【4027】発達障害という神秘な存在が嫌われるのは素晴らしい (【3936】のその後)

Q: 【3936】衝動性は治ったのになぜいまだにテグレトールを処方されているのでしょうかで回答いただいた20代女性です。【3936】に続いて不謹慎な内容の連発ですが、今回だけはどうかお許しください。

私は特定不能の広汎性発達障害持ちで、その診断が下されたのは今から一年二・三ヶ月ほど前の十九歳のときでした。小学生の頃から心の内で自分が学習障害持ちである可能性を疑っていたので、発達障害という診断には驚きもしませんでした(ただし主治医に相談していないので、実際に学習障害であるかは現在も不明です)
そんな私ですが、色々と思うことがあります。「発達障害は神秘である」ことと、「発達障害という存在が嫌われるのは素晴らしい」ということです。
これは、多くの人々から反感を買うような内容であると自覚していますので、誰かに話したことは今までにありません。ただ、私は時々、本当にこのように思うのです。

まず「発達障害は神秘である」ということについて。
「人体の不思議」と言いますか……専門的な知識が皆無の私からすると、例えば、発達障害が遺伝するということ、とすると遺伝子のエラーがあると推測されることが神秘的に感じてならないのです。
そもそも遺伝子というものが私には神秘的です。最近は発達障害の知名度が上がり、そのように診断される人が急増しているそうですね。どこまで発達障害者とされる人が増えるのかはわかりません、もはや特別珍しくもないメジャーで身近な障害というふうに感じつつありますけど、それでも確かに、それが障害であるとされている今時点では、発達障害者は少数派であるとされています。私は、自分の遺伝子にエラーが存在することがとても素敵に感じるのです。発達障害を持っていて損をしていることは沢山あるでしょうけれども、多数派にはない遺伝子のエラーがあるのは自分のチャームポイントのひとつとしてカウントしたい気持ちがあります。エラーコインに価値があるのと同じ感覚です。いや、発達障害は特殊な人でない限りは現代社会に価値はありません、障害はないにこしたことはありません。けれども、遺伝子エラーというところがどうしても愛おしいのです。生物学的神秘です。
これは私が自分で発達障害を持っているからこそ「神秘的!」と思えたものであって、私が健常者であれば、そんなことは微塵も思わなかったでしょう。
自分が発達障害だからこそ神秘的だと思え、発達障害の遺伝子が神秘的だと思うから自分の発達障害に興味を抱けます。「そうか、このような面は健常者は持ち合わせていないんだ、脳機能の障害が原因なんだ、そして遺伝子が関係しているんだ」と思うと、不思議な気持ちになるのです。自分自身が発達障害だから、私は極めて近い存在である自分の世界観を楽しみながら鑑賞したり分析ごっこをするのです。
神秘の話は以上です。

次に「発達障害という存在が嫌われることは素晴らしい」ということについて。
ここで「昔」という言葉が出てきますが、それはいつの時代なのか想定しておらず、だいぶ曖昧な使い方をしています。勉強不足ゆえです。すみません。
それでは本題に。発達障害は遺伝子エラー、脳機能の障害、その他不確かな説が沢山あるものですが、発達障害という存在がここ数年で目立ち始めたのは、人間社会のコミュニケーションと精神医学が発展したことが理由のひとつではないかと思います。多くの方がそのように考えていることでしょう。「発達障害は人間社会に作られた障害」と言う方がよくいらっしゃいます。少し違うような気がしなくはないですが、言わんとしていることはよくわかります。昔であれば変人で済まされていただけで、障害を疑われるほどの異常性を感じる人が少なかったから、発達障害という名称の障害は作られず、そして最近まで人々に知られてこなかった……。昔は変人とされていた発達障害と疑わしき人々が、現代では非常識な人、あるいは障害という扱いです。発達障害者が昔から嫌われてきたことに変わりはありませんが、嫌われ方はおそらく昔と現代とでは違いがあるでしょう。発達障害が「障害」とされたことによって、発達障害者は排除され嫌われやすくなったと推測しています。人間社会の発展により発達障害者はもっと嫌われるようになった。これはとてもすごいことです。ただの変人が障害者としてみられるようになった、つまり異質な存在として認識され、医学者などだけではなく一般市民まで「これはただの変人とは違い、障害者である」と理解するようになった事実がある時点で、人間間のコミュニケーションはかなり進んだと考えていいでしょう。発達障害という存在が認められ、そして多数派から嫌われているのなら、これからも世界は発展していけるだろう、もっと世の中は進んでいくだろうと思ったのです。人間は進化しているのですね。だから、発達障害が嫌われるのは素晴らしいのです。そしてそんな発達障害を持っている私は、粛清されてもいいとも考えています。現代の日本では粛清なんてほとんどあり得ないこととは思いますが、万が一障害者が粛清の対象になったとしても、喜んで受け入れる自信があります。何かしらの才能のある発達障害は別として、とくに秀でたところもない私のような者は、社会には必要ありませんので、粛清されてもいい、というより、粛清されるべきです。自殺ではなく、可能であれば粛清対象となって死ぬことができたらなと少し願っているのです。実現不可でしょう。ただの空想です。
「発達障害という存在が嫌われることは素晴らしい」は以上です。

今回のメール内容に関する(発達障害や、現代のコミュニケーションについてなどの)専門的知識は私には一切なく、素人が好き勝手に述べたものですので、まったく間違った内容も沢山あると思います。知識なくこのような内容のメールをしてしまい、申し訳ありません。ただ無性に送りたくなってしまったのです。「発達障害は神秘である」「発達障害という存在が嫌われること素晴らしい」の二つは、私が頻繁に考える内容です。ふとしたときに思うのです。そして、そう思うときはいつも楽しい。ですから、これらは少なくとも私にとってはマイナスな話でなく、とても希望あるプラス思考の内容なのです。

肝心の質問はこれです。長々と語っておいて、たいした質問でなくてすみません。
私のこれらの考えは異常か正常範囲内かでいえば、どちらでしょうか。反感を買うだろうと思いつつ、理解してくれる人も沢山いるはずだともひそかに期待しています。

 

林: いくつかのポイントについてお答えします。

多数派にはない遺伝子のエラーがあるのは自分のチャームポイントのひとつとしてカウントしたい気持ちがあります。

遺伝子の中に、他の多くの人とは違う部分があることは、その人の魅力に当然なりうることです。そして、「遺伝子の中の、他の多くの人とは違う部分」を「エラー」と呼ぶのは、価値観を含んだ表現ですので、時代や文化によって、エラーと呼ぶのが適切かどうかは当然に異なってきます。

発達障害という存在がここ数年で目立ち始めたのは、人間社会のコミュニケーションと精神医学が発展したことが理由のひとつではないかと思います。多くの方がそのように考えていることでしょう。

それは確かに理由のひとつです。

昔であれば変人で済まされていただけで、障害を疑われるほどの異常性を感じる人が少なかったから、発達障害という名称の障害は作られず、そして最近まで人々に知られてこなかった……。

その通りです。

発達障害が「障害」とされたことによって、発達障害者は排除され嫌われやすくなったと推測しています。

「障害」もまた、価値観を含んだ表現ですので、時代や文化によって、それを障害と呼ぶことが適切かどうかは異なってきます。また、ひとたび「障害」と名付けられたものを排除するか、さらには嫌うかということもまた、時代や文化、さらには個人によっても異なってきます。

発達障害という存在が認められ、そして多数派から嫌われているのなら、これからも世界は発展していけるだろう、もっと世の中は進んでいくだろうと思ったのです。

認められ」と「これからも世界は発展していけるだろう、もっと世の中は進んでいくだろう」は、その通りだと思います。「嫌われているなら」と「これからも世界は発展していけるだろう、もっと世の中は進んでいくだろう」には論理的な結びつきが認められません。
Temple Grandin: The world needs all kinds of minds
もご参照ください。

(2020.4.5.)

05. 4月 2020 by Hayashi
カテゴリー: 発達障害, 精神科Q&A