【4700】自分が精神疾患になることを怖れる気持ちの起源は、自我/こころを失うことへの怖れなのでしょうか

Q: 31歳女性です。 10代の頃より、断続的ではありますが非常に興味深く思いながら精神科Q&Aを拝読しています。 長年の継続的な発信に敬服しつつ感謝申し上げます。

【4231】統合失調症の不全型のようなものはあるのでしょうか の、「定義は人間が作ったものであって、自然界に存在するものをそのまま示したものではない」とのご回答に私は深く共感します。
地域によって虹を何色(なんしょく)と捉えるかの異同があるように、何を精神疾患と定義して、どのような状態を罹患していると判断するかは、自然界の真理ではなく、ある状態に関する当事者及び周囲への影響を推量する人間の裁量なのだろうと思います(現在の診断基準が属人的ないし曖昧であるという意見ではありません。そうした基準は現代の医療水準において最大限一般化されてはいるが、絶対的なものではなくあくまで人為的なものであり、医療の発展によって変わり得る、という認識です。)。
そうすると、疾患の診断がなされるかは単に表出する現象の濃淡の違いであって、多かれ少なかれ誰しもが何らかの患者となる可能性を孕んでおり、現在患者とされる人はあり得たかもしれない自分/これからなり得る自分であると考えています。

このように、精神科の患者へのある種の親しみ、同質性を覚えるにも関わらず、自身もまた患者になり得るという事実について、それを原因として周囲とのコミュニケーションや業務遂行等に現状とは異なる配慮が必要になるであろうことを非常に怖い、嫌だと感じます。
そして、この怖れが自身の無理解に基づく偏見、つまり、知ったふうな口をききながら結局は患者を別世界の訳の分からないものとして差別していることの証左ではないか、と悩んでいます。
他方、例えば視力に置き換えると、視力を失うのは嫌だという気持ちと、視覚に何らかの障害がある方を差別しないことは両立し得るものだろうと納得しています。
この感覚の違いは、自身の中で、視力を失っても「自我/こころ」は失わない(ために視覚に障害があっても他者とコミュニケーションが取れると思っている)ものの、精神疾患の場合は「自我/こころ」の喪失を伴う(ためにコミュニケーションが難しくなる)と認識していることが原因かと推察しつつ、そもそも精神疾患が本当に「自我/こころ」の喪失と捉えられるか定かではないとも思い、この怖れの淵源を量りかねています。 するとこの怖れはどこから来ているのでしょうか。

このような怖れはありつつも、自身の精神状態について何らかの自覚症状があれば直ちに精神科を受診するのが最善であろうと私は認識しています。
ただ、その「何らかの自覚症状」とはどの程度のものを指すかが判断できかねています。精神科受診にあたっては、自身の体調に著しい不調が出る、ないしは、業務遂行できないことや突飛な言動/行動により周囲に迷惑がかかっている、という程度の実害が求められるでしょうか。
あるいは、自身が実害と感じるのは、例えば特に理由はないのに業務や家事、勉学等に意欲がわかない、眠れないことだが、最終的に必要とされることはこなせるので明白な損害が出るほどではない、という場合も、何らかの疾患の兆候とも考えられる、今からケアすれば予防できると思うという理由で受診してもよいものでしょうか。この場合は公認心理師、臨床心理士等のカウンセリングを受けるのが適切でしょうか。

以上、長文となり恐れ入りますが、よろしければご回答賜れますと幸いです。

 

林:
精神疾患の場合は「自我/こころ」の喪失を伴う(ためにコミュニケーションが難しくなる)と認識していることが原因かと推察しつつ、

そのような認識をお持ちであれば、精神疾患に罹患することへの怖れの気持ちが生まれるのは自然だと思います。ここまでは自然ですが、この書き出しに続く文章全体としては、論理が混乱していると思います。次の通りです(説明の便宜上、(a)(b)(c)を付しました):

(a)精神疾患の場合は「自我/こころ」の喪失を伴う(ためにコミュニケーションが難しくなる)と認識していることが原因かと推察しつつ、
(b)そもそも精神疾患が本当に「自我/こころ」の喪失と捉えられるか定かではないとも思い、
(c) この怖れの淵源を量りかねています。するとこの怖れはどこから来ているのでしょうか。

質問者は、(a)ではご自身の「認識」について述べ、(b)ではその認識が誤りかもしれないと述べています。そして(c)では、(b)では誤り「かもしれない」とした内容を誤り「である」と変換し、それを前提に、この怖れがどこから来ているかわからない、という疑問を呈されています。ここでの論理の混乱は、その認識(精神疾患は「自我/こころ」の喪失を伴うという認識)が、たとえ誤りであってもご自身がそう認識されているのであれば、その認識によって怖れが発生することは自然ですから質問者ご自身としてはその認識が理由であると納得してよいはずのところを、その認識が誤りであったら怖れの理由がわからない、としている点にあります。これはたとえば、青信号を赤であると誤認して止まったときに(この場合は、自己に認識に基づいて止まるのは自然)、そのときの信号が本当は青だったかもしれないので止まる理由がわからない、と言っているのと同じです。つまり「青信号を赤であると認識する」ことがここでは「精神疾患を「自我/こころ」の喪失を伴う」と認識することで、「そのときの信号が本当は青だった」が、「精神疾患は本当は「自我/こころ」の喪失を伴わない」にあたります。

質問者の論理の混乱はともかくとして、
精神疾患は「自我/こころ」の喪失を伴うか否か
は、精神医学における深淵な問題です。端的な答えは、「精神疾患のうち、統合失調症は、自我障害を伴う」というものになるでしょう。「自我障害」は「自我の喪失」ではありませんが、非常に重症の統合失調症では自我の喪失といえるレベルに達することもあります。
但しここでは、自我とはそもそも何か、という、精神医学の領域を超えた問題がありますので、上はあくまで単純化した答えにすぎません。

何らかの自覚症状があれば直ちに精神科を受診するのが最善であろうと私は認識しています。
ただ、その「何らかの自覚症状」とはどの程度のものを指すかが判断できかねています。

それは、自覚症状の重さだけでなく、その自覚症状が重大な病気の兆しか否かということも大きな因子になります。質問者は精神科Q&Aを長年読んでいらっしゃるとのことですので、精神科Q&Aの回答の中には、ほとんど何も具体的な理由を示さずに精神科受診を単に勧めるものがあり、その質問文を見ると、自覚症状としてそれほど重いとは思えないものがあることに気づいておられると思います。そうした回答には、その自覚症状が重大な病気の兆しの可能性があるという背景があります。

(2023.7.5.)

05. 7月 2023 by Hayashi
カテゴリー: 精神科Q&A, 統合失調症