【3988】知的障害者と共存できる自信がありません

Q: 20代女性です。
先日秋葉原にて友人らと開店待ちをしていたところ、周辺をうろうろとしていた男性に声をかけられました。大きさの合わない服にずり下がったカバン、独り言のように呻いている様子から気味が悪かったのですが、用事があるならと耳を貸すと、全く何も聞き取れない意味不明な言葉をかけられました。とりあえず「開店待ちをしています」と伝えると気に入られてしまったようで、突然私のコートを指を指し親指を立ててくる、周辺をうろつき呻きながら過度に近づいてくるなど、大変不快な思いをしました。最後は体を避けて無視をすると、癇癪を起こしながら去っていき、その後は近くにいても話しかけられませんでした。
幸い友人らが励ましてくれたのでどうにか気を強くもてましたが、何故遠方から旅行に来てこんな不快な思いをしなければならないのだろうと思いました。知的障害者?に街中で話しかけられたのは初めてで、それまでは「自分は障害にも比較的理解がある」と勝手に思っていたのですが、実際に出会うと生理的な拒否感が勝りました。街中の外国人観光客の子供にも声をかけて困らせていました。「知的障害者は人を選ぶから嫌いだ」と友人は言いましたが、その通りだと思います。実際無視をした後は全く話しかけられなかったので、それなら最初から話しかけないで欲しかったのです。あの男性を野放しにしている家族にも腹が立ちました。
「障害者にも人権がある」「道徳的ではない」という建前と、「障害者だけ自由に生きて一般人がしわ寄せを受け我慢をするのが道徳か?」という本音を自身に感じています。知的障害者と共存できる自信がありません。後日また同じ場所に行く用事がありますが、鉢合わせるのではないかと不安になります。会話の成り立たない人間を人間とみなすのは困難でした。何か思い違いがあり意識を変えられるのならば指摘していただきたいです。

 

林: 本音の否認からは偽りしか生まれません。ですから、

「障害者だけ自由に生きて一般人がしわ寄せを受け我慢をするのが道徳か?」という本音を自身に感じています。

それが本音であると認識することが、何より重要な第一歩だと思います。問題は第二歩以後をどう踏み出すかということです。私の回答はこの第二歩以後にかかわるものです。
この【3988】の質問者は、この本音から出発し、障害者への嫌悪という結論に直行しているようです。原点が本音である以上、結論は正当でしょうか。質問者の第二歩以後を見てみますと、そうは言えないことがわかります。

何よりまず、本音が発生した理由が事実かどうかが問題です。
質問者は秋葉原で不快な体験をし、

「障害者だけ自由に生きて一般人がしわ寄せを受け我慢をするのが道徳か?」

という疑問を発生させていますが、このときの障害者が「自由に生きて」いるとなぜ質問者は考えたのでしょうか。この男性が、標準的な観点からみて傍若無人な振る舞いをしたことは確かでしょう。けれどもそれをもって彼が自由に生きていると判断するのはあまりに飛躍しています。彼は健常者に比べてはるかに不自由に生きているかもしれません。それはこのときのエピソードだけでは「わからない」が正当な判断でしょう。

また、質問者は、

「知的障害者は人を選ぶから嫌いだ」と友人は言いましたが、その通りだと思います。

のように、友人の言葉に賛同していますが、このときの男性が「知的」障害者であるとなぜわかったのでしょうか。根拠はかなり薄弱です。あるいは根拠は薄弱でも、結果としては彼が知的障害者であるという判断は正しいかもしれません。しかし、あるグループの人々を嫌悪するのは、相当確実な根拠がなければ不当ですから、このエピソードだけで彼を知的障害者と考えるのは、「判断」ではなく「決めつけ」です。

また、「人を選ぶから嫌いだ」の部分についても考える必要があります。これはつまり、人を選ぶのでなければ嫌いでないという意味であるととれますが(あるいは、少なくとも、人を選ぶことが、より強く嫌悪する根拠となっている)、そうだとすると、

会話の成り立たない人間を人間とみなすのは困難でした。

ということと整合性がありません。ここでいう「会話の成り立たない人間」は、「会話が全く成り立たない人間」であると解釈できますが(もしそうでなければ、つまり、あまり会話が成り立たない人間 を指しているのであれば、そういう人間を人間とみなさない質問者は無条件で非難されると言うしかありません)、そのような人間は「人を選ぶ」ことできないでしょう。
すると質問者は、知的障害者(と決めつけた人々)に対して、まず嫌悪するという結論が先にあって、その嫌悪を正当化する理由を創作していると言えます。
そして次の腹立ちも質問者の創作に基づいています。

あの男性を野放しにしている家族にも腹が立ちました。

「野放し」という表現の問題は措くとしても、この男性の家族が彼を「野放し」にしているとなぜ質問者にはわかるのでしょうか。「野放し」は、全く自由にさせておく、という意味であると考えられますが、彼のご家族は、日々彼の状態をみて、一人で外出させていいかどうかを常に慎重に判断したうえで、この日は一人で外出させたのかもしれません。また、そもそも彼に家族がいるかどうかも質問者にはわからないはずです。したがって質問者は、「障害者の家族」に対して不当な嫌悪を向けていると言えます。

以上の通り、このメールは、偏見が生まれ育っていく過程の一つの典型的なサンプルになっています。冒頭にお書きしたとおり、出発点としての本音は否認すべきではありません。不快感を持ったことはその通りに認識し、ではどう考えるか、どう行動するかを冷静に考える必要があります。障害や病気によって、周囲の人々が困らされる場合、すべての人が納得する魔法のような対処法は存在しません。事実を認識したうえで、可能な範囲での最善の対処法を目指すというのが現実的です。残念ながらこの【3988】の質問者は、不快感によって冷静さを失い、感情に流されるばかりになっています。

何か思い違いがあり意識を変えられるのならば指摘していただきたいです。

私の回答が質問者の「思い違い」にあたるか、また、仮にあたるとしてそれが「意識を変えられる」ことになるかはわかりませんが、そもそも私はそれには関心はありません。回答はただ事実をお伝えしただけであり、それが精神科Q&Aの唯一の目的です。
しかしそれはそれとして、この質問をいただいたことに感謝いたします。

(2020.2.5.)

05. 2月 2020 by Hayashi
カテゴリー: 精神科Q&A タグ: , , |