うつ病の聖杯

本稿は、【2861】高圧的な上司の影響でダウンした私は擬態うつ病だったのでしょうかの回答の補足、ないしは派生である。【2861】の回答の「奥」といってもいい。

 

1 いきなりだが、「虎」とは何か。
「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」
このように答えたとする。おおむね妥当な答えであろう。

2 だが虎の専門家はこう言うかもしれない。
「その答えはあまりに表面的だ。あまりに浅薄だ。虎の本質はそんなところにあるのではない。」

3 だが素人にとっては、「虎の本質」と言われてもわからない。「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」は、虎の定義としてわかりやすく、使いやすい。極端な話、虎を見たことがない人にとっても、虎という動物の大体のイメージをつかめる定義だといえる。

4 うつ病の診断基準は、この虎の定義と共通する性質を持っている。「抑うつ気分」「不眠または過眠」「疲労感、または気力の減退」などの項目が並び、一定数以上を満たした時にうつ病の診断が成立する。(この記述はDSM-5のうつ病(DSM-5)/大うつ病性障害に基づく)

5 虎を「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」と定義すること、うつ病を「「抑うつ気分」「不眠または過眠」「疲労感、または気力の減退」などの項目が一定数以上満たされた状態」と定義すること、こうした定義の仕方を、「虎」「うつ病」という言葉を「非固定指示子として用いている」という(注1)。DSMなどの公式の診断基準に記されている病名は、診断基準の性質上、すべて非固定指示子である。

6 精神科医の間では、DSMへの反発は根強いものがある。当然である。それは、虎を「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」と単純に定義することに対する専門家の反発と同一平面上にある。

7 「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」という定義に対し、虎の専門家の一人はたとえば次のように言うかもしれない。「咆え声こそが虎の最大の特徴である。虎の咆え声は、他の夜行性肉食獣とは微妙に異なる。どう異なるか、言葉で表すのは難しい。素人にはわからないであろう。しかし専門家である私が咆え声を聞けば、虎であることは確実にわかる」

8 あるいは虎の専門家の他の一人は次のように言うかもしれない。「走り方こそが虎の最大の特徴である。虎の走り方は、他の夜行性肉食獣とは微妙に異なる。どう異なるか、言葉で表すのは難しい。素人にはわからないであろう。しかし専門家である私が走り方を見れば、虎であることは確実にわかる」

9 これら虎の専門家の言うことは正しいのであろう。「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」という虎の定義は、表面的な特徴にとらわれた素人の定義にすぎない。まだ物をよく知らない子どもの定義と言ってもいいかもしれない。虎にはそんな表面的な特徴では言い尽くせない、本質的な特徴がある。虎の専門家にはそれがわかっている。虎の専門家には、素人には見えない「虎の本質(のようなもの)」が見えている。目につく外見がいくら似ていても、別人はどこまでいっても別人であって、本人の名前(=固有名詞)は別人には決してあてはまらないのと同様、目につく外見がいくら似ていても、虎でないものは虎でない。虎はもちろん固有名詞ではないが、ただ外見が虎に似ているだけではその動物は虎とは呼ばれない。つまり虎とは(虎以外の他の動物も、そして動物以外の多くのものも)、固有名詞的特徴を持つ一般名詞であり、それを固定指示子であるという。

10 動物の名前(たとえば「虎」)であっても病気の名前(たとえば「うつ病」)であっても、専門家は名前を固定指示子として用いるのが普通である。一方、素人は名前を非固定指示子として用いるのが普通である。

11 「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」という単純な定義では言い尽くせない、虎の本質(のようなもの)を、動物の専門家は重視する。つまり専門家は専門用語(ここでは「虎」)を固定指示子として用いるのが常だ。

12 「「抑うつ気分」「不眠または過眠」「疲労感、または気力の減退」などの項目が一定数以上満たされた状態」という単純な定義では言い尽くせない、うつ病の本質(のようなもの)を、精神科の専門家は重視する。つまり専門家は専門用語(ここでは「うつ病」)を固定指示子として用いるのが常だ。

13. 一方、専門家以外の人は専門用語を非固定指示子として用いるのが常である。「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」が「虎」だ。

14 固定指示子と非固定指示子。どちらが正しい用い方なのか。これは重要な問いだが、その前に、いま自分がどちらを用いているかという自覚のほうがさらに重要である。ある人が「うつ病」という言葉を発したとき、それは固定指示子なのか、非固定指示子なのか。

15 どちらが正しい用い方なのか、という問いをいったん保留にし、今どちらを用いるべきかという問いであれば、精神科の病名については、答えは非固定指示子である。虎の定義として「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」を用いるのと同様なやり方で、精神科の病名を用いるべきである。

16 だから【2861】高圧的な上司の影響でダウンした私は擬態うつ病だったのでしょうかの診断名は適応障害になる。適応障害とは、公式の診断基準にある、非固定指示子である。一定の項目を満たせば、診断が決まる。それ以上の考察は不要であり、余計でさえある。

17 使ってはならない診断名は、非固定指示子とも固定指示子ともつかない診断名である。たとえば【2861】で言及されている「燃え尽き症候群」がこれにあたる。「荷おろしうつ病」や「新型うつ病」も同様である。これらは定義がばらばらで、したがって輪郭不明瞭である。ある患者が「燃え尽き症候群」にあたるかあたらないか、誰にも正確には判断できない。「この患者は燃え尽き症候群のようだ」という判断はできるであろう。だがそこまでである。「その患者は燃え尽き症候群にはあたらない」という反論が出されたとき、いくら議論しても結論には到達できない。

18 15で保留した、「どちらが正しい用い方なのか」という問いに戻ると、「虎」については、虎の専門家の言葉が正しいといえる。つまり「虎」という言葉の正しい使い方は、固定指示子として使うことである。素人から見ていくら虎に似ているように見えても、専門家がそれは虎に似ているが虎ではない、と言ったら、その動物は虎ではない。

19 但し7と8の専門家の見解を追加しても、まだ固定指示子とはいえない。つまり「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」に、「咆え声」「走り方」を判断項目に追加しても、まだ不十分である。これらの項目をすべて満たしていても、その内部構造が虎とは全く違った生物は、虎ではない。それを人は虎とは決して呼ばない。「虎にそっくりだが、虎ではない」と言う。これらの項目を超えた、「虎の本質(のようなもの)」があるというのが人々の共通認識であり、「虎」という動物についての正しい認識であり、「虎」という言葉の正しい使い方なのである。

20 では「うつ病」はどうか。15で、「精神科の病名は非固定指示子として用いるべきである」と述べた。だが15の記述の通り、「どちらを用いるべきか」と「どちらが正しい用い方なのか」という問いは別だ。「どちらが正しい用い方なのか」という問いに対する答えは、「固定指示子として用いるのが正しい」である。

21 つまり真のうつ病には、「「抑うつ気分」「不眠または過眠」「疲労感、または気力の減退」などの項目が一定数以上満たされた状態」という皮相的な記述では描写しきれない特徴がある。

22 いま「真のうつ病」といったのは、内因性うつ病を指している。

23 ではうつ病(真のうつ病=内因性うつ病)の決定的な特徴とは何か。それを表す精神医学の専門用語として、「生気的悲哀」「無反応性」などがある。だがこれらは将来的にも客観的に証明できる見込みはほとんどない。

24 「無反応性」とは、たとえ嬉しいことがあっても嬉しいと感じない。逆に悲しいことがあっても悲しいと感じない。このような精神状態を指す。つまり、良いことがあったら気分が良くなるのは、うつ病(真のうつ病=内因性うつ病)ではないというのが、精神医学の伝統的な考え方である。

25 「生気的悲哀」の説明は難しい。定義するとすれば「身体に位置する悲哀」とでもなろうか。しかしこれでは全く言い尽くせていない(注2)。

26 「無反応性」も「生気的悲哀」も、客観的に証明できる見込みはほとんどない。「無反応性」については、文字通り無反応、つまり反応ゼロであればわかりやすいが、臨床的にはそこまでの無反応性が見られるのは稀で、「心の動きが著しく減退している」というレベルが現実的である。すると「著しく減退」しているかどうかは、人によって判断が異なるので、結局は客観的に証明できないに等しい。「無反応性」や「生気的悲哀」の診断は、十分な経験を積んだ一部の精神科医の、いわば名人芸の領域にある。客観的な評価は困難である。

27 虎の咆え声や走り方なら客観的に評価できる。声を録音し分析する。走り方を録画し分析する。それによって評価できるであろう。虎の専門家が「言葉で表すのは難しい」と述べた特徴を、科学的・客観的に示すことは、そう難しいことではない。だがうつ病の「生気的悲哀」などは無理だ。いやあるいはいつかは出来るかもしれないが、虎の咆え声や走り方に比べたら、はるかに困難で見込みが薄い。すると、精神医学の専門家のいう固定指示子としてのうつ病は、客観的に証明できる見込みは非常に薄い。「『真のうつ病』というが、そんな物は存在しないのではないか。専門家は単に幻影を描写しているだけなのではないか」と批判された場合、反論することは困難だ。少なくとも虎の咆え声や走り方の分析よりははるかに複雑で困難な仕事になろう。事実上は不可能といっていい。

28 だから精神科の病名については、固定指示子的な用い方をするのは理想論であっても実用的でない。だから非固定指示子を用いることになる。それが現代の公式の診断基準だ。

29 固定指示子としてのうつ病の診断は、時として名人芸を要するが、非固定指示子ではそんなことはない。誰が診断しても一致率が高い。

30 だがそれは、診断技術の低い医師にあわせた、低レベルの診断である。診断基準の支配が進むにつれて、精神科医の診断技術は低下の一途をたどっている。ここに精神科診断学の堕落がある。

31 困難を回避し、理想を目指して努力することを放棄した瞬間から、人は堕落するのである。

32 もっとも、堕落は診断基準に100%の罪があるのではない。診断基準の雑な使い方によるところが大きい。

33 たとえば、いま最も用いられている診断基準であるDSM-5のうつ病の記述には、「ほとんど一日中、ほとんど毎日の、すべて、またはほとんどすべての活動における興味または喜びの著しい減退」という項目がある(注3)。そしてこの状態は、数日続くだけでは不十分で、「同じ2週間のうちに存在し、病前の機能からの変化を起こしている」という条件がつけられている(注4)。つまり、たとえば平日は何も興味も喜びの気持ちがわかなくても、休日だけは元気な場合、それはDSM-5のうつ病にはあたらないのである。

34 DSM-5のうつ病のページにはさらに、「その症状が新たに出現したか、またはその人の病前の状態に比較して明らかに悪化したのかのいずれかでなければならない」という記述がある(注5)。つまり、たとえばうつ病の診断基準にあるような項目をもともと満たすような「暗い」人だった場合、それはDSM-5のうつ病にはあたらないのである。

35 DSM-5にはほかにも細かい記載がたくさんある。DSM-5(をはじめとする精神科診断基準)は、手軽に使えるチェックリストではない。正しい使い方をすれば、診断はかなり正確にできる。DSM-5による診断は非固定指示子であるが、精神医学の専門家がDSM-5を精読したうえで正確に使えば、固定指示子としてのうつ病診断と、かなりよく一致するのである。DSMを単なるチェックリストとして用いるのは、診断基準の誤用である。とてもよくある誤用である。

36 さらに言えば、DSM-5(をはじめとする精神科診断基準)を単なるチェックリストであるとして批判するのは全くの的外れである。それは、解像度を落とした名画を見て、深みがない絵だと批判するようなものである。(注6)

37 もしDSM-5を厳密に適用しようとすれば、 【2861】高圧的な上司の影響でダウンした私は擬態うつ病だったのでしょうか の診断はそう簡単ではない。というより、メールの記載だけからは決して厳密な診断、正確な診断はできない。【2861】の回答で私が示した診断名は「309.0 適応障害、抑うつ気分を伴う」だが、実際に【2861】の方を診察すれば(このケースが最も重症だった10年前に実際に診察すれば)、うつ病(DSM-5)の診断基準を満たすことが判明するかもしれない。【2861】に書かれている経過を見れば職場での理不尽な扱いという強いストレスに反応した適応障害とみるのが自然だが、診断基準上はうつ病もあり得るのだ。

38 ここに、ストレスに反応してうつ病そっくりの症状が現れたとき、診断をどう考えるかという厄介な問題が発生する。

39 もちろん、うつ病という病名を非固定指示子として用いる場合は、ぜんぜん厄介な問題ではない。診断基準を満たせば「うつ病」である。それ以上の考察は余計だ。「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」を満たせば「虎」であるのと同じだ。非固定指示子として「虎」を用いる以上、虎にそっくりであればそれは虎なのだ。内部構造は無関係だ。

40 だが本音としては虎の専門家を見習いたいのはもちろんである。動物名でも病名でも、非固定指示子として用いるのは便宜上のことにすぎず、真に正しい用い方は固定指示子であることは論をまたない。内部構造が違えば、いくら外見が虎にそっくりでも、それは虎ではない。当たり前だ。

41 治療のためにも、病名を固定指示子として用いるという姿勢は重要である。抗うつ薬は、うつ病の人が飲んでこそよく効く薬なのであって、外見がうつ病に似ていても非なるものに対しては効果は薄い。全く効かないといってもいいかしもれない。うつ病という重大な病気を、うつ病に似て非なるものと如何にして正確に見分けるかは、精神医学の重要課題の一つである。

42 見分ける方法の一つとしては、長い経過を見れば明らかになるという考え方も可能である。たとえば【2861】のケース、将来において、たいしたきっかけもないのに、また同様の症状が現れたとする。この場合、最初の(10年前の)エピソードは、外形上はストレスに対する反応に見えたが、実は内因性うつ病の一回目の病相だったという診断になろう。擬態うつ病/新型うつ病の最後に掲載したCase17がそんな実例である。このような経過が観察された場合は、最初の(10年前の)エピソードは、職場のストレスが誘因となって内因性うつ病が発症したと考えるのが精神医学の正統的な考え方である。誘因は原因とは別の意味を持つ言葉だ。【2861】でいえば、10年前はたまたま職場のストレスがあったためにうつ病が顕在化したが、この時の職場のストレスは誘因(きっかけ)に過ぎず、他の出来事をきっかけに発症してもおかしくなかった、と考えるのである。【2861】はもともと内因性のうつ病の素因を持っており、その素因が、たまたま職場のストレスで発症につながったと考えるのである。

43 だがそれでも、原因という考え方もできる。職場のストレスが原因で(誘因ではなく原因)、脳の中にうつ病という病気の回路が形成されたと考えるのである。そしてその回路が、いったんは活動を停止したが、10年以上たってから、また活性化することで、うつ病の症状がまた顕在化したと考えるのである。

44 これ(43)は現代の精神医学の標準的な考え方には相容れない、荒唐無稽とも言えるものであるが、誤りであることを証明するのもまた不可能である。

45 躁うつ病(双極性障害)についても類似の議論が可能である。うつ病と診断され、抗うつ薬で治療を受けていた人に、躁状態が現れることがある。これが抗うつ薬による一時的なものか、それとも元々素因として持っていた躁うつ病が顕在化したのかというのは、難しい問いである。その後、抗うつ薬を飲まないでも躁状態が出現すれば、もともとその人の病気は躁うつ病で、一回目の病相がうつ状態だったため、躁うつ病ではなくうつ病に見えていた、と結論する。逆に、その後、抗うつ薬を飲まないで経過をみていたら一切躁状態が現れなければ、先に見られた躁状態は抗うつ薬による一時的なものだったと考える。一応はこの考え方が正しいとされる。

46 だが45の前者、すなわち抗うつ薬を飲まないでも躁状態が出現するようになった場合、「この人は抗うつ薬を飲んだことが原因で、躁うつ病になってしまった」、つまり、「抗うつ薬が脳内に躁うつ病の回路を作ってしまった」という考え方も論理的には成立する。これも43と同様、現代の精神医学の標準的な考え方からすれば荒唐無稽に近いものだが、誤りであることを証明することは不可能である。

47 てんかんの研究により、脳にはキンドリングと呼ばれる現象が見られることが、医学では確立した事実として知られている。キンドリングは日本語に訳すとすれば「繰り返される刺激による大脳の燃え上がり現象」である。何らかの条件が重なった結果、脳の一部が自然に放電しやすくなり、それがてんかん発作に容易に移行しやすくなるというのがキンドリング現象である。43や46は、このキンドリング類似のメカニズムを想定した仮説である。繰り返すが、荒唐無稽な仮説である。だが誤りであることを証明することは不可能である。

48 10年前の2004年、【0581】ハイジャック殺人事件は抗うつ薬が原因だったのですかで私は、「三環系抗うつ薬で治療中に躁状態になった(ハイになった)場合は、その人はもともと躁うつ病だった可能性が非常に高い。他方、SSRIやSNRIで治療中に躁状態になった場合は、SSRIやSNRIの副作用として躁状態が現れた可能性が高い」という趣旨のことを述べた。現在もこの臨床的印象は基本的に変わらない。

49 但し、薬の副作用としての躁状態(SSRIやSNRIで治療中に出現した躁状態)は、躁うつ病の躁状態とは症状が異なるという印象を持っている。この「印象」の内容を具体的・客観的に描写するのは困難であるが。

50 印象という曖昧なものを排して確実なものとして言えるのは、その後の経過中、抗うつ薬を飲んでいないのに躁状態が現れれば、元々その人は躁うつ病だったとするのが、精神医学の正統的な考え方である。

51 だが、「実は抗うつ薬が原因で脳内に躁うつ病のメカニズムが発生した。つまり、躁うつ病は抗うつ薬の後遺症である」という、46で述べた荒唐無稽な考え方を完全に否定する論理的根拠も持たない。

52 臨床症状の観察で診断の大部分が決まるという精神医学には常にこの種の問題がつきまとう。現代の精神医学の常識からみれば荒唐無稽な考え方でも、純粋に論理的な立場からは否定しきれないのである。

53 だから現代の精神医学の診断基準は、非固定指示子的なものとなっている。病気の本質が不明であることを謙虚に認めれば、診断基準は非固定指示子的なものにならざるを得ない。「虎」を見たことがない、または、「虎」というものをあまりよく知らない、または、「虎」とは何かについて人々の共通認識が確立されていなければ、とりあえず暫定的に「肉を食べる。狩りをする。毛皮は黄色で、黒い縞がある。夜行性である。」を虎の定義(操作的診断基準)とし、その後に虎についての知見が蓄積してくるのにあわせて、この定義をアップデートしていくのが正しい姿勢ということになろう。DSM(やICD)の改定はまさにそうした作業である。

54 もっとも、類似した診断基準は精神科以外の医学にも存在する。たとえばリウマチである。日本リウマチ学会による早期関節リウマチの診断基準(1994年)では、(1) 3つ以上の関節で、指で押さえたり動かしたりすると痛みを感じる  (2) 2つ以上の関節に炎症による腫れがみられる  (3) 朝のこわばりがみられる  (4) 皮下結節(リウマトイド結節)がひじやひざなどにみられる  (5) 血液検査で赤沈に異常がみられる、またはCRPが陽性である (6) 血液検査でリウマトイド因子が陽性である  の6項目のうち、3項目以上にあてはまる場合を早期関節リウマチとする。

55 この診断基準は、形式上は精神医学の診断基準であるDSMによく似ているが、決定的な違いがある。それは(6)、リウマトイド因子という血液検査所見が含まれていることである。((4)と(5)も大きな違いだが、ここでは触れない)

56 関節の痛みや、炎症による腫れ、朝のこわばりは、関節リウマチでなくてもあり得る症状である。だがこれら症状は、検査所見が加わることで、にわかに関節リウマチの診断根拠としてクローズアップされるのである。(検査所見がなくても、3項目が満たされれば早期関節リウマチという診断になるので、その点ではこの診断基準は折衷的な性質を持っているが、検査所見があるという点はDSMとの決定的な違いであると言える)

57 関節リウマチにおけるリウマトイド因子は、診断における生物学的マーカーである。生物学的マーカーとは、血液検査所見でも、脳画像所見でも、遺伝子でもよい。ある病気に密接に関連するものを指す。

58 生物学的マーカーがあるのとないのとでは、診断の精度は著しく異なる。関節リウマチには生物学的マーカーがある。うつ病にはない。うつ病の診断をめぐる混乱の大きな原因は、生物学的マーカーがないことである。つまり生物学的マーカーが発見されれば、うつ病の診断をめぐる混乱は一気に解決に向かうことが期待できる。うつ病か擬態うつ病か、その区別を検査によってつけることが期待できる。

59 本稿のここから後では、うつ病の(未知の)生物学的マーカーを「聖杯」と呼ぶ(注7)。

60 病名を固定指示子として用いる精神医学の専門家は、今はまだ発見されていない未知の生物学的マーカーがあるはずだと考える。伝説の聖杯がどこかに存在するはずだと考える。聖杯探しは現代の精神医学研究の大テーマの一つである。

61 病名を固定指示子として用いるのは精神医学の専門家だけではない。実は専門家でない人のほうが、病名を固定指示子として用いる傾向が顕著であるとも言える。但し10に記したように、表面的には、あるいは、意識のうえでは、非固定指示子として用いている。だが本心としては固定指示子として用いている。本人はそんなことは意識していなくても、大部分の人がそうである。

62 だからしばしば人は、「検査でうつ病はわかるようになりますか」という問いを発する。「うつ病が検査によって高い的中率で診断できるようになった」という報道がなされることさえある。

63 検査で診断できるということは、聖杯が存在するこということである。もし聖杯が存在しなければ、検査では決して診断できない。

64 聖杯とは生物学的マーカーであり、本質(のようなもの)である。

65 たとえばアルツハイマー病には聖杯が存在する。脳内のベータ・アミロイドの蓄積である。但しそれは現在のところ死後脳でしか確定できない。

66 だからアルツハイマー病では、「脳内にベータ・アミロイドが蓄積していること」を検査で確認できれば、確実に診断ができることになる。現在ではそれがほぼ可能になりつつある。アミロイドPETや、血液や髄液の検査といった技術によってである。

67 一方うつ病では、そもそもの本質(のようなもの)が何であるかわかっていない。したがって、検査で診断が確定するようになることは論理的にあり得ない。そもそも本質(のようなもの)が本当にあるかどうかもわからない。伝説の聖杯は、うつ病では存在しないのかもしれないのである。

68 現代においてうつ病と呼ばれているもの、すなわち、うつ病(DSM-5)の精密かつ大々的な研究により、生物学的マーカーが発見されたとする。しかしそれは、非固定指示子としてのうつ病の生物学的マーカーであるにすぎず、固定指示子としてのうつ病の生物学的マーカーではない。

69 それは現代において人工的に作られた聖杯である。人が探し求めて来た伝説の聖杯が発見されたというのとは違う。

70 ということはニセの聖杯か。DSMによって作られたまがい物の聖杯か。伝説の聖杯とは別物か。

71 70の「伝説の聖杯とは別物」ということについては、私は全く異論はない。

72 だがまがい物と言えるかどうかは別の話である。

73 いかなる聖杯も歴史のある時点において作られた物であることに変わりはないからだ。

74 伝説は過去からのものだけとは限らない。未来の伝説も、ある。

 

 

注1
固定指示子 rigid designator は、哲学者クリプキ (Kripke, SA) の用語である。これを私は
村井俊哉 『精神医学の実在と虚構』 日本評論社 2014
を読んで知った。本稿の「虎」にかかわる記述等は、その多くをこの本に負っている。

注2
生気的悲哀 vitale Traurigkeit (生気的抑うつと訳されることもある)は、精神病理学者クルト・シュナイダー Kurt Schneider の用語である。
Schneider: Klinische Psyshopathologie 12. Auflage, Georg Thieme, Stuttgurt 1964.
のp.150に次の記述を見出すことができる(強調は林による):
“Immer so eine Beklemmung am Magen und am Hals. Als ob das gar nicht wegging, so fest sitzt das. Dann meine ich, ich müsse zerplatzen, so weh tut mir das in der Brust”, sagt eine Kranke. Fast stets bestehen neben der vitalen Traurigkeit noch zahlreiche andersartige vitale Mißgefühle.
(ある女性患者は「いつも胃やのどに圧迫感があります。それはしっかりとくっついていて、消えることがないかのようです。破裂しそうです、それほど胸が痛みます」と言う。生気的悲哀はほとんど常にさまざまな生気的違和感情を伴う。 針間博彦訳 『クルト・シュナイダー 新版 臨床精神病理学』 文光堂 2007  p.127)

注3
「ほとんど一日中、ほとんど毎日の、すべて、またはほとんどすべての活動における興味または喜びの著しい減退」
原文は次の通り:
Markedly diminished interest or pleasure in all, or almost all, activities most of the day, nearly every day.

注4
「同じ2週間のうちに存在し、病前の機能からの変化を起こしている」
原文は次の通り:
… have been present during the same 2-week period and represent a change from previous functioning …

注5
「その症状が新たに出現したか、またはその人の病前の状態に比較して明らかに悪化したのかのいずれかでなければならない」
原文は次の通り:
a symptom must either be newly present or must have clearly worsened compared with the person’s pre-episode status.

注6
解像度を落とした名画を見て、深みがない絵だと批判するようなもの
という表現は
村松太郎 『「うつ」は病気か甘えか。』 幻冬舎 2014年
から拝借した。

注7
聖杯
という表現は
村井俊哉 『精神医学の実在と虚構』 日本評論社 2014
から拝借した。(但しこの本では「聖杯」はもっと広い意味で用いられている)

05. 12月 2014 by Hayashi
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