ADHDの薬、それは治療か商売か

1

【2909】初診でADHDと診断され、すぐ薬を出されたのですが、飲む必要があるのでしょうか で私は、
「ADHDの薬物療法としてコンサータは正式に認められている以上、初診から処方するという方針は間違いとは言えない。しかし、(1)ADHDには薬物療法以外の対応法があるのにもかかわらず、初診から処方するのは、薬物療法に偏した診療である (2)【2909】がADHDだとしても、薬物療法が必要なレベルとは思えない (3)そもそもADHDに薬物を処方することにはかなり慎重であるべきである という理由から、賛成できない。これら(1)(2)は医学的に標準的な見解である。(3)は林個人の見解であって、標準的とは言えない」

と回答した。

コンサータは薬の商品名で、一般名はメチルフェニデートである。日本でコンサータが発売されたのは2007年だから、比較的新しい薬といえる。
但し、同じメチルフェニデートで、リタリンという薬があり、こちらは1957年から使われている。そしてリタリンは、依存性、さらには副作用としての幻覚妄想など、いわば悪名高い薬である。依存の実例として精神科Q&Aにも【0680】覚醒剤使用歴あり、現在リタリン乱用中、暴力あり【0993】医師である夫がうつ病でリタリン依存です がある。
それもそのはず、メチルフェニデートは薬理学的には覚せい剤(アンフェタミン、メタンフェタミン)にかなり類似した薬である。リタリンは元々はうつ病にも保険適応のある薬だったが、乱用の問題の顕在化によってうつ病への適応は削除された。(【1289】リタリンがうつ病に使えなくなるのは納得できません【1364】リタリン報道の加熱と適応除外の動きについて も参照)
コンサータが発売されたのは、リタリンのうつ病適応が削除されたのと同じ、2007年である。
同じメチルフェニデートであっても、リタリンとコンサータは人体への吸収のされ方が異なっている。コンサータのほうがゆっくりなのだ。このため、同じメチルフェニデートであっても、乱用の可能性は低いとされている。「乱用の可能性は低いとされている」というのは、「乱用の可能性は無い」というわけではない。可能性は乱用だけではない。メチルフェニデートである以上、幻覚や妄想が出る可能性もある。
ではコンサータを飲むのは危険か?
この問いには意味がないことは、【1440】コンサータは安全な薬ですか に記した通りである。
薬が安全か危険か。その問いには常に意味がない。薬には効果がある。リスクもある。効果がリスクより大きいと判断されれば、飲むべきである。逆にリスクのほうが大きいと判断されれば、飲むべきでない。薬の安全性・危険性とは、常に相対的なものなのである。【0496】7歳の自閉症の息子に薬を飲ませるべきか の回答の通りである。

自閉症でもADHDでもその他の疾患であっても、コンサータやリタリンを飲んだほうがいいか否かは、そのケースの症状と、予想される副作用のバランスで決めるのが唯一の正しい方法である。そして【2909】初診でADHDと診断され、すぐ薬を出されたのですが、飲む必要があるのでしょうか のケースは、とても副作用のリスクを背負ってまでコンサータを飲む必要があるとは思えない。ましてや初診の時点で「せっかく薬があるのだから飲んでみるのも良いと思いますよ」(【2909】の主治医が言ったとされる言葉)という軽い気持ちで飲むような薬ではない。

だが、ADHD(や、それに関連した病態)をコンサータやリタリンで治療することには、副作用よりもっと重大で深刻な問題がある。それは、そもそもADHDは薬で治療すべきなのか。ADHDは「病気」なのか。という問題である。これを厳しく指摘した本がある。いわゆる「反精神医学」論者の本、『Critical Psychiatry』である。

 

2

Critical Psychiatry
The Politics of Mental Health
Editor: David Ingleby
Penguin Books Ltd, Harmondsworth, Middlesex, England, 1981.

これは1981年発行の本だが、その内容は現代にも通用する点が多々ある。特に、ADHD (この本では多動児 Hyperactiveと記されている。ADHDと多動児は、厳密には同一ではないが、重なる部分は大きい) に対するリタリン処方への批判は、現代におけるコンサータの処方に対して示唆するところが大である。

この本は翻訳が出版されている:

批評的精神医学 —– 反精神医学その後
宮崎隆吉他 訳
悠久書房 東京 1985

以下、原文の引用と、そこに対応する訳本からの引用を並べて示す。リタリンを論じているのは第3章である:

p.102
Chapter 3
On the Medicalization of Deviance and Social Control
Peter Conrad

A man in Baltimore, arrested several times for exhibitionism, goes to a physician for a new drug, Depo-Provera, for treatment of his deviant behavior. A well-known surgeon in a southwestern American city performs a psychosurgical operation on a young man who is prone to violent outbursts. A child in California brought to a pediatric clinic because of his disruptive behavior in school is labeled hyperactive and prescribed Ritalin for his disorder. In and East Coast prison a man is given medication ‘to alleviate his mood disorder’ after a recent altercation with prison authorities. A chronically overweight Chicago housewife receives a surgical by-pass operation as treatment for her problem of obesity. Scientists in a New England medical center work on a million-dollar federal research grant to discover a heroin-blocking agent and ‘cure’ heroin addiction. In all these instances medical solutions are being sought for behavioral problems and social deviance. The medicalization of deviance and attendant medical social control is becoming increasingly prevalent in modern industrial societies.

p.169
第三章
逸脱とその社会コントロールの医学化
バルティモアには、露出症で数回逮捕され、逸脱行動を治療するためにプロベラ・デポという新薬を医者から投与されている男がいる。アメリカ南西部のある町には、発作的に暴力を振るいやすい若者に精神外科手術を施行している高名な外科医がいる。カリフォルニアには、学校でまとまりのない行動をとるという理由で小児科外来に連れて来られ多動児のレッテルを貼られて、その障害の治療としてリタリン(精神神経用剤)を処方されている児童がいる。東海岸の刑務所内には、刑務所当局との口論を起こしたすぐ後に、「情動障害を和らげるため」として投薬されている男がいる。シカゴでは、肥満の主婦が肥満を治療する目的で外科的バイパス手術を受けている。ニューイングランド医療センターには、ヘロイン嗜癖を「治療」しようと、百万ドルの連邦政府調査の補助金を受けながら研究している科学者たちがいる。こういったすべての例からはっきりするのは、問題行動や社会的逸脱を解決するために医学的探究がなされているということである。まず逸脱を医学化して、それから医学的な社会コントロールを行うということが、近代産業社会では次第に一般的になってきている。

いきなり長く引用したが、ここでのキーワードは章題に含まれる三つの言葉、

逸脱 Deviance
社会コントロール Social control
医学化 Medicalization

である。行動であれ思想であれ感情であれ、それが標準の範囲におさまらない人々(逸脱 Deviance)を、社会が決めた型にはめるため(社会コントロール Social control) の手段として、そうした人々に病気であるというレッテルを貼っている(医学化 Medicalization) という批判が、反精神医学の基本的考え方である。これがいま引用した3章の冒頭部分に凝縮されている。多動児 Hyperactive、すなわち学校という枠におさまらない子どもに、病気(今でいうADHD)というレッテルを貼り、リタリンを飲ませて医者は商売している。そういう批判がこの章には展開されている。

ところで上記の訳文のうち、「問題行動や社会的逸脱を解決するために医学的探究がなされているということである。」は、誤訳とは言わないまでも、問題のある訳である。ここは「行動上の問題や社会的逸脱に対して、医学による解決が求められているということである」とすべきであろう。このうち、behavioral problemsを「問題行動」から「行動上の問題」とするのは些細な修正だが(但し、日本語でいう「問題行動」はbehavioral problemsの訳としては強すぎるので不適切であることに変わりはないが)、medical solutions are being sought「・・・を解決するために医学的探究がなされている」と訳すのは小さくない問題である。ここは「医学による解決が求められている」としなければならない。なぜならこれは、この章のポイントに大きくかかわる一文だからである。

3

medical solutions are being sought for behavioral problems and social deviance.

行動上の問題や社会的逸脱に対して、医学による解決が求められている

ここでいうsocial deviance 逸脱 には、犯罪から多動児まで、幅広いものが含まれている。これらは、かつては宗教が対応を受け負っていたが、社会の近代化に伴い、担当が医学に変化してきた。病気とみなされるようになってきた。医学による解決 medical solution、それは言うまでもなく治療である。

p.109
… the technological growth of the twentieth century, and the diminution of religion as a viable agent of control, more and more deviant behavior has come into the province of medicine. With these developments has come a change of the conception of deviance; much deviance that was badness (i.e. sinful or criminal) is now sickness. While some forms of deviant behavior are more completely medicalized than others (e.g. mental illness), recent work has pointed to a considerable variety of deviance that has benn treated with medical jurisdiction: alcoholism, drug addiction, hyperactive children, suicide, obesity, crime, violence, child abuse, learning problems, amongst others. Concominant with medicalization has been a change in imputed responsibility for deviance: with badness the deviant was considered responsible for the behavior, with sickness he or she is not, or at least responsibility is diminished. The social response to deviance is ‘therapeutic’ rather than punitive.

p.181
20世紀の技術的進歩、コントロールの有効な代理人としての宗教の衰退などに継起してますます多くの逸脱行動が医学の領域に取り込まれるようになった。このような発展に伴って、逸脱行動は変化をきたし、悪いこと(すなわち罪深いとか犯罪的ということ)されていた多くの逸脱が今や病気となったのである。他のものより一層完全に医学化されている種類の逸脱行動(例えば精神病)もあるが、最近の研究は医学的に扱われるかなりいろいろな逸脱に注目してきている。例えばアルコホリズム、薬物嗜癖、多動児、自殺、肥満、犯罪、暴力、幼児虐待、学習障害等である。医学化に付随して変化してきたのは逸脱への責任への負わせ方であった。つまりもし悪いことだとすれば逸脱者はその行動に対して責任があると考えられたが、病気だとなれば当人の責任は全くないか、あるいはわずかにあるにすぎないと考えられる。社会の逸脱への反応も懲罰的というよりむしろ「治療的」である。

懲罰から治療へ。この変遷はしばしば望ましいものとしてとらえられている。いや「とらえられている」のではない、現に望ましいのだ。そういう意見も強いであろう。懲罰は非人道的。治療は人道的。かつて非難の対象であったものが、病気として治療の対象となり、そして改善すれば、そのほうが望ましいことは論をまたない。かつて単なる問題児として扱われていたADHDが、医学によって改善すれば、本人にとっても周囲にとっても大きな恩恵である。だが当然とも思えるこの考え方に、この章の著者ピーター・コンラッドは強い疑問を投げかけている。

p.112
When previous or traditional forms of social control are seen as inefficient or unacceptable, it is likely that medical controls will appear.

p.185
以前からのあるいは伝統的な形態の社会コントロールが不十分であるとか、受け容れ難いと見なされる時には、医学的コントロールの出現する傾向がある。

わかりやすくADHDを例に挙げよう。昔ながらの「しつけ」ではADHDへの対応としては不十分である。そういう状況で、医学的コントロール(=治療)が出現する。それは進歩だろうか。進歩に見える。しかし。

p.112
The shift from religious to state to medical social control is often depicted as a humanitarian modernization of the social control networks of society but probably better reflects the changes in the zeitgeist rather than any progressive improvement.

p.185
宗教から国家へ、さらには医学による社会コントロールへと移行したことについては、社会コントロールの組織網が人道主義に基づいて近代化したのだという風にしばしばいわれている。しかしながら、この変化は何らかの進歩的改良が行われたというよりはむしろ時代精神の変遷を反映しているといった方がより適切であろう。

医学によるコントロールへの移行は、決して進歩ではないというのがこの章の著者ピーター・コンラッドの意見である。
すぐに次の文が続けられている:

p.112
Medicalization occurs when traditional or previous forms of social control are no longer efficient or acceptable. There have probably been some effective ‘traditional’ forms of social control for overactive or restless behavior in schoolchildren. The oldfashioned, highly disciplined schoolroom with a hickory stick perhaps was sufficient control for some children. If this was unsuccessful, the children could be asked not to attend school, and they could go to work. While there is still some corporal punishment in schools, it is no longer a major form of social control. It is relatively difficult to expel an elementary school child from school;

p.185
医学化が出現するのは社会コントロールの伝統的ないしは以前からの形態がもはや何の効力ももたない場合や、受け入れられない場合である。多動的で落ち着きのない学童の行動を社会的にコントロールする何らかの効果的な「伝統的」方法というものは、おそらくこれまでにも存続していたであろう。ヒッコリーステッキを用いて教室内でのしつけを現在では考えられぬくらいに厳格にすることは、幾人かの児童にとってはおそらく十分なコントロールになっていたであろう。そして、この方法が功を奏さなかったならば児童は登校しないように要請され、働きに行くということもあり得た。現在でもなお学校では何らかの体罰が行われているというものの、もはや社会コントロールの要となるような形ではない。小学校の児童を退学させることはむしろ困難である。

この引用部分の一行目、「医学化が出現するのは社会コントロールの伝統的ないしは以前からの形態がもはや何の効力ももたない場合」に、ピーター・コンラッドの主張が凝縮されている。本稿冒頭に挙げた三つのキーワードのうち
社会コントロール Social control
医学化 Medicalization
の二つがここに表れているが、もちろんここで社会コントロール「される」のは、そして医学化「される」のは、残るキーワードの
逸脱 Deviance
である。
すなわち、先の「医学によるコントロールへの移行は、決して進歩ではない」には、「医学によるコントロールへの移行は、決して進歩ではなく、他の手段に効力がない場合の代替手段にすぎない」というのがピーター・コンラッドの主張である。

それを代替と呼ぼうが何と呼ぼうが、他に有効な手段がなく、医学が有効な手段なのであれば、医学化は歓迎こそされても、批判されなければならない理由はないようにも思えるが、さらに次のような指摘がある。

p.116
Often there are medical professionals who act as entrepreneurs for medicalization.

p.191
医学化するのが仕事であるかのように振舞っている医学的専門職の人をしばしば見うける。

ここでいう「仕事」とはすなわち商売ということである。ここに来て、反精神医学論者からの精神医学への牙が明らかになる。そしてそれは本稿のタイトル「ADHDの薬、それは治療か商売か」にも直結するものである。精神科医が「治療」と称して薬を処方するのは、決して病気を治療するなどという性質の行為ではなく、単に薬を売って商売をしているだけなのではないか。なぜなら、薬が処方されるのは、「病気」ではなく、「逸脱」と言うべきものであり、その「社会コントロール」がうまくいっていない状況につけこんで、その「逸脱」を「医学化」し、市場として商売しているのではないか。

さらにこの主張を強化する根拠として、病気という概念には価値観が含まれていると記述されている。

p.106
In summary, illness is a social construction based on human judgment of some condition in the world. In some fashion illness, like beauty, is in the eyes of the beholder. While it is partly based on current cultural conceptions of what disease is, and more often than not in Western society grounded in biophysiological phenomena, this social evaluative process is central rather than peripheral to the concept of illness and disease.
p.178
要約すれば、病気とはそもそもある状態に関する人間の判断に基づいた社会的構成物である。病気はある意味では美意識と同じく見る人次第である。これは部分的には疾患とは何かということに関して流布している文化的概念に基づいており、そうでない時、この方が西欧社会では殆どなのだが、生体生理学的な現象に基礎を置いている。だが、いずれにせよ病気というこの社会的評価を下すという過程が病気や疾患の概念にとっては枝葉末節なことでなくむしろ中心的なことなのである。

 

4

本稿冒頭に記した三つのキーワードとそれらをめぐるピーター・コンラッドの主張は、次のように要約できる。

逸脱

社会コントロールの失敗

医学化: 治療という美名のもとに行われているが、実は商売にすぎない。そもそも逸脱を病気とするのは欺瞞である。病気とは社会的評価を含んだ概念だからである。

この要約の「逸脱」の例として「ADHD」を当てはめれば、具体的な姿がよく見えてくる。
人間社会の歴史を振り返ってみれば、ADHDの「症状」と現代では呼ばれている特徴は、逸脱ではあっても病気とはみなされていなかった。だが有効な対策がなかった。そこで代替手段として医学化がなされた。そのタイミングは、リタリンという薬の誕生に一致している。リタリンを売るという目的のため、ADHD(と現在呼ばれているもの)の医学化が強く促進された。

ピーター・コンラッドの主張に従えば、ADHDとリタリンの関係は上のようにまとめることができる。
これは一面の真理を反映していることは確かである。
だがピーター・コンラッドの主張には一つ致命的な弱点がある。病気とは社会的評価を含んだ概念であるというのは彼の言う通りであるが、それはどんな病気にも、つまり身体の病気にもすべてあてはまるということである。もし社会的評価が含まれるという理由で病気という概念を否定するのではあれば、すべての病気概念を否定し、すべての医学を否定し、すべての治療行為を否定しなければならない。それは現実からかけ離れた話である。

p.119
As Irving Zola has noted, ‘by locating the source and treatment of problems in individuals, other levels of intervention are closed’. While this aligns well with the individualistic ethic of Western culture, it distorts reality and allows for social control in the name of health.

p.195
「問題の原因と治療を個々人のものとして限定することにより他の側面から介入する可能性は失われる」と述べている。この考えは西欧文化のもつ個人主義倫理とうまく合致してはいるものの、現実を歪曲し、健康の名の下に社会コントロールが行われるのを許すのである。

現実を歪曲し、健康の名の下に社会コントロールが行われる」、それも医療という営みの一面の真理であるが、影の部分を指摘し批判するだけでは何ら生産的でない。医学化を代替手段だとして否定するのであれば、医療を上回る有効な代替手段を提唱しなければならない。反精神医学の論者はもちろんそれを理解していたが、彼らが提唱した代替手段は、部分的には功を奏したものの、全体としては精神医学を上回るものではなかった。

 

5

「全体として」はともかく、ではADHDに対する薬物療法はどうか。それは治療か商売か。私がサイコバブル社会に書いた文章を引用する。

・・・だがここまで書いてきて私は、あるADHDの少年を思い出さずにはいられなかった。彼は授業中に大人しく座っていることができなかった。低学年の時は、幸か不幸か、そんな子は他にも何人もいて、大目に見られていた。ところがある時から授業崩壊が真剣に問題視されるようになった。授業中の着席が厳しく指導されるようになった。当初はそれでも教室は荒れていたが、親たちも学校に来て協力するという体制ができ、みんな着席できるようになった。ところが彼だけはできない。休み時間も落ち着きなく、大声を出したりしてひとり浮いている。教師や親からの冷たい目。家庭に問題があるのではないかという非難。その後、ADHDということが知られ、いったんは理解が得られたかのように見えた。しかしそれはいっときで、間もなく空気が変わる。この学校よりもっと適した場所があるのでは? それがお子さんのためなのでは? よくある、体のいい排除活動である。両親は病院に来て涙を流していた。私たちの育て方が悪かったのでしょうか。違うんですか。すると遺伝ですか。ではやはり私たちの責任でしょうか。本人はその間も診察室内を歩き回っている。
その少年が、薬を飲むことによって文字通り劇的によくなったのである。授業中は座っていられるようになり、休み時間には友達と遊ぶことができるようになった。両親はまた涙を流していた。もちろん喜びの涙を。ADHDの人の誰もがそうなるとは言わない。しかし、それまでの深い悩みが、ただ薬を飲むだけで、文字通り雲散霧消するADHDの人がいるのである。彼と両親の苦しみと、よくなったときの喜びを目の当たりにすれば、薬の恩恵を実感せずにはいられない。・・・

このケース、リタリンは画期的に効いた。薬効分類でいうところの「著効」である。こういう実例があるからには、ADHDにはリタリンを積極的に処方すべき・・・という結論ではない。サイコバブル社会にこのケースを紹介したのは、「著効例があるからといって、安易に薬を処方すべきではない」という文脈の中でのことである。現在、厚労省が公認している薬は、どれも効果がある。あたり前だ。効果がなければ公認されるわけがない。だが効果があるというのはあくまでも統計的にみてそうだということにすぎない。効果がない人もいる。副作用もある。効果がある人にとっては、多少の副作用のリスクがあってもその薬を飲むべきである。だが効果がない人にとっては、副作用のリスクだけを負うことになり、薬を飲むことのメリットはない。
いや今の記載も不正確である。どこが不正確か。「効果がある人にとっては、多少の副作用のリスクがあってもその薬を飲むべきである」という部分だ。ここは「充分に効果がある人にとっては、多少の副作用のリスクがあってもその薬を飲むべきである」と言わなければならない。効果が小さければ、わざわざ副作用のリスクを負ってまで薬を飲む必要はない。

ようやく本稿冒頭の

【2909】初診でADHDと診断され、すぐ薬を出されたのですが、飲む必要があるのでしょうか

にたどり着いた。この【2909】のケース、コンサータ(既述の通り、コンサータはリタリンと同じメチルフェニデートである)を飲むことは勧められない。このケースは仮にADHDだとしても軽度であるし、そもそもADHDかどうかわからない。仮にADHDの診断基準を表面上は満たすとしても、そのような「ADHD」を「病気」とするのは、まさに医学化、それも正当性の見えない医学化であり、そのような「ADHD」に薬を処方するのは商売の色が濃い行為であると言わざるを得ない。【2909】のケースがコンサータを飲めば、副作用のリスクは、薬のメリットをはるかに上回るであろう。だから【2909】のケースがコンサータを飲むことには全く賛成できない。

以上が【2909】の回答の背景である。

(本文は以上)

 

追記
ピーター・コンラッドは次のようにも記述している:

p.115
Before something can be medicalized, it is essential for the medical profession to accept the deviant behavior within their jurisdiction. Medicalization is not possible without the complicity or willingness of at least some part of the medical profession.

p.190
医学化が可能となるために本質的なことは、医学的専門職がその権限の範囲内に逸脱行動を受け入れるということである。医学化は少なくとも一部の医学的専門職の共謀性や自発性がなければ不可能である。

この一文をピーター・コンラッドは、医学への(精神医学への)批判という趣旨で記している。つまり、逸脱行動を医学が受け入れることへの批判である。「共謀性complicity」「権限の範囲内within their jurisdiction」という表現に、コンラッドが医学化を忌避する気持ちが反映されている。(jurisdictionは「法域」だから、医学が逸脱行動の医学のルールに従って扱おうとしているというニュアンスであろう。「権限の範囲内」という訳語は適切と思われる)

しかしでは、医学が逸脱行動の受け入れを一切拒否したらどうなるのか。「逸脱の社会コントロールの医学化」にはコンラッドが指摘する影の側面があることは確かだとしても、では医学が受け入れなかったら誰が受け入れるのか。他に救いを求める場所がなくて、藁にもすがる思いで精神医療を求めるケースは、現実社会にはたくさんある。
たとえば

【0309】精神科に相談に行ったら、「ここは警察じゃない」と一蹴された

【1769】ここ数ヶ月の間に彼女の様子が少しおかしくなってきました

【1473】彼女に突然別れを告げられ、つらくてたまりません

【1245】行為障害から反社会性人格障害になったと思われる30代の弟

【2924】小学校4年から犯罪を繰り返していますが、罪悪感が全くありません。刑務所には行きたくないです。

 【1223】自分はアダルトチルドレンだから悪くないと言って、身勝手な行動を取り続け、家族に攻撃が絶えない「うつ病」の従姉妹

【0702】職場で問題を繰返す同僚は病気でしょうか

【2427】酒をやめる気がない父

【0443】盗む主婦

上記のそれぞれについて、医学が受け入れるのが適切か不適切か。適切と考える立場に立てば、「受け入れれば救済できるか、少なくとも救済の努力をしている。受け入れないことは見捨てることにほかならない」となろう。逆に不適切と考える立場に立てば、「受け入れるのは不当な医学化である。精神医学は本来医学の対象でないものを、自分の領域に囲い込もうとしている」となろう。

虚言癖はどうか。虚言癖のケースは想像以上に膨大である。虚言癖は精神医学の死角にあると私は考えている。考えているというより確信している。だが精神医学で扱うべき問題か否かについては確信はない。その問題、すなわち虚言癖は病気か否かは、精神医学には決める権限はなく、人々の日常感覚が決めるべき事柄であろう。それが虚言癖、嘘つきは病気かの根底にある思いである。

さらには、PTSD
【1731】「PTSDなんか無いよ、マスコミが作った病名だ」と医師から言われました

パーソナリティ障害
【2946】私は境界性人格障害か、それともただの迷惑な性格か。

虐待被害者の問題
【1901】6歳から12歳まで受け続けた性的虐待と22歳の今の私
(をはじめとする【1901】から【1948】)

なども挙げることができる。これらは現在では精神医学の対象であるという考え方が優勢だが、異論があってもおかしくない。

そしておそらく最大の問題はうつ病をめぐるものである。
【2861】高圧的な上司の影響でダウンした私は擬態うつ病だったのでしょうか
のようなケースをどう考えるか。この問題は、うつ病の聖杯に発展する。

病気か病気でないか。精神医療の対象とするのが正しいか、対象としないのが正しいか。人間に発生するある現象を精神医学が受け入れることは批判されることか賞賛されることか。そういう白黒は決してつけられない、錯綜した問題が精神医療には宿命的に内在している。

 

05. 2月 2015 by Hayashi
カテゴリー: コラム, 発達障害