【4709】精神病の人でも殺人なら罰を受けるべきだと思う
Q: 40代女性です。いつも拝見しており、とても勉強になります。どこで言ったらいいか、また素人の感想ではない意見を聞いてみたかったため、林先生に質問いたします。お忙しいところ申し訳ありません。
統合失調症や妄想性障害などで他人に重傷を負わせるもしくは殺してしまった場合、責任能力がなくてもそれ相応の罰を受けるべきではないでしょうか。←これってものすごく不謹慎な発言なんでしょうね。だから余計に誰彼聞いてみるのはできなくて悶々としています。特に殺人の場合、責任能力がなくても殺した事実は変わらないのだから無期懲役とかにするべきではないかと思います。
アメリカのエド・ゲインという殺人犯は責任能力なしとみなされて裁判を受けられる精神状態になるまでは精神病院に入院、治れば裁判を受けるという判決が出て、結局一生を病院内で過ごしました。殺された被害者の遺族にとっては全く納得できない判決でしょう。それでも少なくとも無罪放免にはなっていません。殺人事件が起きたとき、被害者はプライベートを暴かれるなど報道の餌食になるだけで報われることがあまりにも少ないように思います。もちろん犯人が死刑になっても被害者が生き返りはしないのですが、遺族にとっては家族が殺されたのに、もう会えないのに、その一方で犯人が今も生きて生活している、快適に過ごしているかもしれない、幸せになろうとしているかもしれない、その事実だけで耐えられない苦しみでしょう。刑罰は復讐のためではなく、更正のためにあるのでしょうけど…。責任能力がなくてもした行為の罪は消えないと思います。林先生のご意見をいただければとても光栄です。ここまで読んでくださりありがとうございます。
林:
統合失調症や妄想性障害などで他人に重傷を負わせるもしくは殺してしまった場合、責任能力がなくてもそれ相応の罰を受けるべきではないでしょうか。
これが【4709】の質問の骨子ということになると思います。質問者のお気持ちは十分理解できるところですが、深く複雑な問題について、単純化しすぎた理解に基づくご主張であることを指摘せざるを得ません。具体的には次の通りです。お読みになって、細かすぎると感じられるかもしれませんが、この問題はこのように事実を細かく分析しなければ適切な解にたどりつくことはできません。事実の正確な認識に基づかない意見は無意味で、時には有害にさえなり得ます。
統合失調症や妄想性障害などで
まず、この「など」とは何を指しておられますでしょうか。それによってその後の考察は大きく異なります。おそらく精神障害を指すことを意図しておられると思われますが、では精神障害とは何でしょうか。精神科Q&Aに掲載されているのはそのごくごく一部の実例ですが、それらでさえ、精神障害とそうでないものに正確に分けることは困難だと思います。ましてや今回のご質問の、「罰を与えるかどうか」という観点からはさらに困難になるでしょう。
他人に重傷を負わせるもしくは殺してしまった場合
ということは、犯罪の中で、「他人に重傷を負わせるもしくは殺してしまった場合」以外については、罰を与えなくてよいというご見解でしょうか。それは不合理ではないでしょうか。
責任能力がなくても
責任能力がなければ無罪というのは刑法に定められています。したがいまして「責任能力がなくてもそれ相応の罰を受けるべき」というご見解ということは、刑法そのものを改正せよというご意見ということになりますが、そのように認識されたうえでのご意見でしょうか。
実際には、「統合失調症や妄想性障害」で、(ここでは「など」をあえて削除しましたが、「など」があっても同じです)「責任能力なし」と裁判で判断されるケースは非常に稀です。ほとんどないと言っていいレベルです。その事実は認識されていましたでしょうか。「統合失調症や妄想性障害」の人々が「他人に重傷を負わせるもしくは殺してしまった場合」には、「それ相応の罰を受ける」ことが、少なくとも現代の日本では大部分です。その事実は認識されていましたでしょうか。
もっともここで、「それ相応の罰」の「相応」という言葉で何を意味されているかも問題です。「統合失調症や妄想性障害など」(あえて「など」をつけてあります)の人が何らかの触法行為をなした場合(そこには「他人に重傷を負わせるもしくは殺してしまった場合」も含みます)、その犯行時に、「理非善悪を弁識する能力」と「その弁識に従って行動する能力」のどちらか一方または両方が著しく損なわれていた場合には、罪は軽くなります。このときどの程度まで軽くなるかは事例によって異なり、裁判所が「相応」であると判断した程度まで軽くなります。但し、必ず軽くはなりますので、死刑相当であれば無期懲役にはなるということです。
特に殺人の場合、責任能力がなくても殺した事実は変わらないのだから無期懲役とかにするべきではないかと思います。
ここでも先の「など」と同様、「とか」とは何を指しているかがまず問題です。この「とか」には、死刑は含むのでしょうか。短期の懲役刑は含むのでしょうか。その他、どのような刑罰を含むかよって、意味は全く異なります。
また、「殺した事実は変わらないのだから」ということは、刑罰について、「結果主義」が正しいというご意見ということになります。「結果主義」に対置するのは「責任主義」で、現代の日本の刑法は「責任主義」を採用しています。他の多くの先進国も同様です。「責任主義」を否定するということは、いかなる理由があろうと、偶然であろうと、人を殺すという意図が全くなかろうと、とにかく人を殺したという結果があるからには罰するべきであるということになり、その罰がこの質問者のご意見では「無期懲役とか」にすべきということになりますが、そのように認識されたうえでのご意見でしょうか。
さらに言えば、殺人の場合、犯人が健常者であっても、無期懲役や死刑になるとは限りません。というより、そうならずに有期の拘禁刑になることの方がはるかに多いです。質問者は、殺人の犯人が精神障害者の場合には無期懲役程度が相応な刑罰であるというご意見でしょうか。では殺人の犯人が健常者の場合はどの程度が相応な刑罰であるというご意見なのでしょうか。精神障害者であっても健常者であっても、人を殺したからには無期懲役程度が相応の刑罰であるというご意見だとすれば、それは現代の量刑そのものについてのご意見ということになり、精神障害者の犯罪についてのご意見という範囲を大きく超えています。
また、
特に殺人の場合、責任能力がなくても殺した事実は変わらないのだから無期懲役とかにするべき
この記述の中の、「責任能力がなくても」については、前述の通り、刑法そのものを否定するご意見ですので次元の異なる話ということになりますし、また「無期懲役とか」については、これも前述の通り、「とか」の指す内容が不明ですので結局質問者のご意見は曖昧すぎてコメントできないというのが正しい姿勢であるとは思いますが、仮にこのご意見を、「殺人の場合、殺した事実は変わらないのだからせめて無期懲役にはすべき」というご意見であると解釈しますと、前述の通り、精神障害者であっても責任能力「なし」と裁判で判断されることはきわめて稀で、「完全責任能力」(つまり健常者と同じ)か、せいぜい「心神耗弱」(前述の、「理非善悪を弁識する能力」と「その弁識に従って行動する能力」のどちらか一方または両方が著しく損なわれていた場合を心神耗弱といいます)までが大部分です。ということは、完全責任能力であれば健常者と同じ刑罰が科され、心神耗弱であれば、もし完全責任能力相当の犯罪であれば死刑となるべきケースが無期懲役になります。日本には死刑がありますから、無期懲役は「(死刑に比べれば)罪が軽くなった」ということになりますが、死刑のない国であれば無期懲役は最高刑であることも意識したうえで、とても重い精神障害者に無期懲役という刑罰を科することの意味を考えてみる必要があるでしょう。
アメリカのエド・ゲインという殺人犯は責任能力なしとみなされて裁判を受けられる精神状態になるまでは精神病院に入院、治れば裁判を受けるという判決が出て
質問者は責任能力と訴訟能力を混同されています。「責任能力なしとみなされて裁判を受けられる精神状態になるまでは精神病院に入院」ということは、アメリカでも日本でも、あり得ません。「訴訟能力なしとみなされて裁判を受けられる精神状態になるまでは精神病院に入院」ならあり得ます、と言うより、それはアメリカではごくありふれたことです。「訴訟能力」は、端的には、「裁判を受ける能力」を意味します。日本にも訴訟能力の概念はもちろんあり、訴訟能力なしと裁判所が判断すれば、裁判は行われないことが法律で定められていますが、現実には日本の裁判所が訴訟能力なしと判断することは非常に稀です。それに対しアメリカでは、特に精神症状が悪化した状態の精神障害者においては、訴訟能力なしと判断し、治療を受けて訴訟能力が回復してから裁判を行うというのがごく一般的です。
したがって、
アメリカのエド・ゲインという殺人犯は責任能力なしとみなされて裁判を受けられる精神状態になるまでは精神病院に入院、治れば裁判を受けるという判決が出て、結局一生を病院内で過ごしました。殺された被害者の遺族にとっては全く納得できない判決でしょう。それでも少なくとも無罪放免にはなっていません。
この記述も全くの誤解に基づいています。すなわちこの記述は、「アメリカのある殺人犯は責任能力なしとみなされて裁判が行われないまま時間が過ぎて結局そのまま犯人は一生を病院で過ごした、それは被害者遺族としては全く納得できないと思うが、それでも無罪放免にはなっていないのだから、日本よりはましだ」というご意見の表明ですが、上記の通りこれは「訴訟能力なし」と「責任能力なし」を混同していますから、アメリカと日本の比較になっていません。アメリカでも「責任能力なし」で無罪になる事例はもちろんありますから、その意味では日本と同じです。また日本では「訴訟能力なし」と裁判所が判断することは上記の通りアメリカに比べると非常に件数は少ないですが、それでもあることはありますし、今後は人口の高齢化・認知症の増加に伴って「訴訟能力なし」という判断が増えることが当然に予想されます。そうしますと訴訟能力が回復するまで裁判は停止しますが、認知症の場合訴訟能力が回復することはまず期待できませんから、裁判が再開されることはまずあり得ません。すると質問者が挙げられたアメリカの例のように、被害者遺族としては全く納得できないということになるでしょう。現にそういう事例は日本で発生しています。このように、認知症の犯罪はこれからの日本で非常に深刻な問題です。
それからもう一つ、
少なくとも無罪放免にはなっていません。
この点についてですが、日本で重大犯罪を犯した精神障害者が「責任能力なし」で無罪になったとき(及び執行猶予になったとき)、そのまま「無罪放免」にはなりません。「医療観察法」という法律に基づき、その後の処遇が決定されます。医療観察法は、端的には、裁判官と精神科医の合議によってその後の処遇を決定するという制度で、6-7割は医療観察法の専門病棟に入院となります。
このように、この【4709】の質問者のご意見は、非常にたくさんの誤解に基づいています。精神障害者の犯罪について、質問者が問題意識をお持ちであることはよく理解できますし、その問題意識自体は正当だと思います。しかしこの問題は非常に深く複雑なものですから、まず現在の制度や実態を正しく認識したうえでなければ、どんな意見もほとんど無意味であると言わざるをえません。但しこれは、【4709】の質問者が特に無知であるということではなく、正しい認識を持っておられる方はとても少数であるというのが現状でしょう。たとえば【1845】隣の奥様の妄想がひどくなり、窓ガラスに石を投げられるなどして実質的な被害が出ています の質問者は「何か危害を加えられても、彼女に責任能力が無い等の判断が下されるだろうし・・・。 」と言っておられますが、【1845】の回答に記した通り、これもまた正しい認識には基づかないご判断であると思われます。
以上のような点は指摘できるものの、質問者のご意見の最大のポイントは「たとえ精神障害者であっても、重大犯罪(たとえば殺人)の場合は、健常者と同じように刑罰を科すべきだ」であると思われ、これについてはむしろ多くの人々がお持ちの意見であるかもしれません。仮にそうだとした場合、それでもその「多くの人々」のご意見が、現代の法や実情についての正しい認識に基づいているかどうかがまず問題ですが、それを別にしても、あまりに重大な犯罪については、責任能力なしの理由で無罪にするのは納得できないというのは健全な感覚といえるでしょう。「あまりに重大な犯罪」とは、たとえば大量殺人です。
裁判は法に厳格に従って行われなければならない一方で、裁判の結果は国民感情にそったものである必要がありますから、ここに矛盾が発生します。すなわち、重い精神障害によって大量殺人が行われた場合、法に厳格に従えば心神喪失(責任能力なし)か心神耗弱になるところ、それは(たとえば無罪は)あまりに国民感情からかけ離れた判決になります。そこで現代の日本で行われているのは、あまりに重大な犯罪の場合は、犯人が精神障害者であることを裁判で否定したり、あるいは精神障害者であることは認めても、その犯罪は精神障害とは無関係であると裁判所が判断し、健常者と同様の刑罰を科す(「あまりに重大な犯罪」であれば死刑)という方法です。
その典型的な例は2016年の相模原障害者施設殺傷事件 で、この事件の犯人はパーソナリティ障害であるとされ死刑判決となりましたが、真実は大麻精神病であることに間違いありません(と少なくとも私は判断しています)。この真実を認めると、心神耗弱か、もしかすると心神喪失の可能性も出てきますが(薬物による精神病の場合に裁判で心神耗弱や心神喪失になるケースは相対的に少ないですが、それでもあることはあります)、あの事件で無罪の判決が出たら人々は全く納得しないでしょう。そうなりますと、総合的にみて、「パーソナリティ障害、ゆえに死刑」という結論は正当であるという見方があり得ますが、しかしそれは大麻精神病による犯罪という事実を隠蔽したことにほかならず、すると大麻の深刻さ・恐ろしさを人々に知っていただくまたとない機会を見送ったことにほかなりません。ということは、大麻精神病による同様の事件が今後発生することを減らす貴重な機会を見送ったということで、事件によって学ぶことが全くなく、このような処遇を取り続ける限り、同様の事件は何回でも繰り返されるということになります。これは大麻精神病に限らないことで、真実から目をそらすことで、同様の事件が繰り返されるということが続いているというのが今の日本の実態です。現在進行中の裁判としては、京アニ事件(京都アニメーション放火殺人事件)の今後の経過に注目されると、報道される情報だけからも、人々が目をそらそうとしている真実が垣間見えることと思います。
もちろん犯人が死刑になっても被害者が生き返りはしないのですが、遺族にとっては家族が殺されたのに、もう会えないのに、その一方で犯人が今も生きて生活している、快適に過ごしているかもしれない、幸せになろうとしているかもしれない、その事実だけで耐えられない苦しみでしょう。
ほぼこのご指摘と同じテーマで、菊池寛が短い小説を書いています。死刑囚の、死刑執行までの期間の手厚い扱いについて、殺人被害者のご遺族からの強い憤りを綴った『ある抗議書』という作品です。大正時代に書かれたものですが、質問者の心に響くものがあると思います。
刑罰は復讐のためではなく、更正のためにあるのでしょうけど…。
刑罰には復讐という意味もあります。「復讐」という言葉は使わず「応報」という言葉を使うのが普通ですが、「応報と予防」の両方が刑罰を正当化すると考えるのが妥当であると一般にはされています。「予防」は「更生」だけではなく、本人以外の人々が犯罪を犯すことを抑止するという意味も含みます。
責任能力がなくてもした行為の罪は消えないと思います。
そのように考えて、健常者と同じように刑罰を科して欲しいとおっしゃる精神障害者ご本人やご家族もいらっしゃいます。
それは一理ある考え方ですが、「予防」という観点からは、適切ではないと言わざるを得ません。つまり、犯行が精神障害の症状であった場合に、健常者と同じような拘禁刑を科しても再犯予防にはならないからです。
素人の感想ではない意見を
専門家でない一般の方の感想や意見はとても貴重で尊重されるべきであり、素人の意見が専門家の意見に劣るということはありません。但しその意見は、事実の正確な認識に基づいたものでなければなりません。事実の不正確な認識に基づく意見は無意味であり、時には非常に有害なものにさえなり得ます。
(2023.8.5.)