砂の女
ふと思い立って、安部公房『砂の女』の英訳本を読んでみた。
The Woman in the Dunes
Kobo Abe
translated by E. Dale Saunders
Vintage Books New York 1964/1992
1
「自分探し」という言葉が一般的になったのはいつごろのことだったろうか。たぶん平成だろう。昭和ということはない。少なくとも昭和37年ということはない。『砂の女』は昭和37年の作品である。そしてこの作品は、「自分探し」の元祖といえるのではないかと私は思っている。もっとも、昭和37年より前のことを調べてみたわけではないので、いい加減な思い込みではあるが。
作品冒頭の一行はこうだ。
(安部公房 『砂の女』 新潮文庫 昭和56年/平成19年 p.5)
八月のある日、男が一人、行方不明となった。
p.3
One day in August a man disappeared.
主人公は理科の教師だ。休日に昆虫採集に出かけ、そのまま行方不明となる。作品の終わりはその7年後。家庭裁判所が彼を失踪者と認定した審判を記した公文書で結ばれている。
冒頭の一行からの数行後、ストレートな、しかし作品を俯瞰する意味深長な一文が来る。
p.5
多くの失踪が、どうやらその純粋な逃亡のケースに該当しているらしいのである。
p.3
Many disappearance, for example, may be described as simple escape.
逃亡。escape。日常生活から脱走し、自分探しの旅に出る。いや違う、この作品はそういう話ではない。彼は日常から脱走する気などさらさらなかった。休日が終われば帰って来るつもりだった。確かに彼の日常は嫌気のさすものだった。退屈で灰色の同僚。傷つけあうだけの関係の女。同じことの繰り返し。だが彼はそんな日常を捨てるつもりは全くなかった。だが彼はそんな日常を捨てることを強制された。強制の象徴が「砂」だ。砂の恐ろしさは、たとえば次のように描写されている。
p.17
地上に、風や流れがある以上、砂地の形成は、避けがたいものかもしれない。風が吹き、川が流れ、海が波うっているかぎり、砂はつぎつぎと土壌の中からうみだされ、まるで生き物のように、ところきらわず這ってまわるのだ。砂は決して休まない。静かに、しかし確実に、地表を犯し、亡ぼしていく・・・
p.14
Because winds and water currents flow over the land, the formation of sand is unavoidable. As long as the winds blew, the rivers flowed, and the seas stirred, sand would be born grain by grain from the earth, and like a living being it would creep everywhere. The sands never rested. Gently but surely they invaded and destroyed the surface of the earth.
彼に強制的に日常を捨てさせた象徴が「砂」。もう一つの象徴はそこに棲む「女」だ。作品のタイトルは最大限ともいえるシンプルなものだ。『砂の女』。「砂」と「女」はわかる。では「の」は何か? この「の」の意味は難解である。そう感じたのは英訳本のタイトルが
The Women in the Dunes
であることを知ったことによる。この作品のタイトルは『砂の女』でなければならないのだが、英語では「砂丘の中の女」と訳されている。Dunesでは不満で、Sandという単語がタイトルには入っていなければならない。という指摘は正当だと思うのだが、こう訳すしかなかったのであろう。『砂の女』の『の』を英語に訳すのは無理な話だ、仕方がない。
2
彼の「自分探し」は、彼の意図に反して開始される。砂の穴の底に沈んだ家と女。姦計によってその空間にとじこめられる。彼の脱出を阻むのは、砂であり、村人たちの悪意である。
p.25
疲労が眼の奥で、淡い光の点になって、飛びまわる。
p.21
His fatigue brought faint spots of light dancing on his retina.
安部公房の作品は、もちろん作品全体としてはじめて成立しているが、分断して個々の文章を取り出してみた場合も独特な表現が多数みられる。それらがどのように訳されているか興味深いところである。上の引用文、「疲労」は眼の「奥」にあることがポイントだが、英訳では on his retina となっている。また、原文はあくまでも「疲労」が「淡い光の点に」、「なって」であり、「疲労」=「淡い光の点」に置き換えられることもこの短文のポイントだが、英文は “His fatigue” “brought” “faint spots” と、平凡な表現になっている。「眼の奥」が訳出されていないこととあわせ、原文の安部公房らしさは失われていると言わざるを得ない。
p.61
うつぶせになった、裸の女の、後ろ姿は、ひどくみだらで、けものじみていた。子宮をつかんで、裏返しにでも出来そうだ。
p.53
The sight of her naked back was indecent and animal-like. She looked as though she could be flipped over just by bringing his hand up her crotch.
残念ながらこの訳文もまた不満である。ここでのポイントは「子宮をつかんで」であって、単に女を裏返しにするのではなく、「子宮をつかんで、裏返しにでも出来そうだ」と書かれてはじめて安部公房の文になるのだが、by bringing his hand up her crotch(股をつかんで)では、女を物理的にひっくり返すさまの表現にすぎず、原文の雰囲気を読み取ることは出来ない。
p.67
やはり女は答えない。水に沈む石のはやさで、またあの受身な沈黙に戻ってしまったのだ。
p.58
But she made no answer. She again fell into her passive silence as quickly as a stone sinks into water.
これは良訳。だがこの文を訳すのは簡単か。それとも自然な訳文を見ると簡単に見えるだけで、実は高度な訳なのだろうか。
p.50
錆びたブランコをゆするような、ニワトリの声で、目をさました。
p.43
He was awakened by a cock’s crow, like the creaking of a rusty swing.
誠実な訳である。
ニワトリの声についての比喩は他の箇所にも見られる。
p.89
牛の喉に、ブリキの笛をおしこんだような音をたてて、何処かでニワトリが鳴いた。
p.82
Somewhere a cock crowed and a bull lowed shrilly.
これは誤訳だ。というより、いい加減に訳したとしか思えない。原文はニワトリの声についての比喩であるのに対し、訳文はニワトリと牛がそれぞれ鳴いている。これはちょっとひどい。
p.89
そう言えば、米の炊けるにおいにも、夜明けの色がまじりかけている。
p.82
The colors of dawn were beginning to mingle with the fragrance of cooking rice.
嗅覚と視覚が混合された、安部公房が比較的よく用いる感覚横断的な表現。感覚横断的な部分については正確に訳されているが、この一文の主役は「米の炊けるにおい」なのだから、The colors of dawn を主語にするのは原文のポイントを外しているように思う。しかし、そもそも日本人が「米の炊けるにおい」という言葉で連想する香りを、西欧の読者は感じ取れないであろうから、たとえ fragrance of cooking riceを主語にしても、原文の雰囲気は伝わらないかもしれないが。
p.100
女のさそいは、結局、甘い蜜の香りをよそおった、食肉植物の罠にすぎなかったのかもしれない。
P.91
Her charms were like some meat-eating plant, purposely equipped with the smell of sweet honey.
砂についての描写、女についての描写は作品中にいくつもある。これは女についての描写の一つ。
p.119
ただ無言の囁きが、煙のように、ただよっているだけだ。それが、敵意であるのか、それとも笑いをこらえた嘲りであるのかも、判断がつかず、ますます耐えがたく、男を追いつめる。
p.107
There was no response. Only a silent murmuring drifted over him like smoke. It annoyed him more and more, for he was unable to decide whether it was a hostile sound or whether they were merely stifling their laughter.
聴覚を視覚(または嗅覚というべきか)に移した感覚横断的な表現で、原文に忠実に訳されている。しかし「囁き」を「煙」にたとえるのは、むしろ平凡なことかもしれない。
p.122
手拭は、女の唾液と口臭で、鼠の死骸のようにずっしりと重い。
p.109
The towel was as heavy as a dead rat with her saliva and foul breath.
女の口に無理矢理押し込んだ手拭を取ってやった場面。いま口から取った物を鼠の死骸にたとえるのはかなり趣きがある。
p.134
待つ時間はつらかった。時間は、蛇腹のように、深いひだをつくって幾重にもたたみこまれていた。その一つ一つに、より道しなければ、先に進むことができないのだ。しかも、そのひだごとに、あらゆる形の疑惑が、それぞれの武器を手にひそんでいる。それらの疑惑と論争し、黙殺し、あるいは突き倒して進んで行くのは、なみ大抵の努力ではなかった。
p.120
It was hard to wait. Time was folded in endless, deep, bellows-like pleats. If he did not pause at each fold he could not go ahead. And in every fold there were all kind of suspicions, each clutching its own weapon. It took a terrible effort to go ahead, disputing or ignoring these doubts or casting them aside.
時間を蛇腹にたとえる、感覚横断的表現。
p.138
「おねがいいたします!」犬のように耐えてきた女が、突風で裏返ったこうもり傘のように、哀訴しはじめた。
p.124
“Oh, please!” The woman, who had been like a patient dog, began begging with the abruptness of an umbrella turned inside out by a sudden gust of wind.
女が哀訴する様子を「突風で裏返ったこうもり傘」にたとえるという発想はすごい。訳は正確である。
p.162
頭痛が、鉛のひさしになって、眼の上にずり落ちてくる・・・・・。
p.144
The pain of his headache slipped down over his eyes like a leaden visor.
忠実な訳文だ。
p.176
大人の愛想笑いの使いみちを、やっとおぼえたばかりの三歳の子供がみせる、あの媚態だ。
p.157
She had the coquetry of a three-year-old who has just learned to use an adult’s laugh.
これも忠実な訳。
p.196
食用蛙の卵のような雲に、おしつぶされ、太陽は、溺れるのをいやがって駄々をこねているようだ。
p.177
The sun, squeezed by clouds that resembled frogs’ eggs, seemed to be stalling, unwilling to sink.
原文のポイントは太陽が水平線に沈む様子を「溺れる」と表現したことだが、残念ながら訳文は sink という平凡な単語があてられている。drawn を使うわけにはいかなかったのだろうか。
p.227
女は、その暗がりのなかで、暗がりよりももっと暗かった。
p.204
The woman was a black splotch against the black.
短文の中に「暗」が三つ連続する様子を・・・英文にするのはいくら何でも無理か。
p.236
孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである。
p.215
Loneliness was an unsatisfied thirst for illusion.
こういう文は訳しやすいのか・・・そう思うのは結果を見たからか。
p.244
男の顔から、がっくり表情がはげおちた。
p.221
All expression suddenly left the man’s face.
失望のためさっと表情が消える様子。原文は見事。訳文は「さっと表情が消える様子」については正確に反映しているが、「失望のため」にあたるものが欠如している。「がっくり」が「失望」を表していることが理解されなかったのかもしれない。
p.256
彼等は、彼の部分であり、彼等がしたたらさせている色のついた唾液は、そのまま彼の欲情でもある。
p.231
They were a part of him, their viscid, drooling saliva was his own desire.
「色のついた唾液」の「色」は、色情 を暗示する表現だが、これを英語にするのは無理か。
この引用文は、短時間でもいいから穴から出してくれと頼んだ男に対して村人が、皆が見ている前で女と性交してみせてくれば考えてもいい、と提案したのに続く場面である。引用文の「彼等」とは、卑猥な期待を抱いて穴の周りに集まり二人を見下ろしている村人達を指している。映画( 『砂の女』 勅使河原宏監督、岡田英次、岸田今日子、1964)では武満徹の前衛的な音楽(1964年の作品だが、いま聴いてもいかにも前衛的である)と、色欲に踊る(文字通り踊る)村人達の表情(いや、表情は無い)が溶け合い、能の一場面を連想させるシーンとなっている。ついでに言うとこのモノクロ映画(DVD)、全編を通して奇妙なリアリティとシュールが融合した美しさに満ちている。撮影場面のフォトギャラリーもセットの意外性に感動できる。
p.256
手もとが暗いうえに、ふるえが、指の太さを二倍にしてしまうのだ。
p.231
It was dark, and his trembling fingers seemed twice as clumsy as usual.
二倍になったのは指の太さであって、不器用さclumsyではない。もちろん意味としてはあっている。だがふるえのために二倍不器用になった様子を、あえて指の太さが二倍になったという表現にしているのだから、それを反映した訳文にしてほしかった。
3
作品のほぼ全編を通し、主人公は砂の穴から逃げることを最大の目標にしていた。だが小説の最後にさしかかって彼がある発見をしたことで、話は急展開する。彼の心理を支配していた絶対ともいえる価値観が突然に消滅したのである。そしてこの消滅は、彼にとって、呪縛が解けたかのような快いものであった。折りしも、村人の不注意のため彼は自由に穴から脱出できる機会を得る。
p.265
女が連れ去られても、縄梯子は、そのままになっていた。男は、こわごわ手をのばして、そっと指先でふれてみる。消えてしまわないのを、たしかめてから、ゆっくり登りはじめた。空は黄色くよごれていた。水から上ったように、手足がだるく、重かった。・・・・・これが、待ちに待った、縄梯子なのだ・・・・・
p.238
Even though she had been taken away, the rope ladder remained as it was. He hesitantly reached out and touched it with his fingertips. After making sure it would not vanish, he slowly began to climb up. The sky was a dirty yellow. His arms and legs felt heavy, as if he had just come out of water. This was the long-awaited rope ladder.
だが彼はこう考える。
p.266
べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。
p.239
There was no particular need to hurry about escaping. On the two-way ticket he held in his hand now, the destination and time of departure were blanks for him to fill in as he wished.
そして6行後には本文が結ばれる。私が本稿の冒頭、『砂の女』は元祖自分探しの物語だと思うと記したのは、この展開を指している。砂の穴から出るという、全精力を傾けてきた目標が、あっさり溶解し、全く新しい視野が開ける。同時に、一種の歓喜ともいえる、これまでの人生で体験したことのない感覚が訪れる。本文の最後の一行は、こうだ。
・・・いや、その前に、本文冒頭のさらに前に記された一行を見る必要があろう。最後の一文は、この一行に呼応している。
p.4
罰がなければ、逃げるたのしみもない。
(no page)
Without the threat of punishment there is no joy in flight.
冒頭、本文のさらに前に記されたこの一文に呼応する、本文を結ぶ一行は、こうだ。
p.266
逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。
p.239
He might as well put off his escape until sometime after that.
実は、私も同じような気持ちになってしまっている。いや、別に私は逃げるとか逃げないとかそういうことを考えているわけではない。ただ何というか、ここまで安部公房の独特な表現の英訳文を順に見てきたことでもう十分、特にこの作品についてこれ以上何か書かなくてももういいやという気持ちになってきたのだ。
・・・それが安部公房の狙いだったのか。何かを追い求めずにはいられないという、人間の持つ性質の、本質的な無意味さ。その術中にはまって、この原稿を途中で投げ出すのもまた、『砂の女』についての原稿に最もふさわしいことかもしれない。
そう思いながら、本文の後に附録のように書かれた家庭裁判所の「審判」を読んだ。「本文」という表現をここまで当然のように使ってきたが、「本文」と「附録」に分けたのは私の勝手で、『砂の女』の結びは正確には先の「逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。」ではなく、この審判の主文である。
p.268
主文
不在者 仁木順平を失踪者とする。
(no page)
DECISION
Niki Jumpei is hereby declared missing.
附録という位置づけだと思いながら何気なく読んでいて、ふと思った。もしかして、これがこの小説の真の結論か? 追求するのが当然だと信じて疑わず、実現に向けて精一杯努力を続けてきた目標が溶解した。そして新しい視野が開けた。その時、これまでの人生で経験したことがない歓喜が訪れた。だがそう思うのは本人の独善にすぎず、そう思うことは自身の社会からの消滅にほかならない。いかにも安部公房らしい、最後の崖っぷちに来てからの反転・・・・・。