【4943】統合失調症の一意な定義はありますか?

Q: 20代男性です。
統合失調症という病気が一般にも知れ渡るようになって久しいですが私はいまだにどういう病気かわかりません。
もちろん妄想幻聴があるなどの症状はある程度理解しております。
ですが例えば「インフルエンザはインフルエンザウイルスにより発熱や咳が起こる」などのような一意な定義、診断基準はあるのかというところがわかりません。
症状だけで判断されるものでしょうか。
脳に何が起きて体や心に何が起こると統合失調症なのかという一意な基準はあるのでしょうか。

 

林: 統合失調症に限らず、精神医学と精神疾患についての現代の最大のテーマについてのご質問と言えるように思います。まず回答をシンプルに申しますと、「統合失調症の一意な定義はありません」ということになります。ここでいう「一意」とは、質問者がこの言葉で意味している意味を指します。すなわち、

脳に何が起きて体や心に何が起こると統合失調症なのかという一意な基準はあるのでしょうか。

この文章から読み取れる意味、すなわち、明確な原因に基づく基準あるいは定義を「一意な定義」と読んだとき、統合失調症にはそのようなものはないというのが回答になります。ドーパミンがあるではないかと言われるかもしれませんが、統合失調症とドーパミンに密接な関係があることは確かですが、ドーパミンについてのどのような異常が統合失調症の症状を発生させるのかといったことはいまだ不明の段階です。

このテーマについては、『統合失調症当事者の症状論』の 5章 診断論 の冒頭に記してありますので、その部分を以下に引用します。引用文中、「DSM-5は、診断という欺瞞を豪腕で収束させた、現代精神医学の金字塔である」の「金字塔」という表現はもちろん逆説で、「単に表面的に現れた症状で診断するというDSMを用いる以外に、現在のところ統合失調症を定義することはできない」ことを意味しています。
<以下 『統合失調症当事者の症状論』(中外医学社、2021年)204ページからの引用 >

◆    診断の不存在

統合失調症においては、真の意味での「診断」というものは存在しない。「我々はこれを統合失調症と呼ぶ」という「宣言」があるだけである。この認識を欠くと不毛な議論が延々と繰り返されることになる。曰く、投薬を中止しても再発しないから統合失調症ではない。曰く、陰性症状がないから統合失調症ではない。曰く、幻聴の存在が不明確だから統合失調症ではない。曰く、疏通性が良好だから統合失調症ではない。曰く、DSM-5の基準を満たさないから統合失調症ではない。曰く、プレコックス感がないから統合失調症ではない。曰く、ドーパミンD2受容体数が正常だから統合失調症ではない。などなど。この種の議論には終わりがない。終わりがなくても有意義な議論はもちろんあるが、統合失調症の診断にかかわる限りにおいては、終わりがないだけでなく、意味がない。なぜならこれは診断についての議論ではなく、宣言についての議論だからである。統合失調症という各自の持つ概念の宣言を主張しあっているだけだからである。
そんなカオスの中で唯一意味があるのは、「DSM-5の基準を満たさないから統合失調症ではない」という主張だけである。DSM-5は宣言であることを旗幟鮮明に明言している。APAが定めた基準を統合失調症と呼ぶと宣言している。それが統合失調症の本質であるなどとは言っていない。ただ取り決めとして統合失調症の基準を定めているのであって、それ以上でもそれ以下でもない。DSM-5は、診断という欺瞞を豪腕で収束させた、現代精神医学の金字塔である。
DSM-5についての最大の批判は、信頼性はあっても妥当性がないというものである。信頼性とは評価者間で判断が一致すること、妥当性とは診断の本質と一致することを指す。だがそもそも統合失調症の診断についての妥当性というものはどこにも存在しない。あるのは宣言についての妥当性だけである。ある宣言に適合するか否かという観点からの妥当性があるだけである。妥当性がないなどという批判に、DSMは耳を貸す必要はない。もちろんDSMは完成された体系ではなく、限界は多々ある。だがDSMの限界は現代精神医学の限界なのである。「限界」という言葉には不十分であるという印象が充満しているが、精神医学に限らずいかなる医学も、そして科学も、常に発展途上なのであるから、限界に位置するということはすなわち、最先端に位置するということである。
<引用ここまで>

(2025.4.5.)

05. 4月 2025 by Hayashi
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