【2766】遂行機能障害と脳腫瘍の摘出、精神症状の間に関係はありますか
Q: 私は20代後半の男性、大学院博士課程生です。今から4年前の夏に拳大の髄膜腫を右前頭葉付近から摘出手術して後、脳神経外科病院に通院しております。2年前よりうつ症状を和らげてもらおうと、市内の精神科のクリニックを受診しましたが、父親の勧めにより、3ヶ月前より同脳神経外科病院内の精神科医に切り換えしました。今回は、次の2点について、質問いたしたくメールをお送りしました。
一つ目は、遂行機能障害というものが、右前頭葉付近の巨大な髄膜腫や、その摘出手術が原因で発生する可能性があるのかというものです。
二つ目は、訓練によって遂行機能障害から回復する手段はあるかお教え頂きたいというものです。
三つ目は、この障害が現存している場合においてですが、その障害と、4年前より繰り返している「自分は死ななければならない」と時折自分を責める行動との関連があるか否かというものです。
1つ目に関しての経緯を述べます。4年前の初夏に不意に顎が外れるという症状を経験しました。大学病院歯科で顎関節症といわれ、顎を入れ直してもらい、再び外れた際の対応のために父親の職場近くで過ごす日々が続きました。それまでも(5年前大学の保健センター精神医療相談を利用)経験することのあった、将来が全く見えない感じ、および過去の失敗が重大なものであり、自分は何をやっても駄目でしかないという信じ込みを、1日に数度、20-30分の長さで体験し、そして4年前の夏のある日に、立ち上がることも出来ないほどの頭重感、脱力感とゆううつさに、カーペットに突っ伏し微動だにできなくなりました。そのまま父親に担いで連れて行かれた脳神経外科病院において、右前頭葉付近に巨大な髄膜腫(グレードII、浸潤性あり)が発見されました。4度の手術と左半身のリハビリを経て、1ヶ月半で退院し学業に戻りました。手術後の脳のMRI画像を本メールに添付いたしました(アップにあたり林が削除)。しかしその後、徐々に下記の徴候が出始めたのです。
1.視界が悪い。腫瘍の膨張から後頭葉が圧迫されたので、視覚野にダメージが与えられた可能性があるということでした。
2.面と向かった相手の意図、会話の暗示するところ(物体もしくは彼/彼女の期待する自分の行動)が、研究など集中した対象でなければ掴めない。
3.3人以上が傍らで会話していると、その中の誰の話を聞き取ることもできない。より重要な人物が大きな声でその場の全員に話しかけていたとしても、その内容が把握できない。
4.研究室で自席についているとき、自分の机から見えない位置にいる他学生に関して、自分に対する敵意の感情があるのではないか、自分は公共の敵とみなされているのではないかということが気になる。
5.位置・手や腕を動かす方向や順番について正しく記憶すること・常識的判断ができない。例えば、家族が車を停めた位置や会食時のふるまいが覚えられない。ものをよくなくす。
6.自分が飛び降り自殺などを行うショッキングな場面の想像に頭をいっぱいにされて、日中の作業を効率よく進めることができない。研究の中で行う細微な準備・議論に対しても計画性がなく持続もしないので、実験の条件そのものに抜けが在り、対外発表に値する好結果が得られないため、修了要件を満たすことが出来ず、さらに負のスパイラルに陥っている。自分の精神の正常さや、指導教員・後輩学生・父親の評価がいつも気にかかる。自殺すれば全てが丸く収まると思い、それを熱望したように一人の時に声に出したり、遺書を新たに書くことがしばしばある。
その後、高次脳機能障害という障害を知り、遂行機能障害という細分類があるということを知りました。遂行機能障害の特徴(とくに、「始動の障害」。研究のための実験を進めなければいけないことはわかっているのに、パソコンに向かう手が動かない。定期発表などの期限が差し迫っても、自分で定めた目標に辿り着けず、また反省を次の行動に活かせず目標が変遷する。また「自己制御の障害」「社会的行動障害」ではカフェインの摂りすぎがこれにあたると思います)に自分が当てはまっており、その遠因が髄膜腫あるいはその摘出手術にあるのではないかと考え、ご相談を依頼した次第です。「巨大な」とも形容された髄膜腫が、脳の実質側には何も影響をおよぼしていなかったのでしょうか?
2つ目の質問について、現状を見れば、これが難しいことであるのはわかります。ですが将来に繋がる可能性をおしめしいただければと望み、不躾にもこの質問を2つ目に据えさせていただきました。
3つ目に関しては、疲労感があり、なおかつ第1回の脳外科手術の後から自分がとらわれているものなので、関連がある可能性があればご教示いただきたいと思い付しました。自分が生きていることを否定したい信念のようなものは、6年前の夏ごろにも発生していました。このような思考と、高次脳機能障害・遂行機能障害の発症には関連性があるのでしょうか。あるいは、全く別個の精神疾患として精神科医の治療を受ける必要があるのでしょうか。
以上、情報不足となる点が多々あるとは存じますが、何とぞご回答をいただけましたら幸いです。
林:
一つ目は、遂行機能障害というものが、右前頭葉付近の巨大な髄膜腫や、その摘出手術が原因で発生する可能性があるのかというものです。
あります。というより、この【2766】のケースの遂行機能障害は、「右前頭葉付近の巨大な髄膜腫や、その摘出手術が原因で発生」したことはほぼ間違いありません。
お送りいただいたMRI画像から、右前頭葉の損傷の大きさが読み取れます。もっとも、お送りいただいた画像はワンスライスなので、上下のどこまでこの損傷がおよんでいるかが不明ですが、それでもかなりの部分まで大きさが推定できる画像です。これだけの大きな前頭葉の損傷があれば、遂行機能が生じるのはむしろ当然です。そして、この脳手術後に、メールに記載されているような障害が発生したという時間的関係からみても、この【2766】は、「右前頭葉髄膜種摘出術を原因として遂行機能障害が生じたケース」であると判断できます。ひとつの典型例といってもいいと思います。遂行機能障害は、必ずしも前頭葉損傷に伴うものとは限りませんが、前頭葉損傷との関係が非常に深い障害です。
質問者が挙げておられる、
とくに、「始動の障害」。研究のための実験を進めなければいけないことはわかっているのに、パソコンに向かう手が動かない。定期発表などの期限が差し迫っても、自分で定めた目標に辿り着けず、また反省を次の行動に活かせず目標が変遷する。また「自己制御の障害」「社会的行動障害」ではカフェインの摂りすぎがこれにあたると思います
これらは質問者のご判断の通り、「始動の障害」「自己制御の障害」「社会的行動障害」と呼んでいい症状で、どれも遂行機能障害の中に分類することが可能です。
さらに、
2.面と向かった相手の意図、会話の暗示するところ(物体もしくは彼/彼女の期待する自分の行動)が、研究など集中した対象でなければ掴めない。
3.3人以上が傍らで会話していると、その中の誰の話を聞き取ることもできない。より重要な人物が大きな声でその場の全員に話しかけていたとしても、その内容が把握できない。
5.位置・手や腕を動かす方向や順番について正しく記憶すること・常識的判断ができない。例えば、家族が車を停めた位置や会食時のふるまいが覚えられない。ものをよくなくす。
これらも、前頭葉損傷に直接関連する症状と見ることが出来ます。
二つ目は、訓練によって遂行機能障害から回復する手段はあるかお教え頂きたいというものです。
あります。
遂行機能障害をはじめとする高次脳機能障害から回復する手段として、認知リハビリテーションという分野があります。この【2766】のケースは、認知リハビリテーションの適応といえます。(名作マンガで精神医学 の 三章 高次脳機能障害 にも認知リハビリテーションについて記してありますので是非ご参照ください)
【2766】のケースへの具体的な認知リハビリテーションの方法を提示するのは、メールだけの情報からは不可能ですので、ここではごく簡単に骨格だけを説明することとします。
第一に、どのような認知リハビリテーションが適切かを判定するため、次の各項目を評価する必要があります。
(1) 認知機能障害(高次機能障害)
【2766】のケースの認知機能障害の中心は遂行機能障害であることはまず間違いないでしょう。認知機能障害の中で、遂行機能障害は定量化しにくい機能ですが、それでも標準化された検査法があります。また、【2766】の脳MRI画像に見られる脳損傷の広がりからみて、遂行機能障害以外の認知機能障害も、多かれ少なかれ確実にあると思われますので、それらの評価(神経心理学的検査)が必要です。
(2) 身体機能
メールからは身体機能の障害は窺えませんが、本当に障害がないかの確認は必要です。
(3) 知覚機能
1.視界が悪い。腫瘍の膨張から後頭葉が圧迫されたので、視覚野にダメージが与えられた可能性があるということでした。
という記載があります。視覚についての精密検査が必要です。また、他の知覚機能が本当に正常かどうかも確認すべきです。
(4) 心理的状態
これについては後述します。
(5) 社会的サポート
認知リハビリテーションはそれなりの期間が必要ですし、本人一人の力だけで出来るものではありません。この【2766】では、ご家族からのサポートが期待できそうです。
以上、(1)から(5)の評価に続いて、リハビリテーションのターゲットを決めることになります。この【2766】では、ご本人が挙げておられる以下の症状が当然ながらターゲットの候補になるでしょう。
2.面と向かった相手の意図、会話の暗示するところ(物体もしくは彼/彼女の期待する自分の行動)が、研究など集中した対象でなければ掴めない。
3.3人以上が傍らで会話していると、その中の誰の話を聞き取ることもできない。より重要な人物が大きな声でその場の全員に話しかけていたとしても、その内容が把握できない。
5.位置・手や腕を動かす方向や順番について正しく記憶すること・常識的判断ができない。例えば、家族が車を停めた位置や会食時のふるまいが覚えられない。ものをよくなくす。
以上、現在の状態の評価とターゲットの決定。これらに基づいて、具体的な認知リハビリテーションの計画を立てることになります。この時点で、リハビリ効果の判定法についても決定しておくことが望まれます。
第二の段階は、認知リハビリテーションの実行です。これは具体的な話になりますので、上記の評価のデータなしには方法の提示は困難ですが、一例を挙げれば、
「始動の障害」。研究のための実験を進めなければいけないことはわかっているのに、パソコンに向かう手が動かない。定期発表などの期限が差し迫っても、自分で定めた目標に辿り着けず、また反省を次の行動に活かせず目標が変遷する。
これに対しては、始動のために有効なキュー(Cue。人からの指示、ITの使用など、様々なものがあります)を見出すことや、「目標が変遷する」ことの原因の探索と対策(脳損傷者にこのような現象が見られる場合は、周囲からの刺激によって注意が逸らされやすいことが原因であることが多いものです。そのような場合は、環境の適正化も認知リハビリテーションの一部になります)などが具体的な方法の候補になります。
三つ目は、この障害が現存している場合においてですが、その障害と、4年前より繰り返している「自分は死ななければならない」と時折自分を責める行動との関連があるか否かというものです。
これは難問です。【2766】のケースの経過を振り返ってみますと、
それまでも(5年前大学の保健センター精神医療相談を利用)経験することのあった、将来が全く見えない感じ、および過去の失敗が重大なものであり、自分は何をやっても駄目でしかないという信じ込みを、1日に数度、20-30分の長さで体験し、そして4年前の夏のある日に、立ち上がることも出来ないほどの頭重感、脱力感とゆううつさに、カーペットに突っ伏し微動だにできなくなりました。
この直後に前頭葉腫瘍が発見されたという経過ですが、上記の通り、すでに5年前には症状の初発が認められます。そして【2766】の髄膜種の大きさからみて、この時期にはすでに脳内に髄膜種が発生していたと推定できます。前頭葉は、うつ病との関連性があるという精神医学の一般的知見と合わせて、この5年前の症状と髄膜種に因果関係があることは十分に考えられます。しかし、髄膜種とは関係なくうつ病が発症していた可能性も否定することは出来ません。これは検証不可能な問いです。しかしもっと大きな問題は過去ではなく現在の症状です。すなわち
4.研究室で自席についているとき、自分の机から見えない位置にいる他学生に関して、自分に対する敵意の感情があるのではないか、自分は公共の敵とみなされているのではないかということが気になる。
6.自分が飛び降り自殺などを行うショッキングな場面の想像に頭をいっぱいにされて、日中の作業を効率よく進めることができない。研究の中で行う細微な準備・議論に対しても計画性がなく持続もしないので、実験の条件そのものに抜けが在り、対外発表に値する好結果が得られないため、修了要件を満たすことが出来ず、さらに負のスパイラルに陥っている。自分の精神の正常さや、指導教員・後輩学生・父親の評価がいつも気にかかる。自殺すれば全てが丸く収まると思い、それを熱望したように一人の時に声に出したり、遺書を新たに書くことがしばしばある。
これらは遂行機能障害という範疇で捉えることはできない精神症状です。原因は前頭葉の損傷かもしれません。しかしそれとは無関係に独立して、髄膜種とも関係なく、何らかの精神障害(たとえば、うつ病)に罹患しておられるのかもしれません。これはおそらく、直接診察したとしても判定は困難でしょう。けれども治療を要することは確かです。この治療は認知リハビリテーションと並行して行う必要があり、これが前記、認知リハビリテーション開始前の評価項目の 心理的状態 にあたるものです。
したがって、
このような思考と、高次脳機能障害・遂行機能障害の発症には関連性があるのでしょうか。
この問いは難問で、回答困難です。しかし、問題は「関連性」よりも、「いま、現に精神症状がある」こと、そして同時に「高次脳機能障害(遂行機能障害が主)」もあること、これらの事実に尽きます。
あるいは、全く別個の精神疾患として精神科医の治療を受ける必要があるのでしょうか。
別個であるか否かは、医学を科学と考えた場合には重要ですが、【2766】のご本人にとってはあまり重要ではありません。遂行機能障害と精神症状を並行して治療(認知リハビリテーションを含む)していくことが必須です。「並行」というのは、単に両方の治療を受けるという意味ではなく、両方を統合した治療が必要という意味です。この【2766】のようなケースでは、「遂行機能障害」と「精神症状」の両方に目を向けて行う統合的な治療が最適な治療です。・・・但し、そうした治療ができる施設は非常に限られています。あくまでも理想的には「遂行機能障害」と「精神症状」の両方に目を向けて行う統合的な治療を行うべきであるという認識のもと、現実に可能な治療を求めることが勧められます。
なお、遂行機能の認知リハビリテーションについては、2013年に Medical Rehabilitationという雑誌が特集を組んでいます。(日本語の雑誌です)
Medical Rehabilitation No.53 2013.1
注意・遂行機能障害のリハビリテーション
上記は、臨床像から具体的なリハビリテーションの方法までが詳述された特集です。
認知リハビリテーションの教科書としては、私の知る限りでは次の本がベストです:
Sohlberg and Turkstra
Optimizing Cognitive Rehabilitation
The Guilford Press 2011
(まもなく日本語訳が出版されるようです)
(2014.8.5.)