「うつ」は病気か甘えか。 村松太郎 著  幻冬舎 2014年

これは、うつ病の本である。一般向けの本としては、現代における決定版ともいえる、うつ病の本である。
「病気か甘えか」というタイトル、そして扇情的なカバー、さらには帯に記された挑発的なキャッチ。こうしたものに惑わされてはいけない。「病気か甘えか」とタイトルするからには、「甘えだ」という答えが書かれているのではないかと予想しがちだが、それはぜんぜん違うことは、最初の1ページを読んだだけでわかる。
その前にタイトルをもう一度よく見てみよう。「うつ」とカギ括弧がつけられている。
「うつ」は病気か甘えか。
これがタイトルだ。
「うつ病」は病気か甘えか。
ではない。うつ病は病気だ。甘えであるはずがない。それは本書の最初から、そして最後まで、すべてを通して一貫して揺るがず明記されている。
ではなぜ
「うつ」は病気か甘えか。
という、挑発的なタイトルになっているのか。
それは第7章、ストップ・ザ・ドクターストップ の最後、うつ病という記号 と題されたセクションのこの一文に凝縮されている。(p.241)

診断書に記された「うつ病」という文字は、今や、病気も病気未満のものも含んだ記号と化しているからだ。

現代の日本で「うつ病」と呼ばれているものの中には、もちろん真のうつ病も含まれているが、そのほか多種多様、雑多なものが含まれている。うつ病以外の病気も含まれている。病気でないものも含まれている。甘えも含まれている。それらを擬態うつ病と呼んでもいい。呼び方が問題なのではない。真のうつ病以外のものがあまりにたくさん含まれているため、診断や治療までもがばらばらになり、病に苦しむ人々が、一体どの情報を信頼していいのかわからなくなってしまっていることが問題なのである。だから、繰り返す。

診断書に記された「うつ病」という文字は、今や、病気も病気未満のものも含んだ記号と化している

うつ病という概念の混乱。現代日本における、うつ病をめぐる最大で最重要の問題を精密に、かつ幅広く分析しつつ、一方でうつ病という病気の本質を明快に示した、現代のうつ病の本の決定版が
「うつ」は病気か甘えか。
である。

出版社のHPに掲載された著者と齋藤環医師との対談からも、本書の特長がありありと見て取れる。

http://www.gentosha.jp/articles/-/2010(前篇)

http://www.gentosha.jp/articles/-/2011   (後篇)

 

各章にちりばめられているキーワードともいうべき印象的な言葉にそって、本書の内容を紹介していきたいと思う。(本書の目次は本稿の末尾に示す)

 

第1章 その人はうつ病かただの甘えか —- 「甘えの診断基準」

「甘えの診断基準」

章のサブタイトルにもなっているこの言葉は、著者ではないある医師が作ったとされる私製の診断基準である。これは、A. 特権への安住と自己主張、 B. 未熟な性格、 C. 病気とは思えない、人の神経を逆撫でする言動 という三つの大項目から成り、それぞれに具体的な小項目が記されている。(たとえばA.としては、「うつ病について理解がないと人を責めることが多い」など)

精神科Q&Aの実例でいえば、【0200】 産業医から見た擬態うつ病【0406】休職して遊びまわっている部下は擬態うつ病でしょうか【1460】何かといえばうつ病をタテにとる社員は擬態うつ病でしょうか【1960】うつ病の部下が職場復帰したが、対応に困り果てている などが、まさに「甘えの診断基準」を満たすケースであるといえよう。

しかしその一方、たとえ甘えのように見えても、【1476】社員が通院について嘘をついているなどのことから、擬態うつ病ではないかと疑っています【2144】毎日しっかり出勤しているのに、うつ病を理由に異動を拒否する同僚‏ などのように、うつ病の可能性が十分に残るケースもあり、「甘えの診断基準」を満たすからといって、即「それは甘えだ」と決めつけるのは非常に危険である。

「甘えの診断基準」は私製のものだが、うつ病については公式の診断基準がある。ではある人が「甘えの診断基準」と「うつ病の診断基準」の両方を満たしたら、診断はどうなるか。うつ病の診断基準は公式だから「甘えの診断基準」より信頼できる、と言ったとすれば、それはそれで正論だが、しかしこれでは権威に頼っているだけだ。世の中には「うつ病なんか甘えだ」と誤解している人も多い。たとえ公言しなくても、心の中ではそう思っている人は相当な数にのぼると思われる。現に単なる甘えなのに「うつ」とか「うつ病」とかとされているケースがある以上、「うつ病なんか甘えだ」と言う人を、「病気に理解がない人」と決めつけても、何の解決にもなるまい。そこで『「うつ」は病気か甘えか。』という検討が開始されるのである。

 

第2章 「私はうつです」はうつ病? — 主観至上主義

「主観至上主義」「間抜け診断学」

「間抜けでない診断学」とは、次のようなものである:

患者の話を聴く

診察をする

検査をする

診断確定

「患者の話を聴く」のは、診断学の中でとても重要なワンステップだ。患者の話を聴かない医師に診断はできない。
だが逆に、話を聴くだけでは診断はできない。たとえばインフルエンザの診断であれば、まず患者の自覚症状をよく聴く。よく聴いた結果、インフルエンザの可能性ありと判断されれば、喉を診たり聴診で呼吸音を聴くなどの診察をする。そしてインフルエンザの検査をする。これらを総合して診断が確定する。
だから「話を聴く」のは、それに続いて行なう診察・検査で効率良く行なうためであって、話だけで魔法のように診断しようといっているのではない。占いじゃないんだから。
 と、ここまでは内科や小児科などの診断の話である。
(太字は 「うつ」は病気か甘えか。 からの引用。P.35)

精神科の診断は、こうなる。

患者の話を聴く


診断確定

つまり、精神科の診断は「患者の話を聴く」から「診断確定」をつなぐ、「診察」「検査」という要素が、「間」が、抜けている。こういう事情を揶揄しているのが「間抜け診断学」という言葉である。(だから「間抜け」の「間」は「あいだ」と読む。「ま」と読むのではない)
そして、「間抜け診断学」による診断とは、患者が訴える症状だけが根拠になるわけだから、「主観至上主義」ということになる。これが本書第2章 「私はうつです」はうつ病? — 主観至上主義 という章題の意味である。

「間抜け診断学」「主観至上主義」は、どちらも誇張された表現だが、それでも精神科診断学についての一面の真理である。そしてこの診断学には長所も短所もある。短所は、本当は病気でないのに自分は病気だと主張する人に対して、「あなたは病気ではない」と明言することができないこと。長所は、本当に症状があって苦しんでいる人に対して、「検査が正常だから、あなたは病気でない」と冷たく突き放すことがあり得ないこと。

だが真の精神科診断学は、決して「間抜け」でもなければ「主観至上主義」でもない。うつ病の診断とは、単に主観的訴えをチェックしていくものではないことが、この章の最後に実例とともに解説されている。第2章の章題である「私はうつです」はうつ病? への答えは、「いいえ、違います」であることが章の最後に示されているのだ。「うつ病の診断は、主観的訴えだけに基づいて下されるのではない」がこの章のメッセージであると言えよう。

 

第3章 「ストレスですね」にハズレなし

「ストレス神話」

現代に蔓延する「ストレス神話」の欺瞞を暴く章である。
こころの病の原因は何か。それは現代においても明快に答えることはできない問いである。もっとも、単純化すれば明快に答えることはできる。原因は、本人の内部と外部にある。このうち、外部にあるものがストレス(用語を正確に使えば「ストレッサー」だが、一般にはストレッサーのことはストレスと呼ばれているのでここではそれを採用する)である。しかし、原因としてのストレスの占める重さは、病気の種類によって異なる。ところが現代の日本では、何もかもがストレスで発症するかのように信じられているところがある。これは、中世において、何もかもが悪魔やオカルトで説明されているのと同じような状況である。本書から引用する(p.76):

そして中世の悪魔やオカルトという風潮は、現代ではストレス社会という風潮に置き換えられている。時代時代の風潮。全会一致的風潮。それはその時代の人々の心理的な構えのようなもので、条件反射的に納得しやすいのである。
そして人は風潮という追い風に乗って、楽な方向に流れてゆく。医者も人だから風下に流れてゆく。ストレスで何でも説明するのは科学的にはどうかなあでもそう説明すれば皆あっさり納得するしなあ間違いだと説明してもわかってもらうのは大変だしなあと漂う心は、だんだん風下に流れてゆく。社会がストレスとうつ病の因果関係を受け入れているのだから、その説明でまあいいか。と結局は風下に漂着する。

これがストレス神話。章題の 「ストレスですね」にハズレなし という言葉の通り、ストレスが全く関係ない病はないと言えるから、病気の原因について「ストレスですね」という説明に「ハズレ」はない。だが、ストレス以外の原因(特に本人の内部にある原因)のほうがはるかに大きい病気が、精神科にはたくさんある。それらも十把一絡げにして、原因としてストレスを重視するのはひどい誤りである。今年、企業におけるストレスチェックが法制化されたが、そこには「メンタルヘルスの問題 = ストレスが原因」というストレス神話、もっとはっきり言えば無節操で浅薄な考え方がある。そしてストレス神話は、うつ病をはじめとする精神科の疾患への正しい対応を妨げるという大きなマイナスがある。本章はこの問題を論じたものである。

 

第4章 どっちもカンタン、ニセ医者・ニセ患者  ただし禁断

「ニセ医者」

ニセの精神科医のやり方指南が、懇切丁寧に書かれている。ニセ患者については最後に、

ニセ患者は、医療の姿について真剣に考える医師にかかるのは避けたほうがいい。それがニセ患者への唯一の「してはならないこと」になるのかもしれない。

と結ばれている。

この章の「ニセの精神科医のやり方」の内容は、そのまま、「精神科のヤブ医者とは」が記されていると読むべきであろう。本書の記載内容のいくつかと並べて、本書には記されていない「真の精神科医」の姿を示してみよう。


ニセ医者(実はヤブ医者についての描写):
薬を期待して来た人には薬を。検査を期待して来た人には検査を。休職の診断書を期待して来た人には休職の診断書を。

真の医者:
患者の要求にそのままこたえるのが適切とは限らない。要求は要求として傾聴したうえで、患者にとって最善の対応を呈示する。

上記ニセ医者の描写は、「患者中心(それらしく)」という小見出しがつけられているページのものである。確かに患者の要求をそのままききいれることを患者中心と考える人も多いのは事実である。たとえば【0356】医者が出社を勧めます。病院を変えるべきでしょうか。のように考える人は少なくない。


ニセ医者(実はヤブ医者についての描写):
うつ病を患者に説明する時は、ストレス神話を忘れてはならない。今や日本は社会をあげてストレス神話の定着を誘導しているのだから、これを活用しない手はない。人に物事を説明するとき、まず聞く耳を持ってもらうことが最大の難関だが、ストレスを使って説明すれば、社会の風潮によってそれがクリアされているのだから、こんなにやりやすいことは他になかなかない。ストレスを犯人にすれば、戦争中に敵国を非難するのと同じくらい簡単に賛同を得ることができる。「ストレスですね」にハズレなし。ストレスという言葉を使えば、抵抗なくスムーズに理解してもらえる。

真の医者:
社会の風潮に迎合せず、正しい説明を示す。

上記ニセ医者の描写は、「説明する(それらしく)」という小見出しがつけられているページのものである。「患者にとってわかりやすい説明。納得できる説明」が、医師から患者への良い説明であると考える人が多いのも事実であるが、「わかりやすさ」や「納得度」は、正しさとは無関係である。たとえば【0168】 うつ病だと思っていたのに、人格障害だと言われて憤慨しています のようなケースでは、医師の説明は正しいと思われるが、患者は全く納得していない。精神科の臨床ではこのようなことが多いので、説明には高度な技術を要する。(精神科Q&Aは医療相談ではなく事実を回答するものであるから、質問者の納得度は一切考慮していない。この点で臨床における説明とは全く異質のものである)


ニセ医者(実はヤブ医者についての描写):
精神科の診断は、主観至上主義を採用する限り容易だ。しかしまあ、患者が自分がうつ病かもと言っているからといって、即じゃあうつ病ですねと診断したら、かえって不信感を持たれる。主観を裏づける医学的武装が必要だ。それには診断基準を使えばいい。うつ病の診断基準には「不眠」「抑うつ」などの項目が列記されている。これをチェックしていけばいい。本当は基準の項目の一つ一つの判定に高度な専門技術を要するのだが、そんなことは素人にはわからないから、気にする必要はない。

真の医者:
診断基準を使うからには正しく使う。さらにそれに加えて、診断基準の記載を超えた診断を重ねる。

上記ニセ医者の描写は、「診断する(それらしく)」という小見出しがつけられているページのものである。真の医者の精神科診断については、うつ病を例に説明した うつ病の聖杯を参照。

 

第5章    裁かれるうつ病  裁判所はうつ病をどう診断したか

「電通事件」
電通事件は、過重な労働の結果うつ病にかかり自殺したケースの裁判事例として、我が国で最も有名な判例である。
この判例の最大の意義は、自殺の責任(の、少なくとも一端)は、会社にあると判示されたことである。
電通事件より前は、自殺はすべて自己責任であった。自殺の原因が何であれ、最終的には自分の意思で自殺を決定するのだから、責任は本人にある。それが裁判における鉄則ともいえるルールであった。ところがここに、「うつ病」という概念が導入されることにより、「自己責任でない自殺」というものが認められことになった。うつ病による自殺は、もはや本人の自由意思の範囲外の行為になる。これが電通裁判で示された判断である。すると、その「うつ病」の原因が過重労働をさせた会社にあれば、彼の自殺の責任の一端は会社にあるという論理が導かれることになるのである。
電通裁判もたらしたもの。その最大のものは、無茶な過重労働の抑制である。過重労働の結果うつ病になり自殺すれば、雇用者は法的に責任を問われるからである。自殺だけではなく、うつ病になったことによる本人の損失についてもやはり雇用者が責任を問われることになるというのも、電通裁判からの論理的帰結の一つである。訴訟リスクは過重労働の強い抑制力になったのである。
但し電通裁判のもたらしたものはこのようなプラスだけではない。訴訟リスクにはマイナスな面も多々ある。うつ病、またはうつ病の疑いのある社員に対して、会社は腰が引けた対応しかできなくなったきた。それはマイナスなのか? うつ病の人の立場に立てば、決してマイナスではない。だが、擬態うつ病を考えるとどうか。これに関連したこととして現代の日本の職場には、【2144】毎日しっかり出勤しているのに、うつ病を理由に異動を拒否する同僚‏

【1962】自分勝手で被害者意識が強い部下を産業医はうつ病と診断したが・・・ 、【1960】うつ病の部下が職場復帰したが、対応に困り果てている【0200】 産業医から見た擬態うつ病  のような多数の問題が発生し、周囲の人々が対応に苦慮するという状況になっている。
電通事件は「過重な労働の結果うつ病にかかり自殺したケースの裁判事例」と先にご紹介した。この表現は本書からそのまま取ったものだが、原文は次のようになっている:

(電通事件は)「過重な労働の結果うつ病にかかり自殺したケースの裁判事例」として知られている。
するとこれは、過重な労働の結果うつ病にかかり自殺したケースの裁判事例なのであろう。
と誰もが予想するであろうが、公表されている裁判の記録を読むと、そう単純に片付けられないことがわかる。

そして、裁判の記録を読み解くことによって、現代の「うつ病」概念が論じられているのが、この第5章 裁かれるうつ病 である。

(キーワード解説の続きは後日書きます)

 

 

本書の目次は次の通り。目次だけを順に追って読むだけでも、うつ病問題の本質が見えてくる。

はじめに 「うつ」は病気か甘えか?

第1章 その人はうつ病かただの甘えか
—– 「甘えの診断基準」
「病気」に甘える人々
パパやママがいないと働けない人々
人をイラだたせる人々
「うつ」に対する「困惑期」、そして「嫌悪期」

第2章 「私はうつです」はうつ病?
—– 主観至上主義
精神科診断学の長所と短所
間抜け診断学の長所
主観市場主義診断
抗うつ薬バブル
心の病は、きりがない
なぜ「うつ病」だけが心の「病」なのか
真のうつ病とは

第3章 「ストレスですね」にハズレなし
—– ストレス神話
「ストレス社会」という風潮
心因性と内因性のカオス
魔女狩り的原因探し
偏見の解消
抗うつ薬は誰のためか
究極の誘導とは

第4章 どっちもカンタン、ニセ医者・ニセ患者
—– 但し、禁断
聴く(それらしく)
患者中心(それらしく)
治療する(それらしく)
説明する(それらしく)
診断する(それらしく)
権威づける(適度に)
で、ニセ医者

第5章 裁かれるうつ病
—– 裁判所はうつ病をどう診断したか
電通事件 その1 東京地方裁判所
電通事件 その2 東京高等裁判所
電通事件の顛末
何が彼を自殺させたか
結果論診断としてのうつ病
スペードのエースの誕生
うつ病の診断書は無敵のカード?

第6章 はたして、「うつ」は病気か甘えか
ヒポクラテスバイアス
ハンマーバイアス
ひきこもりは病気か社会風潮か
結果論診断禁止
「甘え」の絶滅
メンタルヘルス不調とは

第7章 ストップ・ザ・ドクターストップ
精神疾患は増えたか
医療化
医療化の暴走
うつ病という記号

終章 あなたは「うつ」をどう読み解くか
—– うつ病講義ノートより「症例JE」
症例JE 66歳 男 文芸評論家 (1932-1999)
問1 諒とするか
問2 自殺の理由は何か
問3 ストレスに耐えかねての自殺と、うつ病による自殺は、どこが違うのか
心因性?
内因性?
器質因性?
精神科診断学の究極の弱点

解題「うつ」は病気か甘えか

(2014.8.5./2015.2.5.)

04. 8月 2014 by Hayashi
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