ねじまき鳥クロニクル、そして様々な「依存症」
ふと思い立って、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』の英訳本を読んでみた。
The Wind-Up Bird Chronicle
translated by
Jay Rubin
Vintage Books 2003
1
原書(日本語)を読んだのはもう10年以上も前になるが、そのときから、これを英訳するとしたらどうするのだろうと気になっていた部分があった。ここだ。
『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』 村上春樹 新潮文庫 1997年 より
p.240
かつらメーカーの会社は新橋にあった。笠原メイは地下鉄の中で調査の内容を簡単に説明してくれた。彼女の説明によれば、僕らは街角に立って、通りを歩く禿げた(あるいは髪の薄い)人たちの数を数えるのだ。そして彼らを、その禿げの進行の度合いにしたがって三段階に分類する。(梅) いささか髪が薄くなってきたと思える人、(竹) 相当に薄くなっている人、(松) 完全に禿げている人、の三段階だった。
禿げの度合い(あるいは髪の薄さの度合い)を表す松・竹・梅。英単語は何を対応させるのか、いかにも難問に思えるが。さて。
p.109
The wig company was in Shimbashi. On the subway, May Kasahara explained how the survey worked. We were to stand on a street corner and count all the bald men (or those with tinning hair) who walked by. We were to classify them according to the degree of their baldness: C, those whose hair had thinned somewhat; B, those who had lost a lot; and A, those who were totally bald. May took a pamphlet from her folder and showed me examples of the three stages.
「松・竹・梅」は「A・B・C」だった。なーんだという感じだが、しかし他にどうしようもないということか。
いきなり松竹梅から入ってしまったが、「笠原メイ」は、語り手の「僕=岡田亨」が猫を探しに来た空き家の向かいの家に住む16歳の少女である。失業中の「僕」に笠原メイが持ちかけたアルバイトの話が松竹梅だ。アルバイトの具体的な内容をメイが説明している。
p.241
「私が松・竹・梅の区別は引き受けるから、あなたは私の横にいて、私が松とか竹とか言うたびに、それを調査用紙に記録すればいいの。どう、簡単でしょう?」
p.109
“I’ll be in charge of putting them into categories, and you stand next to me with a survey sheet. You put them in A, B or C, depending on what I tell you. That’s all there is to it. Easy, right?”
松竹梅をABCにするとこのようにただの説明記述文になってしまうが、まあ仕方がないか。
そして実際の調査が開始される。
p.246
彼女は歩行者にけどられないように、小さな声で短く「松」とか「竹」とか言った。一度に何人も薄毛の人々が通りかかることがあって、そういう時には彼女は「うめうめたけまつたけうめ」という風に早口で言わねばならなかった。
p.111
She never fumbled or hesitated or corrected herself, but assigned each head to its proper category with great speed and precision, uttering the letters in low, clipped tones so as not to be noticed by the passers-by. This called for some rapid-fire naming whenever a large group of bald heads passed by at once: “CCBABCAACCBBB”.
ここは言うまでもなく次々に通りかかる薄毛ないしは禿頭の男性(おそらく彼らの大部分は渋い表情で歩いているのであろう)を見て笠原メイが「うめうめたけまつたけうめ」と言っている情景の滑稽さがポイントだが、ABC表記では残念ながらそれが消えている。ただよく見ると、「うめうめたけまつたけうめ」なら「CCBABC」のはずだが、訳文はさらに7文字加えて「CCBABCAACCBBB」となっている。「CCBABC」だけでは味も素っ気もないので、文字列を長くすることで原文の滑稽さに少しでも近づけようとしたのであろう。翻訳者の苦労が窺われる。
ところで、新橋で歩行者の禿げの度合い(あるいは髪の薄さの度合い)を調査することに一体どういう意味があるのか。それを聞かれた笠原メイは、そんなことは知らないが、かつらメーカーはお金が余っているからこういう調査に使えるのだと自説を述べる。そしてかつら会社が儲かる理由を説明する。
p.242
それでね、まあとにかく、もしあなたがかつらを使っていて、二年経ってそれが使えなくなったとしたら、あなたはこんな風に思うかしら? うん、このかつらは消耗した。もう使えない。でも新しく買い換えるとまたお金もかかるし、だから僕は明日からかつらなしで会社に行こうって。そんな風に思えるかしら?
p.110
What if you had a toupee and it was no good after two years — what would go through your mind? Would you thin, OK, my wig’s worn out. Can’t wear it any more. But it’ll cost too much to buy a new one, so tomorrow I’ll start going to work without one? Is that what you’d think?
言われてみればその通り、かつらをやめるわけにはいきそうにない。
p.243
「そうよね、思えないわよね。つまりね、一度かつらを使いだした人は、ずっとかつらを使う宿命にあるのよ。だからこそかつらメーカーは儲かるの。こう言っちゃなんだけど、ドラッグのディーラーと同じよ。一度お客を掴んでしまえば、その人ずっとお客なの。おそらく死ぬまでお客なのよ。だって禿げた人に急に黒々と髪が生えてきた話なんて聞いたことないでしょう。かつらってね、だいたい五十万円くらい、いちばん手間のかかるのは百万円くらいするのよ。それを二年ごとに買い替えるだもね、大変よ、これは。自動車だって四年か五年は乗るじゃない。下取りだってあるじゃない。でもかつらはそれよりもっとサイクルが短いの。そして下取りなんてものもないの」
p.110
“Of course not. Once a guy starts using a wig, he has to keep using one. It’s like his fate. That’s why the wig makers make such huge profits. I hate to say it, but they’re like drug dealers. Once they get their hooks into a guy, he’s a customer for life. Have you ever heard of a bald guy suddenly growing a head of hair? I never have. A wig’s got to cost half a million yen at least, maybe a million for a tough one. And you need a new one every two years! Wow! Even a car lasts longer than that — four or five years. And then you can trade it in! “
確かにかつらはいったん使い始めたらやめることはできない。すると笠原メイの言うように、かつらメーカーはドラッグディーラーと同じで、客はまんまと「かつら依存症」という病に罹患させられてしまっているのか?
2
もちろん「やめることができない」だけでは病とは言えない。【3455】27歳女。私は性欲が強すぎるのでしょうか。の女性は、性行為に耽溺する自分が「もしかしたら依存症?のようなものではないかと心配」しておられる。確かに【3455】の方の性行動は、現代日本の女性として平均からは逸脱しているが、回答にも書いた通り、「その状態のため何らかの問題が生じている」ことが、病と診断する必要条件であるから、【3455】のケースは何の問題も生じていない以上、依存症とは言えない。
同様に、
毎日米を食べることがやめられなくても、それだけでは依存症とは言わない。
毎食後にお茶を飲むことがやめられなくても、それだけでは依存症とは言わない。
毎朝コーヒーを飲むことがやめられなくても、それだけでは依存症とはいわない。おそらく。
毎日スポーツクラブに行くことがやめられなくても、それだけでは依存症とは言わない。たぶん。
毎晩パートナーとセックスをすることがやめられなくても、それだけでは依存症とは言わない。だろう。
毎日パチンコに行くことがやめられなくても、・・・これはどうか。いや、もちろん「それだけでは」依存症とは言わない。しかし、「毎日パチンコに行くのがやめられない」のは「それだけ」ではすまない。金がかかる。金がかかるのは度を超せば深刻な問題だ。すると依存症を病と診断する必要条件の「その状態のため何らかの問題が生じている」を満たす場合が、「毎日パチンコに行くのがやめられない」のケースの中にあり得る。
それがギャンブル依存である。
ギャンブル依存は「ギャンブル障害 gambling disorder」という診断名で現代の診断基準(2013年発刊のDSM-5)に収載されている。そこにはギャンブルの内容は特定されていないが、現代の日本ではパチンコ・スロットが圧倒的に多いことが知られている。ギャンブル障害の診断基準では、まず「その状態のため何らかの問題が生じている」にあたる記載として「臨床的に意味のある機能障害または苦痛を引き起こすに至る持続的かつ反復性の問題賭博行動」があり、続いて記された9つの項目(つまり「症状」)のうち4つを12ヶ月以内に示すことが診断の条件とされている。
だがこの診断基準には当初からかなりの批判があった。その理由は、「症状」とされる9つの項目が「興奮を得たいがために、掛け金の額を増やして賭博をする要求」「賭博で金をすった後、別の日にそれを取り戻しに帰ってくることが多い(失った金を”深追い”する)」「賭博によって引き起こされた絶望的な経済状況を免れるために、他人に金を出してくれるよう頼む」などであることによる。これらはいずれもギャンブラーなら多かれ少なかれ認められることではないか、一体どこが病気なのか、という疑問が生まれるのはごく自然であろう。
ギャンブルに限らず、依存症と呼ばれるものには常にこの疑問がつきまとう。一体どこが病気なのかというこの疑問は、ただ本人の意志が弱いだけじゃないかという非難に直結する。そこで登場するのが、脳科学的な説明である。
3
精神の病(とされるもの)を脳科学的に説明しようとする方法としては、(1)その病に関連する脳の所見を示す (2)その病の個々の症状に関連する脳の所見を示す の二つがある。ここで「個々の症状」としては、何らかの認知機能の障害をターゲットにするのが常である。ギャンブル障害に特徴的な認知機能障害としては、3つのものがかねてより知られている。
第一は「ニアミス効果 near-miss effect」である。たとえば同じアイコンが三つ揃えば「勝ち」になるスロットマシンで、二つ揃ったときに、それは「勝ち」にとても近づいていると認知することを指す。確かに二つ揃えば「惜しい」とは言えるが、それでも負けは負けであって、「今回は惜しかった、だがもう少しだったのだから、もっとやってみよう」と考える(そのような動機づけがニアミス効果である)根拠にはならない。
第二は「ギャンブラーの誤信 gambler’s fallacy」である。これは「モンテカルロ誤信 Monte Carlo fallacy」とも呼ばれているもので、たとえば「黒が5回続けて出たから次はきっと赤だ」と考える誤信である。直前の事象は次の事象の確率には影響しないという初歩的な確率論は、ギャンブルで勝つためにはとても重要な基本知識だと言えるが、それさえも見失ってしまうのが「ギャンブラーの誤信」である。
第三は「コントロールの幻想 illusion of control」で、たとえば「私がスタートボタンを押せば、勝てる可能性が高まる」というような幻想である。ボタンを誰が押そうが結果に影響するはずはないのであるが、ほかならぬ自分の手なら勝ち負けという運命をコントロールできるという幻想を抱くことを指している。
これら三つの認知機能障害はいずれも、脳内の島(「とう」と読む。英語ではinsula)と関連していることが脳の画像研究で示されている。すると、ギャンブル障害は島insulaの機能異常と関連する脳の病であるという推定が生まれることになる。
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これに関連して、ロシアの作家ドストエフスキーは島insulaに機能異常があったのではないかという説が最近の医学雑誌に発表されている(本稿末の文献1)。ドストエフスキーがてんかんであったことは有名である。小説『白痴』の登場人物ミシュキンのてんかん発作の直前の体験として記載されている恍惚感は、ドストエフスキー自身の体験に由来すると考えられている。
『白痴2』ドストエフスキー 亀山郁夫訳 光文社 古典新訳文庫
p.121
それは鬱と魂の闇と圧迫のさなか、とつじょ脳髄が秒きざみで燃え上がり、すべての生命力が異常な勢いで一気に張りつめるのである。稲妻のごとく持続するこれらの瞬間には、生命感覚と自意識が、ほとんど十倍も研ぎ澄まされる。理性も心も異常な光に照らし出され、ありとあらゆる心の揺らぎ、ありとありゆる疑念、ありとあらゆる不安が一度に癒され、明るく調和的な喜びと希望に満ち、理性と最終原因が充満する何かしら至上の安らぎのなかに溶解していくかのようなのだ。
これはてんかんの「恍惚発作」と呼ばれているものに一致した描写である。
てんかん発作には「焦点」と呼ばれる脳部位がある。てんかん発作の源となる脳の電気活動の亢進が見られる部位が焦点である。そして恍惚発作の焦点として推定されているのが島insulaである。すると、もし『白痴』の記載が本当に彼自身の体験に基づくものであれば、ドストエフスキーのてんかんの焦点は島insulaであったということになる。
そして、てんかんほどよく知られてはいないが、ドストエフスキーはギャンブルに耽溺していた。現代であればギャンブル障害と診断されたかもしれない。そうなると、恍惚発作とギャンブル障害に共通して関連する脳部位である島insulaの機能障害がドストエフスキーにはあったという推定が説得力を持って迫ってくることになる。
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ギャンブル障害に関連する脳部位として島insulaを示すのは、本稿3で挙げた (2)その病の個々の症状に関連する脳の所見を示す という手法によるものであるが、(1)その病に関連する脳の所見を示す については、前頭葉との関連が示されることが多い。ギャンブル障害は大きく分ければ衝動制御の障害(衝動コントールの障害)に含まれるとみることができ、前頭葉が損傷されると衝動がコントロールしにくくなることが多数の症例研究から明らかになっていることとも整合性がある。
また、脳内の部位だけでなく、物質についての研究もある。多数の研究の結果、ギャンブル障害がドーパミン過剰と関係していることはある程度までは確実とされている。
これに関連して、治療中のパーキンソン病の人がギャンブル依存に陥ることがあることは以前から知られていた。3090人を対象にした大規模研究によると、ドーパミン製剤で治療されているパーキンソン病の17%にギャンブルの問題が見出されている(文献2)。ここにはドーパミンの作用が関与していることは確かだが、単純に治療薬の副作用として割り切れないことが最近のLancet Neurologyに論じられている(文献3)。
なお、【3498】ギャンブルを始めとする依存や対人関係について悩んでいます の回答で
質問者が自覚しておられる多くの問題は、質問者が罹患しておられるトゥレット症候群(Tourette syndrome)との関連が大きいと思います。
と述べたのは、トゥレット症候群はまさにドーパミンが過剰になる病気であり、事実、トゥレット症候群ではギャンブル障害をはじめとする衝動制御の障害が少なからず認められるからである(文献4)。
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脳に所見が示されると、それは病であると納得されやすい。脳内の部位であれ、脳内の物質であれ、客観的に見えるものがあることの説得力は常に大きい。診断基準として「興奮を得たいがために、掛け金の額を増やして賭博をする要求」とか「賭博で金をすった後、別の日にそれを取り戻しに返ってくることが多い(失った金を”深追い”する)」とかを示されても、「そんなものは病気と言えないのではないか」と言っていた人も、症状の基礎にある認知機能障害が脳の特定部位と関連することを示されると、あるいは脳内物質の増減によって症状が変化することを示されると、「するとやはり病気なのかなあ」という納得の方向に傾きがちである。
だがここに大きな誤謬がある。欺瞞と言ってもいい。
最大の誤謬は、脳の所見を過剰に奉る誤謬である。すなわち、精神に現れる変化については、それがどのような変化であれ、つまり正常範囲であれ異常の領域であれ、その変化に対応する脳機能の変化があるのは当然であるという事実を看過し、脳の検査結果に所見があればそれを病と診断する根拠として奉る。これは現代においては非常によく見られる誤謬である。
かつて脳の検査法が今ほど精密でなかった時代には、脳の検査で見つかる所見はかなり重大な損傷に限られていたので、「脳の検査で所見があれば、それは脳の病気であることを示す」という考え方は正当であった。しかし検査法が飛躍的に進歩した現代では、平均からのわずかな逸脱も脳の所見として見出すことができるようになっているから、「脳の検査で所見があったからといって、それがどうした」という問いが必要な時代になっている。検査法がさらに進歩し精密を極め、ひとりひとりの性格の違いも脳機能の違いとして説明できる日が来るもそう遠くないであろう。
もう一つは個々の脳の所見データについての誤謬である。こちらは欺瞞と言ってもいい。
先に、ギャンブル障害の複数の認知機能障害に共通して関連する脳部位として島insulaが示されていることを指摘した。だがそれを示した論文をよく見れば、「ニアミス効果」に関連するのは島insulaの機能亢進であり(文献5)、「ギャンブラーの誤信(モンテカルロ誤信)」に関連するのは島insulaの機能減弱であって(文献6)、180度反対の所見が示されている。すると島insulaはギャンブル障害に一体どのように関係していることになるのか? 「脳に所見あり」とひとことで言っても、このようにそれは機能の亢進だったり減弱だったりするわけで、どちらの場合にも病気と関連づけたそれなりの解釈は可能であるが、こうなるとそれは解釈というよりこじつけではないかという疑念がぬぐえない。この問題は脳画像研究ではしばしば指摘されており、ギャンブル障害も例外ではない。2013年にそれを論じた Fronto-striatal dysregulation in drug addiction and pathological gambling: Consistent inconsistencies? という皮肉をこめたタイトルの総説(文献7)も発表されている。(タイトルにある Consistent inconsistencies? とは、「結果が一定しないことがこの種の研究では一定している」ということを示している)
さらには、仮にある脳の部位(たとえば島insula)の機能低下がギャンブル障害と関連しているとした場合、では島insulaを損傷されている人のすべてがギャンブル障害になるわけではないことをどう説明するかという問題もある。これは脳内物質についても同様で、ドーパミン過剰が衝動制御障害〜ギャンブル依存に関連することは確実とされているが、ではドーパミンが過剰になる代表的疾患である統合失調症になぜギャンブル依存が多くないのかということが説明できない。
これらの問題の解釈として、ギャンブル障害ならギャンブル障害に関連する脳部位や物質は複数あって、それら一つ一つの亢進や低下の組合せと、さらには生育環境などによって、どの病気になるかが決まるのだという説明は不可能ではないし、それどころか真実を衝いている可能性も高いが、こうなると関連する因子が多すぎてもはや何の説明にもなっていない。「精神現象は脳の様々な部位の活動の総合によって決まる」という説明と大差ない。この説明においてあり得る組合せは、スロットマシンのアイコンの組合せをはるかに超えているであろう。
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もちろんだからといって脳科学的説明に意味がないということにはならない。ある障害に関連した物質が同定されれば、その物質の投与や遮断によって治療できる可能性がある。関連した脳部位が同定されれば、その部位を治療(たとえば磁気刺激)のターゲットにできる可能性がある。つまり治療法の開発においては大きな意味を持っている。だが病か否かという判断においては、意味を持っているとしてもかなり限定的である。
したがって話は戻り、脳の所見より何より、現実に現れている症状こそが、病気か病気でないかを決めるポイントということになる。
では依存症を病と診断するためのポイントは何か。ギャンブル障害の診断基準だけからは見えて来そうにないので、依存症という概念の原点に位置するアルコール依存症に目を向けてみよう。
アルコール依存症の作家の数は多いが、村上春樹との関係では(だいぶ話がそれたが、本稿を書き始めたきっかけはねじまき鳥クロニクルの英訳本 The Wind-Up Bird Chronicleを読んだことであった)、レイモンド・カーヴァー Raymond Carverを真っ先に挙げることになろう。彼だけでなく、彼の父もアルコール依存症であった。父親についての実に見事な(と私は考えている)カーヴァーの詩があり、村上春樹の、これもまた見事な翻訳で読むことができる。
ファイアズ(炎) レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳 中央公論社 1992年
p.114
二十二歳のときの父の写真
十月。このじめじめした馴染みのない台所で
僕は若き日の父親のはにかんだ顔をじっと見ている。
おどおどした笑みを浮かべ、片方の手でスズキに
通した紐を持ち、もう片方の手には
カールズバド・ビールの瓶。
ジーンズとデニムのシャツという格好で、父は
1934年型フォードのフェンダーに寄りかかっている。
彼は後世に向けて、いかにもぶっきらぼうで気さく
というポーズを取ろうとしている。
その古い帽子を耳の上にまで曲げて。
最後まで、父は剛毅な人間になりたがっていた。
でもその目は本当のところを教えてくれる。そして死んだスズキと
ビール瓶をさしだすだらっとした両手も。父さん、僕はあなたの
こと好きだよ。でも感謝するわけにはいかないな。僕もまた
酒にふりまわされている。どこで釣りをすればいいのかさえもわからない。
Fires Raymond Carver Vintage Books London 2009
p.59
PHOTOGRAPH OF MY FATHER
IN HIS TWENTY-SECOND YEAR
October. Here in this dank, unfamiliar kitchen
I study my father’s embarrassed young man’s face.
Sheepish grin, he holds in one hand a string
of spiny yellow perch, in the other
a bottle of Carlsbad Beer.
In jeans and denim shirt, he leans
against the front fender of a 1934 Ford.
He would like to pose bluff and hearty for his posterity,
Wear his old hat cocked over his ear.
All his life my father wanted to be bold.
But the eyes give him away, and the hands
that limply offer the string of dead perch
and the bottle of beer. Father, I love you,
yet how can I say thank you, I who can’t hold my liquor either,
and don’t even know the places to fish?
淡々と事実を綴る文が、Father, I love youの一文で唐突にカーヴァーの、そして読者の心の至近距離に飛び込んでくる。ゆっくり流れていた川の水が急に滝に落下するようなこの転調の美しさがこの詩を傑作にしている(と私は思っている)。村上春樹の訳文も原文の雰囲気を見事に反映している。
それにしてもこれは実に繊細に作られた詩である。たとえば原文にはスズキ perch という単語が2回出て来るが、2回目にはdead がつけられており、この一見不要と思われる形容詞は、転調以下の3行をさらに効果的にする役割を持っているように思える。
この詩が掲載されているFiresは、詩とエッセイと小説が一冊に収まっているという独特の形の本である。エッセイの一つ、My Father’s Lifeには、アルコール依存症だった父の描写とともに、この詩を書くに至った経緯が記されている。「二十二歳のときの父の写真」は、彼が母からもらった実在の写真で、冒頭の10月October以外はすべて事実だという。My Father’s Lifeに次のように書かれている。
Fires Raymond Carver Vintage Books London 2009
p.21
My Father’s Life
The poem is true in its particulars, except that my dad died in June and not October, as the first word of the poem says. I wanted a word with more than one syllable to it to make it linger a little. But more than that, I wanted a month appropriate to what I felt at the time I wrote the poem — a month of short days and failing light, smoke in the air, things perishing. June was summer nights and days, graduations, my wedding anniversary, the birthday of one of my children. June wasn’t a month your father died in.
ファイアズ(炎) レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳 中央公論社 1992年
p.131
父の肖像
最初に出てくる「十月」というのをのぞけば、その詩は細部まで現実に即している。父が死んだのは本当は六月だ。私は響きに含みをもたせるために一音節のJuneよりはOctoberの方を選んだのだ。しかしそれにも増して、私はその詩を書いたときの気分にふさわしい月を選びたかったのだ。日が短くなって日の光が弱まり、空気がぼんやりとして、事物が枯れ落ちていく月をだ。それに比べて六月には夏の輝きが溢れ、卒業式の季節であり、私の結婚記念日のある月でもあり、私の子供の一人の誕生日もある。六月は父を亡くすのにふさわしい月ではない。
写真を手にしてから詩を書くまでの経緯は次のように記されている。
p.20
I put it up on my wall, and each time we moved, I took the pictures along and put it up on another time we moved, I took the picture along and put it up on another wall. I looked at it carefully from time to time, trying to figure out some things about my dad, and maybe myself in the process. But I couldn’t. My dad just kept moving further and further away from me and back into time. Finally, in the course of another move, I lost the photograph. It was then that I tried to recall it, and at the same time make an attempt to say something about my dad, and how I thought that in some important ways we might be alike. I wrote the poem when I was living in an apartment house in an urban area south of San Francisco, at a time when I found myself, like my dad, having trouble with alcohol. The poem was a way of trying to connect up with him.
p.29
私はその写真を壁にかけ、引越すたびにそれをまた新しい壁にかけるべく持ちはこんだ。そして折りにふれてはそれを眺め、父親についての何かを理解し、それを通して、ひいては私自身をも理解しようとつとめた。しかしそれはうまくいかなかった。父はどんどん私から遠ざかり、過去の時間の中に埋もれていった。そしてそうこうするうちに引越しに紛れて、私はとうとうその写真を失くしてしまった。そのとき私はそれをなんとか思い出そうとつとめ、同時に父について何かを書いてみようとした。我々二人がいくつかの重要な共通性を有しているかもしれないと思ったことについて私は書いてみたかった。私はその詩をサン・フランシスコの南側近郊にあるアパートの一室で書いた。その当時、私は父と同じようにアルコール中毒に苦しんでいた。その詩は私と父の結びつきを求めようとした試みだった。
こうして作成の経緯を知らされると、詩から感じ取れるものがまた違ってくる。父の肖像。そこに重なる息子の肖像。父と息子の結びつき。共通性。その中でアルコールだけを取り上げるのは明らかに不適切だが、本稿のテーマ(ではなかったのだが、途中からテーマになった)依存症に立ち戻るためには、無理矢理にでもそうしなければならない。上記引用の通りカーヴァーの原文は
at a time when I found myself, like my dad, having trouble with alcohol.
であるが、村上春樹の訳文は
その当時、私は父と同じようにアルコール中毒に苦しんでいた。
となっている。
原文の having trouble with alcoholは、様々なレベルの飲酒問題全般を含む非特異的な表現だが、訳文のアルコール中毒は、アルコール依存症とほぼ同じ概念であるとみてよい。実際にはカーヴァー父子はいずれもアルコール依存症であったから、アルコール中毒というのは正しい表現だが(カーヴァー自身が having trouble with alcohol という表現を採り、alcoholic とかalcohol dependence という表現を採らなかったことには重要な意味があるかもしれないがそれはとりあえず措く)、アルコール依存症(アルコール中毒)は病名であるのに対し、飲酒問題は病名ではないので、そこに線を引く必要がある。すなわち、病気ではない飲酒問題と、病気としてのアルコール依存症はどこが違うのか。その二つを分けるものは何か。
現代においては、診断基準という成文化されたものと照合して線を引くのが公式な手順とされている。
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現代の診断基準のフォームは統一されている。「何らかの問題が生じている」という必要条件の記載に続き、症状が複数リストアップされており、そのうちの一定数を満たせば診断確定という形である。依存症ももちろんこの形を取っている。
但し当然ながらどの基準項目も、十分な調査研究に基づいて選択され、さらに実地調査による検証を経た上で公式の診断基準に収載されるという手順を経たものである。この過程をスキップして、単なる観察だけに基づいて任意に項目を作ると、信頼性を欠くのみならず、滑稽な「病気」が生まれる。かつらをつけ始めた結果やめられなくなる人が多いという観察に基づき、これは「かつら依存症」という病気といえるのではないか、ではかつらをやめられなくなる人の特徴を抽出して診断基準を作ろう、という考えに基づいて作られた診断基準がもしあるとすれば、それは全く信頼できないのみならず、「かつら依存症」という滑稽な概念が作られることになるであろう。
それとほぼ同様のことが現に起きている。しかも依存症の医学専門誌に論文として掲載されている。「タンゴ依存症」である(文献8)。
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その論文を書いたのはフランスの医師である。「タンゴに依存する」と言われても日本ではあまりイメージできないが、フランスではタンゴ(アルゼンチンタンゴ Argentine tango)にのめり込む人がそれなりの数は存在するらしい。それに着目したこの論文の著者は、タンゴを趣味とする人々からの聞き取りと、DSMと、Goodmanの基準(文献9)をもとに、タンゴに関する質問票を作成した。それが “Tango dancing questionnaire according to DSM-Ⅳ and Goodman’s criteria” である。そしてこの質問票を用いたWeb調査を行った結果、「現代における依存症の定義に従えば、タンゴも依存症に陥る可能性がある (Tango dancing could lead to dependence as currently defined)」と結論している。するとタンゴ依存症というものが存在し、タンゴを趣味とする人はそれに陥らないように注意すべきなのか。医学論文として発表されるからには、当然そういうことになろう。
だがこの論文には重大な欺瞞がある。それは調査に用いられた質問票である。“Tango dancing questionnaire according to DSM-Ⅳ and Goodman’s criteria”と言われると、DSMとGoodmanに権威づけられ、いかにもそれなりに信頼性がある質問票のような印象を受けるが、実際には上述の通り、DSMとGoodmanだけでなく、タンゴを趣味とする人々からの聞き取りにも基づいた項目がいくつも入っている。その中には「タンゴをすればするほど楽しい」「タンゴは健康に役立っている」「タンゴは人生にプラスになっている」「タンゴのお蔭で私の生活はより良くなっている」などの項目(ポジティブ項目)があり、これらは趣味を持ち、それを続けている人であれば誰もが感じていることの記載にほかならない。タンゴを趣味とする人に質問すれば、こうしたポジティブ項目についての質問にはイエスの答が返ってくるのはあたり前である。それを依存症の兆候だとか症状だとか言うのであれば、すべての趣味は依存症である。
質問票はこのポジティブ項目4つを含んだ合計26項目から成っている。そしてこの質問票による調査結果に基づき、タンゴ依存症なる概念が提唱されているのであるが、結果をよく見れば、被調査者(つまりタンゴを趣味とする人々)の得点が高かったのは主にポジティブ項目である。ということはつまり、いかにも信頼性ある質問票を用いて調査した結果、タンゴ依存症というものの存在が浮かび上がったかのように書かれているが、実際には「タンゴを趣味とする人は、タンゴを楽しんでいる、享受している」という全くあたり前のことを言っているにすぎない。
さらに言えば、繰り返し述べてきた通り、依存症を病気と認めるためには、「何らかの問題が生じている」が必要条件であり、DSM等に記されている項目もこの必要条件を満たすという大前提があって初めて意味を持つものであって、項目だけを抽出して論じても意味がない。この論文の質問票の一部は確かにDSMから引用されているが、大前提を外した引用であるから、全く意味をなしていない。
このような論文が医学専門誌に堂々と掲載されるとは滑稽を通り越して脱力してしまう。もし「本当にあったトンデモ医学論文集」というものでもあれば、エントリーの有力候補になる論文であろう。
10
タンゴ依存の論文が掲載されてから2年後の2015年、同じ雑誌に「占い依存 Fortune telling addiction」の論文が掲載されている(文献10)。タイトルだけを見るとこれもまたトンデモ医学論文なのではないかと思いたくなるが、実際に読んでみるとこちらはなかなか考えさせられる論文である。
まず、「占い依存」はケースレポートである。つまり、少なくとも本人はとても悩み、治療を求めて依存症専門病院を受診している。趣味を楽しんでいる人々に「あなたは依存症かも」と余計なお節介(かもしれない)的忠告をするタンゴ依存とは、まずこの点が大きく違う。本人が、「私は占い依存です」(論文タイトルは Fortune telling addictionだが、本人の訴えは Clairvoyance addiction)と言って受診したのである。ヘレンという仮名で記されているこの45歳の女性は、被虐待、離婚などの経歴があり、元々カウンセリングを受けていた。依存症専門病院を受診したのは、占いに金を使い過ぎるという自覚からだった。彼女が最初に占い師に相談したのは19歳。その後も、何か決断が必要なときは占いに頼っていたところ、20代半ばになってそれが過剰になり、止められなくなった。内容は「彼は本当に私を愛しているのでしょうか?」「彼との関係は続けられるのでしょうか?」、そして彼と別れた後は「彼とやり直せる日が来るのでしょうか」という類のものだった。占い師に相談するとき彼女は、その占い師が本当に未来を予測できると確信している。しかしすぐにまた不安になり、別の占い師に同じ相談をする。次にまた別の占い師に相談する。どこまでいってもこれがやめられず、多額のお金を占いに費やしてしまう。一方で彼女は、占いを本気で信じるのは不合理だとわかっている。だがどうしてもやめられない。そしてついに、自分が占い依存であるという自覚の下、依存症専門病院を受診したのである。
論文の考察にも記されているが、ヘレンの症状は強迫性障害という診断も可能な性質を持っている。「不合理だとわかっているのにやめられない」のが強迫性障害の一つの典型的な特徴である。他方で確かに依存症一般に認められる性質も持っており、ここであらためて強迫性障害と依存症の共通点に気づかざるを得ない。どちらも「やめたいと思っているのにやめられない」と言葉で表現すると区別がつかないのである。無意味な動作を繰り返したり無意味な思考が止められない強迫性障害に対して、依存症の依存対象は、元々は本人にとってメリットがあったものがやめられなくなるという点が違いといえば違いであるが、強迫性障害の強迫行為は最初から無意味なものとは限らず(たとえば 手を洗う のは決して無意味な行為ではない)、すると強迫と依存の境界は曖昧になってくる。
というような、やや大袈裟に言えば精神疾患の診断にかかわる重要な問題を、「占い依存」と自称して受診したケースの分析をベースに論じたのがこの占い依存の論文である。タンゴ依存のほうは、読んだ後で、何とくだらない論文を読んでしまった、時間の無駄だったと後悔したのであるが(それが本稿9の最後の記載に反映している。たぶん。)、占い依存のほうは好論文であった。ただし、一症例だけで○○依存と名前をつけるのが適切かどうかはまた別の問題で、ただでさえ奇妙な病名が跳梁跋扈している精神医学界をさらに混乱させることになりかねない。しかしまあ医学論文とはいえ人に読んでもらわないと価値がないわけで、論文タイトルはある程度は刺激的なものにすることはやむを得まい。この論文のフルタイトルはFortune telling addiction: Unfortunately a serious topic about a case reportで、FortuneにUnfortunatelyを対比させるという細かい芸まで導入されている(文献10)。
(続きは後日書きます多分)
参考文献
1. Tenyi et al: The possible role of the insula in the epilepsy and the gambling disorder of Fyodor Dostoyevsky. Journal of Behavioral Addictions 5: 542-548, 2016.
2. Weintraub D et al: Impulse control disorders in Parkinson disease: a cross-sectional study of 3090 patients. Archives of Neurology 67: 589-595, 2010.
3. Voon et al: Impulse control disorders and levodopa-induced dyskinesias in Parkinson’s disease: an update. Lancet Neurology 16: 238-250, 2017.
4. Robertson MM: A personal 35 year perspective on Gilles de la Tourette syndrome: prevalence, phenomenology, comorbidities and coexistent psychopathologies. Lancet Psychiatry 2: 68-87, 2015.
5. Chase HW, Clark L: Gambling severity predicts midbrain response to near-miss outcomes. The Journal of Neuroscience 30: 6180-6187, 2010.
6. Clark L et al: Damage to insula abolishes cognitive distortions during simulated gambling. Proceeding of the national Academy of Sciences USA 111: 6098-6103, 2014.
7. Limbrick-Oldfield EH, van Holst RJ, Clark L.: Fronto-striatal dysregulation in drug addiction and pathological gambling: Consistent inconsistencies? Neuroimage Clin 5: 385-393, 2013.
8. Targhetta et al: Argentine tango: Another behavioral addiction? Journal of Behavioral Addictions 2: 179-186, 2013.
9. Goodman A: Addiction: definition and implications. British Journal of Addiction 85: 1403-1408, 1990.
10. Grall-Bronnec et al: Fortune telling addiction: Unfortunately a serious topic About a case report. Journal of Behavioral Addictions 4: 27-31, 2015.