【2391】善悪正誤などいろいろなことがわかりません
Q: 20代男性です。自分にはひどく二面性があるような気がしてなりません。 幼いころは太陽が地球の周りを回っていると感じていました。私は特別な存在であると思っていたからです。私は自分から動かなければ止まっています。しかし、私が止まっていても太陽は動きます。ですから、周回したり動いたりしているのは私や地上ではなく、太陽のほうだと思っていたのです。 その後、学校に通うようになり、コリオリの力や遠心力などから、どうやら地球のほうが回っているのだと徐々に実感として分かっていきました。私は特別でもなんでもなかったのだと思い、何もする気になれないほどがっかりしました。 しかし、今でも地球が止まっていて、地球以外のすべてが動いているのだ、と思うことがあります。地球が自転や公転していることと、地球は動かずそれ以外のすべてが回ったり動いたりしていることを明確に区別し、そのどちらであるか判断することは不可能だと思ってしまうのです。そもそも、相対的な位置関係の変化を表すうえで、その二つは意味的に等価なのではないかと思ってしまうのです。 確かに遠心力を考えれば地球が太陽の周りを周回しているとも考えられるのですが、そもそも遠心力というものに定義を与えたのは人間でしょう。接線に向かってはたらく慣性と円軌道との差が外向きの力となる、というのは、対象物を除く全宇宙を円軌道に沿って周回させる際、全宇宙に生じる対象物から離れようとする力、と定義しても同じはずです。 そのように友人に主張すると、お前は気が狂っているなどと言われます。そうかもしれない、と思って、ノートを何ページも数式や図で埋め尽くしながら何度も必死に考えを巡らせるのですが、そのたびにやはり自分は間違っていなさそうだという結論に近づいてしまって、全身から汗が噴き出てしまいます。いったい地球が自転しているのか、地球以外の全宇宙が地球を中心に回っているのか、と言う問題は、『地球が自転しているに決まっているじゃないか』と感じる時もあれば、『遠心力と言うものを考えるとき対象物を周回させるイメージを無意識に想起するからそう感じるに過ぎないのであって、その二つは同じ意味だ』と感じることもあり、自分で何を考えているのか正確にわかりません。とにかくその二つはものすごく排他的です。片方を信じているときは、もう片方を『絶対に、何が何でもあり得ない』と感じてしまうのです。
幼いころ、自分の意思は自分の体をある程度意のままに動かせると感じていました。私の体もほかのものと同じようにモノですが、ほかのものと違って特別な存在であると思っていたからです。 今だって、大げさに言えば自分が文字をタイピングしようと思うからタイピングできていると感じている面があるのです。ですから、ある程度私の心は私の体をコントロールできると考えていたのです。しかし、タイピングしようと思った原因を考えると、脳や周辺環境の物理的な働きによるとしか考えられません。 もし、私の体を構成する素粒子や原子が、別のものを構成する部品としてバラバラであったら、私はタイピングしようと思わなかったのではないかと思います。そもそも私という主体的な意識も存在しなかったと思います。私は先天的には遺伝子によってプログラミングされていて、後天的には自然や社会によってプログラミングされていると思います。コンピュータが工場で先天的に命令セットをCPUに覚えさせられ、消費者の自宅で後天的にソフトウェアをインストールされているように。それでも私は物理法則に反して自分の意志で体を動かしていると感じるときがあります(誤解を恐れずに言えば、むしろそのほうが多いくらいです)。私は目や鼻や口や耳などと言うデバイスから寸断なく送られてくるデータを脳で処理しているのだと頭では理解しています。しかし、コンピュータが人間によってプログラミングされた通りに動いたのに、自分の意志で情報を処理したと思いこんでいるように、私は秩序によって、隅々まで物理因果における必然にまったく隷属しているにも関わらず、自分の意志で自分の体を動かしているように勘違いしてしまうことが多々あるのです。 物理的な現象の原因は物理的なもの以外にはあり得ないでしょうから、直接の原因はビッグバンであると考えています。ビッグバンのときの膨大なエネルギーが質量を産みつつ宇宙をフォーマットしていって、今の全宇宙を形作っていったように考えられてしまうようになりました。逆にいうと、ビッグバンの時のエネルギーは、意思などという霊的なものなどによって一切、汚染されることなく、物理法則から一切逸脱せず今に至っていると考えています。 そう考えると、私は生きていても何の意味もないように感じられてしまいます。エントロピーの増大に対して抵抗になりうるという意味では生命の存在自体が無用であるようにも思えます。 逆に、エントロピーの増大に対して抵抗になりうるということこそが価値だという考えも芽生えてきます。その場合、生物が有性生殖によって獲得した、環境の変化に対する進化と言う適応の形を考えた時、総じて哺乳類は寿命が長すぎるようにも思われるところもあります。なぜなら自然選択による淘汰と言う進化の方法は湯水のように時間を費やさなくてはならないものだと思えるからです。トライアンドエラーによって品質を上げていくのですから、世代交代のスピードは成熟や老化に対して効果的に設定されるべきでしょう。 逆に、人間はたかだか100年ほどしか生きることができないのだ、と考える時もあります。病気を治したところで、何年延命できるのか、というような考えです。死んでしまったらおしまいだ、いや死んでしまっても後世に影響を与えられれば、と思考が連なっても、10の44乗年の未来に熱的死が来るのであれば、結局は無駄のように思えます。無になる未来に向かって何かを残すことに意義を見出せない気分に陥ってしまうのです。どうせ人間の意志は脳が物理法則にしたがって必然に処理した結果、後付で与えられるものにすぎない、しかも宇宙は熱的死を免れえないとするのであれば、自分の主観をいかに満足させるかだ、と考えることもあります。 これらは排他的なもので、生物は無意味だと思うときには、どうやって絶滅させるかを考えますし、自分に自由意思がないと考えるときには自分のことで手いっぱいです。
オカルトと呼ばれる超常現象のひとつに念力という概念があります。自分の念を送り込むことによって対象物を動かしたり、自分の念を送り込むことによって物理的エネルギーを発生させて対象物を動かすということらしいです。いずれにしても、意思や思念というような、物理法則の枠組みで記述できないものが突如として、物理世界に介入し、物理法則に反する動きのトリガとなる、という意味では同じことだと思っています。 人間の意思や思念などが、脳や手足という物質の内部における物理的状態を変化させる(例えばニューロン発火やそれに伴う身体のコントロールなど)というのは、念力に当たると思います。エネルギー的に無である『意思』や『思念』などが(脳という)物理世界に介入してくるとするならば、脳という物質内において『既存の物理法則に照らし合わせて不自然な振る舞い』が発見されねばならないと考えます。 すると、司法が改悛の情を認めたり、情状を鑑みたりするのはおかしいのではないか、と思うようになりました。そして、脳神経の働きに関する文献やデカルトからチャーマーズあたりまでの本を読みましたが、『心は体を動かせない』という証拠はいくらでもある反面、『心は体を動かせる』という証拠である念力の確認はただの一つもないというのが実情のようです。 地動説も進化論も証明されていませんが、説得力のある反証を欠くことから次第に事実として世に膾炙していったというプロセスを考えれば、実験結果の圧倒的な偏りに関して『人間の思念は物理世界に干渉することはできない』ということは、ほぼ確実と思われるほどです。 殺人を犯した人は、その時の物理的な環境下に於いて、殺人を犯すしか仕方ない物理的状態になっていたために必然的に殺人を犯したのであって、意識や意思が念力によって体を動かせるのであればまだしも、情状や改悛の情は司法判断の考慮に用いる対象としてそぐわない感じがしてしまうのです。 ところが、それでも私は自分の体を自分の意志で動かすことができるような気になることがあります。その一方で、そんなオカルトがあってたまるか、と感じることもあるのです。自分で自分の思考がよくわからないのです。精神分裂症というのはこういうことでしょうか?自分が二つに分かれているような気分です。 そういった話をすると、病院に行ったほうが良いなどと言われます。私自身も、自分が自分の体を動かせると感じるのも異常であるように思えますし、動かせないと考えるのも異常のような気がします。なにより、どっちも信じているのに、どちらも許しがたいなどということ自体が強く異常を感じさせます。動かせると感じているときは『自分の体が自分で動かせないなんて絶対にありえない!』と感じています。逆に、動かせないと感じているときは、『自分の意志などという霊的なものが、非物質の世界から脳にニューロン発火を強制したり物理法則の捻じ曲げるなど絶対にありえない!物理的にありえないことはあり得ないんだ!』と感じています。それぞれ、逆の考え方をものすごく嫌います。
そもそも異常と言うもの自体もきちんと把握できていません。世界人口は70億と言いますから、人間だけで考えても70億の正しさがあるということかと思います。70億のサンプルにおいて少数派は異常なのか、世界中の専門家からたった一人でも「あなたは異常です」と判じてくれる者を探し出すことができれば異常なのか。異常でない個体は存在するのか。正常であるという個体を提示できるのか。 私は異常かもしれませんが、好きで異常に生まれたわけではありません。生まれる前に選択の機会などありませんでした。私はメンタル面ではこのように異常であると言われますが、フィジカル面では五体満足です。時折、先天性障害者に「好きで障害に生まれたわけではない」と言われますが、私だって好きで健常に生まれたわけではありませんので、それを私の責任にしてもらっても困る、と考えてしまいます。私は私を受け入れるしかなく、あなたもあなたを受け入れるしかなく、それぞれイーブンであって、そのうえで自分を生成した遺伝子が試されていて、私の個体がうまく運用されれば私を形作った遺伝子クラスタが占有率を上げるというだけで、それは物理法則の一環であろうと考えています。 もし、相対的に意味を付与したのであるのであれば、神の存在が必要であるように思えてしまうのです。韓非子の言うように、信仰を伴わない儀式は構わないと思いますが、私は、物理法則で記述できないという意味でのオカルトを忌み嫌っている側面があるというのにです。 信仰や盲信を毛嫌いする一方で、強烈な信仰を持っています。この宇宙、全ての生命、全ての興りと滅びをもたらす『時』はいつでも私たちにはたらいています。完全に人智を超越し、ただ受け入れることしかできない『時』の存在を、我々は証明できないのにも関わらず直感で理解します。『時』の御業である老いや死に畏怖を感じながらも、希望として転化させる主体の意識はいつでも我々の一番近いところにいて、常に我々とともにあります。ところが、私は時間の発生原理や存在を客観的に証明することができません。しかも、それにもかかわらず、何故か絶対的な信仰を持っているのです。絶対に時間は存在するということを、まったく根拠なく信じ切っています。誰になんと言われても盲信してしまっていて、時間が存在しないという概念を得ることはこの先、生涯不可能であるとさえ思えます。そして、その神である『時』の意志である変化、物理法則はバイブルとなって、絶対的な信仰の対象になってしまっています。 絶対的に意味を付与したのであれば、神の存在は不必要であるように思えます。すべての人は、痛み苦しみについて、自分についてのものしか『本質的に』理解できないと思っています。傍目から見て派手な惨状に遭っているから、すなわち不幸であると断じて良いものかどうかもわかりません。印象の受容体がもつセンシティヴィティがすべての個体に於いて同じ振れ幅であるかを客観的に確かめる方法もありません。見かけで分かったような気になることは危険であると、前日まで全くそんなそぶりを見せなかった人が自殺し、外見上、派手な症状を繰り返すものが自死には至らないことなどから、肝に銘じております。何が異常であるのかは一つとして答えを導き出せたことがありません。 赤緑色盲が異常と言うのであれば、正常な色の見え方はどのようなもので、なぜそれが正常であるのかというような、正当性についての境界線も分かりません。異常か正常かを判断しても良いのは誰なのか、その境界を決めるのは誰なのか、人間だけで考えても70億もいる主観の中で、善悪正誤を汎論化することなど可能なのかと考えてしまいます。 善悪正誤の判断がつきません。再現性のある事象について、2つのものが等価であるという客観性を指して『正しい』というのであれば理解します。しかし、『人間として正しい行為だ』と言われると、『なぜ?』と聞かずにおれません。分からないからです。募金することが良いことだと言えば、その背景にあるものがとても気になります。どうしてそんなことを言うのだろう、影響を考慮しているのか、顕示欲なのか、自己演出なのか、募金が良いとする根拠を聞かずにおれません。いつも、70億いる主観の、誰にとっての善なのだろうか、と考え、聞き返してしまいます。 募金が好きだというのなら、まったく気になりません。そういう人もいるだろう、と思います。意味というものや、価値と言うものが分からないのかもしれません。 精神分裂症(統合失調症)なのでしょうか?
林: この【2391】の質問者の診断としては、三つ考えられます。その中のどれであるかはわかりません。
(1) 正常。
このように哲学的な思索にのめりこむことは、特に若い年齢の時期においてはそう稀なことではありません。この【2391】は、そうした現象のやや極端なものにすぎず、病気ではないということも十分に考えられます。
(2) 統合失調症の神秘的な思考。
【2005】で解説したように、統合失調症の前駆期には、「神秘的・超自然的思考 magical thinking」だけが目立ち、幻聴や被害妄想など統合失調症に典型的な症状は全く認めない時期があり得ます。この【2390】に書かれている内容は「神秘的・超自然的的」ではない、と多くの方はお考えになると思われ、それは「神秘的・超自然的的」という言葉の本来の意味からすればその通りなのですが、ここで言葉の本来の意味にこだわるのは本質から外れた考え方で、「この【2391】に書かれているような内容が、統合失調症の前駆期には目立つ場合がある」ことが端的な事実です。それを神秘的と呼ぶべきかとか超自然的と呼ぶべきかとか哲学的と呼ぶべきかということは、言葉の使い方レベルの問題にすぎません。
(余談になりますが、統合失調症のどの症状についても、同様のことが言えます。統合失調症の人の症状体験は、その人にとってそれまで体験したことがなく、また、統合失調症でない人ももちろん体験したことがない性質のものですから、そもそもしっくり当てはまる言葉で表現できないのです。たとえば「幻聴」という典型的な症状ひとつを取ってみても、それは、病気でない人の体験の中で最も近いものが「声が聞こえる」という体験であるにすぎないから「幻聴」という言葉で表現していることにすぎないのであって、実際には「声が聞こえる」という体験とは違った性質を持っています。これは、幻聴が真に聴覚性を持った体験であるか否かといった、難しい議論に発展していくことになります。)
(3) 発達障害
この【2391】の、過度に論理に傾いた抽象的な思考は、発達障害の思考の特徴ということもできます。特に、発達障害の中でも知能の高い人はこうした思考に傾きやすく、この【2391】の方もかなり高い知能をお持ちであることが文章の諸所から窺われます。知能の高い発達障害の方がこのような思索を追究し続け、常人には到底考えつき得ないような高みに達したとき、その人は天才と呼ばれることになります。
(1)(2)(3)のいずれであるかは、わかりません。ここから先の診断は、より詳しい成育歴や、直接の診察による全体的な印象(「印象」という漠然とした言い方をせざるを得ないのですが、話し方に表れる思考の筋道や、さらには表情や態度なども診断根拠の要素になります)などを把握することが必要です。
なお、
殺人を犯した人は、その時の物理的な環境下に於いて、殺人を犯すしか仕方ない物理的状態になっていたために必然的に殺人を犯したのであって、意識や意思が念力によって体を動かせるのであればまだしも、情状や改悛の情は司法判断の考慮に用いる対象としてそぐわない感じがしてしまうのです。
というような考え方は、脳科学と道徳の接点に位置する重大な問題にかかわるもので、最近非常に注目を浴びるようになりつつあり、neuroethics とか neurolaw という新たな学問分野を生んでいます。【2391】の質問者は、あるいは既にご存知かもしれませんが、興味深い参考文献をいくつかご紹介しておきます。
Farah MJ.
Neuroethics: the ethical, legal, and societal impact of neuroscience.
Annu Rev Psychol. 2012;63:571-91
Greene J, Cohen J.
For the law, neuroscience changes nothing and everything.
Philos Trans R Soc Lond B Biol Sci. 2004;359(1451):1775-85.
日本語で読める一般読者向けの本としては、
『道徳脳とは何か』 タンクレデイ著 創造出版
があります。
(2013.5.5.)