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■ 原因不明の誠実

■ 四六のガマとプロザック 

■ 自殺のあとさき

 

   


      

原因不明の誠実


全然理解できないことを、「わけ (理由) がわからない」というように、どんなことでも理由や原因がわからないと本当にわかったという気はしないものだ。病気の治療も、原因がはっきりしないまま始めると、見当違いなことをしてしまうことだってある。熱が上がったら熱さましをのめばいいのなら簡単だけれど、熱の原因は肺炎かもしれないし、髄膜炎かもしれない。そういうときに、ただ熱が下がったからといって安心していると、病気はどんどん悪化していくことになる。何事も表面だけを見ていては判断を誤る。だから医者はいろいろな検査をして原因をつきとめようとする。けれども、原因はいつもみつかるとは限らず、その一方で検査法はどんどん進歩しているから、あまりムキになって追求すると、これでもかというほど検査をすることになってしまう。原因が全然わからないというのも問題だけれど、こだわりすぎてもかえってよくないこともある。

フロイトがこころの病気の原因を執拗に追究したことはよく知られている。
フロイトは元々は神経細胞の研究をしていた人だ。しかし、いくら顕微鏡をのぞいていてもこころの病気を治すことはできないと考えて、独自の精神分析という学問を打ち樹てた。こころの病気の原因を、無意識という暗闇の中に発見したのだ。無意識という新しい宇宙に目を向けたことは、たぶん永久に揺るがない業績だけれど、治療ということになるとあまり役立たないことがいまでははっきりしてしまった。

ただし、だからといってフロイトの理論が間違っていると言いきれる人はこれまで誰もいなかったし、これからも出てくることはないだろう。なにしろ無意識とか幼児体験をトリデにしているから、検証するのはほとんど不可能である。幼児に戻ることはできないし、無意識に到達することもできない。到達できたらそれはもう無意識ではない。検証しようにもそもそもの材料に手が届かない。そういう理論は批判する方も力が入らないから、しばらくはどんどん肥大していくことになる。そのかわり土台のもろさが表面化すると崩れるのもはやい。特に、精神分析が発達したアメリカで、精神分析療法に対する批判が盛んになっている。

いま、こころの病の原因としてはっきりわかっているのは、脳の中の物質の変調ということだけである。その物質が何であるかはまだまだ研究段階だし、変調自体の原因もよくわからない。これが解明されればもっといい治療法が開発できる。だからこの物質をターゲットにして、精神科医は日々研究を続けている。フロイトの時代には顕微鏡はあまり役に立つようには見えなかったかもしれないが、情報のスピードがケタ違いになって、状況は変わった。顕微鏡を通してわかったこと、試験管の中でわかったこと、臨床でわかったこと、そういう情報をすぐに交換することができるようになった。うつ病の原因が解明されるのも時間の問題になった。ただし今はまだわからない。

それでも、原因がわからないとは言いにくいので、何かもっともらしい原因をあげてみせる人が多い。それが無意識でもストレスでも、人によっては神でも前世でも何でもいいのだ。必要条件は検証されないことである。検証されないものであれば、批判もされにくい。根本の部分さえ強引に認めさせてしまえば、あとはもっともらしい説明はいくらでも作れる。しかし行き着く先は見えている。いったん科学として発達した医学が神秘主義に走り、中世には逆に人を傷つけるものになったという歴史もある。誤った原因を信じるよりも、何も信じない方がいい。

ところで、原因がよくわからないのは何もこころの病に限ったことではない。医学書を開いてみると、「本態性高血圧」とか、「特発性腎出血」とか、むずかしい病名がたくさん出ている。ホンタイセイとかトクハツセイとかいうと、なにやら深遠な感じがするが、何のことはない、原因がわからないということを言い替えただけである。ストレートに原因不明というと医学の権威にかかわると思ったかどうか、せめて名前を重々しくしたのは微笑ましい感じもするけれど、とにかくでっちあげの原因をつけなかったのは正しい態度だと思う。原因がわからなくても何とか治療するのが医学という実学なのである。

うつ病の定義のひとつに「一次性の気分障害」というのがある。
一次性も原発性も同じ、原因不明という意味である。原因不明であることは事実として認めたうえで、最善の治療を追求する。一方で原因の追究もする。それが現代の精神医学である。一次性という言葉には味も素っ気も権威もないけれど、限りなく正直で誠実な表現だと私は思っている。

「こころには理由があるが、その理由は誰も知らない。」 パスカル


  


    

四六のガマとブロザック

 

「◯◯さんがこれで治った。」

こういううわさの力は強い。主治医がいくら丁寧に説明して薬を出しても、それをのまずに何か別の治療法に頼っている人はたくさんいる。気功、波動、断食療法など、自分に関係ないこととして聞いている時は笑っていても、誰か自分の知っている人がそれでよくなったという話を聞いたとたんに、滑稽さが神秘性に変化する。不思議と言えば不思議だが、昔も今も変わらない真理のようだ。物の見え方や印象は、それが自分に関係している物かどうかによって全然違ってくる。

他人に効いた薬が自分に効くとは限らない、と冷静を装っても、それが何か特別な新しい薬だという情報があれば、たちまち欲しくなるのが人の常だ。特別さを強調するのは商売の常でもある。「ガマはガマでも四六(しろく)のガマ。前足の指は4本で後ろ足の指は6本・・」という特別のガマから取った油だというのは伝統的なガマの油売りの口上である。そんな特別のものなら是非ためしてみたい、と思った時にはすでに口車に乗せられている。特別であることをそのまま良い物であることに結びつける非論理性にはなかなか気づきにくい。それに、ガマの足の指がふつうは何本あるか、そんなことは誰も注意していないから、そもそも四六のガマが特別かどうかも本当はよくわからないはずだ。

時代は変わってもガマの油的なものは人を魅了する。うつ病に関係した近年最大の話題の薬はプロザックだろう。プロザックはアメリカで爆発的に売れている抗うつ薬だ。口上は「世界初のSSRI、選択的セロトニン再取り込み阻害薬」である。と言われても本当はよくわらない人が多いはずだが、四六のガマと同じで、特別であるという説明だけで十分魅力的になる。セロトニンは脳内の神経伝達物質のひとつで、うつ病の発症に強い関係があると推定されている。しかし神経伝達物質はセロトニンだけというわけではなく、うつ病との関係が推定されている物質はほかにもたくさんある。プロザックのようにセロトニンだけに効く薬が、うつ病の特効薬であるとか、人格を変えるとかいう証拠はどこにもない・・・といった「正しい」説明は読むのに骨が折れる。結論だけ教えてくれ、と言いたくなる。正しい結論をひとことで言えば「まだよくわかっていない」と言うほかはない。「まだよくわかっていない」という説明より「世界初のSSRIでうつ病によく効く」という説明の方がもっともらしく、キレがいい。人を動かすのは正しさよりもっともらしさである。プロザックが魅力的に見えるのも無理はない。

プロザックは日本の厚生省に認可されていない。認可されていない薬でも、医師が必要と認めて個人輸入するのは法律で認められているから、日本でもプロザックをのんでいる人がいる。そういう人が治ったという情報が流れる。はじめに書いた「◯◯さんはこれで治った」という噂がどんどん生産される。試してみたくなる。しかし手に入りにくい。プロザック神話は止まらない。

誰かが実際に治ったといううわさがあること。特別な薬であること。手に入りにくいこと。この三つは、しかし神話を作る条件であると同時に、新しい良い薬が世に出る時の法則でもある。神話か事実かは、時がたたないとわからない。プロザックは良い薬であることは確かである。けれども神話になるほど優れているか、それはまだわからない。日本の医者で、それがわかっている人はほとんどいないはずだ。論文やデータを検討して、自分で何回か処方してみて、それではじめて感触がつかめるのが普通である。そういう経験がないのにプロザックをすすめるような医者は、私は信用できない。

プロザック神話を作ったのはマスコミである。ただしプロザックに関しては、マスコミの動機は興味本位だけでなく、うつ病の人に希望を与えるという意図もあったのだろう。けれども大きすぎる希望からは失望しか生まれない。希望を持つときはいつも冷静さが必要だ。特に他人から一方的に与えられた希望に対しては。

しかし、だからうつ病の人は希望を持ちすぎない方がいいということではない。うつ病は今の治療で、たとえば薬であればいま日本にある薬による治療で、大部分が治るのである。これは事実であって、希望ではない。このことに目を向けず、新しいものを求めるところに根本的な誤りがある。明日だけに期待せず、まず今日をみつめることで解決できることはたくさんある。明日の方向ばかり見ていると、ガマの油売りに簡単にだまされることにもなりかねない。


 

自殺のあとさき

 

1

 評論家の江藤淳さんは1999年7月21日に自らの命を断った。
 自殺の約一か月前の1999年6月10日には、軽い脳梗塞の発作があった。
 さらに約半年前の1998年11月7日には、奥様を亡くされている。
 奥様は癌であった。発見された時点で、すでに末期の癌であった。奥様はそれを知らず、検査だけのつもりで、元気な様子で入院した。その入院日に江藤淳さんは、奥様に残された命は3ヶ月から6ヶ月と宣告された。江藤さんは、癌であることも、その経過一切も奥様には知らせず、看病を続けていた。一回目の入院は、検査をしただけで、数日で退院された。呼吸の症状が出たための二回目の入院では、ステロイドの治療がある程度は効いた。しかしその後症状が日に日に悪化していくのは明らかであった。三回目の入院では、もはやなす術がなかった。
この様子を江藤さんは、1999年5月の文藝春秋に、「妻と私」と題して発表されている。江藤淳さんが命を断ったのは、それから2ヶ月後だった。

 

 

2

 遺書も公開されている。
「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とされよ。  平成十一年七月二十一日    江藤淳」 

 江藤さんの死を諒とするか、諒としないか、いろいろな人がいろいろな立場から意見を述べている。
「彼から、「諸君よ、これを諒とされよ」と請われて、彼を愛した者たちとして、何を拒むことが出来るだろうか」
これは文藝春秋1999年9月特別号の、石原慎太郎都知事の言葉である。
 人が大きな決断をした時、それを尊重するは当然の礼儀であろう。それが自殺であっても例外にはならない。しかし、時間がたてば賛否両論が展開されてくるのは、法則のようなものだ。そういういろいろな人の投書が、「江藤さんの決断」と題されて出版されている。たとえばこんな意見が出ている。
「いかなる理由があろうと生から逃避する自殺に尊厳はない」
「家族や周囲の人達のことを考えるならば、自ら死を選ぶこと、必然的に死に至る道を取るのはエゴにすぎない」
いずれも自分自身の体験と対比させた投書である。つらい体験を乗り越えてきた人、病気と闘ってきた人、そういうたくさんの人たちからの、自殺について批判する意見が、この本にはたくさん出ている。

 ところで、この本の中には、江藤さんはうつ病だったのではないかという意見もある。

 

3

 精神科医の柏瀬宏隆(かしわせ・ひろたか)先生も、江藤淳さんがうつ病だったと信じる人のひとりである。「諸君!」2000年3月号の、「江藤さんは「うつ病」だったのか」と題された原稿の中で柏瀬先生は、江藤さんの遺書にある、「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず・・」という文章が、うつ病のペシミズムの表れであることなどを分析し、適切な治療を受けられなかったことを精神科医として嘆いている。うつ病による自殺は絶対に防げる、だから諒とすることはできない。これが柏瀬先生の立場である。
 一方、関西大学名誉教授の谷沢永一(たにざわ・えいいち)先生は、柏瀬先生の意見は傾聴したうえで、江藤さんの自殺を、諒としている。 この柏瀬・谷沢両先生の対談が、「文学と医学の相剋」と題されて、「諸君!」2000年3月号の柏瀬先生の原稿の後に載っている。谷沢先生はこう言っておられる。
「わたしは「諒」とするんです。私は江藤さんの周りにいたお医者さんなり、親族の方なり、友人なり、その方々は十全の努力を尽くしたと思うのです。にもかかわらず、彼を救ってあげられる状況がなかった。その状況のもとにおいて、自尊心の強い江藤さんがこういった選択をされた、ということにおいて「諒」とするのです。」
 これに対して柏瀬先生がまた反論する。書面で見る限り、お二人とも礼儀正しく、激した様子はない。けれども江藤さんの死に関する限り、意見は完全に対立し、歩み寄りは全くない。最後は、医学の言葉と文学の言葉にはどうしても互いに譲れないところがある、というのがひとつの結論になっている。

 

4

 私は、柏瀬先生と谷沢先生の意見の違いを、文学対医学と見るのは間違っていると思う。二人の違いは、誰に向かって意見を言っているか、その相手の違いだと思う。
 江藤さんをうつ病と診断し、うつ病なら治療すれば自殺は防げたはず、だから諒とすることは絶対にできない、という柏瀬先生の意見は、いま現に病気と闘っているうつ病の人に対するメッセージである。自殺した江藤さんという個人に向けられたものではない。いわばうつ病の人全員に対する思いである。
 「江藤さんの決断」に出ているたくさんの人の手紙、自分自身の状況に重ねることによって、江藤さんの自殺に異を唱えている意見も、江藤さん個人の自殺についての意見とはとれない。自分自身に言い聞かせている声に聞こえる。柏瀬先生の意見と同じ点は、未来に向けて生きようというメッセージであることだ。
 一方、谷沢先生の意見は、江藤さんという、自殺してしまった個人に対するメッセージである。追悼の思いである。追悼なら、美化するのは自然である。「文學界」1999年9月号でも、江藤淳追悼特集が組まれている。ここでも石原慎太郎知事はこう言っている。
「あれは後追い心中ですよ。そう解釈したらもう、ただただ認める以外に無い。日本人だからできたんたろうな、美しいじゃないか。今さら何を言っても詮ないね。」
 その通り、今さら何を言っても詮ないのである。ただし、あくまで「今さら」という条件がつく。江藤さんの死を肯定し、「これから」図られる自殺がもしあるとすれば、それは美しくもなんともない。柏瀬先生の論点はここにある。「精神科医として日々患者さんと向き合っている中で、江藤さんの後追いをしようとする患者さんが出てきている以上、その現象は何としても食い止めなければならない。」「諸君!」の対談の中での柏瀬先生の言葉である。  
 もうこの世にいない江藤さんの自殺について、とやかく言うことは誰にもできない。遺書に「諒とされよ」とあるならば、「諒とする」のが自然で普遍的な反応だと思う。けれども、うつ病の人の自殺という見方をすれば、これをもし諒とすれば、治る病気であるうつ病にかかっているたくさんの人の未来を、自然とか普遍とかにこだわることによって、黒く塗りつぶしてしまうことになる。治る病気は治すべきだ。

 

 

参考

「妻と私」 江藤淳著 文藝春秋 1999年
「江藤さんの決断」 朝日新聞「こころ」のページ編 朝日新聞社 2000年
「文藝春秋」1999年9月特別号
「諸君!」2000年3月号
「文學界」1999年9月号

 


 

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