【4684】未治療、あるいは治療からドロップアウトしてしまった統合失調症や妄想性障害の患者さんたちに、なぜ医療は介入できないのか(【1082】のその後)
Q: 2006年に【1082】「それは幻聴です」と本人に告げることについてのご質問をさせて頂きました、現在38歳の男性です。
当時の私は23歳の医学生でしたが、現在は医師として(残念ながら精神科ではなく外科系ですが)勤務しており、もうあれから約16年も経過し、しかし今もなお先生が毎月更新を続けておられ、Q&Aも当時の4倍以上の volume に達していることに、心より敬意を表します。
もちろん、16年ぶりに拝見したわけではなく、頻度にバラつきはあれ、不定期に精神科 Q&A を拝見し、専攻科ではないものの興味のある診療科として自学自習は続けており、下手をすると日本の(下手をすると世界の)外科系医師の中で最も精神科について詳しいかもしれない、等とそれこそ時折妄想しては勝手に自己満足に浸っております。
あ、自己満足だけではありませんでした。精神科の実例を踏まえた知識を蓄えていることで、術後の患者さんのせん妄等に対しても、得てして(非精神科の)医療従事者が感じてしまいがちな、迷惑・面倒・恐怖といった感情は一切生じず、ただ「一番困っているのは、恐怖を覚えているのはせん妄に陥り幻覚・妄想に苛まれている患者さんご自身だ」という思いのもと、いかに適切な対処で一刻も早くその恐怖から抜け出すお手伝いができるか、のみを考えて行動ができており、ある意味その患者さんたちは林先生のこのサイトのお陰で救われていると言えると思います。
せん妄から早期に解放された私の患者さん達に代わり、改めてお礼申し上げます。
さて、前置きが長くなり申し訳ありません。
16年ぶりのご質問は、地域社会における、未治療もしくは治療を drop out してしまっている統合失調症や妄想性障害を疑う患者さんへの対処の不十分さについてです。
私自身はその経験は無いのですが、知人からも時折相談を受けますし、ニュースを騒がせることの多い隣人や階上・階下の住人による暴行・殺害事件、ゴミ屋敷や一昔前に取り上げられた「うるさいおばさん」等、地域社会の中で未治療もしくは治療をdrop out してしまっている統合失調症や妄想性障害を疑う患者さんは決して少なくないと感じています。
しかし、特に知人から相談を受けた時等、早くその隣人を治療に繋げてあげることの重要性(知人にとっても隣人本人にとっても)や、相談先(保健所や保健センター、精神保健福祉センター、役所の福祉課、実害があれば警察)についても説明するのですが、実際にこれらの相談先全てに相談をしても、結局、「何か実害が無いと我々も動けないのです」と言われてしまい、それ以上の介入に繋がらないことがほとんど(というか全て)のようです。
しかし、正直、この「実害」が生じてからでは、知人にとっても、そして隣人本人にとっても、「時既に遅し」であり、その「実害」は早期介入によって本来回避し得た可能性のあるものだと考えます。
もちろん、常に「過介入」や「不要な介入」とのバランスの問題があるのは重々承知の上ではあるのですが、もう少しそういったことについての専門的知識を有し、「実害」が生じる前から早期介入、もしくは少なくとも接点を持ち続けられるような枠組み・組織・体制等は構築できないものでしょうか…?
当事者ではないものの、このようなケースを見聞きする度に、何だかとても「勿体ない」と感じてしまいます。
これまでにそのようなことについての議論はあったのか、あったとすればどのような経緯を経て結局実現できていないのか、もしくはそのような議論が無かったとしても、林先生としてはこの問題をどう考えられるか等、是非ご教示頂けますと幸いです。
林: 2006年の【1082】以来、長年にわたり本サイトを気にかけていただいていたとのこと、ありがとうございます。【1082】の時のご疑問も、今回【4684】のご疑問・ご指摘の点もすべてその通りだと思います。今回は【1082】の回答の延長として回答したいと思います。
【1082】での回答の通り、本サイトは医療相談ではなく、すなわち、回答によって質問者(多くは精神障害の当事者やご家族)が安心されるか逆に不安に陥るかなどは一切考えず、ただ事実を回答するものです。
この「ただ事実を回答する」という方針は、今回【4684】のご質問の中で指摘されている問題、すなわち、
特に知人から相談を受けた時等、早くその隣人を治療に繋げてあげることの重要性(知人にとっても隣人本人にとっても)や、相談先(保健所や保健センター、精神保健福祉センター、役所の福祉課、実害があれば警察)についても説明するのですが、実際にこれらの相談先全てに相談をしても、結局、「何か実害が無いと我々も動けないのです」と言われてしまい、それ以上の介入に繋がらないことがほとんど(というか全て)のようです。
もちろん、常に「過介入」や「不要な介入」とのバランスの問題がある
に繋がるものです。つまり、何らかの介入が必要であって、その多くは、その時点における当事者本人が希望していない介入である以上、「過介入」や「不要な介入」になりうる。すると、適切な介入をどのレベルに定めるべきか。すなわち、本人の希望に反してでも介入するのはどのような場合なのか、という問題があります。
この問題に対し、現状は、ご質問文の中に記されている通り、
結局、「何か実害が無いと我々も動けないのです」
というのが現実です。この現実を是とするのか、つまり何か実害がない限りは、本人の希望に反しての介入は決してしてはならないという一種の掟を正しいと考えるのか。それは、少なくとも表面的には、本人の人権を最大限に尊重した美しい掟であると言えるでしょう。
法律には措置入院という制度があり、それは「自傷他害のおそれ」があることを、本人の意に反した入院の条件としていますが、現実には「おそれ」を正確に判定することなどできるはずがありません。もし閾値を下げれば(つまり、おそれの程度が低くても措置入院の要件を満たすおそれとみなせば)、過介入・不要な介入になる可能性が大きくなります。逆に閾値を上げれば(つまり、相当に確実なおそれがなければ措置入院を発動しないのであれば)、質問者が指摘されているように、
「実害」が生じてからでは、知人にとっても、そして隣人本人にとっても、「時既に遅し」
という事態になります。そして、実害が発生してから振り返ってみれば、
その「実害」は早期介入によって本来回避し得た可能性のあるもの
とみなせることが大部分です。
特にその「実害」が、殺人のように甚大なものであったとき、「本来回避し得た」という思いは非常に大きいことになります。そういう事件が繰り返し発生していることは、報道を注意深く見ただけでも明らかでしょう。
けれども振り返ってそう思うだけではいつまでたっても何も解決しません。そういう実害が起こりうるという認識がまず一般的にならなければ、質問者ご指摘の
「過介入」や「不要な介入」とのバランスの問題
は解決不能、それどころかスタートラインとしての解決が必要であるという認識さえ生まれないことになります。そしてこの認識は、専門家だけが持っていても何もならず、一般の多くの人々がお持ちにならなければ、そもそも話が始まりません。
【1082】でも回答した本サイトの方針の背景にはこうした事情があります。
(2023.6.5.)