事実確認なき批判は中傷、事実確認なき怒りは不正
私はこの文章を2018年5月23日の夜に書いている。まず明確にしておく。私はこれから述べる20歳男性を虚言者だと言っているのではない。その可能性があると言っているのでもない。ただ、現時点で事実はわからないと言っているのである。
その20歳男性とは、N大アメリカンフットボール部選手である。過日の試合における関西大QBへの反則タックルが社会問題化したことを受けて記者会見を行い、ネットで(たぶんテレビでも)全国に中継された。彼の話す内容は細部にわたり具体的であり、強い信憑性を感じさせるものであり、真摯な気持ちがひしひしと伝わってくるものであった。
しかし、彼が話した内容が事実であるか否かは、現時点で全く確認されていない。
彼の説明によれば、あの卑劣な反則は監督ないしはコーチの指示によるものである。彼は悩みに悩んでその指示に従った。従わざるを得なかった理由として、それまでの経過も具体的に彼の口から説明された。選手としての痛々しい心情も吐露された。そして、確かに上からの指示に従った行為ではあるが、最終的に行為をなした以上責任は自分にあると明言し、監督やコーチを非難する言葉は聞かれなかった。
20歳の若者にして、実に立派な態度である。彼の説明が事実でないと疑わせる理由は全くない。
しかし、事実であるという証拠も全くない。
この会見を受けての社会の反応は、彼に対する同情とともに、監督・コーチをはじめとするN大への強い非難であった。この非難のほぼすべては、彼の話に基づいている。
しかし、彼の話した内容が事実であるという証拠は全くない。
もう一度念のため断っておくが、私は彼が虚言者であると言っているのではない。その疑いがあると言っているのでもない。そのように疑う根拠は全くない。
ただ、彼の話が事実であるという証拠は全くないという事実を指摘しているのである。
会見を受けてN大広報部は、「”つぶせ”は”最初から当たれ”の意味だった」「選手の受け止め方に乖離があった」という声明を公式発表した。これがまた人々の怒りの火に油を注いだ。なんとみえすいた言い訳をするのか。N大は、本来守るべき学生を犠牲にして、監督やコーチ、そして組織を守ろうとしている、それでも教育機関か。こうした怒りの声がわき上がった。実に正当さを感じさせる怒りである。実は私も、N大広報部の声明を見た瞬間には同じような怒りを感じた。
しかしその怒りは、彼の話が事実であることを前提としている。さらに言えば、N大広報部の声明が言い逃れであることを前提としている。
しかし、そもそも彼の話が事実であるという証拠はどこにもない。
アメリカンフットボールは、球技であるとともにほぼ格闘技である。相手チーム対する乱暴な言葉が、内部で発せられるのは自然であろう。「つぶせ」とはどういうニュアンスなのか。日常の言語感覚での判断が正しいとは限らない。なるほどN大広報部の説明は納得し難いが、だからといって真実でないと断ずる根拠は全くない。あのタイミングであの説明は稚拙だったとまでは言えるかもしれない。
対照的に、20歳男性が行ったのは実に巧みに構築された会見であった。あの会見が彼の代理人弁護士によって書かれたシナリオ通りに進められたことは明白である。(その証拠はないではないかと言われれば、確かに厳密には証拠はない。しかし、代理人弁護士の仕事が彼を擁護することであり、そしてあの会見は少なくとも代理人弁護士の「協力」があってなされたものである以上、代理人弁護士が書いたシナリオがあったと考えることはきわめて合理的な推認である)
そのシナリオはそう難しいものではない。事実関係については、彼は文章を読み上げた。読み上げ練習は何度も繰り返したのであろう。そしてその文章は当然に代理人弁護士による精密な添削が入っていたはずである。彼の話を聞いて最初から代理人弁護士が作文したという推認も不合理ではない。
記者からの質疑応答はある意味難関であるが、(1)監督・コーチの指示があったのが事実 (2)自分は苦悩したが結局指示に従った (3) 最終行為が自分によるものである以上、責任は自分にある (4) 監督・コーチを決して非難しない この4点を確実におさえていれば、質疑応答を切り抜けるのはそう難しいことではない。どんな質問をされても、この4点さえおさえておけば、大きく失敗することはない。ぶれない態度は説明の信憑性を高め、そして好感度も高めるであろう。
つまり、A. 説明文を精密に作文し B. 質問に対しては上記4点をおさえる このA, Bを徹底すれば、あの会見はできるということである。この場合、会見の好感度と、A, Bの内容が事実か否かは無関係である。
3回目になるがまた断っておく。私は彼が虚言者だと言っているのではない。その疑いがあると言っているのでもない。ただ、現時点では事実が確認できていないと言っているのである。
虚言については私は精神科Q&Aなどにいくつもの実例を挙げて記してきた。人を信じさせる虚言とは、細部まで矛盾なく具体的に構築された虚言である。裁判でも、証人の言葉が信頼できる根拠として判決文に書かれる定番は、「その証言は実際に経験した者でなければ語り得ない具体性を持っている」である。
確かに細部まで具体的で矛盾のない内容であれば、普通は信用できると考える。普通の人はそこまで手の込んだ嘘はつかないからである。だがそれこそが虚言者の思うつぼであって、虚言者は細部まで巧妙に矛盾なく具体的に構築された嘘のストーリーを語る。こと虚言者に関しては、裁判官が言う「その証言は実際に経験した者でなければ語り得ない具体性を持っている」は、証言が信頼できるという理由にはならない。
この20歳男性の会見内容は細部まで具体的であった。そのときそのときの心情も具体的に述べられていた。「具体的に話してもらって納得できた」という人は多かったであろう。だが具体的であることはそれが事実であるか否かとは無関係である。「具体的だから納得できた」「具体的だから事実だと確信した」は、全く不合理な考え方である。
これは4回目になる。私は彼が虚言者だと言っているのではない。彼の話が事実だという証拠はどこにもないと言っているのである。
現時点(2018年5月23日夜)での日本社会の優勢な反応は、「この20歳男性への同情と、N大への怒りと非難」である。ネットにそのような反応が沸き起こるだけならともかく、主要な新聞(Web版)の中にも、同様の反応が相当に見られている。私は新聞は相対的に信用しているが(ネット上の他の情報に比べて相対的に信用している、という意味である)、今夜は失望している。事実の確認もできていない時点で、特定の人物や組織を批判するとは、それでも情報を扱うプロフェッショナルかと言いたい。
ネットには事実確認なき情報が拡散するというのはよく指摘されていることである。その情報が事実か否かよりも、注目を浴びる性質を持っているか否かが、拡散度を決める。そして「注目」とは感情の要因が強く、特に人の感情をかき立てるのは「怒り」である。
「怒り」はターゲットを持っている。ターゲットに対する事実確認なき批判は中傷である。事実確認なき怒りは不正である。後に事実であることが判明したとしても、事実確認されていない時点での批判が中傷であり、怒りが不正であることに変わりはない。かくも容易に不正や中傷が燃え上がることを、N大をめぐる今回の事件はありありと示した。