佐世保事件、ジョーカー、タラソフ原則
佐世保事件とは2014年7月26日、長崎県佐世保市で発生した、女子高校生が同級生を殺害し、首を切断するなどした事件である。
ジョーカーとは2012年7月20日、米国コロラド州で発生した、映画館での銃乱射事件である。12人が死亡した。犯人(ジェームズ・ホームズ、24歳男性)は、自分は映画「バットマン」に登場する悪役のジョーカーであると語った。
タラソフ原則とは、この二つの事件を結ぶキーワードである。これについては本文中で説明する。
1
佐世保事件の1ヶ月と少し前の6月10日、この事件の被疑者を診察した精神科医が、県に対し「この女子高校生は人を殺しかねない」と電話で通報したことが報道されている。
大事件が発生したとき、それは未然に防げなかったのか? という議論が巻き起こるのは当然かつ健全である。だから事前にサインがあったとか、通報があったとかいうことが、事後になって話題にされるのもまた当然かつ健全である。
しかし、サインや通報があったからには防げたはずではないかという批判は、失当かつ不健全である。
たとえば保健所に通報がある。警察に通報がある。児童相談所に通報がある。県に通報がある。通報とは、大量にあるのである。信頼性の高いものから、あまり信頼できないものまで、さらには中傷や虚偽や妄想もある。通報があったからといって、そのすべてについての対応を公的機関に求めるのは失当である。
それに、対応を取ると決めたとして、ではどういう対応を取るのか。ある人物が危険で、何か大変なことをしそうだという通報に対して、具体的に可能な実効ある対応とは何か。その人物を監視下におく? その人物を拘束する? そんなことが行われるとしたら、それは恐ろしい社会である。危なそうだからといって、予防と称して、個人の自由を奪うことを容認するのは、限りなく不健全な考え方である。
だから、大事件後になって、「事前に通報があった」ことを問題にするのは、ほとんど意味がない。ほとんど意味がないのが普通だ。しかし佐世保事件はこの「普通」があてはまらない。なぜなら、通報したのが精神科医だからだ。
2
精神科医に限らず、医師には守秘義務がある。診療で知った患者の秘密の他言は、特別な理由がない限り決してしてはならない。「秘密」というが、何が秘密かを決めるのは患者本人だ。周囲の人から見たら秘密とは思えなくても、本人は人には知られたくないと思っていることはたくさんある。だから「患者の秘密」とは、「患者についてのあらゆる情報」にほぼ等しい。だから医師は、患者本人以外からの問い合わせにはなかなか応じない。【2673】嘘をついて支離滅裂な言動をする高校生と病院の対応について の質問者である高校の先生は、生徒のことを心から心配して医師に問い合わせているのであるが、医師からははねのけられている。【2673】の回答の通り、この医師の対応は全く当然である。医師が患者の情報を他人に話すわけがない。いやたとえ家族であっても患者の情報が開示されないこともしばしばある。(たとえば【0274】 妻の病名を医師から聞きたいと思うのですが、妻は聞いてほしくないと言っています。
【0252】「患者のプライバシーに関わるから」の一点張りで夫の病気のことは一切教えてもらえません。家族としてどう対応したらいいのでしょうか。など)
問われても医師は患者情報を明かさない。ましてや医師が自発的に患者情報を明かすなどあり得ない。普通はあり得ない。ところが佐世保事件では、医師が県に通報したのだという。上記【2673】や【0252】などは、むしろ情報を明かすことが患者本人のためになると思われるが、それでも明かさないことが医の倫理であるとされているのに対し、佐世保事件の通報は、「彼女は人を殺しかねない」という、いわば密告にあたるとも解釈できるものである。これは明確な守秘義務違反ではないのか。
ここに、タラソフ原則が登場することになる。
3
タラソフ原則(Tarasoff rule) は、1976年、米国カリフォルニア州最高裁の判決に基づくもので、アメリカの精神科医療における「原則」として知られているものである。
「タラソフ」とは、タチアナ・タラソフ Tatiana Tarasoffを指す。彼女は殺人事件の犠牲者である。
タラソフを殺害した男、プロセンジ・ポダー Prosenjit Podderは、当時、精神科に通院していた。彼は診察室で治療者(Dr. Moore)に対し、自分はタラソフを銃で撃つ、と宣言した。Dr. Mooreはこのことをタラソフに知らせなかった。後日、ポダーは宣言の通りタラソフを殺害した。
そしてタラソフの両親が訴訟を起こした。ポダーがタラソフを殺害する可能性があることを知りながら、タラソフに知らせなかったことについて、Dr. Mooreをはじめとする関係者を訴えたのである。
一審、二審では両親の訴えは棄却されたが、カリフォルニア最高裁判所は次のような判決を下した。「タラソフⅠ」として知られる1974年の判決文、「タラソフⅡ」として知られる1976年の判決文から抜粋する:
タラソフⅠ 1974
“… doctor or therapist … bears a duty to use reasonable care to give threatened persons such warnings as are essential to avert foreseeable danger arising from the patient’s condition … The protective privilege ends where the public peril begins.”
患者が人に危険を及ぼすことが予測されたとき、医師や治療者は、この危険に対処する責務がある。(原文の a duty to use reasonable care … という表現は、不法行為における「過失」の前提となる法律上の概念としての「注意義務」duty of careを指していると解される)。(注1) 公共の被害ありとなれば、その時点で守秘義務は解除される。
タラソフⅡ 1976
“When a therapist determines, or pursuant to the standards of his profession, should determine that his patient presents a serious danger of violence to another, he incurs an obligation to use reasonable care to protect the intended victim against such danger. The discharge of this duty may require the therapist to take one or more of various steps, depending upon the nature of the case. Thus, it may call for him to warn the intended victim of the danger, to notify the police, or to take whatever steps are reasonably necessary under the circumstances.”
医師や治療者は、患者によって危険が及ぶと予測される人を、危険から守る方策を取るべきである。
(フルテキストは
http://www.publichealthlaw.net/Reader/docs/Tarasoff.pdf#search=%22Tarasoff%20v.%20Regents%20of%20the%20University%20of%20California%22 から入手可能である)
人に危険が及ぶ場合は、守秘義務は解除され、医師や治療者はその人を守るべく何らかの方策を取るべき。これがタラソフ判決の骨子である。但し上記の通り、またフルテキストにも、具体的にどのようなことをすべきかは明記されていない。判決文の表現は “reasonable care” であり、何がreasonableかは事例ごとに個別に判断されるということになる。(注2)
タラソフ判決の前後で、アメリカの精神科医の責務は大きく変わった。
タラソフ前は、”Duty to patients” 、すなわち、精神科医は患者その人に対する責務を負うというのが常識であったが、
タラソフ後は、”Duty through patients”、すなわち、精神科医は、患者をめぐる様々な事象に責務を負うとされるようになった。
但し、タラソフ後も(すなわち、現在も)、州によって具体的な扱いは統一されていないというのが現状である。いかなるときに、医師の守秘義務が解除され、第三者への加害防止義務が発生するのか(いかなるときに第三者への加害防止義務が守秘義務を凌駕するか)。州によって解釈も運用もばらばらである。(注3) たとえばマサチューセッツ州は次のような見解を示している:
a. No liability unless an explicit threat, serious injury, identified victim.
b. Patient has ability and intent to carry out threat
c. Defines reasonable behavior: hospitalize, commit, warn, call police in patient’s or victim’s area
上記は一例にすぎないが、いずれにせよ、ほぼ半分の州が、タラソフ原則の適用に一定の制限を設けている。危険があれば守秘義務は解除されるという単純なものではない。
しかし少なくともアメリカにはタラソフ原則がある。
日本にはタラソフ原則にあたるものは存在しない。
だから日本では、その場その場で、精神科医が個人として倫理的判断をする以外にない。
危険人物として自分の患者を県に通報する。それは守秘義務違反の密告か。それとも犠牲者を出さないための正当な行為か。佐世保事件で県に通報した精神科医は、この深刻な倫理的ジレンマの中、「通報」を選択した。苦渋の選択であったはずである。
4
アメリカにはタラソフ原則がある。
日本にはない。類似の原則もない。
これが前項3の要旨だった。
文献を読むと、タラソフ原則はアメリカの事情としてよく紹介されている。
だが現実のアメリカ社会では、文献から読み取れるほど確固としたコンセンサスには決してなっていないようである。それが、ジョーカーをめぐるアメリカマスコミの報道に接しての私の印象である。
ジョーカーとは本稿冒頭に記した通り、2012年7月20日、米国コロラド州で発生した、映画館での銃乱射事件である。
この日、そこでは「バットマン」が上映されていた。上映開始まもなく、ジェームス・ホームズ(24歳男性)は、「ジョーカー」(「バットマン」に登場する悪役)の扮装で館内に入って来た。これは何かのアトラクションに違いない、観客がそう思ったのも束の間、ホームズは映画館内で銃を乱射、12人が死亡、58人が受傷した。これがコロラド映画館乱射事件である(コロラド州オーロラ市の事件であることから、「オーロラ銃乱射事件」と呼ばれることもある)。
ホームズはコロラド大学医学部博士課程(ニューロサイエンス専攻)の学生であった。2006年にホームズが自らの研究をプレゼンテーションする動画 がネットに公開されている。これを見ると、彼の表情・動作・話し方に不自然なところはなく、プレゼンテーションの内容も質の高いまとまったものであることがわかる。現に、ホームズが非常に成績優秀な学生であったことも開示されている。2006年の時点でホームズは、健康で優秀な大学院生だったのである。
2012年の事件直後に公開されたホームズの異様な顔写真からは想像がつかない人物像である。
事件前の動画と、事件そのものの異常さ、そして事件後の画像。これらを見ただけで、ホームズは2006年から2012年までのどこかの時点で統合失調症を発症したに違いないと強く推認することが出来る。
事実、ホームズは「重篤な精神疾患(severe mental illness)」で治療中であったことが法廷で開示され、コロラド映画館乱射事件は「精神病エピソード(psychotic episode)」によるものであると弁護人は主張している。ここでいう severe mental illnessとは統合失調症(または妄想性障害)で、psychotic episodeとは幻覚妄想状態であることはほぼ間違いないと言ってよい。
(注 佐世保事件の被疑者は統合失調症ではないと思われる)
ホームズの病気についての開示はそれだけにとどまらない。彼が受診していたのはコロラド大学の精神科医、フェントン医師 (Dr. Lynn Fenton)で(フェントン医師は統合失調症が専門であることも開示されている)、彼女は診察の結果ホームズが他人を傷つける可能性が高いと考え、コロラド大学の危機管理セクション(Behavior Evaluation and Threat Assessment team; BEAT) に通報した。だがBEATは何のアクションも起こさなかった。そしてコロラド映画館乱射事件が発生し、12人が殺害されたのである。
精神科医の通報が無視されたため、悲惨な事件が防止できなかった。佐世保事件と同様のパターンである。
5
佐世保事件とジョーカー。どちらの精神科医も、通報は苦悩の決断であったに違いない。その苦悩は、日本だとかアメリカだとか、タラソフ原則を意識しているとかしていないとか、そういうこととは別の次元にある。無辜の人の安全と、守秘義務の、どちらを優先するかという、倫理的ジレンマである。
とは言えアメリカには少なくともタラソフという原則があるから、この原則を出発点にしたうえで、精神科医の通報は適切だったのかということが問題にされるものだと私は思っていた。タラソフ原則についての文献を読めば、当然にそのような推定が出て来る。ところがアメリカの実態はそうでないことを、私はジョーカーをめぐる報道を通して知った。
出典を明記できなくて申し訳ない。CNNかFox NewsかABC Newsかのどれかのはずだ。コロラド映画館乱射事件について、当時(2年前だ)、複数の論争番組を見たことは確かなのだが、どのソースであったか今となってはわからなくなってしまった。
その番組には、それなりの専門家が出演し、論争が繰り広げられていた。守秘義務重視派 vs 通報義務重視派 の論争である。
大体こんな感じだ。
守秘派: 医師の守秘義務はとても重要なものだ。だから守秘義務は最後の最後まで遵守しなければならない。フェントン医師の通報は、医師として許されない行為だ。
通報派: そんなのは現実を無視した理屈だ。フェントン医師の通報を受けて適切な対処が取られれば、あの事件は防止できたではないか。
守秘派: そんな通報を医師に認めたら、患者は精神科を受診しなくなる。受診しても自分の本当の思いを話さなくなる。そうしたらかえって危険は増す。
通報派: そんなことを言ったって、危険があるときに通報しなければ、危険が増すも増さないもないではないか。
守秘派: 危険がありそうだというだけで通報されたり拘束されたりすることはあってはならないことだ。だって健康な人であればそんなことは決してされないではないか。人に危害を加えるという確実な証拠でもあれば別だが。精神科の患者だからといって、確実な証拠もないのに通報されるのは差別以外のなにものでもない。
通報派: お前はそれを映画館で殺された人のご遺族に向かって言えるのか。
平行線の議論である。こういう議論が生まれること自体はよくわかるし、どこまでも議論すべき問題ではあるだろう。だがこの問題をカリフォルニアの最高裁は深く考え(少なくとも、事件が起きたのを受けてマスコミで論争する人々よりははるかに深く考えたはずである)、タラソフ原則という結論を提示したのだ。もちろんそれに納得しない人はたくさん存在するであろうが、タラソフ原則を基にして議論するのでなければ、いつもいつも同じスタートラインからの議論を繰り返すことになり、不毛である。だがアメリカでもタラソフ原則は決して広く知られているわけではなく、ああいう事件が起きると議論のやり直しが行われているという現実が、ジョーカーをめぐる報道の中にありありと見えた。
6
本稿1の要旨はこうであった。
大事件が発生したとき、それは未然に防げなかったのか? という議論が巻き起こるのは当然かつ健全である。だから事前にサインがあったとか、通報があったとかいうことが、事後になって話題にされるのもまた当然かつ健全である。
しかし、サインや通報があったからには防げたはずではないかという批判は、失当かつ不健全である。
なぜなら、「サインや通報があった」からといって、「その人物に対して公的機関が何らかの介入をする」ことが正当化されるとは決して言えないからである。
だがジョーカーや佐世保事件には特別な事情がある。それは、危険ありと判断し通報したのが精神科医だったということだ。医師に課されている守秘義務を超えてあえてなされた通報は、特別な重みを持っている。通報を受けたがアクションを取らなかった県は、佐世保事件の犠牲者に対して責があるというべきか否か。それは、精神科医の通報の内容など、具体的な詳細が明らかにされない限り、答えることは出来ない、いや、議論することさえ出来ないというべきであろう。タラソフ原則においても、カリフォルニア最高裁の判決文の、
his patient presents a serious danger of violence to another,
↑これが具体的にどのような場合を指すかは曖昧であるし、
he incurs an obligation to use reasonable care to protect the intended victim against such danger.
↑このreasonable careとは具体的に何を指すかは一義的に定められるものではなく、 (注4)
どちらも州によっても解釈は異なっていることは前述の通りである。
佐世保事件は、現在(2014年9月)精神鑑定中である。今後の情報を待ちたい。
(本文は以上)
(以下の注1から注4は2015.1.5.に追加したものである)
注1
この部分、2014.9.7.の初稿と、2015.1.5.の修正稿を対比して示す。修正稿は【2862】『佐世保事件、ジョーカー、タラソフ原則』(林の奥)の ”care” という語について でいただいたご教示に対応したものである。(注2から注4も同様)
<2014.9.7の初稿>
患者が人に危険を及ぼすことが予測されたとき、医師や治療者は、この危険に対処する責務がある(原文は a duty to use reasonable care … という、より含みのある表現になっている)。
↓
<2015.1.5.の修正稿>
患者が人に危険を及ぼすことが予測されたとき、医師や治療者は、この危険に対処する責務がある(原文の a duty to use reasonable care … という表現は、不法行為における「過失」の前提となる法律上の概念としての「注意義務」duty of careを指していると解される)。
→ 【2862】でご教示いただくまで私は、”reasonable care” という表現の法的意味を知らなかった。この機会に法律書の関連部分を参照してみた。まず、Tort Law一般に関する書籍から:
Tony Weir: Tort Law. Oxford University Press New York 2002. P.29
2章、Negligenceの第1ページに次の記載がある(強調は林による):
Enfin vint Lord Atkin who said in 1932: ‘ … in English law there must be, and is, some general conception of relations giving rise to a duty of care, of which the particular cases found in the books are but instances’, and he proceeded to state: ‘You must take reasonable care to avoid acts or omissions which you can reasonably foresee would be likely to injure your neighbor. …
次に、医療事故に関連する法律に関する書籍から:
Steven E. Pegalis: American Law of Medical Malpractice 3d Thomson/West 2005.
(強調は林による):
p.4
The occurrence of an iatrogenic injury may or may not be in dispute in a medical liability case. Absent a concession by the defendant on the issue of causation, it is incumbent upon the plaintiff to establish almost always through expert testimony by a fair preponderance of the credible evidence that the action of the health care professional did produce the fatal or disabling injury. The issue may center on whether the health care professional was competent. Inherent in such cases, is the idea that a competent physician would have employed greater skill and diligence and thereby have avoided the iatrogenic injury. In this context, hospital liability may be an issue if the hospital knew, or by the exercise of reasonable care should have known, that the health care professional was not competent.
p.12
Medical liability tort system
A tort is a civil wrong. When it occurs, it creates liability against the wrongdoer (tortfeasor) in favor of the victim. Malpractice literally means “bad” practice. The civil wrong in a medical malpractice case almost always involves a relationship between a health care provider and patient where there is a breach of some standard of care by a negligent act or omission which substantially leads to an injury or death.
これらを読むと、タラソフ判決文に見られる duty of careやreasonable careといった表現で意味されている内容は、【2862】でご教示いただいた通りであることがよくわかる。
(ちなみに、【2862】の質問メール原文には本名のご記載があった: そのお名前で検索をかけてみたところ、高名な法律の専門家であられることがわかった。したがってあえて法律書を調べるまでもなく、【2862】のご指摘が正しいことは疑う余地はないのであるが、この機会に法律書の記載を確認しておくことは有意義であると考えた)
注2
<2014.9.7の初稿>
人に危険が及ぶ場合は、守秘義務は解除され、医師や治療者はその人を守るべく何らかの方策を取るべき。これがタラソフ判決の骨子である。但し上記の通り、またフルテキストにも、具体的にどのようなことをすべきかは明記されていない。判決文の表現は “reasonable care” であり、何がreasonableかは現場の判断ということになる。
↓
<2015.1.5.の修正稿>
人に危険が及ぶ場合は、守秘義務は解除され、医師や治療者はその人を守るべく何らかの方策を取るべき。これがタラソフ判決の骨子である。但し上記の通り、またフルテキストにも、具体的にどのようなことをすべきかは明記されていない。判決文の表現は “reasonable care” であり、何がreasonableは事例ごとに個別に判断されるということになる。
→ 2014.9.7.初稿の「現場の判断」という表現の趣旨は、「その現場で事例にあたった医師や治療者の判断」ではなく、「法律で一義的には定められていない。事例ごとの判断」であった。したがってこの趣旨を読み取っていただけるのであれば、初稿の通り「現場の判断」のままでもよいと考えるが、【2862】の方はこれを「加害者の判断」と解釈されており、確かに読み直してみると「現場の判断」という表現はそのようにも解し得るので、上記の通り「事例ごとに個別に判断される」に修正した。
注3
<2014.9.7.の初稿>
但し、タラソフ後も(すなわち、現在も)、州によって具体的な扱いは統一されていないというのが現状である。いかなるときに、医師の守秘義務が解除され、危険にさらされている人の “care” の責務が発生するか、そしてその “care” とは具体的にどのようなものか。州によって解釈も運用もばらばらである。
↓
<2015.1.5.の修正稿>
但し、タラソフ後も(すなわち、現在も)、州によって具体的な扱いは統一されていないというのが現状である。いかなるときに、医師の守秘義務が解除され、第三者への加害防止義務が発生するのか(いかなるときに第三者への加害防止義務が守秘義務を凌駕するか)。州によって解釈も運用もばらばらである。
→ この部分だけ取り出して読む限り、初稿と修正稿に事実上の相違はなく、初稿の文言そのものは正しいと私は考えている。しかしながら初稿で用いた “care” という単語は、文脈上明らかに “reasonable care” の “care” であると解され、そうなると【2862】のご指摘の通り、誤りということになるので、上記の通り修正した。
注4
<2014.9.7.の初稿>
このreasonable careとは具体的に何を指すかも曖昧で、
↓
<2015.1.5.の修正稿>
このreasonable careとは具体的に何を指すかは一義的に定められるものではなく、
→ これも注3と同様、初稿の文言そのものは正しいと私は考えているが、より正確な表現にするため修正した。
(2014.9.7. / 2015.1.5.)