病的酩酊について
1
精神医学の教科書にはのっていて、名前だけはよく知られていながら、実際の臨床ではほとんど出逢うことのないものはいくつもあるが、その一つに病的酩酊がある。
普通ではない酩酊が異常酩酊で、異常酩酊のうち、量的な異常が複雑酩酊、質的な異常が病的酩酊である。というのが教科書に出ている定義であるが、これだけでは抽象的でわからない。質的な異常というのは、「人が変わる」ことであるともいえるが、酒を飲むと「人が変わる」と言われている人ならたくさんいる。ではそういう人はみな病的酩酊かというとそんなことはない。ではどう変わると質的な異常とされるのか。つまり病的酩酊と診断されるのか。
それを知るには具体例を見ることが必要だが、病的酩酊は、実例に出逢わないだけでなく、用語として臨床で使われる機会も少ない。この用語がクローズアップされるのは、酒に酔った状態で犯罪が行われた場合である。犯行時に病的酩酊だったということになると、責任能力はなかったということになる。と教科書には記されている。責任能力がなければいかなる犯罪行為も無罪の判決になるから、病的酩酊か否かの診断は裁判ではきわめて重要である。だから判例に目を向けてみると、病的酩酊とされる実例をいくつも見ることができる。たとえばこれだ。
強盗傷害被告事件
大阪地方裁判所平成三年(わ)第二七五三号 平成5年9月24日刑事第四部判決
強盗におよび、相手に怪我をさせた。だが、裁判所は、被告人が犯行当時、病的酩酊だったと認定し、無罪の判決が出ている。
以下、太字の文章は判決文からの抜粋である。○○は固有名詞である。
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一 本件公訴事実は、「被告人は、平成三年七月二七日午前一時五〇分ころ、大阪市○○前路上において、通行中のA(当時二四歳)に対し、背後からいきなり所携 のレンガ塊で同人の後頭部を三回位殴打した上、「金を出せ。」などと申し向け、その反抗を抑圧して金員を 強取しようとしたが、同人に抵抗されたためその目的を遂げず、その際、右暴行により同人に加療約一〇日間を要する後頭部打撲及び挫創並びに頸部打撲の傷害 を負わせたものである。」というのである。 被告人及び弁護人は、事実関係については認めるが、弁護人は、本件犯行当時、被告人は、病的酩酊により心神喪失状態にあったとして、無罪を主張している。
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たまたま道を歩いていた人をいきなり後ろからレンガ塊で殴りつけ、金を出せと要求した。ひどい話だ。だが弁護人の主張は無罪であり、その理由は病的酩酊による心神喪失である。
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二 本件の事実経過について当法廷で取り調べた関係各証拠によれば、本件における事実の経過は以下のとおりである。 すなわち、被告人は、犯行日の前日である平成三年七月二六日午後七時ころから午後九時ころまでの間、大阪市○○にあるビア・ホールで、会社の同僚らとともにビールを大ジョッキに四杯ほど飲んだ。その後、タクシーで同市北区○○にあるスナック「甲野」に行き、翌二七日の午前零時三〇分ころまで、カラオケを歌いながら、ブランデーの水割りをダブルで四杯ないし六杯飲んだ。右スナックを出た後、帰宅するため市道大阪環状線に出て、午前零時五〇分ころ、自宅に電話をかけ、応対した妻に、タクシーで帰宅するからお金を準備して待っておくよう連絡をした。そして、被告人はタクシーを探しながら右道路を自宅方向である○○の方面に向けて歩いた。その途中で雨が降り始めたが、なお、同方向に歩くうち、被告人は嘔吐するなどして、その後そのまま眠ってしまった。
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飲酒。睡眠。犯行はこの後になされる。
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そのころから後、しばらくの間の行動は不明であるが、右のとおり、タクシーを拾い始めてから約一時間後の、同日午前一時五〇分ころ、歩き始めた地点から約一・三キロメートルほど離れた商店街の中の路地にある本件現場付近に至ったとき、前方を歩く女装の被害者を認めた(同人を女性であると思っていた)。被告人は、そのまましばらく歩いた後、いきなり路上付近にあったレンガを拾って手にした上、被害者に走り寄り、本件現場において被害者の後頭部をたて続けに三回殴打した後、「金を出せ。」と言って金銭を要求した。
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ひどい話だ。
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被害者は、レンガを持つ被告人の手を押えながら、「こんなことされて、何で金を出さなきゃいけないの。」と言ったが、被告人はさらに、「千円でも二千円でもええから出せ。」などと言って、再度、金銭を要求した。これに対して、被害者が「私の命は千円くらいなものなのか。」などと強く述べたところ、被告人は、被害者の頭部から血が流れ落ちているのを見て、我にかえるとともに、大変なことをしたと感じ、「違います。」と述べて態度を急変させた。
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おかしな話だ。強盗らしくない。後述するが、これが病的酩酊という診断の一つの根拠となる。
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被告人は、被害者から、「いきなり殴ってきて金を出せはないやろう。ときかく警察へ行こうよ。」と言われ、被害者に手を引っ張られる状態で、○○警察署に向かって歩いた。被告人は、途中ずっと謝罪の言葉を繰り返したが、被害者が許そうとする気配を見せなかったため、とっさに逃げ出したものの、被害者に追いかけられて逃げるのを断念し、午前二時一七分ころ、被害者と共に○○警察署に出頭し、事情聴取を受けた上、午前二時三〇分緊急逮捕された。
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というのが事件の経緯である。
以下、裁判所による分析である。
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三 本件犯行状況について 本件は、その犯行状況を外形のみから見ると、被害者を殴打して金を奪おうとした被告人が、被害者の抵抗にあったため、犯行を断念し、被害者とともに警察に出頭して逮捕された事案と見られるが、その事実関係を子細に見ると、被告人の行動には、以下のようないくつかの理解しがたい事実が認められる。
1 犯行現場及びそこに至る状況について
実況見分調書(検察官請求番号3、4、6)によると、本件現場は、タクシーが通行する大通りから少しそれた、商店街の中の路地である。ところが、被告人は、前記認定のとおり、飲酒した後、タクシーで帰宅しようと、タクシーを探しながら歩いていたものと認められるのに、何ゆえタクシーが通行することのない、その路地に入り込んでいたのか、その理由を十分に説明することができない。
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それは不可解だが、まあ酒に酔っていればそういうこともあるだろう。
だが。
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2 犯行態様について
被告人の本件犯行態様は、レンガで被害者の頭部を三回続けて殴打した上、金銭を要求するというきわめて凶悪なものであるのに、その直後に、たちまち態度を変えて謝罪を始めるなど、その急変ぶりは、通常の犯罪者の態度としては不自然さを免れない。
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確かにその通り、さっきも指摘した通りこれはおかしい。かなり不自然だ。
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この点について、検察官は、犯罪の実行に着手しながらも、反省悔悟などから態度を変化させることは往々にして見られることであって、不自然とはいえない旨主張する。
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その主張はいささか無理ではないか。
「犯罪の実行に着手しながらも、反省悔悟などから態度を変化させることは往々にして見られる」は一般論としてはその通りだとしても、本件、先のような具体的状況に目を向ければ、強盗としてはあまりに不自然である。裁判所も次のとおり、その不自然さを指摘している。
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しかし、被告人が態度を変化させたのは、被害者を殴打し、金銭を要求した直後であり、その態度の変化は唐突なものである。しかも、被告人が態度を急変させた直接のきっかけとなったものとして、まず考えられるのは、被害者の「こんなことされて何で金を出さなきゃいけないの。」ないし「私の命は千円くらいなものなのか。」という言葉であるが、この程度の抵抗の言葉は、通常、犯罪実行を決意した犯人にとって犯行を中止するきっかけになるほどのものとはいえないから、被告人の右態度の変化は、やや奇異なものであることは否定できない。しかも、右犯行当時、被告人は、被害者を女性であると認識していたというのであるから、女性による右発言により被告人が態度を変えるということも、より一層奇妙さを際立たせる。また、本件において被告人は、被害者の頭部に流血を認めて、これがきっかけとなって、それまでの態度を急変させたという事情も見られる。被害者の流血が犯人にとって意外な事態であるような場合には、犯人に反省悔悟の情を生じさせ、犯罪の実行を抑制する要素となることもありうるであろうが、本件の被告人が取った犯行方法は、レンガで被害者の頭部を殴打するというものであり、被害者に相当の流血を生じさせることは当然予想しうる事態であって、被告人にとって何ら意外な事態ではないはずである。それにもかかわらず、被告人は右流血を見て態度を急変させたものであり、このような態度の変化の前後において、被告人の行動様式そのものに何らかの断絶があることが強く推認される。
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その通り、断絶がある。レンガで殴りつけ金を要求しているときと、その行為を謝るときの間には断絶がある。レンガで殴りつけ金を要求しているときは、別の意識状態であったことが強く推認される。
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こうした事情を考慮すると、被告人の態度の変化には、検察官が主張するような単なる反省悔悟に基づき態度を変えたというのでは説明のつかない不自然さが残ると言わざるを得ない。
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妥当な見解だ。この説明のつかなさを、病的酩酊で説明するわけである。裁判所の分析は続く。
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3 被告人の平素の人格態度について
被告人の父親である○○の公判供述記載、妻である○○の警察官調書、会社の社長である○○の嘆願書、同僚である○○の警察官調書によると、被告人は、中学卒業以来、現在の職場に勤務し、その仕事ぶりはまじめかつ熱心であると認められ、また、その平素の性格は、おとなしくて気が弱く、今まで他人と喧嘩をしたり、問題を起こしたことはほとんどないし、また熱帯魚を飼うのが唯一の趣味であり、家族に対しても思いやりを持った人物であるといわれている。そして、被告人が右各供述等に表れているような人格であることについては、被告人の当法廷における供述態度等からも、十分にうかがい知ることができる。
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となれば尚更、この犯行は奇妙だ。
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ところが、被告人の本件犯行態様は、被害者の背後から走り寄り、いきなりレンガで被害者の頭部を三回にわたって殴打して金銭を要求するという、まことに凶悪かつ危険なものであって、これは先に述べた被告人の平素の人格からは容易に想像できない、不可解な行為と言わざるを得ない。
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そう言わざるを得ないだろう。
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4 犯行の動機について
本件で、被告人は、被害者を殴打した後、「金を出せ。千円でも二千円でもええから出せ。」と述べているから、被害者から金銭を奪い取る目的で、本件犯行に及んだものと推察される。
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それはそうだ。
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ところが、被告人には、犯行時点で被害者から金銭を奪い取る動機があったとは認められない。
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なぜ認められないといえるのか。
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すなわち、まず、右の動機の点について、被告人の警察官調書の一部(検察官請求番号27、28、31)には、たばこやジュースを買う金欲しさに犯行に及んだ旨の供述記載がある。しかし、被告人の右供述に至った経過を見ると、被告人は、当初はそれを否定していたことがうかがわれること、検察官調書 (検察官請求番号33)や法廷における供述では、警察官からそう言われ、他に理由がなかったため肯定したにすぎないと述べていること、被告人は、逮捕当時、たばこ五本と小銭四〇〇円余りを所持していたのであるから、たばこやジュースを買う金がすぐに必要なわけではなかったこと、被告人がたばこや小銭の有無を確認もしないで本件のような犯行に及んだとみることも不合理であることなどを併せ考えると、 右の警察官調書の記載内容は、警察官による誘導によるものである可能性が高く、そのままには信用できないものと言わざるを得ず、たばこやジュースを買う金が欲しかったという動機を認定することはできない。
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取調べ調書は誘導によって作成された。よく聞く話である。
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他方、被告人は、犯行前に自宅に電話をかけ、妻に対してタクシー代金を準備しておくようにと伝えていたから、タクシー代金は必要としなかったと認められる。そして、本件関係証拠によっても、その他に金銭を必要とした事情も認められないから、結局、被告人には、被害者を殴打してまで金銭を得なければならないような動機があったとは考えられない。
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となると、強盗をすること自体が不可解ということになる。
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5 被告人の記憶の欠損について
被告人の法廷での供述や、検察官調書及び警察官調書を総合すると、被告人は、タクシーを拾いながら 歩いている途中から記憶をなくしており、被害者が目の前に現れたところまではほぼ完全に記憶が欠落しているものと認められる。そして、犯行直前に、前方を歩いている被害者の姿を認めたときからの記憶は 一応再現できるものの、その後も、被害者の頭部からの流血を見て我にかえるまでは、自己の行動の外形を一応記憶に止めているという程度の漠然としたものに止まっているし、その間の心の動きについて十分な説明をすることもできないのである。
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というわけで記憶もかなり欠損していた。
そして次は、酩酊の程度についてである。
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四 被告人の飲酒量及び酩酊の程度について
1 以上のように、本件犯行状況には、種々の理解しがたい事実が認められるのであるが、その原因として考慮されるのは、犯行前の飲酒の影響である。 そこで、まず、被告人の犯行当時の飲酒状況を検討するに、関係各証拠によると、被告人は、犯行前日の午後七時ころから当日の午前零時三〇分ころまでの間に、ビールを大ジョッキで四杯程度と、ブランデーの水割りをダブルで四杯ないし六杯程度飲んだことが認められる。ところで、被告人の法廷での供述、○○の公判供述記載、妻○○の警察官調書によると、被告人は週に三回くらい、晩酌でビールを小びん二本から三本程度飲んでいたと認められ、また、妻○○の警察官調書によると、被告人にとっての適量は、 ビールであれば小びん三本程度、日本酒であれば二合程度であるというのである。被告人は、外で飲む際には、それより多くの量を飲むというから、右のような平毒の酒量が被告人にとっての限界値であるとはいえないにしても、本件では、被告人の普段の飲酒量をかなりの程度上回っていることは否定できない。
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アルコールをかなり飲んだ状態での犯行ということである。
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そして、被告人の警察官調書(検察官請求番号29)及び○○の警察官調書によると、被告人は、スナックを出る際には、少し酔っていた程度であるというのであるが、他方で、被告人の法廷での供述及び警察官調書(検察官請求番号29、30)によれば、タクシーを拾いながら歩いている途中で嘔吐していること、しばらくの間眠り込んでしまったと認められること、また、被害者は、犯行時の被告人の様子について「だいぶ酒を飲んでいるなと思った。」「酒の臭いがぷんぷんしていた。」と証言していること、捜査報告書(検察官請求番号22)及び酒酔い・酒気帯び鑑識カード(検察官請求番号35)によると、犯行後約一時間余りの時点での飲酒検知の結果、呼気一リットル中〇・三ミリグラムのアルコール量が検出されている上、被告人の当日の飲酒状況と類似の条件で鑑定人が実施した飲酒テストの結果では、犯行時にほぼ相当する飲酒終了後二時間の際には、一デシリットル中一八〇ミリグラムの血中アルコール濃度が認められたことなどを総合すると、被告人は本件犯行当時、相当程度の酩酊状態にあったことを否定することができない。
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飲酒の量に加えて、このように、泥酔していたことが証拠上明らかにされている。
ここでようやく病的酩酊の話になる。
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2 右のように、被告人は、本件犯行前に相当量の飲酒をした結果、酩酊状態にあったと認められるが、 この酩酊の性質がいかなるものであって、それが被告人の犯行時の精神状態にいかなる影響を及ぼしたのかを検討する。 一般に、酩酊が人間の精神能力、ひいては法律上の責任能力に対して、どのような影響を与えるかについては、通常、単純酩酊と異常酩酊という分類がなされ、後者についてはさらに、複雑酩酊と病的酩酊とに分類される。 そして、右のうち病的酩酊にあっては,健忘ないし妄想を伴い、激しい、人格に異質な興奮に及ぶものであることから、心神喪失状態にあるものと見られている。 そこで、本件においては、被告人の前記の飲酒経過によって、犯行当時、被告人が病的酩酊といえる状態にあったかどうかを検討する必要があることになる。
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というわけで、精神鑑定の結果に言及されている。
精神鑑定に至った経緯についての具体的記述は判決文には書かれていないが、判決文の冒頭近くにあったように、弁護人が病的酩酊を主張し、これを受けて裁判所もその可能性ありと考え、精神科医に精神鑑定を命じたのであろう。
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3 この点について、鑑定人○○作成の鑑定書によると、被告人の犯行当時の酩酊状態はいわゆる 「病的酩酊」であり、その精神状態は病的酩酊による「もうろう状態・夢幻状態」にあったとして、被告人の責任を問うことはできないと結論づけている。
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病的酩酊は、「もうろう型」と「せん妄型」の二種類に分けられるとするのが通常の考え方である。上記、「もうろう状態・夢幻状態」ということは、本件被告人は「もうろう型」だったというのが精神鑑定の結論ということになる。根拠は以下。
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鑑定人がその根拠とするところは、鑑定書及び鑑定人の当法廷証言によれば、まず、被告人が当時「もうろう状態・夢幻状態」にあったことについては、要するに、当裁判所が先に認定したような犯行状況に 含まれる理解しがたい種々の事実が存在すること、被告人が本件犯行状況について「夢みたいな感じ」あるいは「写真の一コマ一コマが写り出る。そんな感じ」などと、非現実的、夢幻的な体験として供述していること、さらには、被告人につき飲酒テストを実施した結果、アルコール摂取量の増加に伴い、てんかん圏の疾患、特にもうろう型のてんかんに主に見られる特異な脳波(いわゆるθ波)の出現が見られたことなどを総合した結果であるという。
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このように、病的酩酊だったとする判断の根拠は二つ。第一が本人の供述。第二が飲酒テストの際の特異な脳波である。飲酒テストとは、犯行時を再現する目的で、犯行時と同程度の量のアルコールを飲ませ、精神状態、アルコール血中濃度、脳波などを見るものである。
裁判所は、この精神鑑定結果を信頼できると判断し、病的酩酊と結論、判決は心神喪失で無罪となった。結論部分の判決文は以下の通り。
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五 総括―被告人の責任能力の判断
以上述べた種々の事情を考慮して被告人の犯行当時の責任能力を検討すると、本件では、被告人が犯行現場に赴いた理由を十分説明することができないばかりか、強盗を働いてまで金銭を取得しようとする犯行の動機がおよそ諒解できない。しかも、その犯行態様が被告人の平素の人格から大きく乖離したものである上、途中で態度を急変させる不自然な部分が認められるなど、本件犯行の状況それ自体に、被告人の責任能力の欠如をうかがわせる事情が認められる。特に動機を想定できないことと、本件犯行と被告人の平素の人格との著しい乖離は、責任能力の欠如を強力に推認させるものである。このような客観的状況に加えて、本件では、被告人の当日の飲酒量が平素に比べて相当程度多いことや、被告人が飲酒後、犯行現場に至る途中で嘔吐したり、眠り込んだりしていることから見て、その酩酊の程度も決して軽いとはいえないなど、責任能力に影響を及ぼす程度の飲酒状況も認められるところである。しかも、前記検討の結果、十分尊重に値すると認めた鑑定意見によれば、被告人は、犯行当時、病的酩酊によるもうろう状態・夢幻状態にあったというのである。右のような事情を総合して、被告人の責任能力を判断すると、被告人の犯行当時の状況は、飲酒によって病的酩酊の状態に陥り、自己の置かれた状況を十分に把握できないまま、何らかの理由から衝動的に犯行に出たものとしかいえないのであって、このことからすれば、被告人は、本件当時、自己の行為の是非善悪を弁え、それにしたがって行動する能力を完全に欠如していた可能性が高く、少なくともそのような合理的疑いを否定することができない。
七 結論 以上の次第であるから、被告人の行為は、刑法三九条一項によって罪とならない。よって、刑事訴訟法三三六条前段により、被告人に対し、主文のとおり無罪の言渡しをする。
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強盗で相手に怪我を負わせたが、無罪。理由は犯行時心神喪失だったから。その理由は病的酩酊。病的酩酊と裁判所が認定したのは、精神鑑定で行われた飲酒テストでの脳波異常がかなり重視されたことによる。
そしてそのこの判決の2年後、医学専門誌である 臨床脳波 に、「飲酒試験で高振幅θ波群発が持続した病的酩酊の一例」と題された論文が発表された。その論文の内容からも、また、論文の共著者の一人が上記事件の精神鑑定医であることからも(上記引用にあたっては○○としたが、判決文には実名が記されていた)、この論文で呈示されているケースが上記裁判のケースと同一であることは明らかである。簡単に紹介しよう。
臨床脳波 37: 707-711, 1995.
東浦直人他: 飲酒試験で高振幅θ波群発が持続した病的酩酊の一例
ケースは25歳男性、主訴は飲酒後の暴行である。現病歴として、飲酒後路上で見知らぬ人物をレンガで殴りつけ、金を要求したことが書かれている。そして著者らの病院に精神鑑定目的で一日入院となり、飲酒テストが行われた。その方法は、飲酒開始後1, 2, 4, 6時間において脳波を測定するとともに、アルコール血中濃度測定と酩酊状態の評価を行うというものである。その結果は次のようなものであった。
・2時間でθ波の群発が出現
これだけでは必ずしも異常とはいえない。
・4時間では著しい異常
この時点のアルコール血中濃度は 190mg/dl。
α波はほとんど消失し、6ヘルツの高振幅(200マイクロボルト)律動波が主体で、全体の三分の二を占めていた。
論文にはこの時点での脳波所見が図として呈示されており、それは一目でわかる、高度な異常脳波である。飲酒によってこのような異常脳波を呈しているということは、この25歳の男性は、アルコールに対して脳が通常人とは違う特異な反応をするという素因を持っていると判断せざるを得ない。そしてこれだけの脳波異常が出現していれば、その際の精神状態が正常だったとは考えにくい。病的酩酊という判定は妥当と思える。
・6時間では熟眠。アルコール血中濃度は180mg/dl。
脳波はシータ波の群発で、通常の深睡眠脳波とは異なるものであった。
昨今では飲酒テストが行われることは少なくなっており、上記の明快な異常所見を見ると、飲酒時の特異な脳波所見の稀な具体例という意味で、非常に貴重なケースである。裁判所の病的酩酊という判定は妥当であろう。
ただ教科書の病的酩酊の記載と異なるのは、少量の飲酒ではなく、かなりの量の飲酒によってこの精神状態が出現したという点である。それ以外はこのケースは教科書通りの典型的な病的酩酊であるといえる。
2
さて、病的酩酊は、「ビンダーの病的酩酊」としばしば呼ばれるように、1935年のビンダーの論文に記載されている概念である。1935年だ。80年近く前の記載が、いまだに用いられている。それだけ優れた記載だったのかというと、まあそれも一部にはあるかもしれないが、本稿の冒頭に記したように、臨床では滅多に実例に出逢わないので、論文の記載だけが受け継がれてきて、新たな知見が書き加えられないままに現在に至っているというのがより正鵠を射ているであろう。現代の診断基準には病的酩酊というものはない。いちばん近いのはアルコールせん妄であろう。アルコールせん妄は病的酩酊のせん妄型にほぼ重なると考えられる。「考えられる」といっても、本当はビンダーの原著にあたってみなければわからないが、1935年の論文は入手困難である。そこで次の論文の記載が貴重なものということになる。
中田修: 病的酩酊の症候論. 犯罪精神医学 金剛出版 東京 1972.
(精神医学 第2巻第11号、1960)
中田修は我が国の司法精神医学の泰斗であり、上記論文は、病的酩酊についての原著論文を精密に検討したものである。そこにはこんな記載がある。
p.231
こんにちわれわれが精神医学の教科書にみるような病的酩酊の概念と症候論は、すでに今世紀の初頭に確立したようである。それに貢献したのはクラスト=エービング、モエリ、ハイルブロンナー、クラーマー、ボンヘッファーなどの著名な精神医学者である。それから数十年後のこんにち、これらの緒家によって確立された概念と症候論がほとんど手を加えられずに存続しているのを発見して、非常な驚きを感ずるのである。
「こんにち」というのは1960年だ。2013年の現代はどうかというと、「確立された概念と症候論がほとんど手を加えられずに存続している」というよりむしろ、「確立された概念と症候論が退化してしまった」とでもいうべき状況になっている。精神症状を単純な項目に分解してチェックしていくという方法が、「客観的」という大義名分のもとに跋扈した結果である。(私はそれが悪いとか良いとか言っているのではない。事実を指摘しているにすぎない)
それはともかくとして、この中田はどのようなケースを病的酩酊と診断しているのか。実例を見てみよう。
中田修: 夢幻様の病的酩酊について. 日本犯罪学雑誌 60: 162-169, 1994
という論文がある。ここには2例が紹介されているが、中田が確実に病的酩酊であるとしている第一例は次のようなケースで、罪名は窃盗、住居侵入、強盗予備である。
被告人は25歳男性。飲酒の後、盗んだ包丁とハンマーを持ち覆面をして、深夜に、ある医院の勝手口のガラスを割って侵入した。ここまでは侵入窃盗犯としては平凡な行動である。
しかし、侵入にあたって彼は、包丁とハンマーと、それから靴を、勝手口の外の通路に放置したのである。そして台所の冷蔵を明けて、中の物を取り出したり食べ散らしたりした。
それから医院の診察室に入り、覆面をはずし、わめきながらベッドのところのカーテンを引きずり落とし、その物音で気づいた住民に通報され逮捕された。これが犯行の全経緯である。
被告人を知る人の証言によれば、
「ある程度飲むと、全然分からなくなり、裸になったり、トイレに便をいっぱい付けてしまったり、後で全然記憶がなく、また酩酊すると、食欲が旺盛になり、物を食べたがる。ただし、屋外で暴れたことはない」
「性質はおとなしいが、酒を飲み過ぎると、人が変わり、気が荒くなる」
など、酒癖が悪かったことが指摘されている。
本件犯行については、被告人は飲酒以後のことはほとんど全く記憶していない。
そして、前述のような行動は、強盗犯人のする行動としては到底考えられない、一貫性のないものである。ハンマーでガラス戸を破壊するという行為までは、強盗としては合理的な行為である。だがせっかく持ってきた包丁を外に放置し、侵入してからは覆面を外し、しかも無意味に大声を出してそれにより逮捕されている。冷蔵庫を開けて食い散らかすのも、強盗の目的を達してからならともかく、およそ強盗犯人らしくない行為である。
こうした事実に基づき、鑑定医の中田修は、この被告人は犯行時病的酩酊(もうろう型)であったと結論し、裁判所はそれを受けて心神喪失による無罪の判決を言い渡している。中田修によれば、このケースがもうろう型病的酩酊の一つの典型例である。納得できる論文であるといえる。
先の犯罪精神医学に掲載の論文(病的酩酊の症候論)の結び部分に中田は、病的酩酊(もうろう型)と診断する条件を提唱している。そこにはまず、病的酩酊(もうろう型)の指標として過去の文献で指摘されているものが次のように列記されている。
・ 急激な発現
・ 少量の飲酒
・ 不機嫌ないし苦悶性の気分
・ 運動性発散への傾向
・ 意識混濁
・ 見当識障害
・ 妄覚・妄想
・ 常同的な言動
・ ベッドについても興奮のおさまらないこと
・ 言語障害と歩行障害の欠如
・ 終末睡眠
・ 多少とも著しい健忘
・ 瞳孔症状
・ 腱反射の低下と筋緊張低下
・ 病的素因
・ 誘因
など。
しかし、これらはすべて同一のおもみを持つものではない。
そこで中田は、病的酩酊に必ず認められるものとして
①(多少とも著しい)健忘
を挙げている。ただしこれは必要条件であって、十分条件ではない。そこで
②酩酊による身体的麻痺症状(言語障害と歩行障害)の欠如、もしくは精神症状の急激な発現 のいずれか
を挙げ、①と②が認められれば、病的酩酊としてよかろうと結論している。そしてさらに
③見当識障害
をこれに加えることもできるとしている。
3
もう一例だけ判例から引用する。神奈川県で発生した、米兵がピストルで民間人を射殺した殺人事件で、時は昭和30年代、時代を感じさせる記載が多い判決文である。一審(地裁)と二審(高裁)がある。まず一審。病的酩酊による心神喪失と認定された、無罪判決である。
殺人被告事件 横浜地方裁判所横須賀支部 昭和32年7月31日判決
判 決
国籍 アメリカ合衆国 住居 米海軍追浜基地内追浜第一空挺隊第十六ヘリコプター部隊第十六海兵隊兵舎 米海軍海兵隊一等兵○○一九三二年 五月一六日生 右の者に対する殺人被告事件につき、当裁判所は検察官○○出席の上審理を遂げ、次のとおり判決する。
主 文
被告人は無罪。
一、本件公訴事実と事案の概要 本件公訴事実は 被告人は昭和三十一年十月二日午前四時十五分頃○○屋において、米国陸軍曹長○○と横浜市金沢区○○番地○○当十九年及び同人の友人四名とが、階下カウンター席附近に円陣をなし、飲酒談笑中なるを目がけ、所携の拳銃五発を乱射し、うち一発を右○○の臀部に命中せしめ、よって同人を同日午前五時四十四分頃横浜市金沢区○○病院において左臀部盲貫銃創による腹腔内出血のため死亡せしめ 殺害したものである。 というのであって、右の事実は本件の各証拠を綜合してこれを認めることができる。
○○屋は飲食店。仲間と飲んでいた19歳の日本人を、米兵が射殺したという事件である。
二、犯行に至る具体的事実の経過 しかし、証人○○及び被告人の各当公判廷における供述、本件公判調書中証人の各供述部分、司法警察員○○の実況見分調書、医師○○の鑑定書、鑑定人○○、土○○○共同作成の被告人に対する精神鑑定書、○○、○○らの各記載並びに領置にかかるコルト型拳銃一挺(昭和三十一年領支第八十四号の五)弾倉一個(同号の六)実包五個(同号の 七)及び拳銃嚢一個(同号の八)等を綜合すれば、被告人は典型的分裂気質に加うるに知能指数が低く、その知的水準は精神薄弱のうち最も軽い魯鈍の上位にあり、社会適応性がなく軍隊生活七年間に四回の軍事裁判と八回の譴責処分を受ける等たびたびの逸脱が見られる者であるが、
軍でもかなり問題が多かったこの米兵が、
昭和三十一年十月一日は射撃訓練があり、雨天のため気がくしやくしやしていたところ、午後一時から休暇をとり米海軍追浜基地内の兵舎でウイスキーの角瓶三分の一位を飲み、同日午後四時頃から追浜所在のバーマンボ、追浜ガーデン、コンドルバー、追浜グリル及び再び追浜ガーデン等を翌二日午前零時頃まで飲み歩き、その間の飲酒量は合計VOウイスキー二十杯位、ビール十五本位に及び、
というようにこの日はかなりの量の酒を飲んでいた。
相当酩酊して同日午前零時過頃○○等四、五人の日本人と追浜○○番地飲食店○○屋に至り、更にビールを飲んでいるうちに、米国陸軍曹長○○と海軍準士官○○が酔っているのを目撃したが、間もなく右日本人達と○○屋を出た時、附近の路上で日本人から「ヤンキーゴーホーム」と云われたので腹を立て、又○○屋に引き返えして、酔って寝ている右○○に「ベースゴーホーム」と云って同人を起し、これをタクシーに乗せて前記追浜基地に帰隊させ、その際公務の場合以外は持ち出すことを禁止されている被告人が日常所持する軍用拳銃(昭和三十一年領支第八十四号の五)を持ち出して三たび○○屋に至り、
こうしてピストルを持って犯行現場の○○屋に来た。
同家二階で飲んでいた前記曹長○○に対し「十二時過ぎまで店にいる者は帰らす」と云って同人に「帰れ」 と迫ったが、同曹長は酒がまわっていたものか被告人の言に耳をかさず帰ろうともしなかったので、被告人は色をなして同家を出て行き、二、三十分して同日午前四時十五分頃四たび○○屋の表入口にあらわれ、足音荒く二階にかけ上ったがすでに二階には人が居なかつたので、階下に降り表入口から戸外に出ようとした途端、前記曹長○○が階下奥カウンター席前附近において○○等日本人五名に囲まれ、 右日本人達と「おおいどうしたいえ」という日本語の歌を唄っているのを目撃し、
○○曹長(米兵)は○○屋で日本人と飲みながら歌っていた。それを見た被告人は —
同曹長が共産党員に取り囲まれており、同曹長の身が事態危急の場合に遭遇しているものと思惟し、
○○曹長が危ないと、おそらくは咄嗟に確信した。そしてピストルの引き金を引く。
同曹長に対し「アイ、ウワツチ、ユウ、ゴー、バック」と言葉鋭く云い放ち、その直後同曹長並びに右日本人達のいる方向に向け所携の拳銃を五発乱射し、うち一発を○○の臀部に命中させ、同人を同日午前五時四十四分頃横浜市金沢区○○病院で左臀部盲貫銃創による腹腔内出血のため死亡させたことが認められる。
明確な殺人事件である。以下、裁判所による論考。結論は冒頭に記した通り病的酩酊により心神喪失、すなわち無罪である。
三、犯行当時の被告人の精神状態(心神喪失)
そこで、進んで本件犯行当時の被告人の精神状態について考察するに、前掲各証拠に証人○○の当公判廷における供述、本件公判調書中証人○○、○○らの各供述部分並びに証人○○に対する尋問調書の各記載を綜合すれば、おおよそ次のことが認められる。
被告人はその軍隊生活七年間における前示たびたびの逸脱については、その時期、その処罰事件の内容などを殆んど記憶しておらず、ただ「殆んど酒を飲んでいるときだ」と鑑定人に答えており、実際生活上ここ八年来常習飲酒者で毎晩飲酒し、勤務中もかくれて時々飲んでいる、
どうやらこの米兵はアルコール依存症だったようである。
多くウイスキーでそのため七年前から手指のふるえがみられ、アルコールがきれるといらいらして仕事ができなくなる。
アルコール離脱症状である。それも7年前から認めている。アルコール依存症の診断は間違いない。
更に三、四年前から就寝中に敵が入ってきて抑えつけられたと感じてとび起きて寝ている戦友を殴打してしまったり、また朝鮮の戦闘で斬壕から斬壕への苦しい生活にもどっていたりする悪夢をみるようになり、或は就寝中の夢としてではなく、うつつの間に猿が木にせわしく登ったり、窓に桃色の象がみえたり、自動車位の大きさの蜘蛛がみえたりすることを経験しているが、これらはアルコール性精神病のうち振せんせん妄に当るもので、被告人は三、四年前から犯行までの間この振せんせん妄を経過している。
その通り、振戦せん妄である。振戦せん妄は、アルコール離脱症状の中でも特に重篤なもので、被告人のアルコール依存症は重症だったと判断できる。アルコール依存症は、アルコールをやめる以外に治療法はない。被告人の振戦せん妄は3,4年前から。手のふるえなどの離脱症状は7年前から。遅くとも7年前の時点で、彼はアルコールをやめなければならなかった。やめなければ行き着く先が破滅になることは、その時点ですでに明らかであった。そして当然のように訪れた破滅が、今回の殺人事件であった。破滅は本人だけでなく、何の罪もない他人を襲ったのだ。
被告人に対する性格テストの結果も精神病的傾向が強く、妄想を作り出す傾向、精神病的傾向があるとされている。従って、被告人の社会適応失敗は被告人の分裂気質に加うるにアルコール嗜癖によって誘発されるという形をとったものとみられている。
アルコール嗜癖という用語は現代ではあまり使われない。現代でいえばアルコール依存症である。(但し、余談だが、2013年に発刊されたDSM-5の訳語に 嗜癖 が復活するかもしれない)
友人のエドワード・○○は「被告人とは一九五五年九月から交際しているが、被告人の言動にはおかしいと思うようなところがあり、真面目に話すべきことを馬鹿げた話方をする。いつも真面目さを欠き、幾分変っている」という。また、被告人は幼時から銃、ピストル等の攻撃的武器を好み、鑑定人に対しても銃砲の話などでは被告人の表情はいきいきとなり、口数も多く手振り 見振りを混えて昂揚する態度を示している。被告人は本件事件発生前日の十月一日は、その前日及び前々日ヘリコプター誘導のため富士キャンプに行くことを命ぜられ、日曜日をつぶされて楽しみにしていた酒が飲めなくなったので不満であったが、同日午後休暇を貰って飲み始め、追浜ガーデンに二回目に行ったときなどは、いつもになく酔って、ふだんはマダムの○○、女給の○○としか口を聞かないのに、この日は愉快そうに冗談を云い、○○を肩車に乗せて二、三十米の間道路上を歩いたり、○○、○○等に自分の胸から射撃章を取ってくれたりして、○○屋に行った翌二日午前零時頃まではほぼ上機嫌の酩酊であった。
友人の証言によれば、前日午後から飲み始め、上機嫌であったということである。
しかし、○○屋の二階で曹長○○と○○が酔っているのを見て後、○○屋を出て附近の路上で日本人から「ヤンキー、ゴー、ホーム」と云われて腹を立ててから再び○○屋の二階に上ったときには、
それまでの上機嫌が、路上で「ヤンキー、ゴー、ホーム」と言われてから一転する。
(するとこのときこの言葉を路上で言った日本人が原因を作ったと言うべきか・・・どうかはわからない)
酔って寝ている○○をわざわざ起して自分は上着を脱いでアンダーシャツ一枚になって同人をかつぎ下してタクシーを呼び、兵舎まで送りとどけたが、その時あたりから被告人の言動は異常を示してきている。すなわち、被告人は兵舎において深夜にもかかわらず着衣をととのえて同日午前二時頃追浜米軍基地の第二通門用で立哨勤務中の○○のところに行き、同人に対し「町の方で ごたごたが起きている、人種的な問題がある」というようなことを云い、「四十五口径の拳銃の弾丸をくれ」などといい、更らに同日午前二時半頃に三たび大和屋にあらわれてマダムの○○に「自分は CIDであるがドルを換えてくれ」と云ったり、
CIDとは軍の犯罪捜査機関である。正式名称はUnited States Army Criminal Investigation Command で、略語はUSACIDCだが、通常はさらに短くCIDと呼ばれる。
以下、被告人の様子がおかしいと周囲の誰もが感じている中、犯行がなされる。
曹長○○に対し「十二時過ぎまで店にいる者は帰らす」と恰も自分がCIDであるような口吻や態度を示す状態に陥っており、○○屋階下のカウンター席前の電話を使用してベースに電話をかけて「アップストアにサージャンがいる」というようなことをものものしく云っていたので、マダムの○○は非常に不安を感じ、喧嘩でもあったのか、または喧嘩でも起りそうな予感を抱き、二階の客を階下に下して二階の店を閉めさせた位である。被告人はその後○○屋を出て約 三十米離れた○○製パン所の前路上で、○○、○○、○○に対し、突然○○の首を押し「シャラップ」と云って、次に拳銃を胸に構え三人に向けて同人等を驚ろかしている。そして四たび○○屋に引き返えして、一旦二階にかけ上り、降りて来て、階下カウンター席前で曹長○○が○○等の日本人と円陣をなして歌を唱っているのに気付き、同曹長に対し「アイ、ウワツチ、ユー、ゴーバツク」と 言葉鋭く云い放ったが、その態度にはただごとでないものがあると○○は感じたので、同人は板前の○○にすぐ交番に電話をかけるように命じ、被告人が拳銃を出して構えたのを見て、いたずらにしてはひど過ぎると思ったので主人に連絡しようと立ち上った直後被告人は拳銃を発射した。
そして逮捕直後の言動がある。(犯罪ではこれがかなり重視されるのが常である。後で落ち着いてからだと、罪を逃れようとして、自分は犯行当時精神的におかしかったと言い出す者もかなりいるからである)
被告人は間もなく逮捕されて追浜交番に連行されたが、拳銃発射の動機目的について、MPと曹長○○に対しては 「二人をうつつもりだった」と述べ、同曹長の「なぜ俺の方に向って拳銃をうったか」との問に対しては 「お前をうつつもりではない,共産党がいたからそれをうつつもりだった」と答え、司法警察員○○の取調に対しては「○○屋から外に出たとき日本人から『ヤンキーゴーホーム』と云われたので腹がたちその日本人をおどかしてやろうと思って拳銃を持ち出した」と云っていて、そのいずれが真実であるか判然しない。
○○屋の日本人を共産党と誤認したとすれば幻覚。「ヤンキーゴーホーム」と言った日本人をおどかすつもりで拳銃を持ち出したのであれば、正常な心理の範囲内。「いずれが真実であるか判然しない」とあるが、いずれであるかによって、当時の被告人の精神状態の判定は大きく異なり、それは有罪と無罪の岐れ道にさえなり得る。
精神鑑定医は次のように判断している。
被告人は二回に亘り朝鮮における軍務に就き、同地において共産党が罪のない子女を殺したことなどを目撃して、共産党に対し非常にはげしい敵対感情を持ち、これを憎んでいたものであり、本件犯行当時の被告人の精神状態は、前記精神鑑定書に「数時間に亘る大量の時続的飲酒によって軽い意識障害を伴える躁状態ともいうべき異常酩酊をへて、事件発生数時間前から病的酩酊状態にあつた。而してアルコール幻覚症及び被告人がたびたびおそわれる振せんせん妄にかなり類似しており、意識障害を除くならば精神分裂症の妄想形式、これによる行動と同程度にみるべき病的精神状態にあった。本件事件発生当時には意思に従って行動する能力はおおよそ保たれてはいたが、現実に対する正当な判断力は失われていたと推定すべきである。」
「アルコール幻覚症及び被告人がたびたびおそわれる振せんせん妄にかなり類似しており」という表現は、現代の精神医学的には矛盾がある。アルコール幻覚症と振戦せん妄は、どちらも幻覚が出現するという共通点があるが、前者は意識清明、後者は意識障害下の症状であり、したがって全く別の概念である。昭和30年代にこれら概念がどのようであったかは知らない。しかしそれはともかくとして、ここまでの症状の描写からみて、この犯行時に振戦せん妄であったというのは疑問である。かといってアルコール幻覚症のほうも疑わしい。むしろ病的酩酊のもうろう型が一番あてはまる状態だったように読める。
・・・このときの精神状態にあてる用語がどうだったにせよ、上記鑑定医の「現実に対する正当な判断力は失われていた」という判断は妥当であろう。これは法的には心神喪失を示唆するコメントということになる。裁判所は次の通りこれを重視する。
とあるところからこれを推考すれば、被告人は本件犯行当時、病的酩酊状態にあって、そのような事実がないのにかかわらず、曹長○○が共産党員に取り囲まれて危急の状態に遭遇しているからこれを救わねばならぬと妄想して、拳銃を発射したものと推認され、被告人は当時刑法上いわゆる心神喪失の状態にあつたものと認めざるを得ない。
心神喪失。イコール無罪だ。
四、結論
従って、本件公訴事実は、刑法第三十九条第一項により罪とならないものといわねばならない。 よって刑事訴訟法第三百三十六条前段に則り、被告人に対し無罪の言渡をする。
昭和三十二年七月三十一日 横浜地方裁判所横須賀支部
先の強盗傷害事件(レンガで通行人をいきなり殴りつけ、金を要求した事件)と同様、心神喪失で無罪という判決である。酒に酔ってピストルを持ち出し、たまたま飲食店にいた人を撃ち殺したこの事件の犯人が無罪だ。
但し本件は控訴審(二審)がある。
酩酊すると暴行する習癖のある者の注意義務
殺人(予備的訴因重過失致死)
32(う)第1995号 昭和33年12月3日
東京高裁第一刑事部判決 破棄自判
先の一審無罪を不服として、検察官が控訴し、東京高裁での争いとなった。検察官の主張は次のa, bである。犯行時に被告人は、
a. 心神喪失には至っていない。心神耗弱にすぎない。
b. 心神喪失だったとしても、その状態に陥ったのは酒を飲んだ本人に責任がある。本人は酒を飲めば自分が粗暴になることを十分に知っていたのだから。
結論を先に述べると、高裁はa.は却下したが、b.を正当であると認め、判決は逆転有罪になった。高裁判決文から引用する:
被告人はかねてより多量に飲酒すると病的酩酊に陥り心神耗弱乃至心神喪失の状態において他人の生命、身体などに害悪を及ぼす危険な行動に出る素質を有し、被告人はこれを自覚していたと推認せられるところ、かかる素質を有しこれを自覚する者は右心神耗弱乃至心神喪失の原因となる飲酒を抑止又は制限し、右危険の発生を未然に防止すべき注意義務があるに拘らず、被告人はこれを著しく怠り自ら求めて前叙の如く夜を徹し持続的に多量に飲酒をした結果病的酩酊に陥り心神喪失の状態において本件所為に及んだ事実を認めることができる。然らば被告人は重過失致死の責任を免れないのであるが、検察官は当審において右重過失致死の点について予備的に訴因及び罰条の追加請求をなし、当裁判所はこれを許容したので、論旨は結局理由がある。
というわけで、一審の無罪判決を破棄し、高等裁判所が新たに判決を下した。逆転有罪である。
以上の高裁の論理は次のように要約できる。
(1)本件犯行時は病的酩酊で、心神喪失の状態であった。
(2)しかし被告人は、自分が酒を飲めば病的酩酊に陥り、他人に危害を加えるおそれがあることを自覚していた。
(3) したがって被告人には、(2)のような事態を未然に防止する義務があった。
(4) そのためには飲酒を抑制すべきであったのに、被告人はこのとき、大量に飲酒したため本件事件に至った。
(5) ゆえに被告人には、未然に防止すべき義務を怠った点に違法があり、その結果である本件は、重過失致死にあたる。
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本稿冒頭に、病的酩酊は臨床では滅多に出逢わないと書いた。だから判例の中の実例を参考にすべきだと書いた。ここまでの3例、いずれも確かに臨床では滅多に出逢わない。だが逆に、身近な酒飲みの中に、飲むとこれらに似たような言動になる人がいるという気もする。もちろんだからといって刑事事件を起こす人は滅多に、というかほとんどいないが、上記のような刑事事件を起こした人の酩酊と、身近に見られる、飲むと異常な感じになる人の酩酊と、質的に違いがあるのか否かはなかなか難題である。
但し、ここまでの3例も、また、私が読んだ限りにおいてであるが判例の中の他の例も、病的酩酊の状態になったのは、かなり大量の飲酒の結果であることには注目すべきであろう。教科書にはしばしば、精神状態の異常が「少量の飲酒で」引き起こされると記されており、するとその条件を満たす典型例は、おそらくきわめて稀といっていいと思われる。(俗にアルコール不耐症と呼ばれる、少量の飲酒で真っ赤になり、動悸・発汗・嘔吐などの反応が出る人とは別である。この反応はアルコール代謝系の酵素の一つであるアルデヒド脱水素酵素2型の遺伝子が、DNAの点変異により、いわゆる欠損型と呼ばれる遺伝子型をhomozygousで有することが原因であることが解明されており、日本人の約7%は遺伝的にこの体質を持っている。以前【0187】 アセトアルデヒド血中濃度のデータの出典などでも解説した)
長い長い前置きが終わり、ここでようやく本題に入ることができる。今月すなわち2013.12.の【2489】友人が病的酩酊のようなのですがについてである。質問文の一部を引用する。
友人の女性(20代前半)です。ある日私とその友人を含む数人で宅飲みをしていたのですが、その友人はごく少量のアルコールを摂取しただけで、意味のわからない行為を多くするようになりました。
そして、具体的な行動の内容が描写されている。(【2489】参照)
これこそまさに、教科書に記載されている典型的な病的酩酊と言うべきであろう。そして病的酩酊は、ここまでの実例から明らかなとおり、非常に危険である。本人の本来の意思とはかけ離れた行動を取る。このとき、人を傷つけてしまうおそれもある。そのような結果となってしまったら、本人は悔やんでも悔やみきれないであろう。アルコールさえ飲まなければ決してそんなことは起こらなかったのである。
以上が、【2489】の結び、すなわち、
極力飲まないように、ではなく、一切飲まないようにお伝えください。
という回答の背景である。