【3251】クモ膜下出血後フィクションを信じるようになった

Q: 私は30代女性です。
半年前、クモ膜下出血になった50代後半の叔母のことです。

叔母の実家(私の住んでいる家です)は昔から幼稚園と教会を経営しておりました関係で、母も叔母も幼いころから聖書に親しんできたそうです。一応キリスト者ということにはなると思うのですが、さすがに現代人ですので、祖父や祖母をはじめとして一家全員が聖書には虚構が混じっていることを十分理解していると思います。もちろん全員、救い主が実在したことは信じておりますが、奇蹟の類は後世の虚構か、そうでなければ救い主が今で言う精神疾患であったのであろうと考えていると思います。後世の人がヘブル語やギリシャ語などで長い期間をかけて 執筆や整備してきた、100%人間がクリエイトした創作物で、道徳書として利用価値 があるので都合上、利用しているという程度の認識です。祖父も祖母も、神の存在や審判の日が来るというようなことを仕事上口にすることはあっても、きちんとそこは虚構であるということを認識していて、要するに、そこのところは現代人として 正常な価値判断ができる人間です。

叔母は旧帝大を卒業し、若い頃から金融機関に勤めていたのですが、昨年末、50代半ばでクモ膜下出血を発症しました。幸い勤務中に発症したこともあって処置が早く、全く後遺症も残りませんでした。先月からは仕事にも復帰しています。半年とかからずに現場復帰をするなんて、大分運が良いと執刀していただいた先生も驚いているようです。もちろん、母も祖父も祖母も私も大変喜んでいます。

ところが、手術中に幻覚(幻聴や幻視)を体験したらしく、それ以降、聖書に書かれているフィクションの部分を事実であると認識するようになってしまいました。具体的には、手術中、大天使ラファエルが降臨して手術台と六連ライトの間まで降りてきて自分の体に羽根をかざしたと言います。そして、そのとき聖霊の導きをはっきりと感じたそうです。

幻聴も訴えています。聖霊の働きによって神の声が聞こえ、あなたはこのままでは地獄に落ちる。あなたには他の人の運命を変えるほどの力はないので、とにかく自分の信心を貫くことで神との直接対話を実現して、自分自身が審判を経て神の国へいけるように頑張りなさい、という主旨の内容が音を通してではなく直接、頭に響いたということです。

最初は大病を患ったこともあり、多少大げさに言っているのかと考えていましたが、それからというもの、たびたび幻聴が聞こえるようで、聖霊の導きがあった、 神の声が聴こえたなどと言うようになりました。話す内容はヨハネの黙示録ベースの話がほとんどです。本気で地獄というものが存在すると信じ切っていまっているようです。

それと同時に、私の家に対して不信心であると、あからさまな批判を繰り返すようになりました。神の存在も信じない人間が金儲けのために聖書を利用しているという主旨のことです。

叔母の批判はごもっともなのですが、叔母自身もこの家に生まれていますので、それを指摘しますと、それが原因で自分は地獄に行くのだと言います。

叔母には全く後遺症が残らなかったのですが、クモ膜下や脳卒中を発症した場合、 リハビリ開始が早ければ早いほど機能回復に期待が持てるということで、リハビリを行いました。最近はそうしたリハビリ中の人をターゲットとして新興宗教の勧誘が盛んだと聞き及び、叔母の性格が攻撃的になったことや話題が黙示録に偏っていることなどから、はじめは新興宗教の入信を疑いました。ところが、叔母の生活にその様子はありませんでした。また、叔母の話の中には神との直接対話というフレーズが幾度も繰り返され、信仰は自分自身のものであり、群れたり人に同調したりすることは欺瞞であり神を冒涜することだと、宗教団体というものを感情的に批判することが多く、教会は不要であるとか、修業や禁忌は罪深き人間自身が勝手に善悪を判断しているから大罪であるとか、聖職者は存在が悪であるとか、信仰は個人のものであるのに群れるのは信仰心が足りないだとか、ルターや親鸞聖人のようなことを言いますので、新興宗教に入信したとも思えません。

症状としては、自分が大病にかかりながら一命をとりとめたのは、救いの神の意志であり、聖霊の働きによるものだと信じ込んでしまっていて、執刀医の手術のおかげであるということを否定と言いますか、要するに執刀医による見事な手術自体が聖霊の働きによるものだと考えているようです。また、創世記や旧約に書かれているようなフィクションを大真面目に真実であると思い込むようになってしまいました。例えばマリアが単為生殖で主を産んだことや、主が死んだり生き返ったりしたというような虚構なども大真面目に信じてしまっています。以前は叔母も非常に理知的な人間であり、自由意志など存在しない、随伴現象説こそが正しい、百歩譲ってスピノザの言う神なら認めてやろう、などと言っていたのですが、今や論理もへったくれもなく、聖書に書いてあるのだから正しいと言うような愚にもつかない主張しかしません。いろいろ調べてみると、自分自身が神に選ばれたと考えたり、ありもしないことを信じ込んでしまっていることなどから、統合失調症が近いのではないかと思いました。叔母も生活に支障はないと思いますが、私の母や祖父、祖母に対する批判がひどく、こちらも滅入ってしまいます。

なぜこんなことになってしまったのだろうと考えてみると、外科手術の際の副作用ではないか、ということが疑われました。もちろん、執刀していただいた先生は力の限りを尽くしてくださいましたでしょうし、もしそうであったとしてもそこを責めるつもりはありません。クモ膜下出血の手術が原因で統合失調症になった例などはあるのでしょうか?お教え頂けるとありがたいです。

 

林: これは精神医学的診断はかなり難しいケースです。

まず、一般論としては、クモ膜下出血に限らず、脳に何らかの損傷を負った後に、精神病症状が出てくることはあります。それは一過性のこともあれば、慢性的に長期に渡り続くこともあります。この場合の「精神病症状」とは幻覚妄想を指します。したがって統合失調症にかなり似た状態になることもあります。但しこれを「脳損傷後が原因で統合失調症になった」とは呼びません。「脳器質性精神病」と呼ぶのが一般的です。
この一般論に照らせば、この【3251】のケースはクモ膜下出血後の脳器質性精神病の平凡な一例ということになりますが、そうは言い切れない事情があります。それは発症までの経緯です。
すなわち、

ところが、手術中に幻覚(幻聴や幻視)を体験したらしく、それ以降、聖書に書かれているフィクションの部分を事実であると認識するようになってしまいました。

この経緯は、手術中の主観的体験が、その後の(現在の)精神病状態に直結していると解し得るものです。
手術中に(正確には手術の前後に)幻覚体験をすること自体はそう特異なことではありません。それはせん妄の一つの形です。

具体的には、手術中、大天使ラファエルが降臨して手術台と六連ライトの間まで降りてきて自分の体に羽根をかざしたと言います。そして、そのとき聖霊の導きをはっきりと感じたそうです。

この具体的な体験も、せん妄の時のものとしては特に異常とは言えません。この時に恍惚感があったとすれば、夢幻様体験と呼ばれることになります。
こうした体験は、脳損傷(クモ膜下出血もその一つです)や麻酔による意識障害に単純に伴うこともありますし、ある種の麻酔薬の副作用として現れることもあります。
いずれにせよ、ここまではさほど特異な体験ではありません。しかし大部分のケースでは、このような体験は手術前後などの一時的な期間だけにとどまり、後になって振り返れば、「あれは不思議な体験だったけれど、あのときは手術という特殊な状況だったからだ」というように洞察することができるものです。

ところがこの【3251】のケースでは、その後も、このときの体験の延長と解し得る状態が続いています。そうなりますと、単なる脳器質性精神病であると診断することは躊躇されます。

ひとつの解釈としては、あまりに強烈な体験(手術中またはその前後の幻覚体験)をしたために、人生観が劇的に変わってしまったということです。
けれどもこのケースの今の状態は、人生観が変わったといえるレベルを超えていると言うべきでしょう。また、人によっては特に病気でなくてもこのような神秘的な事象を本気で信じる場合もありますが、このケースのもともとの性格や知能からみて、いくら強烈な体験をしたからといって、それを機にここまでの精神的変化が現れるとは考えにくいです。

そうしますと、最も考えられるのは、

クモ膜下出血による脳損傷が、一種の準備状態となり、そこに強烈な幻覚体験が加わることで、宗教的・神秘的思考が固定・発展した

という解釈だと思います。
つまり、脳器質性精神病(クモ膜下出血による脳損傷による)と心因反応(強烈な幻覚体験への反応)の両方の要因の複合により、現在の精神状態が形成された、というメカニズムです。

さらにここに、麻酔の後遺症もあるのではないかとか、もともとの人格にも偏りがあったのではないかとか(自由意志についてのもともとの考え方は、自然科学者が述べるのならともかく、一般の方のものとしてはかなり極端であると言えるでしょう)など、考えればきりがないですが、可能性の強さからいうと、上記の脳器質性精神病と心因反応の複合というのが最も考えられると思います。

しかし「最も考えられる」といってもそれは相対的に「最も」ということであるにすぎず、この回答の冒頭に記したように、これは精神医学的診断はかなり難しいケースで、よくわからない というのが正解と言えると私は思います。

(2016.7.5.)

05. 7月 2016 by Hayashi
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