幻聴か独語か

 

これはメモである。

 

1

【3535】無意識の独り言を幻聴だと勘違いしていた の質問者は次のように述べている。

息を止めてみたところ幻聴が収まり、口を閉じて、鼻で呼吸することにより幻聴はなくなるということを発見しました。幻聴が聞こえているとき、リラックスして半開きになった口の近くにボイスレコーダーを押し当てて録音してみたところ、自分の考えに合わせて不規則に変化する声に聞こえる息が録音されました。どうやら、自分の口の無意識の動きによって発生する独り言を他人が言っているものだと勘違いしていたようです。

すなわち幻聴と独語の混同。統合失調症におけるこの現象は、実はかなり前からよく知られている。たとえば 『安永浩 著作集 4 症状論と精神療法』に収載の『分裂病の症状論』(1978年)という論文中に次のような記載がある。以下、太字はこの論文からの引用である。

p.31
ある患者は「”幻聴”をテープにとってきました・・・・・」と録音テープを持参した。テープを聞いてみると、実際にささやくような声が録音されているのである。「どうやってこれをとったのか?」という問いに対して、彼はマイクを自分ののどにあててとったのである、と答えた。改めて聞きただすと、彼はそこに録音されているのが自分の声でると認めた。しかしそれは自発的にしゃべった言葉ではなく、外力に操られて「しゃべらされた」言葉なのだ、というのであった(させられ体験)。しかもこの患者は、最初は自ら”幻聴”といっていたのである。この例の場合、幻聴と”させられ独語”とは、本人にとってそれほどに区別できない一塊の体験であったことがわかる。

この患者には独語がある。まずこれが出発点としての客観的事実である。一方、患者の主観としては幻聴がある。主観体験の有無は本人にしか判断できない以上、これもまた事実である。そして実際には、客観的事実である独語と、主観的事実である幻聴は、同一の現象だったことがわかった。この患者はそれに気づいた・・・という表現は厳密には正確ではない。彼は「”幻聴”をテープにとってきました」と言っているのである。それが独語であることを医師から指摘されて認めたという形である。【3535】はこれに似ているが、「自分の口の無意識の動きによって発生する独り言を他人が言っているものだと勘違いしていたようです」と自分から気づいているという点が、安永のケースとの一つの大きな違いである。もう一つの大きな違いは、安永のケースは「外力に操られて「しゃべらされた」言葉なのだ」という、「自分の意志ではなく、外部からさせられた」という体験であるのに対し、【3535】はそうではない。したがって【3535】は ”させられ独語”とは言えないが、「”自分の意志で喋っている”という自覚がない」とまでは言える。つまり独語が自分の意志によるものではないという意味では共通点がある。言い換えれば(独語という)行為の起点が自己ではないという意味では共通点がある。

同様の現象は 【3532】妻の独語がまったくおさまりません にも見られている。すなわち【3532】の独語は、

機械から私に情報が送られてくるといって日常に関係があることを自分の知っている人が言っている形で独り言を続ける

という形を取っており、これは(独語という)行為の起点が自己ではないという意味では安永のケース及び【3535】と共通しており、その起点が外部にあるという点では安永のケースと共通しており、さらにその外部の起点を「機械から私に情報が送られてくる」と述べることで、いわば、より「妄想らしさ」が感じられる症状になっている。

【3533】勝手に口が喋る。馬鹿にされている。見られている。BDSMの嗜好。の体験にはこの「機械」にあたる要素はないが、(独語という)行為の起点が自己ではないという点は共通している。次の通りである。

・    自分は言いたくないのに、勝手に口が喋ってしまう(心では、そんなこと言いたくない!違う!!と思っているのに、口が私を無視して話してしまう)
・    自分が何を話しているのか理解できない時がある(これも、勝手に口が喋っています。私自身が自分の意志で話しているという意識はありません)

 

2

安永の論文からの引用に戻る。

p.31
実際、独立に”させられ独語”を訴えている患者はしばしば同時に”幻聴”の形の訴えをもっている。ときにどちらかのニュアンスがはっきり前景にでるとはいえ、根本において幻聴で聞かれる内容は、同時に内語として発語されているのであることをうかがうに足る。

幻聴とは何か。それは、本来は自分の考えている内容、ないしは内言語が、外部から聞こえると体験される — すなわち、外部の空間に定位されたものである。ここまでだと理論的考察にすぎないが、独語と幻聴の区別が曖昧なケースが示されると、この理論的考察が説得力を持ってくる。上記「幻聴で聞かれる内容は、同時に内語として発語されているのであることをうかがうに足る」はこのことを述べている。
安永のケースも【3535】も、幻聴か独語かを本人は明確に区別できない(または、できなかった)例であるが、さらには、そもそも幻聴や独語があるのかないのかもよく自覚できない場合も統合失調症では少なからずある。

たとえば【3194】自分に幻聴があるかどうかわからないですの質問者は

私に幻聴や独語はあるのでしょうか?
診察の時、なんて答えたらよいのでしょうか?

と困惑している。他方、

通院を開始したのは24歳のとき。でも前の主治医はいうには、中学2年生ぐらいから自分に語り掛ける幻聴があったみたいだねと言われています。

という記載からは、医師が診察すれば、幻聴があったことは明らかであることが窺われる。
ここで注意すべき点は、この場合、「医師が診察」といっても、何かハイテクな技術が適用されたわけではないことである。幻聴の有無の診断材料は本人の話以外にはあり得ない。ということは、医師との対話の中で幻聴体験を自分の口で語っているにもかかわらず、それでも本人は、自分に幻聴があったか否か、明確にはわからないのである。

【3194】にはその後の経過がある。【3355】複数の人がざわざわと話している声が聞こえる である。そこにはこう記されている。

よくわからなかったのですが聞こえるという事はこういう事なんだと思いました。

主観的なレベルでは、【3194】では幻聴は明確でなく、【3355】では幻聴は明確である。このような場合、【3194】と【3355】のどちらの時点のほうが病態が進んでいるかという判断は慎重にくだす必要がある。仮に単純に(自覚的な)「幻聴の有無」を指標にするならば、【3355】のほうが重い、すなわち病態が進んでいるということになろう。だが、「それまでは幻聴と認識できなかった体験を、幻聴だと認識できるようになった」のだから、むしろ症状は軽くなったのだという全く逆の解釈もできる。個々の症状の有無や症状の個数だけに着目する重症度判定法のナンセンスさをここに見出すことができるが、それはともかくとしてこの【3355】では、さらに次のような症状が現れている。

それともう1つ気になる事は、職場の同僚が私のことをよく思っていないということ
です。話題にしたり噂になったりして気になります。

統合失調症に非常によく見られる典型的な症状がここに来て現れている。この情報が加わることで、【3355】の病態が【3194】の時期より進んでいるという判定を導くことができる。

 

3

独語のテーマに戻る。安永論文の”させられ独語”についての記載の続きはこうだ。

p.31
この発語は、実際に高声の独語になるものから、ほとんどつぶやく程度のもの、さらには舌、のどのわずかに動く程度のもの(客観的には、幻聴に相当する現象をさして「舌が動いてしまう」という患者はまれでない)を経て、機械的検出装置によってのみ発声筋の活動を検出できる段階に至るまで、連続的に移行している。

【3535】は「リラックスして半開きになった口の近くにボイスレコーダーを押し当てて録音してみたところ、自分の考えに合わせて不規則に変化する声に聞こえる息が録音されました」であるから、安永のいう連続的に移行する段階の中の「舌、のどのわずかに動く程度のもの」と「機械的検出装置によってのみ発声筋の活動を検出できる段階」の間に位置するとみることができる。
そして

p.31
「”声”がうるさい」と訴える患者に「自分ののどをつまんでおさえてみよ」と教示したところ、少なくともそのあいだだけは「”声”がとまった」と述べた患者もある(土居)。

【3535】の「息を止めてみたところ幻聴が収まり、口を閉じて、鼻で呼吸することにより幻聴はなくなる」という体験は、上記土居のケースと本質的に同じ現象であろう。

p.31
そもそも”独語”は客観的に外から見つけやすい症状であって、病症のいろんな時期にみられる。慢性者の病棟などでぶつぶつ何かつぶやいている患者をみるとき、幻聴があるな、と察するのは経験者には周知のことであるが、これは単純に想像されるような声の主との対話では必ずしもない(もちろんそういう場合もあるが)。

上記「経験者には周知」の「経験者」とは、統合失調症というものを一定以上観察した経験ある者(家族、医療者など)を指している。本人の主観の中では幻聴という「声」と対話しているのだが、客観的には「声」は存在しないので、客観的に観察される症状としては「独語」になる。確かにそういうケースはある。だがここでのポイントは「単純に想像されるような声の主との対話では必ずしもない」という部分である。独語という症状は時に不気味で理解し難いものであることから、「独語=幻聴との対話」と整理したくなるし、そう説明すれば納得されやすい。しかし統合失調症の独語とは必ずしもそういうものではない。というより、幻聴との対話 は独語のある一つの型にすぎないのであって、決して典型ではない。独語に限らず、統合失調症の症状を健常者が追体験できる範囲で理解しようとすると、統合失調症という病気の本質を見誤ることになる。

p.32
実際にはかなりいろんな場合があって、文字どおりのひとり言の場合もあろうし、”させられ独語”という自覚形態の場合があり、さらに本人としては独語というより幻聴として体験されていて、自分の口の動きには気づいていない場合がある。さらにはこれらの区別そのものが本人自身明確になされていないのではないか、と思われるような場合もまた多い(小倉参照)。

「小倉参照」と示されているのは 1965年に小倉日出麿が発表した『独語症状の研究』と題された論文である(精神神経学雑誌 67巻12号 1187-1196)。その論文の中にはいくつもの実例の紹介とともに、次のような記述がある。

「対話形式の独語では幻覚は客観化されたもので、独語は自我に意識され得るものといえるが、この体験の区別は必ずしも明確でなく、幻覚と独語は混乱して体験されることもある。即ち、独語していてもそれを意識することなく、幻覚として体験する場合もある」

「幻聴と独語は同一事象の両面といえる。従来から「独語」は低い声で語るのを聞くところに成りたつ」(Baillarger)ともいわれる。」

また、次の記述は前記【3533】の「自分は言いたくないのに、勝手に口が喋ってしまう(心では、そんなこと言いたくない!違う!!と思っているのに、口が私を無視して話してしまう)  」に一致するものである。

「独語症状の認められる患者で、自己の体験を反省して供述できるものも少なくない。独語に伴う主体的体験の第一は主体の意志に反して独語が語られ、口を衝いて出るという強迫-衝迫(obsession-impulsion)である。」

そして、

「衝迫性独語は時としては、他人から聞かれている、察知されると体験されるものである。このように思考、言語は自我の能動的支配から脱して外界へ伝播し、客観化される傾向をもってくる」

これは本稿4に後述の【3296】自分の考えを口に出して漏らしているような気がする という体験に重なるものである。

 

4

本稿、「幻聴か独語か」と題した。幻聴と独語の境界はときに曖昧である。というより、「幻聴」と「独語」は、観察される症状を理解しやすいように恣意的に別々の言葉を割り当てたにすぎないのであって、本質的には同じ症状なのではないか。少なくとも症状発生の根本にある「何か」は共通しているのではないか。ここからさらに敷衍すれば、多彩に見える統合失調症の症状すべてに共通する「何か」が見えてくる。たとえば「自分の考えが人に伝わる」という考想伝播。最近では「サトラレ」と表現されることも多い(【0790】私はサトラレです【2208】友達が、サトラレで悩んでいます  など)、統合失調症に典型的なこの症状にも、独語-幻聴-考想伝播 という一連の流れが透けて見えるケースがある。
たとえば

【3296】自分の考えを声に出して漏らしているような気がする

2年ほど前から自分の考えが人に伝わっている、というか、実際声に出ていて周りに聞こえているのではないか?  と思うようになりました。

この短い記載の中に、まさに独語-幻聴-考想伝播の要素を見出すことができる。
この【3296】の質問者はさらにこう述べている。
周りに聞こえたのではないか?と思うときは、自分が何か嬉しいことやテンションが上がる出来事があったときに、自分では心の中で声を出したつもりなのに周りに聞こえているかもしれないせいで見られる時です。

.
見られる」。統合失調症に非常に高率に見られる典型的な訴えである。

【3296】はさらに次のように述べる。

今少し声がでちゃったのかな?とも思うのですが、それならそうと友達であれば「なに?」とか「なんか言った?」  と言うのでしょうが、私を見てくる人はさして仲良くもない仕事関係者だったり通りすがりの人に限っています。

.
通りすがりの人」が「私を見てくる」。これもまた、統合失調症に非常に高率に見られる典型的な訴えである。ここの【3296】のケースにおいては、 (1) 通りすがりの人が自分を見る  (2) それは自分の考えがばれているからではないか (3) すると私は自分の考えを無意識に口に出しているのではないか という論理構造で症状が形成されているように見え、すると(1)が出発点なのではないか(実際に見られていたかどうかはともかく、本人の主観の中では見られていると感じられたことが出発点なのではないか)と推定したくなるが、これは独語を幻聴との対話であるとする前記解釈と同様の推定で、このような通俗心理学的解釈は、統合失調症という病気の理解では禁物である。もちろん仮説としてなら価値がある。その仮説は正しいかしもれない。だが正しそうに感じられる、自然な理解として納得できる、という理由で、その仮説を正しいものとして採用するのは軽率である。
【0717】寝言を盗聴されている気がしますも【3296】に類似している。

数ヶ月前から、盗聴されている気がしてなりません。
お恥ずかしい話ですが、頭の中で性的なことを考えていて、それを寝言でいい、職場の人がそれを盗聴して自分のことを笑っている気がするのです。
 最近では寝言を聞かれているのを見越して、頭の中で盗聴している人たちのことを口汚く罵り、それを寝言で言って不愉快な思いをさせてやろうと考えています。そうしないと我慢がならないのです。

「自分の考えている内容」が「外に出る」ため「人が反応している」という構造は【3296】と全く同じである。
「外に出る」が【3296】では独語、【0717】では寝言という形を取っている。独語は発せられれば直ちに人に聞かれるが、寝言はそうではないので、【0717】では「盗聴」という中間項が挿入されているとみることができよう。
「自分の考えている内容」は様々なものがあり得るが、【0717】では「性的なこと」であるため、それを知った人の反応は「自分のことを笑っている」になっている。そして対抗手段として「頭の中で盗聴している人たちのことを口汚く罵り、それを寝言で言って不愉快な思いをさせてやろう」と考えている。【0717】は「自分の考えている内容」が「外に出る」が寝言という形を取っているため、対抗手段も寝言が活用されているが、もし「外に出る」が独語という形を取っていた場合には、攻撃的な独語という手段になっていたであろう。
以上のような症状構造分析はそれなりにもっともらしいものだが、しかしこれもまた仮説にすぎない。但し、統合失調症という病気が治療されずに悪化していけば、攻撃的な独語が発せられたり、言葉だけでなく攻撃的な行動が生まれることがあるのは事実である。

 

5

前記の通り、「幻聴」にしても「独語」にしても、それらは、観察される症状を理解しやすいように恣意的に別々の言葉を割り当てられているにすぎない。そもそもある現象に(症状とは限らない。現象一般)言葉を割り当てる、すなわち名前をつけるとはそういうものであって、言葉にした途端に本質からの逸脱が始まることは否めない。「幻聴」は統合失調症の症状として最もわかりやすいものの一つであるが、「幻聴」という言葉のために、かえって病気への気づきが損なわれる場合もよくある。【1072】幻聴がなくても統合失調症ですかはそんな一例である。【1072】の質問者は次のように述べている。

Q: 医師から統合失調症と診断されている、20歳の女性です。
お聞きしたいことは、本当は私は統合失調症ではなく人格障害なのではないかということです。
現状は、
・自分の心の中が周囲の人に知られている。きこえている。
・他人の会話の内容がすごく気になる。
・音に対して敏感。
・人や物に自分の思考を吸い取られそうで怖い。
・働いていないので、食べることに罪悪感がある。
・自分が演技しているみたいに感じる。
・周りの人が私を追い込もうとする。私を騙す。
・他人の言動が自分のことを指しているのではないかと思う。
・人を信じられない。嫌われていると思う。
上記の通り、幻聴はありません。なので、自分は人格障害だと思うのです。

【1072】の回答の通り、このケースが統合失調症であることは間違いないが、「幻聴」という言葉へのとらわれが、「幻聴がなくても統合失調症ですか」という質問(診断への疑問)を生んでいる。
前述の通り、統合失調症の「幻聴」とは、
本来は自分の考えている内容、ないしは内言語が、外部から聞こえると体験される — すなわち、外部の空間に定位されたもの
であって、聴覚性の有無は本質ではないのである。現に、「聞こえているのか自分が考えているのかよくわからない」とか「声ではなく考えが入ってくる」というような訴えは統合失調症の、特に初期にはよくある。
【1290】声ではなく気持ちがわいてくると言う10歳の息子は統合失調症でしょうかでの

「心の中の悪いやつが・・・・・と言っている」と言うことが増えてきた。ただし、これは前に書いたように第三者の声が聞こえてくるときもあるが、ほとんどはそのような気持ちがわいてくるような感じということでした。

.

という体験も同種のものである。もっとも、10歳という年齢での統合失調症の診断はかなり難しいが、この【1290】の体験は統合失調症の診断を強く推定させるものである。(なおこのケースは気持ちが「わいてくる」というのは慎重に判断すべき表現である。自分の中に「わいてくる」という表現は健常者でもしばしばある。これが「入って来る」となれば、かなり統合失調症らしいと言えるが、「わいてくる」だけだと何とも言えない。だがこの【1290】では、「第三者の声が聞こえてくるときもある」ことから、「わいてくる」も統合失調症らしい体験であると推定することができる。(安永も次のように記載している:  p.33  自分の中の現象という自覚は保たれながら感覚性としては知覚形態に近づくという類の現象がある)

 

6

独語は自己が発する言葉として自覚される。すなわち起点は自己である。
幻聴は他者が発する言葉として自覚される。すなわち起点は他者(または非自己)である。
【3535】や安永のケースでは、独語と幻聴が混同されている。起点が自己である独語の、その起点が逸脱して自覚され、幻聴として体験されている。
それが行為であれ、思考であれ、自分の行為は自己が起点であり、自分の思考は自己が起点である。これはあまりに自明であるため通常あえて意識されることはないし、自分の行為や思考の起点が自己でなくなるなどということは考え難いことだが、その考え難いことが発生しているのが統合失調症である。起点の逸脱。それを自我障害と呼ぶこともできる。

 

7

表象と知覚。
自分が考えていること。それがある意味内容であれ、言葉で表したものであれ、視覚的なイメージであれ、それは「表象」である。先の「起点」という語を用いるならば、表象の起点は自己である。
知覚は外部からのインプットである。知覚の「起点」は非自己である。
表象と知覚の起点は健常では截然と分離している。両者を混同することはあり得ない。統合失調症ではこの起点をめぐる障害が発生する。それは「表象の擬知覚化」である。
統合失調症の最もわかりやすい症状の一つである幻聴。それもまた表象の擬知覚化である。すなわち、「自分の考えた内容」という表象が、主観の中では「外部から聞こえる声」に擬知覚化する。

そして、【3535】や安永のケースでは、表象からの擬知覚化の中間項に独語が挿入されている。言い換えれば、幻聴も独語も、表象の擬知覚化という症状を構成する要素にすぎない。

前記【3296】の「通りすがりの人」が「私を見てくる」という、統合失調症に非常に高率に見られる典型的な訴え。【3296】についての前述の通俗心理学的解釈(仮説)の正否はともかく、これもまた表象の擬知覚化として理解できる現象である。すなわち、「通りすがりの人が自分を見ているように思う」という表象にすぎないはずのものが、本人にとっては「実際に自分を見ている」というように擬知覚化している。

前記【3355】に、

それともう1つ気になる事は、職場の同僚が私のことをよく思っていないということ
です。話題にしたり噂になったりして気になります。

という統合失調症に非常によく見られる典型的な症状について、【3355】の回答で私は

それも幻聴といっていいでしょう。「職場の同僚が私のことをよく思っていないような気がする」という段階が関係念慮または関係妄想、そしてそれが「話題にしたり噂になっているのが聞こえる」という段階になれば幻聴があるということになります。

と説明した。この説明はもちろん間違いではないが、「関係念慮または関係妄想」も「幻聴」も、表象の擬知覚化という意味では同じものである。そして実際の臨床での患者の症状も、それが「関係念慮または関係妄想」なのか「幻聴」なのかは区別がつきにくいことは非常によくある。両者は互いに移行するといってもよい。

 

8

ところで、「擬」知覚化というのは、第三者から見てのことであって、本人にとっては「擬」が外された「知覚化」である。さらにいえば「化」も外された「知覚」である。「知覚」そのものである。だからこそそれが幻聴だとか妄想だとか説明されても、またどんな証拠を示されても納得しない。本人にとってはまごうことなき「知覚」だから。それが統合失調症の病識欠如の基盤にある重要な要素である。サトラレは病気の症状であるという説明が【3099】  のように 私は、私の思ったことや考えたことが他人に聞こえる、いわゆる「サトラレ」です。100%統合失調症ではありません のように頑として受け入れられないのは、また、幻聴が幻聴であるという説明が【3513】林先生の答えには納得できません。悪口を言われているのは事実です のように頑として受け入れないのは、「表象の擬知覚化」が本人にとっては「知覚」そのものだからである。(もちろん病態の重さによって病識にもレベルがある。【3158】病識の無さのレベルについて参照)

「表象の擬知覚化」は先の安永の論文中にある表現である。「起点の逸脱」という表現自体は同論文にはないが、「起点」という語を使った説明はある。

p.37
幻聴の”内容”は本来の思考と平行的に存してその傍流をなす思考であるようにみえる面と、本来の思考とむしろ一体であるようにみえる面とがあるが、いずれにせよ本来能動的な或る思考、内語運動の発動に由来しているようにみえる。ただその起点たるべき部分の定位が自我中心とずれて知覚される、とでも表現されるべき事態がそこにあるのではなかろうか。

これが、統合失調症の症状を統一的に説明する、安永の壮大なファントム理論につながっていくのであるが、メモとして書き始めた本稿、すでにほぼ1万字になってしまった。ここまでとする。

 

付記
本稿のタイトル「幻聴か独語か」は、実のところ意味に乏しい問いである。いや、もちろん現象レベルでは意味がある。幻聴と独語は別の現象である。だがどちらも「起点の逸脱」という単一の障害の表れである。さらには統合失調症のいかなる症状も「起点の逸脱」が様々に形を変えて表れているものにすぎない。おそらく。

05. 9月 2017 by Hayashi
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