【3086】私のうつ病の3年間の経過

Q: 35歳、IT業界に勤務の男性です。

うつ病と判断される前から、現在、ほぼ回復したところまでの お話をご参考までにと、思いメールした次第です。
質問ではないので、必要なければ、メールを破棄してくださって 問題ありません。

文章途中に、専門的用語が含まれている関係で 読みづらい箇所もあるとと思いますが、
参考になれば幸甚です。

8年くらい前に、S社に勤めていましたが、その会社が倒産し 次の就職先を決めるのに、戸惑っていた頃、ある同僚が 会社を起業する、ということでしたので、それに参画するという カタチでT社に就職しました。
少数精鋭な会社でしたので、やりがいもあり、毎日意気揚々と 仕事に励み、生活も充実していました。

しかし、会社が順調に成長してきた頃あたりから、新たに採用 されてくる方が多くなり、自身の仕事内容に変化が起きてきました。
また、中途採用された方が、先に昇格したり、仲の良い同僚達が 退職したりと、職場そのもの自分にとって、居心地の良くない環境 になってきたと思います。

ある案件のプロジェクトリーダーを任されていましたが、 眠れない/いつもだるい/朝が憂鬱など、風邪に近い症状が 毎日続き、会社を休むことが多くなり、降格されました。
もちろん、これはお客様にも迷惑を掛けますし、会社の同僚や 上司にも迷惑を掛けます。
ですから、妥当な判断と思います。
しかし、降格した後も、休みがちな日々が2ヶ月以上続き、 これ以上会社に迷惑をかけることは良くないと判断し、 体調不良を理由に、そのT社を退職しました。

その後、体調回復を目的に自宅療養や内科への通院などを 行いまして、2〜3週間後、気分も少し晴れてきましたので 派遣会社へ登録を行い、約1年間ほど、短期契約を中心に 2件ほど仕事に就いていました。

眠れない/いつもだるい などの症状は少しも改善していませんでしたが 仕事に対する意気込みなどは幻滅しておらず、気力も充分では ありませんが、生活面(金銭的)で不安が出てきましたので G社に就職することにしました。

《X-5年 G社の入社》
某外資系会社のあるプロジェクトを進行するリーダーが 事実上居ない状況になっていて、入社したと同時にそのプロジェクトリーダー (以下PL)に任命されました。
PLは存在していましたが、プロジェクトマネージャー(以下プロマネ) へのいわゆる「ほうれんそう」が全くなく、独自の判断でプロジェクトを進行させ 部下ならびにお客様に迷惑をかけてしまったということが原因で、PL解任命令 が出されていたようです。
当初私は、そのPLの補佐役として出向しましたが、あまりに悲惨な 状況、さらにそのPLは昔勤めていた会社で事実上部下であったということも 踏まえて、ついつい勢いで大風呂敷きを開いてしまいました。

「あれでたら、私のほうがもっとよりよくプロジェクトを遂行できます!」

プロマネはもちろんのこと、組織上の上司も、私の意気込みに 同感したようで、その日にPLとして任命されてしまいました。

結果として、プロジェクトも期間中に終了し、お客様も満足してくださいました。
なにより、自分に自信が持てたことと、部下が付いてきてくれたことが 嬉しかったです。

そのプロジェクトを進行するに当たって、メンバーが限りなくゼロでした。
にも関わらず、社の人間は無関心・・・前任のPLが何事も自分ひとりで進行してしまおうという観念があったために、そういう状況になってしまった、 ということでしょう。

社には、時間を持て余しているメンバーが沢山いました。
結局のところ、上司らは社内でも彼らを生かす手法や手段が 分からなかった上、彼らには技術スキルがないと、決め付けていたので 対応に困り、放置していたようです。

私はそんなスキルのない彼らを育成しよう、という気持ち半分、 ライトスタッフでも大きな業績を上げられるんだ!ということを見せ付けて やりたい、という気持ちで彼らをメンバーとして採用しました。

不思議なもので、彼らはとてもよく動き、生き生きとしていました。
職場にいて、何もしない一日がただただ、ずーっと流れてしまうほど嫌なものはありませんから、何かできる。それだけでも彼らにとってとても喜ばしいことだったのでしょう。

週に2,3度、出向先にて朝に、本日自分が何をするのか、 今起きている問題は何か、希望はあるか、 などを話すミーティングもやりました。
こんなにも努力して誠意を見せて、行動してくれることに、 私はとても感銘を受けたことを覚えています。

その中でも、社内で半ば厄介モノ扱いとされてた人が
「指示されていた資料ですが、頑張ったんですけど」
と見せてもらった資料も素晴らしく出来きがよく、一言「凄い!」と 発したことも覚えています。

そんな彼らが伸び伸びと、そしてドンドン成長していく様を プロマネ自身もよかったね、と褒めてくれてました。

しかし、その頃から、他の案件でもより人員を必要となり、 この案件で採用されているメンバーを他の案件で採用するということ が始まりだしました。

何とか、くいとめたりしましたが、最終的には6人いたメンバーも一人になってしまいました。
プロジェクト自体、完結を迎えつつあったので、進行には問題ありませんでしたが、それでも、折角作業や全体的な勝手などを覚えてもらったのに。
ということはありました。
しかも、プロジェクト進行中に、どうしても人数が欲しいという時、 とられたメンバーをこちらに回して欲しいとお願いすると、

「こちらも大変だ」
「そちらの案件ばかり人員を取りやがって」
「人は出せない」 など・・・。

人員不足によるストレスは、よく溜まっていたと思います。
そのころから、再び、眠れない/朝起きれない状況はありました。
その上、帯状疱疹や尿路結石をやりまして、休みがちとなり迷惑をかけてしまったという気持ちからくる悪循環もありました。

実は尿路結石をやる前、その出向先に常駐していたある人に告白しようと決意していました。
その前フリのプレゼントもあげました。
しかし、仕事上も飲み仲間の人と、告白したい人の3人で飲み行った帰りに、、、、

「もう時間が遅くなったから、うちに泊まりに来ない?」

え?と感嘆しました。
男2人女1人、こんな状況ってあるのかいな、と不思議な気持ちのまま酔っていた所為か、そのまま彼女の家に泊まることになりました。
ゲームしたり、部屋にある本を読んだり、仕事の話をしたり、 結局夜中の3時まで、飲み明かしていました。

しかし、後から、彼女が 「私と彼、付き合ってるんだぁ。みんなには内緒ね♪」

ショックでした。
尿路結石さえしなければ、休むこともなくコクられたのに・・・と悔い。
そして、あの飲み行って泊まった時、私はダシに使われたのか?
って思うと益々ショック。
以前の会社でも、そんなダシに使われたことがあったっけ。。。
と思うと虚しさだけが残りました。

彼と彼女が別れたとき、それぞれ別々にそして別の日にサシで飲みに行ったことがあります。
彼女には、コクる予定だったことを告白。
彼には何んで別れたのか、って聞きましたが、なんだか彼女のパワーについていけなくて別れたんだとか。

まぁ、今でも彼/彼女ともに連絡はしていますし、 苦い思いは、昔の思い出として、「こんなこともあったなぁ」程度に なってます。
不恰好で片思いな三角関係でした。

《X-4年》
出向から戻って年が明けると同時に、A4ページ500枚近くに及ぶ仕様書も納品し、
プロジェクトも無事終了。
私が出向先から戻り、どの部署に所属するか決定しかねているころ、お取引をしているDD社から大きな案件紹介が入ってきました。
現職の会社は、従業人40名(アルバイト含む)ほどで、 PC100台/Server5台導入、というだけで全員が引いてしまうような会社でした。

営業部マネージャーが、その案件をD社さんから紹介を受け、 お客様とお話をしてきたそうですが、お客様は特許関連を扱う会社で機器の台数と建物の構造、プロジェクト期間以外が何も話してくれなかった そうです。

それまで、G社はサーバの中身を見せてもらったりPCの中身を見せてもらって、なにとリプレイスするか、ということや作業を手伝うということが念頭にあって、あくまでお手伝い的要素の強い職種でした。

であるから、なお更に詳細が分からない状況では、営業がしづらい、 ということがあったのでしょう。
さらには、D社さんは大手のY社やO社さんにも、 この案件を持ちかけたにも関わらず、お客様からの良い返事は頂けず、 競合相手であるT社に案件を取られかかっていたようです。

そういう状況下であったためか、営業部マネージャーもやる気は 減退していたようで、この話はお断りしましょう、と社長に相談していました。
偶々、出向から戻りたての私の机は、社長席の近くであったので、 その案件について、そしてその会話を常に聞いていました。
前プロジェクトが成功に終わったことがあったためか、自分でも 信じられないほどの自信に満ちていたと思います。

「ここで諦めのは、よしましょう。出来るところまで頑張ってみましょう」

と社長とマネージャーに話したことを覚えています。
もちろん、その一言でお客様から良い返事が頂けるような事を・・・と技術面で一任されてしまいましたが。

私は根っからの技術屋と思っています。技術的な情報がない状態でどのようなことををすれば、お客様がこちらを向いてくれるか考えを巡らせた結果、「プロジェクト進行表」を作成することにしました。
不明なところは、こちらの考えを仮想的にふりつけ、全体的な流れを図式したり、スケジュール表を作成したり。

こういう事を考え遂行できるのは、根っからの技術屋でないと社長に言われましたが。

プロジェクト進行が決定してから作成される資料を提示したことが功を奏したようです。
お客様からは、ぜひお話を聞きたいというよい返事を頂くことができました。

実際、自分でも本案件が取得できるとは思っていませんでしたが、資料を作成するにあたって、色々とアドバイスをしてくれた社長には感謝しています。
まぁ、取得したらしたで、「こんな大きな案件、できないよー」なんて技術サイドからの文句の一つもあったと思いますが、今思えばこれを越えたからこそ、我が会社は大きく前進できたのではないかと思ってます。

それからというもの、、大きな案件や難しい案件は、私に回ってくる状況になったと思います。
さすがに一時的に参ってしまったとき、PLを断念させてもらったこともありました。
それでも、スーパーバイザーをやってくれとか、補佐をやってくれとか、完全に逃れさせてくれることはなかったです。

こんな事が続きながらも、リーダーへ昇格。
社長直属の独立部隊。
精鋭メンバーは自分も含めて、2人。
有能な部下に恵まれて、その後は、新規も含めて以前からのプロジェクト、 そして社内システムの向上プロジェクトなど、数々のプロジェクトを順調に続け、 身も心も順調でした。
私の部署は、社内でもとても人気あって、所属したいという人が多かったです。
私の部隊に入りたいって。。。
それが誇りでもあり、自分への自信でもあったりしました。
(独立愚連隊なんて、言われたこともありましたけど)

《X-3年 大きな失敗》
4月、私の位置づけが、営業サイドのスーパーバイザーに転向しました。
前述の有能な部下は、一時的に自分の下にいたけれど、 以前のプロジェクトでお世話になっていた外資系の会社に出向することが決定し、同時に独立部隊が解散。

「やはり、営業しに行ったとき、技術的な内容を補佐したり、もしくは、技術者が直接営業を実施するような中間的存在があると、より多くの案件を取得できるような気がする」

そういった発想から生まれた部署。
営業でも技術でもない、コウモリ的部署が設立され、そのグループのリーダーとして任命されました。
以前から役職は付いていたけど、独立部隊ではなく、会社組織の一組織のリーダーとしての役職が付いたことには、とても嬉しかったです。

でも、組織化に組み込まれたことで、自分が発揮する仕事以外も発生し、他部署の面倒、他人の尻拭き、営業の補佐、社内システム管理、 社内システム向上、プロジェクトリーダー…現場補佐、現場監督
場合によっては、人手不足で立案/企画/設計/現場作業全て一人でやるようなことが多々発生してきました。

疲れが頂点に達したと同時に、技術サイドの怠慢で、私しか出来ないという安易な判断で、作業量の多い仕事がまい込んできました。
十数万にも及ぶファイルとフォルダのリプレイス作業です。
沢山の仕事を抱えてしまっている状況で、半ば何とかなると投げやりな感情でその仕事を受けてしまったと思います。

しかし、ファイルコピーとはいえ、認識情報や暗号化情報など記載されている以上、それらも完璧にコピーしなければなりません。
何かいい手法はないかと、技術マネージャーに相談したところ、あるソフトRが
良いと勧められ、まともに検証もしないで現場に望みました。

現場にて、そのRを使用し、コピーを始めると、上手く動作してくれません。仕方がないので、別のソフトXを用いてコピーをすることにしました。
しかし、あまりにも大量にあるファイルの中には、UnixコードやMacコードで 記載されたファイルがあり、全てのファイルが確実にコピーされません。
ひとまずは、Xで全てのコピーを完了させ、後から何がコピーされて いないか、検証することを考えました。

折角用意したRが使えないか、と考えをめぐらせた時点で 既に私の技術者としての資質は皆無になっていたかもしれません。
Rを使用して、ファイルの比較を行い、一見全てがうまく 行っているようにみえました。

しかし、コピー先のファイルがドンドン削除されてしまっていきます。
最初はウイルスやハッキングを疑いました。
今思えば、恥ずかしい限りです。この動作がウイルスによるものだ!と 信じてやまなかったのですから・・・。

Rは、ファイルを比較すると同時に、レプリケーション(複製) するという機能がメインで、リプレイスするような動作には向いていない プログラムでした。
結果、新サーバに12時間以上かけて複製したファイルは、ほぼ削除され さらには、新サーバにあって旧サーバにはないファイルやフォルダを新サーバ上で削除する、つまりシステム内全体をリプリケートするという考えからすると、もっともな動作をしてしまい、新サーバに導入済みであった暗号化プログラムさえ削除してしまったという最悪な結果になりました。

暗号化プログラムは、別業者が導入したもので、結果導入費用が無駄になり、損害額としてその暗号化プログラムの導入費用分を損失させてしまいました。
データそのものは、旧サーバに完全に残っていたということ、 事前にテープバックアップを行っていたということ、 これらのことを踏まえて、お客様であるITマネージャーさんは、 私のことを責めたりしませんでした。
しかし、信頼を無くしてしまったのは事実です。
日ごろ、あだ名で呼んでくれるほど、信頼されていたのでその信頼を無くしてしまったことが、今でも心苦しいです。

社で意気消沈しているとき、営業マネージャーにこんなことを言われました。

「君も落ち込んでいると思うけど、社長はもっと落ち込んでいるんだよ」

はっきり言って、この一言でさらに消沈したと思います。
もちろん社内における、私への信頼や信用ってもの凄く大きなもので あると自負していました。
しかし、失敗したのは、この私自身です。
本人が一番、落ち込んでいるにも関わらず、そんなことを言うなんて…。

直接、お客様のところへ頭を下げに行きたいと思っていました。
しかし、思いは通じず、連絡を取ることさえさせてくれませんでした。
失敗は失敗として、認めケジメをつけたいという気持ちもありました。
でも「君は行かなくていい」その一言で、何もなかったようにその案件から遠ざけられてしましました。
失敗したという悔いより、しっかりと謝罪できなかった悔いが今でも悔いきれません。

《その後の仕事に対する状態》
そんな思いとは裏腹に、以前と状況は変わらずに難しい案件や大きな案件は私のところにまい込んできます。
といっても、自分が営業補佐をしていることや、 お客様へ直接アドバイスを行っている以上、 自分が責任を持つことは当たり前なことですが。

最初から最後までやれる人間は、そう沢山は居ないと思います。
お客様も最初から最後まで面倒見てくれるような人がいれば、 安心すると思います。
でも、一作業者、一設計者、一企画者、と全て一人でやることは 無理があると思うのです。

いわゆるプロジェクトマネージャーとかプロジェクトリーダーとしての位置づけであれば問題ないと思いますが。
一時期、5案件ほど同時進行し、社内のシステム管理や社内教育などもこなしていた時期もありました。

NTTさんと競合となったある総研さんの案件も、相手がNTTさんだからとしり込みしている営業でしたが、
「頑張りましょう」
と決起して案件取得に精をだしたのを覚えています。

見事、案件取得。
もちろん営業さんの多大なる力の結果だと思います。
少しでもお役に立てた、それだけで嬉しかったです。

取得できたけど、一人で全てを行うのは、さすがに参ってきている
頃だったので、自分が作業者および作業責任者になることは 拒んでみました。
技術サイドは出来ない、営業サイドは君(私のことです)がやらないと不安だ、 といいましたが、私が補佐するということで受諾してくれました・・・。

しかし、作業日(土曜日)、夜8時過ぎに携帯電話に連絡が入りました。
「うまく行ってません」
状況を聞くかぎりでは、非常によくない状況です。
リプレイスに 失敗し、ドメイン情報を破壊してしまったとのことです。
リプレイス時のリスクを考慮して、インラインリプレイスメント方式を 私が採用し、社全体に広めたにも関わらず、それを完全に理解 していない社員が作業をしてしまったために起きた問題でした。

結局、翌日朝から現場へ行き、復旧作業を行いました。
本来であれば、技術の上司が現場に来るべきなのに、その方は現場来ないどころか、部下が休日出勤しているのに連絡が全く取れない状況も問題があると思うのですが…。

完全に復旧できる状態ではなかったため、
「復旧できないかもしれない」
「最悪新規にドメインを構築するするかもしれない」
という旨を、謝罪を含めお客様に説明し、作業を続行しました。

月曜日の運用には間に合いましたが、ドメイン情報が完全に復旧できなかった ために、後から障害が発生するようになりました。
本来であれば、その作業者が最後まで、面倒を見るのが妥当ですが、 技術マネージャーの判断で、経緯をよく知る私が、トラブル対応するということになり、私がその後の修復作業を続けて行うことになりました。

このことについては、不満はありませんでしたがまったくのお任せで、報告しても素通りするだけでした。
しかし、私自身まともな判断が出来ていたわけではなく、報告フローのもどかしさと実作業やお客様との連絡状況などなど他の問題との狭間で苛立ちを募らせ、まともな判断が出来なくなって仕舞っていたのも事実です。

しかし、一度でもいいから、一緒に現場に来て貰い、お客様とお話の一つでもしてくれれば、どんなに安心するか。
お客様も安心してくださるように、私も目かけているという安心感が持てます。
それが全くなかったことが非常に残念と思う日々でした。

また、この案件自体、トラブルが発生している以上、一つの失敗として周囲が見ているんではないか、という勝手な悪い妄想もするようになってきました。

《X-4年後半 休みがちな日々》
大きな失敗やBlasterに代表されるようなウイルス蔓延の対応で 徹夜作業をしたり、緊急対応で寄せ集めメンバーで出張したり、兎に角、無茶苦茶な仕事ぶりだったと思います。
任命されて、一人で立案、企画、設計、判断、指示、行動、、、 費用などについては営業に判断を仰ぎましたけど、 それでもほぼ一人で全てをやっていたように思えます。

その頃、よきパートナーであった人が退職。
彼が辞めた理由は、明らかでした。
誰でもその境遇になれば、辞めると思います。
もちろん、私でも辞めていたと思いますし、その要求が通らなければ辞めるという脅しも必要でした。

そして、彼は去っていきました。
とても残念でした。
今でも付き合いはあるものの、でも一緒に仕事をしてきたという何ものにも変えられないこの思いは、帰ってきません。

そして、思いを寄せていた彼女も退職。
自分のやりたいことが出来る会社に行くとのこと。
でも、退職は退職。
キッカケは、大体分かっていましたが。。。
やはり、一緒に一つのプロジェクトを成し得た仲である友が辞めていくのは、精神的に辛いです。

次第に、体調がまた不安定になってきました。
下痢便秘を繰り返す。微熱が2週間以上続く。

休みがちな日々が続き、ある案件がキッカケになり、それまでの勤怠怠慢に終止符を打つように営業マネージャーに叱られました。

お客様のところへ10時に行く予定でしたが、体調が悪く遅刻しました。お客様には、事前に遅れる旨を連絡しましたが、お客様のところに到着したのは11時です。
実は、前の日に急遽現場へ出向させられ、事案について何も説明もなく再度お客様に内容を聞きながら、夜11時位まで作業をしていました。
この私の対応を見かねたお客様の社長がお怒りになり、その件も含めあることでお客様から延々3時間ほど叱られていました。

あることとは・・・。
本来プロジェクトとして、立ち上げた事案であるにも関わらず、一つの作業を一つずつの案件として処理していたこと。
本来の目的を無視し、プロジェクトのゴールが見えないこと。など。
私はこの案件がプロジェクトであったことさえ知りませんでした。

そして、お客様には怒られ、お客様の本国ITスタッフには、英語で話かけられ何とか理解しながら、夜11時近くまで作業を遂行してました。
そして、遅刻しました。 (お客様の場所へは、自宅から2時間ほど掛かる遠方です)

そんな中、社内システムを管理する上で、どうしても休日中に行う必要なものが発生しました。
これは上司に相談して、物事を進めるべきでしたのに、基本的なことを忘れて、休日出勤し、社内システムのサーバ作業を行ってしまいました。
また、誤って経理アカウントを削除してしまったり、行動といい、考察といい、システム管理者そして、社会人として欠ける部分が多くなっていきました。

落ち着いたころ、マネージャーよりリーダー失格のラベリングをされ
「キミはもういらん、キミのことなんか、もう知らないからな!」
と肩を叩かれました。

この一瞬で、この会社での自分は終わったと感じました。
リーダー降格人事です。

《X-3年4月 うつ状態》.
リーダー降格して、気落ちしていましたが、リーダー職としてやらなければならないことがなくなったためか、気がとても楽になりました。
周囲の目や自信喪失など、気になることは沢山ありましたけど、比較的仕事も順調に進んでいました。

単にリーダー降格だけなら良かったのですが、いままで部下であった方がリーダー昇格。
社長に気に入られていたことを嫉みに思っていたのか、分かりませんがその方が昇格したあと、必要以上に勤怠について、毎日怒られていました。そんな状況で精神的に上手くいくなんて思っていましたし、
お互いを険悪に思うのは当然と思ってました。

そして、体調は悪化する一方です。
社長や上司の勧めもあり、人間ドックへ行ってみました。

人間ドック ・・・ 異常なし(肝臓に少々脂肪有)
脳ドック ・・・ 異常なし(20代前半の脳組織)

異常はないのだけれども、体調はすこぶる悪い。
以前から悪い方向に物事を考える癖がありましたが、次第にその癖が強くなり・・・

「自分はダメ人間だ」
「上司は自分をダメ人間だと思ってるはずだ」
「周囲の皆は、私を要らないと思ってる」

リーダーから言われることは、仕事のことでなく全てにおいて勤怠のことだけ。
もちろん、私自身、勤怠が酷く悪い状態でありましたし、 言われるのは当然なことでしょう。 リーダーも頭の痛い問題だったことだと思います。

あまりにも調子が悪く、休みがちであったけど、それでも信頼してくれる部下や同僚はいました。
社内においても、直属の上司には相談せず、私に相談してくる部下や同僚は、リーダー職についていたときと変わらずに接してきます。

組織的には、部署をまたがって直接私に相談したり、アドバイスを要求すること自体、面白くないと感じている上司も居たでしょう。

そういった状況が、私の唯一の支えになっていました。
堕ちた私でも、まだ信頼してくれる仲間がいる。
これが私が出来る唯一の仕事でした。

ところが、その状況を面白くないと思ったかどうか、定かではないですが組織的にうまくないということで、私に直接相談することが禁止されるようになりました。 私に相談する前に、私の上司に声を掛けてから・・・と。

私は、そういう状況になってしまったことが、とても悲しかったです。
自分が!というよりは、相談をしたい彼らは、手段がなかったり手法が分からなかったり、八方塞になって相談しに来るわけです。
にも関わらず、組織的な都合でそのようになりました。

彼ら上司は、解決することや正確なアドバイスをすることはなく、 仕舞いには、
「なんでそんなことになったの?」と問いただすだけ。

そんな状況では、誰も相談したくなくなります。
事前に案件について、報告があり、その中で相談というのであれば納得がいくようでしょうが、実際全ての案件について、その都度報告をしていくとは限りません。

そうでない場合に、「なんで?」という問いただしでなく、
「そういう案件もあったなぁ」という感じで、把握してもらえればすんなりと物事が進みような気もするのですが。

相談や閃きなど、発想や一瞬の事々が重要な行動が全て組織的フロー化されてしまったので、一般社員たちが相談しづらくなり社内の空気が悪くなってきました。
それでも、どうしても相談しないと先に進めない方たちは、 このフローを利用して、相談するアプローチをしてきますが、 私のところに相談のフローが流れてくる時に完全に把握した状態で、 上司が説明をしてくれればよいものの、 結局相談者が一から私に説明をする有様でした。

そして、相談という事柄以外にも、妙な組織意識が介入し、 私が関係する案件すべてに、必ず上司が首をつっこむように なりました。
もちろん、それは私が休みがちであったからです。

しかし、しっかりと受け止めて会議に参加してくれればよいものの、茶化すだけで、その会議が長引くことが多々ありました。
会議内容には直接関係なく、
「君が休みがちだから、わざわざこの俺が会議に出席してるんだ」
などと言う始末です。

そんなことが続くと、上司に対する不満が強くなり、それがストレスとなり、体調不良を引き起こし、休みがちという悪循環。
自分の悪いところを、都合のよい様に解釈したり、責任の転換をしてしまったり。

態度として出さなくとも、自然と表情として出てしまったり、勤怠が悪いという問題児である、ということから、 私のことをイヤな奴だと思っているのではないか。

そんな勝手な妄想で、そのリーダーと険悪な雰囲気になり、次第に、私に対する接し方が変わってきたと思います。

そういう状況下で、今度は帯状疱疹を再び発症。
今回は腕に疱疹ができ発熱し、1週間ほど欠勤。
医者からはストレス性なものです、と言われました。

もうこうなってくると、泥沼です。
陥入爪にもなり、局所手術をしたり、、、

『病は気から、気は病から』

その両方から来る悪循環でどんどん深みに入っていきます。
益々休みがちになりました。
8月初頭で既に有給休暇はゼロになり、代休もゼロ。
欠勤という扱いで休むことが増えてきました。

上司にこんなことを言われました。

1.居ないと困る人間
2.居なくてもなんとかなる人間
3.居なくても困らない(要らない)人間

1だった人が2になって、3になるなんて、
お互いに不幸ではありませんか?

ショックでした。
遠まわしですが、君は要らないと宣告されました。
私の今までの経緯からすれば当然のことでしょう。
物事だけでなく、人間自体を悪いほうにしか考えられなくなっていました。

そして、休みがちな最中、祖母が他界しました。
そのことを報告し、

「休みがちですが、御休みを頂きたいのですが・・・」
と申したけど、素気なくあしらわれてしましました。
私が休む嘘を付いたとでも言う感じに。
もう、立ち直れません。
嫌疑をかけられ、嫌忌されるような状態は耐えられなくなりました。

自分は要らない。死にたいって本気に思ってました。
でも死ねない。そういう葛藤が一人になったとき、頭の中を駆け巡り睡眠時に、眠ることができない、思うことは、ただ死んでしまいたい。
という状況が続きました。

ただ、少しはこのままじゃダメだということは認識していました。

精神科に行くことにしました。
そして、うつ病と診断。

医者には
「まだ良い方だよ、自分で通院できるから」
と言われましたが、あのときの辛さは、なってみない分からないですね。

自分も自分がなる前は、鬱なんて、ただの怠けではないのか?
と思っていましたが、そんな単純なものではないですね。

X-3年9月から、3ヶ月の休職願いを出し、自宅療養と薬治療。

ミラドール錠50 朝1/昼1/夕1錠
アモキサンカプセル10mg 朝1/昼1/夕1錠
ハルシオン0.25mg 寝る前1錠
デパス錠1mg 寝る前1錠

最初はトレドミンという抗うつ薬を2週間くらい飲んでいました。

会社側は、当初「大したことない」と考えていたようですが、私が休職した後、他の社員で「パニック障害」や「軽鬱」になることが 多数発生し、事態を重くみるようになり、組合保険の給付金を支給してくれるようになりました。

《X-1年 4月》
給付金の支給期間が1年6ヶ月。
4月を最後に支給が終わりを告げていましたが、大分落ち着いてきまして会社へ行く意欲も湧いてきました。

この頃の服用薬は、

ミラドール錠50 朝1/夕1錠
アモキサンカプセル10mg 朝1/夕1錠
ハルシオン0.25mg 寝る前1錠
デパス錠1mg 寝る前1錠

会社の社労士と相談して、ゴールデンウィーク明けの6月からリハビリ出社をすることになりました。最初は、気が向いたら出社。

2週目あたりから慣れも出来てまして
・週に1度、木曜日に出社
・週に2度、火曜日、木曜日に出社
・週に3度、火曜日、水曜日、木曜日に出社

と、順々に増やしていき、4ヶ月ほど続けていました。
しかし、夜睡眠薬を服用し、睡眠に入っても、すぐに目覚めてしまう状況から服用薬を以下のように変更

ハルシオン0.25mg 寝る前1錠 ⇒ ユーロジン2mg 1錠

そんな中、父が胸膿と心臓肥大で入院。
看病は母が行っていましたが、自分自身はそれで気落ちしたのか出社が週1度に落ち込んでしまいました。

というものの、総合病院で副院長が出て、

「手術の必要がある」
「膿が溜まりすぎて、それを取り除かない限り、なんともいえない」
と少し良くない状況でした。
折角、自分の体調がよくなってきたのに、家族で辛い思いをしないとはと、ほとほと辛くなり、気が気でない日々が再発です。

《X-1年 10月》
少し無理が出たのか、私自身、10年前ほどに発症したアナフィラキーショックを再び経験しました。
食事によるものでしたが、夕食後、お腹に激痛が走りまして、そのときは、単に食あたりかと思っていましたが、2時間ほど経ったあと全身じんま疹。

口内や鼻腔にもじんま疹が発症し、息苦しさを感じるように。
そして、10年前に発症したときのことを思い出し、
「これは今すぐ病院へ行かなくては」
と思いましたが、そのまま倒れこんでしまいました。
救急車で運ばれ、到着時の血圧は上50。
もはや、死んでいる状態だったと思います。
運ばれた病院では、その症状を理解できず、単にじんま疹を抑える薬物と血中水分を増やす点滴をするだけの処置でした。

後に、2度も同じようなことを発症したので、自身でこの症状を調べアナフィラキシーショックであることが分かり、専門医院に掛かりつけることになったわけですが。

アナフィラキーショックになり、専門医からは
「血圧降下を抑える注射器があるので、これを常時携帯しなさい」
と言われ、食べるものも抑制せざる得なくなりましたことがとてもショックでした。そして何も食べたくない日々が1週間ほど続きました。
それに、折角鬱から回復し、自殺まで考えたことから一転して今度は死がまとわり付いた自身になってしまったことが…。

精神科の医者にも、この話をしましたが、このような状況になれば誰でもショックを受けます。
ましてや、あなたのように、鬱の回復傾向時に発症すれば尚のこと、鬱が再発しやすいでしょう。
と言われました。

しかし、返ってこれが自分自身の生きる自信になったかと思っています。
そのように気持ちの入れ替えが出来るようなったことは良くなっていることなのでしょう。 (医者も言ってました)

《X年 1月》
私と父の病で、今度は母が帯状疱疹発症。
かなりストレスを溜め込んでしまったのかと思います。

この頃の服用薬は、

ミラドール錠50 朝1錠
アモキサンカプセル10mg 朝1錠
ユーロジン2mg 寝る前1錠
デパス錠1mg 寝る前1錠

《X年 2月》
自身の身体も精神も落ち着き、母の帯状疱疹も治り父の病状も改善し、家庭内に明るくなってきました。

いままで、仕事一本であり仕事上の資格を取得しようとする目標ばかりでしたが、自分のための趣味の資格を取ろうと思い立つ様になってきました。
もともと、度胸が無いので、自動二輪の免許を取得し、度胸をつけようと思い立ち・・・、免許を取得。

《X年 3月》
仕事以外の楽しみを増やしていくようになってきました。
会社へは、以前のようにリハビリ出社を再開し、

週2回:火曜日、木曜日 11時出社

という形式で、今は辛い/不安 という要素がなくなりました。
現在は、色々なことにチャレンジしようという気力/気持ちが強くなり
医者もよくなったね。と言ってくれるようになりました。

現在の服用薬は、

ユーロジン2mg 寝る前1錠
デパス錠1mg 寝る前1錠/頓服で1錠

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今思えば、うつ病と診断される前からうつ状態であって、
(医者もそのように言っていました)
そのためか、長い間蓄積された病気が中々抜けていかないような気がします。

人それぞれ、発症する原因や環境は違うと思いますが、潜在的にうつになっているにも関わらず、病院へいけず、 というよりは、私自身もそうでしたが、精神科へ行くというのが恐ろしく感じることもあってか、放置される方が多いかと思っています。

原因となるモノが、多種多様になっているため、私も「コレが原因」と言い切れるものはありませんが、悩んでいる人たちが少しでも参考になれば、と思い経緯をお話しました。

 

林: 非常に詳細かつ具体的に経過をご報告いただきありがとうございました。多くの方々に参考になると思います。
なお、あなたの診断はうつ病ではなく躁うつ病(双極性障害)だと思います。今後、うつの再発だけでなく、躁状態の出現にも注意すべきだと思います。

(2015.11.5.)

05. 11月 2015 by Hayashi
カテゴリー: うつ病, 精神科Q&A, 躁うつ病