ノルウェイの森
1
ふと思いたって、村上春樹の『ノルウェイの森』の英訳版を読んでみた。
Haruki Murakami: Norwegian Wood
translated by Jay Rubin
Vintage Books London 2003
この小説には心を病んだ人物が何人も登場する。統合失調症。虚言症。発達障害。その他。もちろん『ノルウェイの森』はフィクションだから、登場人物は架空、そして病気も架空と読むべきだろう。それでも私は本稿で、実際の病気と、『ノルウェイの森』に描かれている病気を対比してみようと思う。そんな対比にどれだけ意味があるかはわからない。少なくとも作品評論としては全く無意味であろう。だがそもそも私は評論をするつもりなどないし、村上春樹自身が、
『ノルウェイの森』のときは、とにかく全部をリアリズムで書こうとした。
と言っていることを知って(『スプートニクの恋人』を中心に 聞き手 島森路子 広告批評 1999年10月号: 文春文庫 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』収載)、少なくとも『ノルウェイの森』については、作品内の描写と実際との対比が全く無意味ということはないと考え、本稿を書き進めてみることにした。
2
病の話に入る前に少しだけ触れたいことがある。井戸のことだ。
村上春樹の作品には、しばしば深い井戸が出てくる。深い井戸に落ちて、井戸の底から空を見上げる描写だ。『ノルウェイの森』では、最初の10ページほどで早くもこれが出てくる。ある野井戸について、「直子」が「僕 = ワタナベ・トオル」に語る。その井戸が実在するかどうかはわからない。直子の想像かもしれない。だがその話を聞いたワタナベは、その井戸の隅々まで具体的に思い浮かべることができるようになる。草原と雑木林の境目にある。直径1メートルほど。おそろしく深い。それが何処であるかは誰も知らない。
『ノルウェイの森』(上・下) 村上春樹 講談社文庫 1991 第1刷 より。
上p.13
「でもそれじゃ危なくってしょうがないだろう」と僕は言った。「どこかに深い井戸がある、でもそれが何処にあるか誰も知らないなんてね。落っこっちゃったらどうしようもないじゃないか」
「どうしようもないでしょうね。ひゅうううう、ポン、それでおしまいだもの」
英訳はこうだ。
p.5
“Then it must be incredibly dangerous,” I said. “A deep well, but nobody knows where it is. You could fall in and that’d be the end of you.”
“The end. Aaaaaaaah! Splat! Finished.”
ここで目につくのは Aaaaaaaah! だ。擬音語、擬態語の翻訳は難しいものだが、音感はともかくとして、「ひゅうううう」は、声ではなく落下中に風を切る音がもとになった擬音語だと思うが、英語のAaaaaaaah! は悲鳴ではないのだろうか。まあどうでもいいことだが。
さらに直子は語る。落ちたときに即死してしまえばまだいいが、そうならなかった場合、「どうしようもないわね you couldn’t do a thing」と彼女は言う。そして井戸の底の絶望的な状況を語る。
上p.14
声の限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやらクモやらがうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて。
p.6
You’d yell at the top of your lungs, but nobody would hear you, and you couldn’t expect anyone to find you, and you’d have centipedes and spiders crawling all over you, and the bones of the ones who died before are scattered all around you, and it’s dark and soggy,
確かにどうしようもない状況だ。そして英訳のほうがさらにどうしようもない状況の描写になっている。原文のムカデやクモはまわりに「うようよいる」だけだが(「だけ」といっても身の毛がよだつ。しかし暗くてムカデもクモも見えないような気もするが)、英訳だと crawling all over you だから、ムカデやクモが体に這い上がって来るのだ。何とおぞましいことか。声の限りに叫びたくなるが、叫んでみても誰にも聞こえない。それとも声など出ないだろうか。
いや、私が今この部分を引用したのは、ムカデやクモのためではない。ここから後の描写が本題。
上p.14
そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。
p.6
and high overhead there’s this tiny, tiny circle of light like a winter moon.
井戸の底から空を見る描写。この描写の和文と英文の対比が、私はかねてから気になっていた。というのは、おそらくこれもよく知られていることだと思うが、村上春樹による翻訳全集が出ているレイモンド・カーヴァーにもこのような場面の描写があるからである。村上春樹がカーヴァーの英文をどう和訳したか。そしてJay Rubinが村上春樹の和文をどう英訳したか。この機会に両方を比べてみる。カーヴァーの原書はこれだ。
Raymond Carver
Cathedral
Vintage Contemporaries Edition, June 1989. New York
これは短編集で、タイトルのCathedralはその中の代表作である。この本に収載されている作品、
Where I’m calling from
の描写より。舞台はアルコール依存症からの回復を目指す人々の療養所だ。入所者の一人、30代男性JP (Joe Penny) が、子ども時代に井戸に落ちた実体験を語る。
p.130
But he told me that being at the bottom of that well had made a lasting impression. He’d sat there and looked up at the well mouth. Way up at the top, he could see a circle of blue sky. Every once in a while a white cloud passed over. A flock of birds flew across, and it seemed to J.P. their wingbeats set up this odd commotion. He heard other things. He heard tiny rustlings above him in the well, which made him wonder if things might fall down into his hair. He was thinking of insects. He heard wind blow over the well mouth, and that sound made an impression on him, too. In short, everything about his life was different for him at the bottom of that well. But nothing fell on him and nothing closed off that little circle of blue. Then his dad came along with the rope, and it wasn’t long before J.P. was back in the world he’d always lived in.
そして和訳。こちらは Where I’m calling from が本のタイトルになっている。
『ぼくが電話をかけている場所』
レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳 中公文庫 1986年 より。
p.113
でもね、と彼は言う、井戸に落っこちたおかげで俺の頭の中にはあるひとつの情景が今でもくっきりと焼きついているんだよ。彼は井戸の底に坐ってずっと井戸の口を見あげていた。てっぺんには丸く切りとられた青い空が見えた。時おり白い雲が通り過ぎていった。鳥の群れも横切っていった。鳥たちの羽ばたきはJPの動揺をあおっているみたいだった。他にもいろんな音が聞こえた。上の方でさわさわという小さな物音がした。頭の上に何かが落ちてくるんじゃないかと彼は思った。虫なんかのことだ。井戸の口で風が鳴っていた。そしてその音も彼の心にしっかりと刻みこまれた。要するにこれまで彼がなんいうこともなくやりすごしてきた何もかもが、井戸の底にあってはいつもとがらりと違って見えたのだ。しかし結局のところ何も落ちてはこなかったし、何かがその小さな青い円をふさいだりもしなかった。そして父親がロープを持ってやってきて、JPはまもなく住みなれたもとの世界に戻った。
直子の語る井戸(たぶん直子の想像上の存在だ)に比べると、かなりましな状況だ。井戸の深さもだいぶ違うようだ。ポイント部分だけをもう一度引用して比べてみよう。
JPが井戸の底から上を見上げる。
てっぺんには丸く切りとられた青い空が見えた。
Way up at the top, he could see a circle of blue sky.
直子の井戸の底から上を見上げる。
そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。
and high overhead there’s this tiny, tiny circle of light like a winter moon.
『僕が電話をかけている場所』も小説だが、その中でのJPの語る井戸は小説の中で現実の体験として描かれている。それに対して直子の語る井戸は直子の想像として描かれている。同じフィクションの中の井戸といっても設定が違う。フィクションの中でも現実は現実らしい描写になっている。本稿、「3」以下で扱うのは、『ノルウェイの森』というフィクションの中で、直子の、ワタナベの、その他の登場人物の、現実の体験として描かれている内容である。
3
『ノルウェイの森』には心を病んだ人が何人も登場する。本稿ではその中で統合失調症と虚言症を取り上げる。
4月、直子の二十歳の誕生日の夜、ワタナベは彼女と寝る。翌日から直子は姿を消す。ワタナベは手紙を出すが、返事は来ない。7月にようやく来る。直子は病気で休学し、京都の山の中の療養所に入ることにしたという。短い手紙だ。そして秋には長い手紙が届く。そこには療養所の様子が描写されている。英訳と対比して示す。
上p.160
ここには全部で七十人くらいの人が入って生活しています。その他のスタッフ(お医者、看護婦、事務、その他いろいろ)が二十人ちょっといます。とても広いところですから、これは決して多い数字ではありません。それどころか閑散としていると表現した方が近いかもしれませんね。広々として、自然に充ちていて、人々はみんな穏やかに暮らしています。あまりにも穏やかなのでときどきここが本当のまともな世界なんじゃないかという気がするくらいです。でも、もちろんそうではありません。私たちはある種の前提のもとにここで暮らしているから、こういう風にもなれるのです。
p.113
There are about 70 people living here. In addition, the staff (doctors, nurses, office staff, etc.) come to just over 20. It’s such a wide-open place, these are not big numbers at all. Far from it: it might be more accurate to say the place is on the empty side. It’s big and filled with nature and everybody lives quietly — so quietly you sometimes feel that this is the normal, real world, which of course it’s not. We can have it this way because we live here under certain preconditions.
人里離れた自然の中の療養所。そういうものは現実世界にも実在する。しかし入所者70人に対し、スタッフが20人。医師も複数。全文を読むと、少なくとも3人の医師が勤務していると推定される。入所者70人に対してこれだけ充実したスタッフ構成の療養所がどこかに実在するとは考えにくい。経済的な理由からだ。しかしこれは、療養費が決して安くないこと、そして設備はすべてがある人の寄附で成り立っているからだという説明が後に出てくる。
阿美寮(あみりょう)という名のこの療養所では、入所者とスタッフにあまり区別がない共同生活が営まれている。運動をする。野菜を作る。本を読む。音楽を聴く。直子からの手紙を読んだワタナベが阿美寮を訪れた日、そこで療養する元ピアノ教師のレイコが説明する。
上p.177
まず最初にあなたに理解してほしいのはここがいわゆる一般的な『病院』じゃないってことなの。てっとりばやく言えば、ここは治療するところではなく療養するところなの。もちろん医者は何人かいて毎日一時間くらいはセッションするけれど、それは体温を測るみたいに状況をチェックするだけであって、他の病院がやっているようないわゆる積極的治療を行うということではないの。
p.126
The first thing you ought to know is that this is no ordinary ‘hospital’. It’s not so much for treatment as for convalescence. We do have a few doctors, of course, and they give hourly sessions, but they’re just checking people’s conditions, taking their temperature and things like that, not administering ‘treatments’ as in an ordinary hospital.
阿美寮は、治療するところではなく療養するところ。積極的治療(英文では ‘treatment’ と‘ ’をつけて表記することで訳語としている)は行わない。
些細なことだが、上記英文には誤訳が二箇所あると思う。原文は明らかに「一日一時間のセッション」という意味の記述だが、hourly sessionは「一時間ごとにセッションを行う」だからこれは意味が違う。もう一つは taking their temperature で、これは文字通り「体温を測る」という意味だが、原文の「体温を測るみたいに状況をチェックするだけであって、」では、「体温を測る」というのはたとえであって、実際には体温を測るのではない。まあどちらも些細な誤りだが。
で、これに続く文章:
上p.177
だからここには鉄格子もないし、門だっていつも開いてるわけ。人々は自発的にここに入って、自発的にここから出ていくの。そしてここに入ることができるのは、そういう療養に向いた人達だけなの。誰でも入れるというわけじゃなくて、専門的な治療を必要とする人は、そのケースに応じて専門的な病院に行くことになるの。そこまではわかる?
p.126
There are no bars on the windows here, and the gate is always wide open. People enter and leave voluntarily. You have to be suited to that kind of convalescence to be admitted here in the first place. In some cases, people ho need specialized therapy end up going to a specialized hospital. OK so far?”
そこまではわかる? わかる。わかるが、この部分の記述は人々が夢見がちな精神疾患の治療の描写となっている。「人々は自発的にここに入って、自発的にここから出ていくの」、もちろんそれは理想である。だが精神疾患には、自発的な治療だけでは解決しないケースが膨大にある。だから阿美寮は精神疾患のごく一部だけを対象としている。つまり「ここに入ることができるのは、そういう療養に向いた人達だけなの」という性質の療養所なのである。特に疑問なく「そこまではわかる」と読み飛ばしそうだが、「そういう療養に向いた人達」であることを誰がどう判断するかという重大な問題が、現実には発生する。重い精神疾患の当事者の多くは、自分こそが「そういう療養に向いた人」と信ずるか、または、自分にはそんな療養さえ必要ないと信じている。だがもちろんそういう人達は「そういう療養」には適さない。すると、こうした施設で実際に療養できるのは、かなり軽い病状の人に限られるのである。
阿美寮ほどの理想的なスタッフ構成やロケーションまでは満たされないにせよ、同様の施設は現に存在するかもしれない。それは表面的には理想的であり、そこでは精神疾患の人達が生き生きと暮しているかもしれない。しかしそれは、「そういう療養に向いた人達だけ」を選別してはじめて成り立つものであり、より重症でより助けが必要な人達を阿美寮で対応することは不可能で、阿美寮の美しさは、そうした人達を引き受ける別の施設の苦労の上に築かれているのである。
レイコはさらに語る。阿美寮のシステムは、元々はある医師の理論に基づいているという。
上p.178
人里はなれたところでみんなで助けあいながら肉体労働をして暮し、そこに医者が加わってアドバイスし、状況をチェックすることによってある種の病を治癒することが可能だというのがその医師の理論だったの。
p.127
The doctor’s theory was that if you could have a group of patients living out in the country, helping each other with physical labour and have a doctor for advice and check-ups, you could cure certain kinds of sickness.
まさに生活療法、ないしは作業療法の理論である。決してこの医師の独自の理論ではなく、現代の精神医学でも広く認められている理論といえる。但し、こうした療法だけで病気が治癒するというものではない。もっとも、レイコのいう「ある種の病気」とは何かということになるが、実際の発症率と、長期の療養を要するという背景からは、統合失調症を想定するのが合理的である。であれば、いかに理想的な自然の中という環境であっても、そこで療養するだけで治癒するなどということはあり得ない。
こうしたことはともかく、阿美寮の環境が理想の一つであることは間違いない。「だからこそ」、という文脈で、直子は問題点を書いている。直子の手紙に戻ってみる。
上p.163
この施設の問題点は一度ここに入ると外に出るのが億劫になる、あるいは怖くなるということですね。私たちはここの中にいる限り平和で穏やかに気持ちになります。自分たちの歪みに対しても自然な気持ちで対することができます。自分たちが回復したと感じます。しかし外の世界が果して私たちを同じように受容してくれるものかどうか、私には確信が持てないのです。
p.115
The one real problem with this place is that once you’re here you don’t want to leave — or you’re afraid to leave. As long as we’re here, we feel calm and peaceful. Our deformities seem natural. We think we’ve recovered. But we can never be sure that the outside world will accept us in the same way.
「一度ここに入ると外に出るのが億劫になる、あるいは怖くなる」のは、実は阿美寮のような理想的な環境でなくてもしばしばある。精神科には昔から「院内寛解」という言葉がある。精神科病院に入院中は寛解、すなわち治っているように見えるのだが、退院すると途端に病状が悪化することを指す。直子が言うように、「外の世界が果して私たちを同じように受容してくれるものかどうか」が大問題なのである。現在、日本には30万人以上の人が精神科病院に入院している。そのうちの数万人は、外の世界が受容してくれさえすれば、おそらく退院できる。直子は「自分たちの歪み」という言葉を使っている。先の直子の手紙の中に、「私たちはある種の前提のもとにここで暮らしている」という表現があった。ここでいう「前提」とは、彼女たちが抱えている「歪み」を指している。直子の手紙。
上p.162
ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮しています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。
p.114
As long as we are here, we can get by without hurting others or being hurt by them because we know that we are “deformed”. That’s what distinguishes us from the outside world: most people go about their lives unconscious of their deformities, while in this little world of ours the deformities themselves are a precondition.
精神疾患の療養所として一つの理想である阿美寮。ではそこでは病気からの回復が得られるのか。レイコが語るのは、決して夢のような理想ではなく、現実的である。
上p.179
よくならない人も沢山いるわよ。でも他では駄目だった人がずいぶんたくさんここでよくなって回復して出て行ったのよ。
p.127
Lots of people don’t get better. But also a lot of people who couldn’t be helped anywhere else managed a complete recovery here.
よくならない人も沢山いる。夢のような理想ではなく、現実的だ。それはそうだが、注意深く読めば、この部分のレイコの説明には実質的な内容がない。「よくならない人も沢山いる」あたり前だ。「でも他では駄目だった人がずいぶんたくさんここでよくなって回復して出て行った」それもまたあたり前である。どこのどんな療養所でも、あるいは病院でも、そういう人はたくさんいる。阿美寮に限ったことではない。そして精神疾患というものの性質からいって、真に問題なのは「よくなって回復して出て行った」ことではなく、その後の経過である。その後、彼らはどんな生活をしているのか。再発はしなかったのか。再入院はどうか。そこまで実証しなければ、ある治療方法(療養方法でもよい)の有効性を語ることはできない。「ずいぶんたくさんここでよくなって回復して出て行った」だけでは、ほとんど何も意味していないのである。
何だか阿美寮を批判するかのような論調になっている気がするが、そういう意図は私には全くない。阿美寮は、一つの理想の具現であり、経済面や患者選別、そして真の治療効果などの問題があるにせよ、そうした条件つきで見れば、現実世界にも「あり得る」ものと言える。そもそもがフィクションである小説の中に創られた施設で、現実に「あり得る」のであれば、十二分以上のリアリティがある。本稿を書こうと考えたとき私は、阿美寮のことを取り上げるつもりはほとんどなかった。ただ作品を読むとどうしても目につくので行きがかり上現実との違いを指摘したくなっただけである。もともとの執筆意図は違う。心の病についての、現実にはあり得ないか、少なくとも大きな違和感がある描写について書くことだった。それは、阿美寮で療養中の直子の病状が悪化する場面である。
4
確か緑の本と赤の本だったと思う。『ノルウェイの森』が新刊で出たときのことだ。発売されてすぐに買って読んだように記憶している。上下二冊。どちらかが緑で、どちらかが赤。そう思ってAmazonを開いてみて、今は当時と似た装丁で文庫本が出ていることを知った。上巻が赤、下巻が緑だった。
Wikipediaによれば、新刊の発刊は1987年だ。
1987年か。
多分そのころの私は、これから書くような内容には想到しなかったと思う。その部分も、おそらく疑問を持たずに読み進めたのだと思う。「その部分」とは、ここからだ。阿美寮で療養中の直子の病状が悪化しつつある場面。レイコの手紙文という形で描写されている。
下p.177
考えてみれば最初の徴候はうまく手紙が書けなくなってきたことでした。十一月のおわりか、十二月の始めころからです。それから幻聴が少しずつ始まりました。彼女が手紙を書こうとすると、いろんな人が話しかけてきて手紙を書くのを邪魔するのです。彼女が言葉を選ぼうとすると邪魔をするわけです。
p.323
Looking back, I see now that the first symptom of her problem was her loss of the ability to write letters. That happened around the end of November or beginning of December. Then she started hearing things. Whenever she would try to write a letter, she would hear people talking to her, which made it impossible for her to write. The voices would interfere with her attempts to choose her words.
「幻聴」の正式な訳語はauditory hallucinationだが、ここでは hearing things と訳されている。英語の文脈上、このほうが適切だという判断なのであろう。
上に書かれている悪化のサインの第一は、 「うまく手紙が書けなくなってきたこと」である。そして、その後に幻聴が始まっている。この順序は臨床的に重要である。(英文でもこの順序が正確に訳されている)
統合失調症というものを、本などからだけの抽象的な知識で考えると、上のような症状の場合、「幻聴が聞こえて邪魔されるから、うまく手紙が書けなくなったのであろう」と推定して、それで納得しがちだが、実際のケースの経過はそうでないことが多い。幻聴は、後なのである。先に、もっと漠然とした不調が出る。直子の場合は「うまく手紙が書けなくなってきた」である。そのほかのケースとしては、たとえば「物事がうまく頭に入らなくなってきた」「うつっぽくなってきた」「眠れなくなってきた」「何となく怒りっぽくなってきた」など、様々な症状があり得る。この段階で統合失調症の症状であると判断するのは難しいが、再発の場合であれば比較的すぐにそう判断できることも多く、【1055】急に不機嫌になったのは統合失調症再発のサインでしょうか、 【0534】統合失調症の再発の兆候か、それとも単なる夫婦喧嘩か などがその例である。
直子が阿美寮に来るまでの病歴は明らかにされていないので、入寮時に統合失調症という診断がなされていたかどうかはわからないが、もしなされていたのであれば、「うまく手紙が書けなくなってきた」時点で、再発の徴候と判断するか、少なくともその可能性ありとして慎重に経過を見る必要があったということになる。そして間もなく「それから幻聴が少しずつ始まりました。彼女が手紙を書こうとすると、いろんな人が話しかけてきて手紙を書くのを邪魔するのです。」となって、再発(または、顕在発症)が明らかになる。そして、悪化していく。治療していない以上当然である。
下p.177
彼女は今、日常会話をするのにもかなりの困難を覚えています。言葉が選べないのです。それで直子は今ひどく混乱しています。混乱して、怯えています。幻聴もだんだんひどくなっています。
p.323
She is having trouble now just holding an ordinary conversation. She can’t find the right words to speak, and that puts her into a terribly confused state — confused and frightened. Meanwhile, the “things” she’s hearing are getting worse.
これはかなり危ない徴候である。そして問題の部分にさしかかる。
下p.177
私たちは毎日専門医をまじえてセッションをしています。直子と私と医師の三人でいろんな話をしながら、彼女の中の損われた部分を正確に探りあてようとしているわけです。
p.323
We have a session every day with one of the specialists. Naoko and the doctor and I sit around talking and trying to find the exact part of her that’s broken.
幻聴などの症状が悪化。混乱。怯え。そこで、医師とレイコと本人(直子)の三人で色々なことを話すことにより、解決への努力をしている。
これは、きわめて危険な方法である。
ここに、統合失調症という精神病についての大きな誤解がある。
すなわちここでは、今の直子のような精神症状があるとき、
「精神症状」(幻聴など)
とは別の独立したものとして
「精神症状に苦悩する自分」
というものが存在する、というようにイメージされている。病気についてのごく自然なイメージのように思えるが、これが誤解で、実際には精神病の症状とは、「症状」と「自分」が渾然一体としたものになっていて、明確にその二つを分けることは困難なのである。
これが体の病気の症状との大きな違いである。
たとえば腹痛。
このときは明らかに、
「腹痛」
とは別の独立したものとして
「腹痛に苦しむ自分」
というものが存在する。だから、この腹痛をどうすべきか、まだ我慢できるのか、それとも治療を受けるべきか、などというように考えることができる。人に相談することもできる。たとえ激痛で冷静に考える余裕がなかったとしても、「症状」と「自分」が別であるという事実が崩れることはない。
もう一度さっきの部分を引用する。
下p.177
私たちは毎日専門医をまじえてセッションをしています。直子と私と医師の三人でいろんな話をしながら、彼女の中の損われた部分を正確に探りあてようとしているわけです。
このような形で方策を考えることができるとすれば、それは、
「精神症状」(幻聴など)
とは別の独立したものとして
「精神症状に苦悩する自分」
というものが存在する場合である。
もし精神症状について、自分で客観的かつ冷静に考え、その時点での自分に最も納得のいく対処法を選ぶことができれば、それは理想である。もちろんそのようなことが可能な場合もある。自分の精神症状をある程度まで客観的にみることができる場合もある。しかしこの直子のように、統合失調症が再発(または発症)し、悪化しつつあるときは、それはかなり困難である。統合失調症の実例についての精神科Q&Aをお読みになった人が、統合失調症と思われるご家族にその内容を読ませることで病気だということを納得させようとすることがしばしばあるようだが、それは多くの場合うまくいかない。その方法がうまくいくのではないかと考えることの背景に、上に書いた誤解がある。三回目になるとしつこいのは承知のうえで、もう一度書く。
「精神症状」(幻聴など)
とは別の独立したものとして
「精神症状に苦悩する自分」
というものが存在すると考える、それは統合失調症についての大きな誤解である。「症状が悪くなったら、また自分で考えて治療を受ければいい。または、家族と相談して治療のことを決めればいい」というような考え方は、この誤解に基づいているともいえる。たとえば統合失調症という事実 のcase4-1。治療によってほとんど症状が消えた。こんなに薬が効くのなら、悪くなったらまた飲めばいいと家族で話し合って、薬をやめた。ところが再発の徴候らしきものが出てから2,3日ではっきりした再発。この時点では自分が病気であるという認識が消失し、もはや治療を受けることに納得せず、家族が苦悩する。こういうケースは枚挙に暇がない。
直子の場合も、あれだけ悪化しつつある状態で、話し合いによって今後の方策を考えるという対応法は、危険であり、さらにいえば、非現実的である。
続くレイコの文章。レイコが苦悩している形をとっているが、現実からみれば、逆に非常に楽観的な文章であると言わざるを得ない。
下p.178
ここの施設の目的は患者が自己治療できるための有効な環境を作ることであって、医学的治療は正確にはそこに含まれていないのです。だからもし直子の病状がこれ以上悪化するようであれば、別の病院なり医療施設に移さざるを得ないということになるでしょう。私としても辛いことですが、そうせざるをえないのです。もちろんそうなったとしても治療のための一時的な『出張』ということで、またここに戻ってくることは可能です。あるいはうまくいけばそのまま完治して退院ということになるかもしれませんね。
p.323
The point of this place is to create an effective environment in which the patient can treat herself or himself, and that does not, properly speaking, include medical treatment. Which means that if Naoko’s condition grows any worse, they will probably have to transfer her to some other hospital or medical facility or what have you. Personally, I would find this very painful, but we would have to do it. That isn’t to say that she couldn’t come back here for treatment on a kind of temporary “leave of absence”. Or better yet, she could even be cured and finish with hospitals completely.
「私としても辛いことですが、そうせざるをえないのです。」、レイコの苦悩が表現されているが、はっきり言ってこれは甘い。甘い見通しである。どこが甘いか。 「そうせざるをえないのです。」というのが甘い。辛くとも辛くなくとも、そうすること(別の病院なり医療施設に移ること)ができるのなら、それは直子にとって明るい希望を持つことができる。だがこのように悪化した状態では、その「移ること」が難しいのである。もちろんここで「移る」のは、病状の悪化を受け入れて、自分で納得して(辛いと思いながらであっても、とにかく納得して)移ることである。実際には病状がこの段階になると、もはや自分に治療の必要があると認識することが難しくなる。または不可能になる。まさに 【2444】私は自然治癒力で統合失調症を治しましたというような状態になってしまうのである。
ところで、上記英文には誤訳がある。ストーリーの上では些細な誤訳だが、論理としては重大な誤訳である。原文の日本語と並べて示す。
もちろんそうなったとしても治療のための一時的な『出張』ということで、またここに戻ってくることは可能です。
That isn’t to say that she couldn’t come back here for treatment on a kind of temporary “leave of absence”.
最初、私はこれが誤訳だと思った。読み直してみて、もしかすると自分の読みのほうが間違っているのかとも思った。しかしやはり誤訳だという結論に達した。論理としての重大な誤訳。それは、「出張」する先が、他の病院だといっているのか、それとも阿美寮だといっているのか、ということである。
日本語の原文によれば、出張先は他の病院である。阿美寮がホームで、しかし治療が必要になったので一時的に他の病院に出張するという意味である。
しかし英文のほうではそれが逆になっている。阿美寮に戻ることを「出張 leave of absence」としている。この英文が誤りであることは、treatmentという単語の使い方からもわかる。阿美寮で行っていることは、治療treatmentではないと、原文には明記されているし、英訳でもここより前の部分にはその通り訳されている。したがって、
back here for treatment
ということは、阿美寮という施設の性質上、あり得ないはずだ。
なぜこのような誤訳が生じたのかと、もう一度原文に目を向けると、
もちろんそうなったとしても治療のための一時的な『出張』ということで、またここに戻ってくることは可能です。
この日本語は、よく読むと実は文法的には曖昧であることがわかる。 「治療のための一時的な『出張』ということで、」の直後に 「またここに戻ってくる」という文があるから、文法だけから読めば、「出張としてここに戻ってくる」と読むことも可能だし、正当ですらある(私が最初に誤訳だと思い、読み直して自分の読みが誤っていると考え直したのはそれが理由である。文法にこだわれば、この英訳は正しいと読める。しかし結論としては誤訳である)。だから訳者は誤解したのであろう。翻訳とは実に細心の注意が必要な作業であることがよくわかる。
5
次は虚言のことだ。
『ノルウェイの森』には二人の虚言者が登場する。一人目はこの場面に出てくる。ワタナベの同級生である小林緑が、家族のことをワタナベに語る。
上p.133
お母さんが死んだとき、お父さんが私お姉さんに向ってなんて言ったか知ってる? こう言ったのよ。『俺は今とても悔しい。俺はお母さんを亡くすよりお前たち二人を死なせた方がずっとよかった』って。私たち唖然として口もきけなかったわ。だってそう思うでしょ? いくらなんでもそんな言い方ってないじゃない。
p.93
“What do you think he said to my sister and me when our mother died? ‘I would much rather have lost the two of you than her.’ It knocked the wind out of me. I couldn’t say a word. You know what I mean? You just can’t say something like that. ….”
この場面に登場しているのは三人。父。姉。緑。この中に虚言者がいる。
この後の父の行動を緑が語る。
上p.133
「お父さんは去年の六月にウルグァイに行ったまま戻ってこないの」
「ウルグァイ?」と僕はびっくりして言った。「なんでまたウルグァイなんかに?」
「ウルグァイに移住しようとしたのよ、あの人。馬鹿みたいな話だけど。軍隊のときの知りあいがウルグァイに農場持ってて、そこに行きゃなんとでもなるって急に言いだして、そのまま一人で飛行機乗って行っちゃったの。私たち一生懸命とめたのよ、そんなとこ行ったってどうしようもないし、言葉もできないし、だいいちお父さん東京から出たことだってロクにないじゃないのって。でも駄目だったわ。きっとあの人、お母さんを亡くしたのがものすごいショックだったのね。それで頭のタガが外れちゃったのよ。それくらいあの人、お母さんのことを愛してたのよ。本当よ」
p.93
“He went off to Uruguay in June last year and he’s been there ever since.”
“Uruguay?! Why Uruguay?”
“He was thinking of settling there, believe it or not. An old army buddy of his has a farm there. All of a sudden, my father announces he’s going, too, that there’s no limit to what he can do in Uruguay, and he gets on a plane and that’s that. We tried hard to stop him, like, ‘ What do you want to go to a place like that? You can’t speak the language, you’ve hardly ever left Tokyo’. But he wouldn’t listen. Losing my mother was a real shock to him. I mean, it made him a little cuckoo. That’s how much he loved her. Really.”
緑の父は最愛の妻を失った後、ウルグァイに移住すると言い出した。父の軍隊時代のしりあいがウルグァイに農場を持っているのだ。「軍隊時代のしりあい」が buddy と訳されている。Buddyとは、軍人が行動するときにペアとして充てられる仲間のことを指すと私は理解していたが、軍隊内の親しい友人のことも指すらしいとこれを読んで初めて知った。
なお、 「そこに行きゃなんとでもなる」は、「なんとかなる」という意味であると読めるが、英文は there’s no limit to what he can do で、これだと「なんでもできる」だから、原文の意味とは違う。しかしこれも先の「出張」の部分と同様、翻訳者に同情の気持ちを禁じえない。「なんとでもなる」という日本語は、文法構造だけから考えたら、「なんでもできる」と同義という解釈も可能であろう。だがこれも文脈を含めて総合的に考えれば、「なんとかなる」が正解のはずだ。
ウルグァイに移住すると言い出した父のその後。
上p.134
「そしてウルグァイに行っちゃったの。私たちをひょいと放り捨てて」
p.93
“And then he dumps the two of us and runs off to Uruguay.”
父は本当にウルグァイに行ってしまったのだ。その後、父からの便りはというと。
上p.134
「一度だけ絵ハガキが来たわ。今年の三月に。でもくわしいことは何も書いてないの。こっちは暑いだとか、思ったほど果物がうまくないだとか、そんなことだけ。まったく冗談じゃないわよねえ。下らないロバの写真の絵ハガキで。頭がおかしいのよ、あの人。その友だちだか知りあいだかに会えたかどうかさえ書いてないの。終わりの方にもう少し落ちついたら私とお姉さんを呼びよせるって書いてあったけど、それっきり音信不通。こっちから手紙を出しても返事も来やしないし」
p.94
“One postcard. In March. But what does he write? ‘It’s hot here’ or ‘The fruit’s not as good as I expected’. Stuff like that. I mean, give me a break! One stupid picture of a donkey! He’s lost his marbles! He didn’t even say whether he’d met that guy — the friend of his or whatever. He did add near the end that once he’s settled he’ll send for me and my sister, but not a word since then. And he never answers our letters.”
父から来たのは絵ハガキ一枚。その後は音信不通。一体ウルグァイで何をしているのか。娘である緑は、緑の姉は、父に会いにウルグァイに行く意思はあるのか。
上p.135
「それでもしお父さんがウルグァイに来いって言ったら、君どうするの?」
「私は行ってみるわよ。だって面白そうじゃない。お姉さんは絶対に行かないって。うちのお姉さんは不潔なものとか不潔な場所とかが大嫌いなの」
p.94
“What would you do if your father said ‘Come to Uruguay’ ?“
“I’d go and have a look around at least. It might be fun. My sister says she’d absolutely refuse. She can’t stand dirty things and dirty places.”
緑は行く意思あり。姉は行く意思なし。
上p.135
「ウルグァイってそんなに不潔なの?」
「知らないわよ。でも彼女はそう信じてるの。道はロバのウンコでいっぱいで、そこに蠅がいっぱいたかって、水洗便所の水はろくに流れなくて、トカゲやらサソリやらがうようよいるって。・・・」
p.93
“Is Uruguay dirty?”
“Who knows? She thinks it its. Like the roads are full of donkey shit and it’s swarming with flies, and the toilets don’t work, and lizards and scorpions crawl all over the place. …”
ウルグァイの実情がどうであるかはともかく、姉は行く意思なし、緑は行く意思ありだ。すると緑は父が好きなのか。そう聞かれた緑は、とくに好きってわけではないと答える。ではなぜわざわざウルグァイまで行くと言うのか。
上p.136
「信用してるからよ」
「信用してる?」
「そう、たいして好きなわけじゃないけど信用はしてるのよ、お父さんのことを。奥さんを亡くしたショックで家も子供も仕事も放りだしてふらっとウルグァイに行っちゃうような人を私は信用するのよ。わかる?」
p.95
“ I believe in him.”
“ Believe in him?”
“Yeah, I’m not that fond of him, but I believe in my father. How can I not believe in a man who gives up his house, his kids, his work, and runs off to Uruguay from the shock of losing his wife? Do you see what I mean?”
わかる? 何となくわかるような気もする。ワタナベもそう答えている。
上p.136
僕はため息をついた。「わかるような気もするし、わからないような気もするし」
緑はおかしそうにわらって、僕の背中を軽く叩いた。「いいのよ、べつにどっちだっていいんだから」と彼女は言った。
p.95
I sighed. “Sort of, but not really.”
Midori laughed and patted me on the back. “Never mind,” she said. “It really doesn’t matter.”
6
直子から、自分が4ヶ月前から施設に入っているという手紙をワタナベが受け取ったのは、緑から父の話を聞いてから一週間後のことだった。そしてワタナベは京都の阿美寮を訪れ、レイコに迎えられる。直子にも会う。この訪問中にレイコから聞いた話の中に、もう一人の虚言者が現れるがそれは後述する。東京に帰ってからのある日曜日、ワタナベは緑に誘われてお茶ノ水に行く。そして歩きながらどこに行くのかと緑に尋ねる。
下p.64
「病院よ。お父さんが入院していて、今日いちにち私がつきそってなくちゃいけないの。私の番なの」
「お父さん?」と僕はびっくりして言った。「お父さんはウルグァイに行っちゃったんじゃなかったの?」
「嘘よ、そんなの」と緑はけろりとした顔で言った。「本人は昔からウルグァイに行くんだってわめいてるけど、行けるわけはないわよ。・・・」
p.237
“The hospital,” she said. “My father’s there. It’s my turn to stay with him all day.”
“Your father?! I thought he was in Uruguay!”
“That was a lie,” said Midori in a matter-of-fact tone. “He’s been screaming about going to Uruguay forever, but he could never do that. …”
そして二人は緑の父が入院している大学病院に着く。緑の父は脳腫瘍で、「はっきり言って時間の問題ね」と緑は言う。実際に病院で緑の父を見たワタナベは、彼にはもはや生命力というものが殆どないと感じる。事実、まもなく緑の父は他界する。
つまり、父はウルグァイに行ったという緑の説明は、嘘だった。嘘といっても、誰も何の被害も受けていない。まあ罪のない軽い嘘だ。罪のない軽い嘘に見える。もう一人、登場する虚言者と比べてみよう。阿美寮でレイコが語る。
7
プロのピアニストを目指していたレイコは、紆余曲折あった後(その間には精神科病院に2回入院している)、近所に住む中学2年生の女の子にピアノを教えることになる。こんな子だ。
上p.223
天使みたいにきれいな子だったわ。もうなにしろね、本当にすきとおるようにきれいなの。あんなきれいな女の子を見たのは、あとにも先にもあれがはじめてよ。髪がすったばかりの墨みたいに黒くて長くて、手足がすらっと細くて、眼が輝いていて、唇は今つくったばかりっていった具合に小さくて柔らかそうなの。私、最初見たとき口きけなかったわよ、しばらく。それくらい綺麗なの。
p.160
She was an absolute angel, with a kind of pure, sweet, transparent beauty. I had never — and have never — seen such a beautiful little girl. She had long, shiny hair as black as freshly ground Indian ink, slim, graceful arms and legs, bright eyes, and a soft little mouth that looked as if someone had just made it. I couldn’t speak when I first saw her, she was so beautiful.
「ノルウェイの森」に登場する二人目の虚言者とは、この美しい少女に違いないと予想されるであろう。その通り、正解である。レイコは語る。
上p.225
「まあ順番に話していくとね、その子は病的な嘘つきだったのよ。あれはもう完全な病気よね。なんでもかんでも話を作っちゃうわけ。そして話しているあいだは自分でもそれを本当だと思いこんじゃうわけ。そしてその話のつじつまをあわせるために周辺の物事をどんどん作りかえていっちゃうの。でも普通ならあれ、変だな、おかしいな、と思うところでも、その子は頭の回転がおそろしく速いから、人の先にまわってどんどん手をくわえていくし、だから相手は全然気づかないのよ。それが嘘であることにね。だいたいそんなきれいな子がなんでもつまらないことで嘘をつくなんて事誰も思わないの。私だってそうだったわ。私、その子のつくり話を半年間山ほど聞かされて、一度も疑わなかったのよ。何から何まで作り話だっていうのによ。馬鹿みたいだわ、まったく」
「どんな嘘をつくんですか?」
「ありとあらゆる嘘よ」
p.161
“Well, let me just say the girl was a pathological liar. She was sick, pure and simple. She made up everything. And while she was making up her stories, she would come to believe them. And then she would change things around her to fit her story. She had such a quick mind, she could always keep a step ahead of you and take care of things that would ordinarily strike you as odd, so it would never cross your mind she was lying. First of all, no one would ever suspect that such a pretty little girl would lie about the most ordinary things. I certainly didn’t. She told me tons of lies for six months before I had the slightest inkling anything was wrong. She lied about everything, and I never suspected. I know it sounds crazy.”
“What did she lie about?”
“When I say everything, I mean everything.”
この少女 — 便宜上、以後は「美少女L」と呼ぶことにする — は、「ありとあらゆる嘘」をつき、「なんでもかんでも話を作」り、「話しているあいだは自分でもそれを本当だと思いこんじゃう」、まさに病的な虚言である。病的な虚言の巧妙さには様々なレベルがあるが、美少女Lは「人の先にまわってどんどん手をくわえていくし、だから相手は全然気づかないのよ。それが嘘であることにね。」、すなわち相当に巧妙な虚言者である。このような虚言では、「私、その子のつくり話を半年間山ほど聞かされて、一度も疑わなかったのよ。何から何まで作り話だっていうのによ。」ということがしばしばある。
p.225
「今も言ったでしょ? 人は何かのことで嘘をつくと、それにあわせていっぱい嘘をつかなくちゃならなくなるのよ。それが虚言症よ。でも虚言症の人の嘘というのは多くの場合罪のない種類のものだし、まわりの人にもだいたいわかっちゃうものなのよ。・・・」
p.161
“When people tell a lie about something, they have to make up a bunch of lies to go about something, they have to make up a bunch of lies to go with the first one. ‘Mythomania’ is the word for it. When the usual mythomaniac tells lies, they’re usually the innocent kind, and most people notice. …”
虚言症mythomaniaは、一応は医学用語だが、現代の公式の診断基準の中にはこの病名はない。したがって公式の定義というものはないが、美少女Lのような人物は虚言症mythomaniaといってよい。但し「虚言症の人の嘘というのは多くの場合罪のない種類のものだし」というレイコの説明は正しいとはいえない。罪のある種類のものもあれば、罪のない種類のものもあるというべきであろう。「まわりの人にもだいたいわかっちゃうものなのよ」についてはさらに正しくない。嘘とは、ばれたときに初めて嘘とわかるものである。虚言症の人の嘘の中には「まわりの人にもだいたいわかっちゃう」ものももちろんあるが、逆にわからない場合(ばれない場合)は、そもそもその人が虚言症であることがわからないわけだから、「まわりの人にもだいたいわかっちゃうものなのよ」というのは、虚言症の嘘の中のある一部を指した説明にすぎない。
美少女Lの嘘は、「罪のない嘘」どころではない。ある日、ピアノのレッスンに来た美少女Lは、レイコに性的アプローチをかける。レイコは拒否しようとする。
下p.19
それで私、全身の力をふりしぼって起きあがって『止めて、お願い!』って叫んだの。
でも彼女止めなかったわ。
p.205
This helped me to gather my strength and raise myself on the bed. ‘Stop it now, please stop!’ I shouted.
But she wouldn’t stop.
これに続くレイコの話。
下p.20
その子、そのとき私の下着脱がせてクンニリングスしてたの。私、恥かしいから主人にさえ殆どそういうのさせなかったのに、十三の女の子が私のあそこぺろぺろ舐めてるのよ。参っちゃうわよ、私。泣けちゃうわよ。それがまた天国にのぼったみたいにすごいんだもの。
『止めなさい』ってもう一度どなって、その子の頬を打ったの。思いきり。それで彼女やっとやめたわ。そして体を起こしてじっと私を見たの。私たちそのとき二人ともまるっきりの裸でね。・・・
p.205
Instead, she yanked my panties down and started using her tongue. I had rarely let even my husband do that, I found it embarrassing, but now I had a 13-year-old girl licking me all over down there. I just gave up. All I could do was cry. And it was absolute paradise.
“’Stop it!’ I yelled one more time and slapped her on the side of the face as hard as I could. She finally stopped, raised herself up and looked into my eyes. The two of us were stark naked, on our knees, in bed, staring at each other. …
英訳文の started using her tongue は、原文に比べると婉曲な表現になっている。という気がするが、nativeにとってはこれは婉曲とは感じられない表現なのだろうか。
それはともかく、レイコはついに美少女Lを殴る。美少女Lは行為をやめる。以後、彼女はレッスンに来なくなる。1ヶ月後、近所に住むレイコの友人が、最近レイコについて悪い噂が流れていることをそっと伝える。
下p.25
そして、彼女の話によるとね、噂というのは私が精神病院に何度も入っていた札つきの同性愛者で、ピアノのレッスンに通ってきていた生徒の女の子を裸にしていたずらしようとして、その子が抵抗すると顔がはれるくらい打ったっていうことなのよ。話のつくりかえもすごいけど、どうして私が入院していたことがわかったんだろうってそっちの方もびっくりしちゃったわね。
p.209
According to her, people were saying that I was a card-carrying lesbian and had been in and out of mental hospital for it. They said that I had stripped the clothes off my piano pupil and tried to do things to her and when she had resisted I had slapped her so hard her face swelled up. They had turned the story on its head, of course, which was bad enough, but what really shocked me was that people knew I had been hospitalized.
虚言者が他人を中傷する際の、かなり典型的なパターンである。このように、部分的に事実を織り混ぜることにより、話の信憑性を高めるのは非常によくあることだ。
下p.25
彼女の話によるとある日 — つまりあの事件の日よね — その子が泣きはらした顔でピアノのレッスンから帰ってきたんで、いったいどうしたのかって母親が問いただしたらしいのよ。顔が腫れて唇が切れて血が出ていて、ブラウスにわざと血をつけて、ボタンちぎって、ブラジャーのレースを破いて、一人でおいおい泣いて目をまっ赤にして、髪をくしゃくしゃにして、それで家に帰ってバケツ三杯ぶんくらいの嘘をついたのよ。そういうのありありと目に浮かぶわよ。
p.209
The way my friend heard it, the girl had come home from her lesson one day — that day, of course — with her face all bloated, her lip split and bloody, buttons missing from her blouse, and even her underwear torn. Can you believe it? She had done all this to back up her story, of course, which her mother had to drag out of her. I can just see her doing it — putting blood on her blouse, tearing buttons off, ripping the lace on her bra, making herself cry until her eyes were red, messing up her hair, telling her mother a pack of lies.
殊更に自分から語るのではなく、「いったいどうしたのかって母親が問いただした」というように、「言いたくなかったけど、聞かれたから言った」という形を取るのも、虚言によって人を中傷する際の常套手段である。
そして母は美少女Lの話を完全に信じた。そして誰かに話した。それを聞いた誰かが誰かに話し・・・・・レイコの信用は地に墜ちた。絵に描いたような冤罪。
ところで、実際の裁判では、物的証拠が重んじられる。目撃証言や被害者証言だけで起訴がなされることもあるが、証拠としては弱く、最近も東京や佐賀で無罪の判決が出ている。いずれも証言が信用できないと裁判官が判断した結果である。東京のほうは痴漢とする訴えで、 記事(Yomiuri Online 2014.3.19.) によれば、裁判所は「視力の良くない被害者が目に涙を浮かべて十数メートル先の犯人の着衣を認識できたとは言い難く、証言は直ちには信用できない」として無罪の判決を下している。佐賀のほうは高齢者虐待とする訴えで、 記事(佐賀新聞電子版 2014.3.14.)によれば裁判所は、スプーンで口に塩を入れるのを目撃したとする元職員の証言について、「男性が塩を口から吐き出そうとする対処行動が供述に出てこないのは極めて不自然」と指摘。元職員が介護職であるにもかかわらず、口をゆすがせるなどの対処をしなかったことと併せ、「目撃内容に疑念を抱かざるを得ない」として無罪の判決を下している。
このように、証言内容に矛盾があれば、その証言は信用性に欠けるとされるのは当然である。部分的に事実が織り交ぜられていたとしても、プロの裁判官はそんなものには騙されない。他方、証言内容に矛盾がなく、かつ、生き生きとしていれば、「実際に体験した者でなければ語れない具体性と迫真性を持っている」と判断されて有罪の判決が下される可能性が著しく高まる。だが美少女Lのような知能の高い虚言者がレイコについて語ったように、矛盾のない内容を見事に虚言した場合はどうか。現実の裁判で、虚言者の証言による冤罪が多発していなければいいのだが。
p.26
あの子は体の芯まで腐ってるのよ。
p.210
The girl was rotten inside. Peel off a layer of that beautiful skin, and you’d find nothing but rotten flesh.
というように、レイコが美少女Lを非難するのは自然なこととして理解できる。
しかし。
レイコはこうも言っていたのである。
上p.225
その子は病的な嘘つきだったのよ。あれはもう完全な病気よね。
では虚言症は病気だろうか。少なくともレイコは「完全な病気」と言っている。その一方で、「あの子は体の芯まで腐ってるのよ」と非難している。では病気であることは、非難されるべきことなのか。うつ病も、統合失調症も、かつては病気とみなされていなかった。人々から非難される対象になることが多かった。だが現代では病気とみなされている。病気とみなされれば、非難される理由は消滅する。病気になったことについて本人に責任はない。では虚言症はどうか。病気だから非難されるべきではないということになるのか。少なくとも現代の常識では、そんなことはない。嘘つきは、最大限の非難の対象になるというのが常識である。
虚言が病気かどうかについて、もう一つ。
美少女Lの虚言については、「あれはもう完全な病気よね」というレイコの説は、かなり納得できるものである。では『ノルウェイの森』に登場するもう一人の虚言者、緑はどうか。父がウルグァイに行ってしまったと真っ赤な嘘をついた緑はどうか。本稿「6」の最後に私は、
まあ罪のない軽い嘘だ。
と書いた。緑の嘘は確かにそう見える。少なくとも美少女Lに比べれば全く罪などない。だが私は続けてこう書いた。
罪のない軽い嘘に見える。
なぜこう書いたか。なぜ「見える」と書いたか。「罪のない」の部分についてではない。事実、罪のない嘘だ。そう「見える」のではなく、事実だ。しかし「軽い」のほうは、そうとは限らないという意味で「見える」と書いた。なぜか。
緑の嘘には、理由がないからだ。
美少女Lの嘘には、理由がある。自分の望む性的関係を結ぶことを拒絶したレイコに復讐してやろうという理由がある。その意図が正しいとされるかどうかはともかくとして、「憎い相手を陥れてやる」という意図は、正常心理として理解できる。それに対し、緑の嘘には理由が見えない。自分の父親の動向について嘘をついてワタナベをだましたところで、緑には何の利益もない。
虚言を「病的」と判定するときの、一つの基準が、「その虚言は、本人にとって利益をもたらすかどうか」である。何らかの利益を得るため、たとえば名声を得るため、金銭を得るため、地位を得るため、などの理由による嘘は、病的とはみなされない。単なる嘘つきとして非難されるのが常だ。しかし、真に病的とされる虚言は、嘘をついても本人に何の利益もないのになされる虚言である。このようなケースでは、なぜ嘘をつくのか、他の人には全く理解し難い。だからこそ病的とされるのである。
緑の嘘には、利益がない。美少女Lの嘘には、利益がある。すると病的なのは美少女Lではなく、緑のほうである。
というのが理屈だが、現実感覚としてはこの理屈は全く受け入れ難いものだ。何をもって病的な嘘つきとするか、それはかなり難しい問題なのである。
さらにいえば、利益があるか・ないかというのも、なかなか単純には判定できない。
緑の嘘には本当に利益がないのか。
たとえば、緑は父を深く愛しており、そんな父が、「愛する妻を亡くしたショックでウルグァイに行ってしまった」と信ずることが、緑にとって心地よかったという解釈も可能である。そしてそんな父を「信用している」という自分を作り、そういう自分をワタナベに見せることによって、ワタナベから好意を持たれようとしている、という解釈も可能である。このように深読みしていけば、嘘による利益はいくらでも想定することができる。すると緑の嘘は、本人にとって利益をもたらす正常範囲の嘘という判定に転ずることになる。
しかし、ワタナベが病院で見た、死の床にある老人は、本当に緑の父だったのか。実は父はウルグァイに行ってしまったというのが本当で、病院にいたのは赤の他人だったのではないか。
と、そこまで疑うと、何が何だかわからなくなってくる。
レイコについてもそうである。美少女Lは虚言者。だがその判断は、専らレイコの話に基づいている。レイコ自身が虚言者という可能性はないのか。ある。実は性的に誘惑したのはレイコの方で、それを拒絶した美少女Lに対してレイコは暴力をふるった。そういう美少女Lの話のほうが正しいという可能性を否定する根拠もまたどこにもない。あるいはレイコは虚言者ではなく、妄想を持っていてそれを語ったのではないか。
虚言の真実を追究しようとすると、どこまでも終わりのない迷路に迷い込む。
(本文終わり)
<特に他意はない追記>
そうかこういうふうに訳すものなのか、と印象に残った部分を一つだけ追記する。本当は本文中のどこかに書くつもりだったのだが、適切な場所が見出せかったので、最後に追記することにした。
大学からほど近いレストラン、緑とワタナベの偶然の出会い。事実上の初対面。コーヒーをブラックで飲むワタナベを見て緑が「ほらね」と指摘する。
上p.97
「ほらね、やっぱり砂糖もクリームも入れないでしょ」
「ただ単に甘いものが好きじゃないだけだよ」と僕は我慢強く説明した。
p.67
“Look at that. You drink it black.”
“It’s got nothing to do with Humphrey Bogart,” I explained patiently.
「ただ単に甘いものが好きじゃないだけだよ」が、「It’s got nothing to do with Humphrey Bogart, (そんなのハンフリー・ボガートと関係ないよ)」と訳されている。なぜ原文にない「ハンフリー・ボガート」が挿入されているのか。この部分だけを取り出すと不可解だが、少し前にこういう場面があったのだ。
上p.97
「『今日はあまり返事したくなかったんだ』」と彼女はくりかえした。「ねえ、あなたってなんだかハンフリー・ボガートみたいなしゃべり方するのね。クールでタフで」
p.67
“’I just didn’t feel like it today.’ You talk like Humphrey Bogart. Cool. Tough.”
この直後、コーヒーをブラックで飲むワタナベを見て緑が「ほらね」と指摘する。対するワタナベの答え「ただ単に甘いものが好きじゃないだけだよ」が、上記から連続するものとして、「”It’s got nothing to do with Humphrey Bogart,” (そんなのハンフリー・ボガートと関係ないよ)」と訳されているのである。