【2761】私だが私ではない人が私の頭に住んでいます。
Q: 私は20代の女性です。おそらく。 (少なくとも戸籍には女性とあります)
私は事実が知りたいです。いくつもの質問を見て、林先生の回答してくれる事実に安心や勇気をもらいました。けれど、自分の都合が良いように林先生の回答と皆様の質問を使っているのではないかと不安になりました。 以下に私の思っていること、覚えていることを記載します。
■はじめに私は1つのことを考えることができません。何かを考えたり話したりするとき、最低でも三つくらいは意見が出てきます。どれが必要な情報なのかわからないのでとにかく書き連ねるという形をとります。
■私は癇癪のひどい子だったらしいです。らしい、というのは私の感覚としてかなり薄れているからです。また、自分の感覚が信じられなくなる時がしばしばあるからです。しかし友人や母親から短気な面があり、怒り狂った自分は恐ろしいという意識もあります。6年ほど前まで、怒り狂った自分は人を殺してしまうかもしれないから感情を出すのが怖い。とも思っていました。感情は発露させなくてはならない、溜め込んだまま爆発させるほうがよっぽど危険だし、ストレスになる。という話を聞いてから、少しずつ怒りを発散するようになりました。今ではカッとなって殺してしまうかもしれないという不安はありません。
■乖離か私は怒りに支配されることが怖くて、冷静でありたいと思うようになりました。いつからなのか、きちんとわかりません。私は小中学校の記憶が曖昧です。ひどいときは高校とも混同されますが、クラスメイトの顔ぶれや、学校の物理的な構造からいやあの時は……と訂正することもできます。ただし、その訂正が正しいかどうかはわかりません。きっと正しいだろうとは思いますが、証拠がありません。 証拠がないことは信じられません。日記やメモをたくさん使います。日記やメモがないと、すぐとはいいませんがだんだん不安定になります。何をしていたのかわからないからです。友人や家族に聞いても、私がそれをちゃんと認識できるかわかりません。突き詰めていくと、私は幻覚を現実だと思っているのではないか。実は今みんな死んでいるのではないか、周りは笑っていないのではないか、とにかく全て嘘なのではないか?と不安に思います。 私は冷静でありたいので、いろんな角度から物事を見れるようになりたいと思いました。冷静な人というのは様々な可能性と立場を考えておき、想定外を減らしていると思ったからです。 多角的な視野というのはやがて人格という形で出てきました。私だが私ではない人が私の頭に住んでいます。彼らは出たり消えたりを繰り返し彼ら同士で関係をもちます。名前のある人とない人がいます。姿もあったりなかったりしますが、共通して自分は現実的に存在していないものだという意識があります。 意識させているという感覚もあります。彼らは私が(意識的か無意識的かはともかく私が)生んだので私に従うべきだと思います。彼らもそれで異論はありません。彼らは私に危害を加える目的はないからです。 多角的な視野を得るために彼らと会話しているという意識はありません。私が新しい視野を増やすと、彼らが増えている。いわゆるメモリやログだと思います。 これらのことを病的だと判断しています。自分は周囲と違うらしい、周囲は自分と違うらしいと思ってから、自分が病的だと自覚をもつようにしています。日常生活や会話にあまり問題がないため、しばしば「そういえば病気だった」となってしまうことがあります。内心では病気ではない、または自分が病気でない社会ならいいのになどと戯けた考えをしています。 病気とは何なのかというところまで発想が飛躍します。日常生活や会話に支障がないなら病気と呼べないのでは?と思っています。でもそれは専門家が決めることで私が決めることではありません。しかし専門家が決めたことも世間では誤りとされていたりして、よくわかりません。
■無関係か父が厳格で理論的な人だったと記憶しています。子供心にそう思った、というだけで、母の話を聞く限りでは楽観的で飄々とした、甲斐性なしだったそうですが、母の主観です。父は証拠のないことが嫌いでした。根拠のない言われに真っ向から対抗していく人でした。示談というものを許さず、自分に非がないと確信していれば勝ちを取りに行く人でした。知識に貪欲でした。新しいことに興味が強い人でした。しかし、一度怒りだすと危険な人でした。 帰宅時間が3分かそこら過ぎたというだけで、おもちゃのバットで叩かれたことがあります。あまりの恐ろしさにバットを隠しました。いくつのころか覚えていません。たぶん保育園、でも環境で言うなら小学生、わかりません。寝入っていたら金属製の缶を頭の近くへ投げつけられたことがあります。怒らないでほしい。と前置きをしてから何かしらの話をして椅子から叩き落とされた覚えがあります。怒られても仕方のないことだったとは記憶していますが、叩き落とされたことのほうが衝撃的でした。 家の出入り口の壁に死にたいだとか辛いだとか必要ないだとか、子供心にも病気めいた文を書いていました。鉛筆です。冷蔵庫の裏にも書きました。机の隅にも書きました。タオルに火をつけたことがあります。毛髪や紙を燃やしたことがあります。家の外に燃えくずが大量にあって怒られました。母親に確認した限り、バットを隠したことと、病気めいた文を家中に隠すように書いたこと、度の超えた火遊びをしていたことは確かです。これらは小中学生のころにやりました。手首を浅く切り刻んだり腕をはさみで執拗に削っていたりしたこともあります。かすり傷です。こちらも母親に確認してありますので間違いありません。 それぞれの順番や正確な年代はまるきり思い出せません。
■対処は合っているか何かの本で「怒りは悲しみの代替」だとか「過去の体験に対して怒りを抱いていることが多い」だとか「過去を見つめ直してみると突破口が見えることがある」というのを読みました。(私は高校生のころ、カウンセラーから統合失調症の疑いがあると言われました。思い込み(暗示)になるといけないから、統合失調症について調べたりするのは避けた方がいい。と言われたのですが、私は何も知らないままでいるほうが怖くて、心理学や精神医学、それらの本に傾倒しました。カウンセラーの先生には症状の経過ややっていることについて話し、強い精神力があるなどと褒めてもらっていましたが転勤されてしまいました。強い精神力という話が事実かどうか今では自信がもてません。過去の一部にはいつも不安があります。) 私はやがて自問自答を繰り返していくようになりました。昔から自分一人でどうにかするという傾向はありましたが、意識的に取り組んだのは高校からです。 自分がおかしな考え方をしていると思ったら否定して、別の意見をだすようにしました。あの人は怒っていました。それは事実。でも、私のことで怒っていたのではないと思う。私は怒られることをしただろうか。していない。今は機嫌が悪い。怒っている様子だ。だから時間が経ってからもう一度会いに来よう。というように1つ1つ考えるようにしました。 今私が苦しんでいたりうまくいかなかったりする原因をたどってみると、小中学生のころの体験に直結しているような気がします。 それと向き合っていくことは正しいでしょうか。そして私は解離でしょうか統合失調症でしょうか。どちらにしても私は一般的でないのは事実だと思います。 一般的でないことに快感も喜びもありません。友人たちの常識と当たり前に共感ができないのは悲しいことです。しかし一般的でないことに快感を覚えることが統合失調症をはじめいくつかの精神障害や精神病にはあるといいます。 私ははた迷惑な存在でしょうか。生きているだけで他人を利用する悪魔でしょうか。一般的でないことに快感を覚えているのでしょうか。そう見えるということはそうだと同義なのでしょうか。昔に言われたことを引きずり覚え続けてしまうのは辛いです。 おかしな人は存在してはいけないのでしょうか。自殺を考えることはありません。昔は首を吊ったりしましたし飛び降りを考えたこともたくさんありましたがどうしても死体処理や葬儀代、それから周囲で自殺や事故によって家族をなくし残された方々のことを考えると死ぬのは気楽なことではないと思ったからです。
かつて通院はしていました。森田療法というのを使う場所でした。薬をできるだけ使わない療法ということでお願いしたのです。発症していないなら薬を使わなくてもどうにかなるのでは、というのと少々身体が弱いので副作用の重みに耐えられるか自信がなかったというのがあります。事実、弱めの精神安定剤を出された時には副作用のほうがきつくて学業に支障がでました。それでも勝手にやめるのはよくないと聞いていたので、症状が安定し日常生活や会話で支障がなくなると判断されるまでは飲んでいました。 統合失調症の疑いがあるとカウンセラーに言われたのが高校生ですが、自分の後頭部や足元が見えたり幻覚が聞こえたりというのは小学生や保育園のころからあったと記憶しています。カウンセラーとの会話中にふっと、自分が見ている自分のことをたくさん思い出したからです。 私が私を思い出す時はいつも第三者目線なのです。そして、どこか遠くから、またはやたらに近くなのです。 それとこれはもしかして一番大事だったかもしれません。自分にとってあまりに当たり前すぎて言うのを忘れていました。 私の横にはいつも違う世界があります。世界は現実のものに対応しています。鏡が真実をうつすように、その世界は現実のものの真実をうつします。(人にわかりやすく説明するならそう例えたほうがいい、というだけで本当にそうだとは思っていません。)たとえば女性になりたい男性の人がいたら、私の世界ではそのまま女性としてうつるような形です。理想の世界のようですが、理想だけでもないです。現実と同じですからうまくいかなかったりすることもあります。 たぶんカウンセラーの先生は私の「他の人にない世界が自分にある」という話から統合失調症ではないかと言い出したのだと思います。
林:
そして私は解離でしょうか統合失調症でしょうか。
解離だと思います。
子ども時代の記憶がない(または曖昧)なこと、幻覚とその性質、それから記憶のよみがえり方 (私が私を思い出す時はいつも第三者目線なのです。そして、どこか遠くから、またはやたらに近くなのです。) は、いずれも解離を示唆するものです。
また、
多角的な視野というのはやがて人格という形で出てきました。私だが私ではない人が私の頭に住んでいます。彼らは出たり消えたりを繰り返し彼ら同士で関係をもちます。名前のある人とない人がいます。姿もあったりなかったりしますが、共通して自分は現実的に存在していないものだという意識があります。 意識させているという感覚もあります。
これは、解離性同一障害の前駆的症状として時おり見られるものです。
そして、これらの「人」についての質問者の姿勢、すなわち、
彼らは私が(意識的か無意識的かはともかく私が)生んだので私に従うべきだと思います。彼らもそれで異論はありません。彼らは私に危害を加える目的はないからです。 多角的な視野を得るために彼らと会話しているという意識はありません。私が新しい視野を増やすと、彼らが増えている。いわゆるメモリやログだと思います。 これらのことを病的だと判断しています。
これは、解離の色彩が強いものです。
「自己の中の他者」という体験は、統合失調症にもしばしば見られるものですが、上記の姿勢、及びその他の症状を総合すると、この【2761】が体験されていることは、統合失調症より解離の可能性のほうがはるかに高いです。
たぶんカウンセラーの先生は私の「他の人にない世界が自分にある」という話から統合失調症ではないかと言い出したのだと思います。
たぶんそうでしょう。しかし上記説明の通り、「他の人にない世界が自分にある」は、統合失調症の可能性を考えるきっかけにはなっても、それだけでは決め手にはなりません。
(2014.8.5.)