「Mental Patient」と「メンヘラ」と
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イギリスの最大手チェーンのスーパーマーケットであるAsda社とTesco社が、日本流に言うと「不適切な」ハロウィーンのコスチュームを発売し、轟々たる批判を浴びて取り下げるという事態が先月あった。Asda社が発売したのは「メンタル患者 mental patient」のコスチューム、Tesco社は「精神科病棟 psycho-ward」のコスチュームである。どちらも明らかに「不適切」な物であり、イギリスBBCは、「アスダとテスコ、ハロウィーン用の患者コスチューム発売中止 Asda and Tescon withdraw Halloween patient outfits」と題する記事でこれらコスチュームの画像を示すとともに、アマゾンもいったんはこれらを発売したものの、まもなく not availableになった、と記している。
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このハロウィーンコスチューム事件を、私はNature誌で知った。2013.10.8.付け、「Mind how you go」と題されたその記事は、「The protracted battle to find cures for psychiatric illnesses is changing course, but prejudice and stigma against those with poor mental health remain a problem.(精神疾患の治療法を求める長い長い闘いの潮流は変わりつつある。しかし心の病への偏見とスティグマはまだまだ根強い)」というヘッドで始まっている。
このNatureの記事では、イギリスのタブロイド誌、The Sunの2013.10.7の一面にも言及している。そこには特大の文字で、ここ10年間で、1,200人の人が精神科患者に殺された(1,200 Killed by Mental Patients)と記されている。
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このThe Sunの記事については、たとえばイギリスのQuality Paperである Independent誌が、The Sun一面の画像を示したうえで、「このThe Sunの一面は無責任かつ誤りである」と強く批判するコメントを載せている。The Sun誌がこの一面記事を書いた基となっているのは、マンチェスター大学が最近(2013年7月)発表したデータであるが、The Sun誌はそのデータを歪曲して伝えている。それがこのIndependent誌の批判記事の趣旨である。
ではそのマンチェスター大学のデータとはいかなるものか。オリジナルにあたってみる。マンチェスター大学のHPの中のCentre for Mental Health and Riskのサイトから年報Annual ReportのPDF “The National Confidential Inquiry into Suicide and Homicide by People with Mental Illness” を読むことができる。
タイトルが示す通り、これはイギリス国内の精神科関連の自殺・他殺についてのデータを集計したものである。いまタイトル原文のPeople with Mental Illnessを「精神疾患を有する人々」でなく「精神科関連の」と曖昧に訳したことには意味がある。内容本文にはこのデータ集計作業におけるpeople with mental illnessの定義が記されている。The Sunの一面記事にある「1,200人が殺された」は、原データを見ると2001年から2010年の1,216人のことを指していることが間違いないとわかる。1,216人を殺した加害者は、この年報の記述によれば、次の(1)(2)である:
(1) 犯行前の一年間に、何らかの形で精神医療とのコンタクトがあった(had been in contact with mental health services in the year prior to their offence; p.42)
または
(2) 犯行時に精神状態が異常だった(had presented an abnormal mental state when they committed their offence; p.43)
この定義からすると、(1)も(2)も、精神科患者と言えるかどうかにはかなりの疑問がある。もちろんその中には精神科患者が含まれているとまでは言えるが、どの程度含まれているかは全く不明である。(2)についてはさらにp.127に、「うつなどを自覚していた人」も含むと記載がある。ここまで精神科患者に含めるのはいかにも不合理であろう。人を殺すような人は皆abnormal mental stateだ、という昔からよくある主張を正当化する立場に近い定義であると言える。
だからといってこのマンチェスター大学のデータ集計の仕方が不適切ということには決してならない。統計データとはいかなるものであっても一定の条件付きのものなのであって、データとはそれを十分に認識したうえで読むべきものである。上の(1)(2)の定義に替わるより適切な定義があるかといえばそれもまた疑問であって(もちろんここでは、国全体という膨大な範囲から信頼できるデータを得ようとする場合の定義を指す。精神疾患とは何か、そこに理想的な定義があったとしても、現実のデータ収集に使えなければ意味がない)、マンチェスター大学はあくまでこの定義に基づいたという条件を認識してデータを読むことを読者に求めているのである。
The Sun誌の一面記事が「無責任かつ誤り」という批判の根拠はここにある。データの本質に目を向けずに表面的な数字だけを読んだ点が誤りであり、それをそのまま一面に大々的に掲載してスティグマを大きく助長した点が無責任なのである。
但し、「うつなどを自覚していた人」を病であるとするならば、つまり擬態うつ病や新型うつ病にsick roleを与えるならば、つまり病気と認めるならば、The Sunの記載内容そのものは誤りではないということになる(記載内容そのものが誤りでないという意味である。記載の仕方は別の話である)。どこまでの範囲を「病」とするかは、様々な領域に波及する問題なのである。
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ところで本稿2のNatureの記事の中心テーマは偏見そのものではなく、精神疾患の治療方法を探究する研究の潮流である。21世紀に入って、大手製薬会社が抗精神病薬の開発から次々に撤退したが、2013年にNovartis社がニューロサイエンスの部門を復活させたというニュースを歓迎する内容である。製薬会社の研究部門が消えることは、患者や家族の希望が消えることである(Withdrawal of research resources is a withdrawal of hope for patients and their families)。しかし精神疾患の治療研究への障壁は大きい。今回のAsda社、Tesco社のコスチュームやThe Sun誌の記事は、その障壁の最大の一つである偏見がいまだに根強いことの象徴として紹介されていたものである。
そのほかの障壁としては、精神疾患の診断の閾値を下げて、統計上の患者数を増加させることに製薬会社は加担し、薬の市場を拡大しようとしているという批判も挙げられている。診断の閾値を下げて薬の市場を拡大するとはすなわち、本稿3で言及したように、「うつなどを自覚していた」だけでも「異常な精神状態 an abnormal mental state」に分類し、さらにはこうした人々を「患者patient」と名づけ、ひいては「薬を飲んで治療しましょう」と推奨することを指す。
Natureの記事は、こうした諸々の問題を指摘したうえで、最終的には製薬会社の研究にエールを送る形で結ばれている。最後の一文はこうだ。「しかし、精神疾患を有するすべての人々、そして知人の中に精神疾患を有する人がいるすべての人々(それは、我々のほぼ全員である)は、研究を進めている製薬会社を応援したいのだBut all who have a mental illness, and all who know someone affected (almost everybody), should wish them luck」
きれいごとだけを言っていたら、精神疾患の治療は遅々として進まないのである。
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きれいごととは、負の側面、暗い側面を隠蔽することを指す。精神病の負の側面、暗い側面を、さらには精神病の存在そのものを隠蔽することを指す。
【1900】某大手新聞社の掲示板から精神病関連の投稿がカットされるようになった もこれに関連している。
【0075】精神障害者の犯罪について で、(精神障害者が)「危険ではない」と住民を納得させる答えが欲しいと思います という質問者の言葉の欺瞞を指摘したこともこれに関連している。
事実を抑え込んで隠蔽しても事実が消滅するわけではない。事実を抑え込めば、事実のごく一部だけが人々の目に触れる。そこから何らかの印象が生まれる。事実の一部から受ける印象、そしてそこに恐怖や不安や嫌悪が伴えば、それらの感情は深く潜行し、湖の奥底に棲む怪物のように巨大化する。そしてその怪物は、折りに触れて水面に顔を出す。それが2013年10月のAsda、Tesco, The Sunの事件であった。
こういう事件の常として、責任者が謝罪して一件落着になる。謝罪で済むことか、辞任しろ、という批判もあるようだが、仮に責任者が辞任しても何の意味もない。そのうちまた同じようなことが発生し、その時の責任者が謝罪し辞任するだけである。各社で直接プロジェクトに担当した本人が辞任しても同じことだ。そもそも担当者は一人ではないだろう。たとえばAsdaのコスチューム。企画した人がいる。コンテを描いた人がいる。絵を仕上げた人がいる。絵に基づいてコスチュームを作成した人がいる。販売を承認した人がいる。キャッチコピーを書いた人がいる。先に示した販売サイトにはMental Patient Fancy Dress Costumeと紹介されているのだ。どこがFancyなんだ一体。商品として発売されるまでには、他にも多くの人々がかかわったはずである。彼らがいくら辞任しても、すぐに暗い地平の向こうから無限に何人でも現れてくる。そして「メンタル患者」のコスチュームを作って売り出すのである。
本稿2で紹介したNatureの記事には、犯罪につながる精神障害者の多くは治療を適切に受けていない人々であると記されている。一点の曇りもない正しい指摘である。だがそんな記事を誰が読むかといえば、ごく限られた人である。多くの人々が読むのはThe Sunの記事であり、多くの人々が買うのはAsda社、Tesco社の商品である。
ところで、Asda社、Tesco社といっても日本では知る人は少なく(実は私も知らなかった)、「多くの人々が買う」と書いても説得力に欠けるかもしれない。どちらもイギリスでは最大手のスーパーマーケットのチェーンである。本稿では当初、冒頭近くに、
「Asda社、Tesco社といえば、イギリスでは最大手のスーパーマーケットのチェーンである。日本でいえば○○とか△△とかにあたる。」
と私は書いていた。○○や△△は日本のスーパーマーケットの具体名である。そのほうがイメージが鮮明になり説得力は増したであろう。だがそのように書くと、○○や△△にご迷惑をかけるおそれがある。今回の事件には○○も△△も何の関係もないが、たまたま名前を出されることで、どこでどう間違って関係があるように伝えられるかわからない。だから私はこの一文を削除した。余計な心配のような気もするが、こんなことに気をまわす必要があることも、問題のデリケートさを象徴しているといえるかもしれない。
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Asda社もThe Sunも「メンタル患者mental patient」という言葉を使っている(Tesco社の「Psyco-Ward(精神科病棟)」とプリントされたコスチュームは、患者ではなく、精神科病棟のスタッフのつもりではないかと思われる。画像が不鮮明でよく見えないが、手に持っているのは特大の注射器なのではないか)。Mental patientという英語の語感までは私にはわからないが、少なくとも医学論文では見ない言葉である。俗称であろう。そして今回この言葉が使われている状況に鑑みれば、おそらく蔑称としてのニュアンスが強い言葉なのであろう。日本語でいえば「メンヘラ」にあたるのかもしれない。英語のmental patientが定義不詳であるのと同様、メンヘラという単語の定義も不詳である。
2013.11.5.更新の精神科Q&Aに、【2479】メンヘラと呼ばれる人たちについて がある。俗称であるメンヘラに正式な定義などあるはずがないので、Asda社やTesco社のように 「なんだか怖い人たち」を指す人もいれば、【0406】休職して遊びまわっている部下は擬態うつ病でしょうかの部下や 【0636】うつ病を宣伝している友人のHPをやめさせたいの友人のようなケースを指す人もいるであろう。【2479】の質問では 【0807】嫉妬と束縛の激しい彼女 や 【1013】彼氏に強く依存し、自傷行為が目立つ姉 のようなケースを指していると思われる。それぞれ、精神医学的診断が何であるかはともかく、共通するのは蔑視した呼び方ということである。
【2479】の質問の趣旨は、質問者が言うところの「メンヘラ」と呼ばれる人々の心理機制についてであるが、この問いに答えようとすれば、この蔑称をめぐるどこまでも複雑なスパイラルに言及しなければならず、精神科Q&Aの一題には到底おさまり切れない。だから【2479】の回答は1行になった。