑制を解除してしまったことから生まれたのがこの【3868】のご質問です。
メチルフェニデートが、脳に働きかけているという科学的な事実が、この精神の変容という事実と合わさることで、脳=精神という、明確な結論を導き、その結論に向き合うことで非常に動揺しております。
この動揺は、当事者でなければ真の苦しみは理解し得ない苦悩と言えるかもしれません。
このような場合、
私は、いっそ、コンサータ を飲んでいる時が、真の私であり、他は全て、異常として認識することで、それを解決しようとしました。
とする「解決」は、多くの当事者の方がごく自然に(特に意識することなく)到達する結論です。薬を飲む前の段階が「病気」であり、しかもそれが「ある程度以上に重い病気」であれば、「薬を飲んでいないときの自分が真の自分なのではないか?」という疑問は生まれません。
但し、この疑問が生まれやすい「病気」(あるいは少なくとも「病気」と呼ばれている状態)もいくつかあり、その例がADHDや発達障害です。
最近では「生きづらい」という表現が世の中に蔓延していますが、「生きづらい」という程度で、はたして薬を飲んで改善させるのが正しいのかということは、どこまでも慎重に考える必要があるでしょう。
【3868】のケースは単に生きづらいというレベルではないと思われますので(但し、症状としては 感覚過敏 としか記されていませんので厳密には判定困難ですが)、コンサータを飲むことは正しい治療法であるとみていいと思います。これが薬を飲むという治療法が正しくないと思われるケースになると(ADHDの薬、それは治療か商売かをご参照ください)、むしろ話は簡単で、「薬を飲んでまで自分を変える必要はない」というのが正解になりますが、逆にこの【3868】のケースのように、薬を飲むことが正しい治療法である場合に、質問者ご自身が苦悩しておられるような深刻な問題が生まれることになります。
林先生に読んでもらい、「これらの疑問は全て愚問であり、体験もまた全て陳腐」と指摘されることで、解決を試みたいのです。
残念ながら、ご期待にそえる回答は不可能です。「これらの疑問は全て愚問」ではなく、「これらの疑問は全て脳とこころの根底にかかわる深遠なもの」です。「体験もまた全て陳腐」ではなく、「体験もまた全て普段は誰もが抑制して考えないようにしているが、いつまでも抑制したままにしておくわけにはいかないであろう貴重なもの」です。
私がこのサイトを1997年に開設したとき、「こころと脳の相談室」と名づけたのは、この【3868】のご質問のテーマのような問題を意識してのことでした。すなわち、このサイト全体を、いつかは【3868】のご質問への回答に近いものを示すための序奏としたいという意図を、開設時点から私は持っていました。けれどもサイト開設から20年以上たった今でも、この意図は達成できていません。つまりそれは言い換えれば、【3868】のご質問にはまだまだとてもお答えできないということにもなります。
質問者には、最後まで読んでいただいた結果が、全く前進のない期待外れの回答となり心苦しい限りですので、ご質問に関連して少しでも未来に向かうために一冊だけ日本語で読める参考となる本をご紹介したいと思います。【3868】の質問者には、そして質問者と同じ問題意識をお持ちの方には、大変示唆に富む興味深い本だと思います。
『<わたし>はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』
マイケル・S・ガザニガ著 藤井留美訳 紀伊国屋書店 2014年
そしてこの本の原題は
Who’s in charge?
です。
【3868】の質問者は
触法精神障害者に興味があり
とのことですので、この原題からすぐにピンと来たことと思いますが、ここでいう chargeは「訴追」の意味を含んでおり、「こころが脳の活動の表現にすぎないのであれば、自由意志とは何か、そして、脳の変調によって人が犯罪をなしたとき、責任はその人にあると言えるのか、それとも責任は脳にあると言うべきなのか。人に責任があるときと脳に責任があるときの二つの場合があるのか、もしそうなら、どういう条件が満たされたときに、脳に責任があるということになるのか」というような問いをめぐる議論も展開されています。(この本の副題は Free Will and Science of the Brain です)
さらに言えば、「犯罪についての責任」の問題は、【3868】の質問のキーワードである「自己の連続性」に直結し、かつ、どうしても議論を避けるわけにはいかない問題であると言えるでしょう。
(2019.8.5.)