共感覚 — 目で聞く人。耳で見る人。

これは【4135】文字に色がついて見えます の追加説明です。先に【4135】をお読みください。

 

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人は字を見て他の字に読み間違えることはある。音を聞いて他の音に聞き違えることはある。だが字を音に間違えるとか、音を色に間違えるということはない。そもそも「字を音に間違える」「音を色に間違える」というのは文章としても本来ありえない。視覚と聴覚は完全に独立している機能なのだから、混線するはずがない。視覚と聴覚に限らない。人間の知覚はそれぞれが完全に独立している機能なのだから、混線するはずがない。それはあまりにあたりまえのことで、それが正常であると信じて疑わないのが普通である。

共感覚ではそのあたりまえのことが逆転している。【4135】の質問者はこう言っておられる。

 28年間生きていて、はじめて、周りの人達には字に色がついて見えてないことを知りました。

彼女は字に色がついて見えている。彼女にとってはそれがあたりまえのことで、それが正常であると信じて疑わずに28年間生きてきた。だから逆に、他の人は字に色がついて見えていないことを知って驚愕している。共感覚という能力を持っている人の多くはこの驚愕を人生のある時点で体験している。「字」と「色」という知覚が全く別であることは思いもよらなかったからである。

 

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共感覚が初めて学術的に記載されたのは1879年、SullyがMindという医学雑誌に発表したHarmony of colours という論文である。もっとも、色の調和Harmony of coloursと音の調和Harmony of soundsを対比させて論じたアリストテレスAristotle(紀元前4世紀)は共感覚の能力を持っていたとか、さらに遡って紀元前6世紀、ピタゴラスPythagorasの「天球の音楽 Music of the Spheres」は共感覚から来る発想であるなどとも言われているが、これらは伝説と呼んだ方がむしろ正しく、信頼できる共感覚の記載はずっと後の19世紀の上記論文とするのが正確であろう。但しその後、共感覚についての医学的研究はほとんど行われていなかった。理由は二つある。一つは、共感覚は完全に主観的な体験だから、客観的分析を何より重んじる科学の対象にはなりにくかったこと。もう一つは、たとえば黒という色で悪を表現したり、低い音や暗い色で不安を表したり、赤い色で女性を表したりというようなことがごく一般的に行われていることから考えれば、字や音に色を感じたり、色に言葉を感じたりするのは、比喩や慣習による連想や条件反射の一型にすぎないと思われていたことである。【4135】のケースの「沖縄という文字が青に見える」という体験も、青い空や海の連想から来ているという解釈も可能であろう。しかし共感覚は決してそういう性質のものではなく、脳内に特殊なメカニズムがあって発生している能力であることが21世紀に入った頃からの研究で明らかになり、共感覚についての科学的関心は急速に高まっている。

 

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共感覚が遺伝性の強い能力であることはほぼ確実である。共感覚者(以下、共感覚という能力を持っている人を「共感覚者」と呼ぶ)は、物心ついたときにすでに共感覚者であり、また、生涯にわたって共感覚者である。共感覚者本人にとって共感覚はごく自然の能力で特殊なものとは思っていないため、【4135】のケースのように、「28年間生きていて、はじめて、周りの人達には字に色がついて見えてないことを知りました。」「ご飯を食べて味がするのが当たり前なように、字に色はついて見えるもんだと思っていました。」ということがしばしばある。また、共感覚者の家系内には共感覚者が存在することが多い。共感覚者は女性に多い(女:男は6:1くらいである)。左利き者が多い。こうしたことをあわせると、共感覚が遺伝性の強い能力であるという結論がほぼ疑いないものとして導かれる。

なお、子ども時代には共感覚があり、成長するに従ってそれが消えていくというケースが少なからずある。これは狭義の共感覚者とは異なるが、体験そのものは狭義の共感覚者と同一のこともある。この事実は、共感覚の脳内メカニズムを推定するうえで意味深長であり、本稿6であらためて触れることにする。

それから、違法ドラッグ(そこにはいわゆる「危険ドラッグ」や「脱法」ドラッグを含む)の使用によって共感覚と同様の体験が見られることがあり、また、非常に稀ではあるが、脳の外傷や血管障害の後に共感覚者となることがある。

以上が【4135】回答中に示した質問、Q1〜Q5の背景である。

 

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続くQ6〜Q21(【4135】)は、共感覚のメカニズム追究への第一歩を踏み出すための問いである。

「文字に色がついて見える」、これが【4135】の質問者の能力の要約であるが、彼女の「文字」から「色」までの脳内メカニズムを追究しようとするとき、では「文字」とは何か、「色」とは何かについて、より詳細に確認する必要が発生する。

「文字」とは何か、というのは、たとえばこういうことである。

.                                  口

上に示したものは何か。「くち」と読んだ方が多いかもしれない。しかしカタカナの「ロ  ro」と読むこともできる。文字ではなく正方形の記号と見ることもできる。どの見方も可能だが、ある任意の瞬間に同時にその3つの見方をすることはできない。漢字の「くち」か、カタカナの「ロ  ro」か、正方形か、どれかひとつの見方しかできない。このことはすなわち、視覚情報として網膜(目)に入力された時点では同一でも、それが何であるかを認識するまでの脳内の経路がどこかで分岐し、それぞれが「漢字」「カタカナ」「記号」というゴールにたどりついていることを示している。

これを【4135】のケースにあてはめれば、「沖縄県」という入力が、「青い色」というゴールにたどりついているわけだが、そのメカニズムを分析するためには、「沖縄県」という入力の中のどの要素が「青い色」というゴールへの経路に繋がっているのかをまず確認しなければならない。要素とはすなわち、「沖」か「縄」か「県」か(この点については、質問者が「起縄県」と対比していることから、「沖」であるように一応は考えられる)、特定のフォントに限られるのか、実は字ではなく「沖縄県」という概念なのか、さらには字でも概念でもなく、「沖縄県」(と書くと「おきなわけん」と瞬時に読んでしまうが、そうではなくて)という線分の組み合わせとしての図形なのか、あるいは沖縄に限らず県名というカテゴリーが色の経路に繋がっているのか、などなど、理論的には無限の可能性が考えられるが、その中で可能性が高いものをめぐる問いがQ6〜Q21である。

 

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上記4の通り、共感覚は入力とゴールで記載できる。「文字に色がついて見えます」という【4135】であれば、入力は「文字」でゴールは「色」である。ここで、ゴールは本人の主観的体験として出現することから、出力と呼んでもよい。本稿では以後は出力と呼ぶことにする。(正式な学術用語では、inducerとconcurrentだが、どう訳してもわかりにくくなるので本稿では「入力」と「出力」と呼ぶことにした)。入力が文字、出力が色である【4135】の共感覚は「文字→色」と表すことができる。この「文字→色」 が共感覚者の中で最も多いパターンであるが、他のパターンも色々ある。その中の主なものがQ22〜Q36 (およびその他: Q37、Q38)である。もちろんそれぞれについて逆方向のパターン(たとえば「音→色」の逆方向としての「色→音」)もあり、また、知覚の組み合わせとしてはこれら以外にも多数あることになるが(仮に知覚を「五感」の5種類として考えれば組み合わせとして5 x (5-1)x 1/2= 10、さらにその逆方向があるから10 x 2 = 20通りある。そして「五感」の中がさらにどこまでも細分化できるから(たとえば同じ視覚でも文字、数字、色などがあり、文字もさらに漢字、平仮名・・・のように細分化できる)、無限ともいえる組み合わせが理論的にはありうる。実際によく見られるもののみを示したのがQ22〜Q36である。

 

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「文字を見ればそれは文字であると認識される」こう書くのは滑稽なほどあまりにあたりまえのことだが、さらにこれを「文字が入力されると主観的体験として文字が出力される」と書けば滑稽というよりまわりくどく衒学的な印象さえ生まれるかもしれない。だが共感覚を読み解くためにはいったんはこのように分析することが必要である。すなわち、

入力: 文字  →    出力: 文字

という、全くあたりまえの体験に対して、

入力: 文字  →    出力: 色

という共感覚がある。

なぜこのようなことが起きるのか。最もシンプルな解釈は神経の配線の違いである。普通は文字として入力された情報は、脳内の文字を担当するゴールに到達する経路に繋がる。すなわち神経がそのように配線されている。これに対して共感覚では、文字として入力された情報が、脳内の色を担当するゴールに到達するように神経が配線されている。こう考えるのが最もシンプルでわかりやすい。

仮にこれが共感覚の脳内メカニズムであると仮定すると、そのような配線が発生した原因としては2つ考えられる。

一つは神経の配線そのものを決定する遺伝子の変異である。普通なら作られない迷い道が脳内に作られてしまったというようなイメージである。

もう一つは神経の剪定(刈り込みといってもよい。英語ではpruneという。neural pruning、synaptic pruningという学術用語がある)のプロセスが普通とは異なるというものである。人間の脳は、発生(ここでは一応、人間がこの世に誕生したときを「発生」と呼ぶ)した時点では、成人に比べるとかなり多数の神経連絡が存在するが、その多くは20歳ころまでに失われて(剪定pruneされて)、成熟した脳になる。するとたとえば発生の時点では存在した「入力: 文字 → 出力: 色」という神経連絡が、普通なら剪定されて失われるところ、共感覚者では剪定されなかったというメカニズムが考えられる。本稿3で触れたように、子ども時代には共感覚があり、成長するに従ってそれが消えていくというケースが少なからずあるという事実は、このメカニズムを支持していると言えよう。読者の中に共感覚者は非常に少ないと思われるが、幼少の頃を振り返ってみると、たとえば音に色を感じたとか、色に味を感じたというような経験がそう言えばあったと思い当たる方は多いかもしれない。

 

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共感覚の脳内メカニズムが神経の配線の違いであるというのはまだ仮説にすぎず、他にも有力な仮説は提唱されており、脳の機能画像を活用するなどして実証的研究が進められている段階だが、本稿3で述べた通り共感覚は遺伝性が強い能力であることは確実であり、そして同時に、文字であれ何であれ知覚のカテゴリーにあるものの概念は後天的に学習されたものであるから、共感覚は遺伝的な素因をベースに、脳の発達プロセスの中で形成された能力であることは間違いない。すると、発達障害として知られている他の症状が合併する率が高いかもしれない。【4135】のQ39〜Q50はそれに関する問いである。

なお、いま「症状」と言ったのは、わかりやすくするため仮に用いた言葉である。「症状」と呼べばそれは病気や障害であることが前提となるが、「発達障害」と呼ばれている人の脳は、平均的な脳とは異なることは事実であるが、確実な事実であると言えるのはそこまでである。そこから先は価値観の領域に入る。【4135】で述べたように、平均的な脳とは異なることの結果として、生きていくうえで何かデメリットがあれば病気(または障害)と呼ばれ、逆にメリットがあれば能力と呼ばれることになる。Q39〜Q50のうち、たとえばQ40は相貌失認、Q41は地誌的見当識失認と呼ばれ、障害に分類されるが、Q44やQ45は能力に分類される。その能力は特に優れていれば才能と呼ばれ、100年に1人といったレベルであれば天才と呼ばれるであろう。

 

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【4135】の回答で私は、「共感覚は病気ではありません。ひとつの「能力」と呼ぶのが適切だと思います。」と言った。もちろんこれは私の真意だが、一方、客観的には能力と障害の区別はそう単純ではない。メリットがあれば能力、デメリットがあれば障害、抽象的にはその通りだが、では、メリットとは何か。デメリットとは何か。

文字に色がついているという共感覚を持つ【4135】の質問者は、誤字を素早く発見できる。これはメリットであり、したがって能力である。

しかし、では、そこにデメリットはないのか。

誤字を素早く発見できるのは、たとえば校正の仕事においては大きなメリットになろう。だが普通に文章を読むときはどうか。誤字がやたらに目についたり、また、それぞれの文字に別々の色がついていたら目がちらちらして読みにくくなったりしないのか。これは共感覚者本人でないとわからないが、もしそうしたデメリットがあるとしたら、「素早く校正できる」というメリットとどちらが大きいかという問いが生まれよう。もし校正が職業であればメリットの方が大きいと思われるが(ほとんど「超能力」と呼べるほどのメリットである)、そうでない場合はデメリットの方が大きいのではないか。人間の大部分は校正を職業とはしていないのであるから、そうなると一種の障害とする見方も成立しうる。

さらには、共感覚以外の部分についても検討の必要がある。共感覚者はある程度の割合で【4135】のQ39〜Q43に挙げたような状態(ここでは能力と障害の両方を含む概念として状態 condition という言葉を使っている。文脈からは違和感ある言葉だが、メリットという判断もデメリットという判断も保留すれば、状態conditionが適切な言葉の選択ということになろう)を合併している。共感覚は、メカニズムの詳細は不明であっても、本稿7で述べた通り、遺伝的な素因をベースに、脳の発達プロセスの中で形成された能力であるから、「脳の発達プロセス」が平均的な人とは異なっていることは間違いなく、すると広汎性発達障害等の既存の発達障害との重なりがあってもおかしくない。そうなると、共感覚という「能力」によるメリットより、発達障害の「症状」によるデメリットの方が大きければ、「障害」に分類するほうが普通ということになろう。このことは逆方向から見れば、「障害」とされている状態conditionであっても、平均的な人にはない「能力」を持っていることが十分にあることになり、今度は「障害」と呼ぶのは不適切なのではないかという問いが発生する。このように、「障害」の定義についての議論はしばしば出口のない迷路に迷い込むことになるが、発達障害の当事者であるTemple Grandinが、人間の精神の多様性を礼賛しているThe world needs all kinds of minds はこのテーマに関する非常に示唆に富んだ講演である。(【4027】発達障害という神秘な存在が嫌われるのは素晴らしいの回答でも紹介した)

科学者や芸術家には発達障害ないしはその傾向がよく見られるものだが、共感覚者の中には芸術家がよく見られる。芸術系の大学にも共感覚者が多い。たとえば音を聴いて色が見えれば(もちろんこれは比喩ではなく、共感覚者には文字通り「見える」のである)、芸術作品に生かせそうに思えるので、共感覚と芸術の結びつきは自然なものとして納得できるが、あるいは自然なものとして納得できるからこそ両者の関係が人に知られていくのであって、実は科学者の中にも隠れた共感覚者は多いのかもしれない。このあたりは、共感覚についての研究データがまだまだ少ないので、「不明」とするのが正しい姿勢であろう。

共感覚という能力は、それが当事者にとってメリットになるかどうかはともかく、非共感覚者(つまり普通の人)からみれば驚くべき超能力である。その共感覚の科学的解明が進行している。共感覚という主観的な体験を、いかにして客観的な科学で追究するかという方法論の発展は、同じように主観的な体験である精神疾患の症状の科学的な追究方法を考えるうえでもとても興味深いものである。

(2020.10.5.)

 

05. 10月 2020 by Hayashi
カテゴリー: コラム, 発達障害