雪国

ふと思い立って、川端康成『雪国』の英訳版を読んでみた。

Snow Country
Yasunari Kawabata
translated by
Edward G Seidensticker
Vintage International   New York  1956 / 1984
Kindle版

「ふと思い立って」というのは、本当は正確でない。
先月読んだ『野火』の英訳版には失望が大きかったことで、名訳と言われている作品を読んでみようと考えたというのが真相である。訳者のサイデンステッカーは、日本文学の英訳者として非常に高名だ。だが私は彼の翻訳を読んだことがなかった。この機会に読んでみたかった。そうすればおそらく名訳に感動できるだろうという期待があった。結果は期待以上のものがあった。

 

1

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
(川端康成『雪国』 新潮文庫 昭和22年/平成25年(149刷) p.5。以下、日本語原作からの引用頁はこの本から)

雪国といえば、まずこのあまりに有名な書き出しの文章から始めなければならない。英訳はこうだ。

The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

まず気づくのは「国境」という単語が訳出されていないことだ。しかしその理由は、文章についての繊細な配慮によると思われる。これについては後述する。
夜の底が白くなった」は、名文としてしばしば言及される一節だ。夜である。トンネルに入る前は夜の闇。トンネルの中も闇。トンネルを出ると再び夜の闇。だがそこには、トンネルに入る前にはなかった雪が一面に積もっていた。夜の闇の下は一面の白色。これを最短の文で表現したのが、「夜の底が白くなった」である・・・と長々と説明的描写をするのはいかにも無粋だが、英語にするためには、さすがにこれを直訳すわけにはいかないから、このシュールな短文の含意するところの把握から始めなければならない。そして生まれた訳文 “The earth lay white under the night sky” は、実に正鵠を射た文章と言うべきであろう。

汽車に偶然乗り合わせた葉子(という名は後でわかる)に、島村の注意は集中する。葉子が駅長に弟のことを願う声を聴いて。

p.7
悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂して来そうだった。

いかにも川端康成らしい、抒情的な描写。これが英語になるのだろうか。特に第二文に注目。

It was such a beautiful voice that it struck one as sad. In all its high resonance it seemed to come echoing back across the snowy night.

極限まで日本語に近づけた、美しい英文といえるだろう。「夜の雪」を、順序を入れ替えて “snowy night” としなければならない必然性が、私にはわからないが、こう書くからには必然性があるに違いないと納得してしまう整然とした美しさを持った英文である。

声も姿も美しい葉子。島村は、汽車のガラス窓の反射を利用して、葉子を観察する。

p.9
娘の片眼だけは反って異様に美しかったものの、島村は顔を窓に寄せると、夕景色見たさという風な旅愁顔を俄づくりして、掌でガラスをこすった。

島村の心理と、そこから発生する動作の過不足ない描写。訳文もまた、過不足ない英文である。

The one eye by itself was strangely beautiful, but, feigning a traveler’s weariness and putting his face to the window as if to look at the scenery outside, he cleared the steam from the rest of the glass.

さらに、車内での島村の様子。

p.9
鏡の中の男の顔色は、ただもう娘の胸のあたりを見ているゆえに安らかだという風に落ちついていた。弱い体力が弱いながらに甘い調和を漂わせていた。

第一文は、静謐なエロチシズムとでも言うべきか。
問題は第二文で、この文だけからは「調和」とは何を言っているのか謎である。

The man’s face in the mirror suggested the feeling of security and repose it gave him to be able to rest his eyes on the girl’s breast. His very weakness lent a certain soft balance and harmony to the two figures.

「調和」は、葉子と連れの男 —– 二人の関係は、この時点では島村にはわからない。ただ男が明らかに病人であることはわかる —–、この二人の人物の調和であることが、英文では明記されている。

さらにこの二人についての描写が続く。書かれている内容はむしろ平凡だが、その内容を映した日本語はいかにも川端康成である。これを英語にどう映すか。

p.10
これらがまことに自然であった。このようにして距離というものを忘れながら、二人は果てしなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった。

It was all completely natural, as if the two of them, quite insensitive to space, meant to go on forever, farther and farther into the distance.

距離はdistanceでなくspace。細やかな配慮が感じられる。
そして使わなかったdistanceという単語は、最後に出てくる。「果てしなく」にあたる “farther and farther” は、distanceにしっくりくる選択である。

まだたった10ページだが、どの英文も、原文の日本語の機微を反映した精緻な翻訳文である。名訳の予感。

 

2

車窓を見ている島村は、もちろんそこに映る女だけを見ているのではない。

p.10
遙か山の空はまだ夕焼の名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。

時間経過とともに変わりつつある暮色の、ある一瞬をとらえた描写。そして最後の「反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった」(「反って」は「かえって」と読む)も、文章があとごく僅かでも乱れると連合が弛緩する、その寸前の一瞬に輝きを見せたといった感じの日本語である。

The mountain sky still carried traces of evening red. Individual shapes were clear far into the distance, but the monotonous mountain landscape, undistinguished for mile after mile, seemed all the more undistinguished for having lost its last traces of color. There was nothing in it to catch the eye, and it seemed to flow along in a wide, unformed emotion.

私はこの訳文に絶句した。どの一文、どの一単語を見ても、見事としか言いようがない。最も訳しにくいと思われる最後の「反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった」に対応する “seemed to flow along in a wide, unformed emotion” に至っては、再び絶句である。そこを無理に口を開いて何か言うとすれば、「ぼうっと」に “unformed” 、「大きい」に “wide” という単語をあてたのは、”emotion” を修飾し得る英単語の中で、最も原文に近い感触の選択であると思われ(そもそも、「ぼうっと」「大きい」で「感情の流れ」を修飾するのは、日本語としても異端であろう)、「感情の流れであった」という、瞬時には何を言っているかわからない日本語が “flow along  ….. emotion” と訳されることで、なるほど確かに車窓を流れてゆく連なる野山が重ねられているのはそういう意味であると気づかされる。

続いて、汽車を降りてからの景色である。

p.13
雪の色が家々の低い屋根をいっそう低く見せて、村はしいんと底に沈んでいるようだった。

The white of the snow made the deep eaves look deeper still, as if everything had sunk quietly into the earth.

」が “earth” と訳されている。そういえば冒頭の文、「夜の底が白くなった」の「」も “earth” であった。もちろん川端康成が「地」や「地面」でなく「底」としたのは、意図あってのことに違いないが、これを bottomとしたのでは意味も雰囲気もずれてしまう。”earth” はぎりぎりの選択なのであろう。

p.28
蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。

これも先の暮色の風景の描写に似た、文法が弛緩する寸前の一瞬を捉えたような日本語だが。

The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range, their yellow turning to white in the distance.

their yellow turning to white in the distance” が、「黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」という日本語の語感をどれだけ映し出した英文なのか、正確にはわかりかねるが、おそらくこれ以上優れた訳文はないのではないかという雰囲気は感じられる。

p.43
一面の雪の凍りつく音が地の底深く鳴っているような、厳しい夜景であった。月はなかった。嘘のように多い星は、見上げていると、虚しい速さで落ちつつあると思われるほど、あざやかに浮き出ていた。星の群が目へ近づいて来るにつれて、空はいよいよ遠くの夜の色を深めた。

ここで特に注目すべきは、「・・・地の底深く鳴っているような、厳しい夜景」という、聴覚と視覚を融合した表現だ。これをどう訳すのか。

It was a stern night landscape. The sound of the freezing of snow over the land seemed to roar deep into the earth. There was no moon. The stars, almost too many of them to be true, came forward so brightly that it was as if they were falling with the swiftness of the void. As the stars came nearer, the sky retreated deeper and deeper into the night color.

この訳文にも私は感動を禁じ得なかった。まず “It was a stern night landscape.” という短文で一回切る。そのうえで、次の文で原文にある聴覚と視覚の融合を表現する。そして ”roar” は確かに地の底深くを轟々と鳴っていることを一語で表現できる単語である。

p.45
空はまだ夜の色なのに、山はもう朝であった。

夜明けの風景。俳句のように、必要最小限の言葉による描写。

The sky was still the color of night, but in the mountains it was already morning.

この訳文も、同じく必要最小限の言葉による描写であろう。
ほぼ原文に忠実に、各単語が英単語に置き換えられている。”Snow Country” 全体を通して、訳者のサイデンステッカーは、可能な限りこの手法を取り、しかしどうしてもこの手法では英語として成立しない文章については(川端康成の文はそういう文が非常に多い。ここまでの引用文だけを見てもそれが明らかである)、実に精密に内容としての意味と形式としての文の美しさを保存した英文を綴っている。もちろんこの精緻な翻訳作業は簡単になされたものではない。サイデンステッカーは、川端康成の翻訳は難しく、『雪国』は特に難しかったと昭和39年発刊の本で述べている。

『現代日本作家論』 E.G. サイデンステッカー 新潮社 昭和39年
(以下、しばらくこの本からの引用をゴシック体で示す)
p.7
川端を西欧の影響をつよく受けた作家となす所以は、何よりも川端の文体にあると思える。あの急激な転換や読者を驚かすイメージは、明らかに1920年代の前衛的な西欧文学と共通点をもっている。しかし、改めてくり返すまでもない程しばしば指摘されてきた事ではあるが、川端の文体は俳文の伝統に発するものとも、同様に言えるのである。

 これに関連して少し触れておいていいのは、川端が翻訳しにくいという点だ。彼の文体の特異性がフランスや英国からの借り物であるなら、英語に訳しもどすのは当然易しいことになる筈だが、実際はまるで逆である。私が翻訳を試みた日本の作家のうちでも、川端と泉鏡花が一番訳し辛く、長篇では『雪国』が一番難しかった。(中略)

日本語には「翻訳調」という文体がある。上の表現を借りれば、「フランスや英国からの借り物」であるかの如き文体である。これは西欧の人々から見ると奇妙なことであると感じられるようだが、日本人から見るとさほど奇妙ではない。大岡昇平の文章にも翻訳調はかなりある。それを逆輸入的にまた英語(などの西欧語)に訳すのは、それほど難しくないのではないかと思われる。だが川端康成の文は、日本語の特性を極限まで生かし切ったような(つまり、日本語としての連合が弛緩する寸前のような)表現が多い。これを英語にするのは確かにサイデンステッカーの言うように非常に難しいのであろう。その難行を達成し、川端文学を世界に認めさせたサイデンステッカーの仕事は、偉業というほかはない。

 一国の特徴を最も強烈に発揮している作品が、一番翻訳が難しいというのが絶対的な規則として通用するとはいえまいが、私の一番よく知っている文学、つまりアメリカ文学について見ると、大体の場合こうした原理が当てはまるのではないかと思う。(中略) ヘミングウェイは、外国で一番人気のあるアメリカ作家だが、彼の文学で一番大事な点が、新しい文体の駆使にある以上、果して外国で本当に理解されるとかどうかは疑わしいと思う。

もっともな指摘である。そしてこの文脈でいえば、アメリカのヘミングウェイにあたるのが日本の川端康成である。そしてサイデンステッカーはその川端を翻訳し世界に理解させたのだ。
ここに来てあらためて野火 Fire on the Plain の訳の拙劣さが思い出される。あの訳では野火も、単なる戦場小説としか認められないであろう。大岡昇平の文章を敬愛する私としては実に残念なことだ。『野火』もサイデンステッカーに訳していただきたかった。

 日本語を、とくに曖昧な言葉だという人が間々ある。多くの点でなるほど曖昧ではあるが、どんな国の言葉にしろ、功利的な機能から離れて文学となれば、おのずと曖昧になるものだ。文学は好んで含蓄ゆたかな語や文句に頼るからである。ある国の言葉である複雑な単語がよび起す暗示や陰影が、別の国語の場合と一致することはめったにない。そこで作家が自国語の複雑さを意識的に利用しようとすればするだけ、理想的な翻訳の可能性はますます遠ざかってゆく。作家が、たんに言葉の意味や含意ばかりでなく、音楽的な効果をも意識的に利用している場合は、一層錯雑した困難が加わる。

音楽的な効果。たとえば本稿 1 で引用した、

高い響きのまま夜の雪から木魂して来そうだった。

In all its high resonance it seemed to come echoing back across the snowy night.

と訳されているのはこれにあたるといえよう。ここでは「高い響きのまま」をどうしても文頭に持って来なければ、原文のリズムは表現できない。そこで “In all its high resonance” が訳文の文頭に来ている。また、「夜の雪から」の「から」を “across” としたのも、原文の醸し出す視覚的イメージが保持されている訳語である。

 すぐれた文体は、常に翻訳困難である。いや翻訳不可能ともいえよう。翻訳が極めて美しい効果を生んだ場合も、大がいは原文とまるで違ったものになり終っている(日本語しかご存知ない読者は、谷崎の『源氏』を原文と読み比べられるがよい。つまる所、これ又翻訳に他ならない)。が、すぐれた文体の中にも、特に翻訳困難なものがある。私自身の経験を要約してみると、二つの文体が、相劣らぬ美しさを具えている場合、リズムと意味の単位が短かい方が、翻訳がより困難だという気がする。だから、和歌の方が短歌より翻訳しやすい。この原則を適用してみると、谷崎の方が川端よりも翻訳しやすいことになる。

谷崎潤一郎は、確か一文の平均がかなり長いことが知られているから、その通りなのであろう。

川端の真の傑作で、一番初期のものは『雪国』だが、ここでは最も短かく、しかも最も圧縮された単位が使われている。流れるというよりは、俳文風な短かく急激な発作を思わせる動きを示し、俳文の達人たちの場合と同じく、いわば次の発作への転換は、しばしば極めて捕え難い。

俳文風な短かく急激な発作」か。私には、弛緩する寸前に一瞬の輝きを見せる文章と感じられる。あれを英語にするのは至難の業だというのは誰の目にも明らかだ。”Snow Country” は、サイデンステッカーの偉業であるとあらためて思う。
(ゴシックで 『現代日本作家論』 E.G. サイデンステッカー 新潮社 昭和39年 からの引用を示すのは、いったんここまで)

 

3

なんだか前項 2 で本稿はまとまってしまったような感じになってしまったが、まだまだ続きます。
1と2で、女、そして自然の美しい描写をいくつか引用した。本項 3 は、女の美しさと自然の美しさが融合する文章の引用である。

p.46
鏡の奥が真白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真赤な頬が浮んでいる。なんともいえぬ清楚な美しさであった。
 もう日が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮ぶ女の髪もあざやかな紫光りの黒を強めた。

The white in the depths of the mirror was the snow, and floating in the middle of it were the women’s bright red cheeks. There was an indescribably fresh beauty in the contrast.
 Was the sun already up? The brightness of the snow was more intense, it seemed to be burning icily. Against it, the woman’s hair became a clearer black, touched with a purple sheen.

清楚な美しさ」は “fresh beauty
冷たく燃えるような輝き」は “burning icily
女の髪もあざやかな紫光りの黒を強めた」は “the woman’s hair became a clearer black, touched with a purple sheen
どれも、こういう英語もあるのかと感心させられる。

p.54
島村は表に出てからも、葉子の目つきが彼の額の前に燃えていそうでならなかった。それは遠いともし火のように冷たい。なぜならば、汽車の窓ガラスに写る葉子の顔を眺めているうちに、野山のともし火がその彼女の顔の向うを流れ去り、ともし火と瞳とが重なって、ぽうっと明るくなった時、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えた。その昨夜の印象を思い出すからであろう。それを思い出すと、鏡のなかいっぱいの雪のなかに浮んだ、駒子の赤い頬も思い出されて来る。

Even when he had left the house, Shimamura was haunted by that glance, burning just in front of his forehead.  It was cold as a very distant light, for the inexpressible beauty of it had made his heart rise when, the night before, that light off in the mountains had passed across the girl’s face in the train window and lighted her eye for a moment. The impression came back to Shimamura, and with it the memory of the mirror filled with snow, and Komako’s red cheeks floating in the middle of it.

ともし火」は “light” か・・・。うーん・・・。いや、ここは日本語という言語の豊かさに感謝すべきところであろう。「ともし火」にぴったりの英単語など存在しないのだ。
単語レベルはともかく、この引用部分の白眉は “that light off in the mountains had passed across the girl’s face in the train window and lighted her eye for a moment” だ。ともし火と葉子の瞳の重なり。それを描写する原文の美しさを、light という無機質な単語を使わざるを得ないというハンディを超えて、鮮やかに表現している。
それから、余計な指摘だが、ここで島村がすかさず別の女すなわち駒子を思い出すというのは、男という生物についての冷徹までに正確な表現といえよう。『雪国』には女が、女の美しさが、女の心が、繊細に描写されているが、その女に向かう島村のまなざしという形で、男もまた繊細に描写されている。

p.60
島村は虚しい切なさに曝されているところへ、温かい明りのついたように駒子が入って来た。

Like a warm light, Komako poured in on the empty wretchedness that had assailed Shimamura.

明かり」も「ともし火」も英語は同じ “light”とするしかない。このハンディを凌駕するサイデンステッカーの力業を感じる。

次の文章は、三味線の稽古をする駒子の描写である。

p.71
あの美しく血の滑らかな脣は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。

よく読むと実にエロチックな描写。決め手の一つは「ぬめぬめと」である。日本語の持つ豊富な擬態語は、翻訳不能であるというのが定説だが、さて。

The smooth lips seemed to reflect back a dancing light even when they were drawn into a tight bud; and when for a moment they were stretched wide, as the singing demanded, they were quick to contract again into that engaging little bud. Their charm was exactly like the charm of her body itself.

a dancing light” がサイデンステッカーの回答であった。おそらくこの英語は、いかがわしい店などで暗闇を飾る毒々しい光の運動を連想させるものなのであろう。ぬめぬめと動く光だ。擬態語が乏しいという英語の欠点を(日本語を標準にすれば欠点だというにすぎないが)、別の種類の単語の駆使によって見事に補完した訳文である。

ところで、駒子の脣については、もっと前に次のような描写もあった。

p.31
細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ脣はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめらかで、黙っている時も動いているかのような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはずだが、そうではなく濡れ光っていた。

脣を蛭にたとえるという、生々しいというか、一種奇態な比喩である。訳文はこうだ。

The high, thin nose was a little lonely, a little sad, but the bud of her lips opened and closed smoothly, like a beautiful little circle of leeches. Even when she was silent her lips seemed always to be moving. Had they had wrinkles or cracks, or had their color been less fresh, they would have struck one as unwholesome, but they were never anything but smooth and shining.

」をそのまま “leeches” と訳している。この訳文について、サイデンステッカーは次のように書いている。

『現代日本作家論』 E.G. サイデンステッカー 新潮社 昭和39年
p.67
川端の小説における作中人物の扱い方については、さらに後で触れるつもりだが、彼のイメジャリーの驚くべき美しさは否定しがたく、また極めて日本的なものと思われる。これは、日本の四季の、束の間に過ぎゆく気分と調子に対する、ほとんど不気味なまでに鋭敏な意識とつながっているばかりではない。また同時に、いくつかのイメージが急激に融け合って、新しい意識を生み出す —– たとえば『雪国』の終わり近くで、鉄瓶の鳴る音が、一瞬松風に転じ、さらには女の足音にかわってゆく場面、またこの小説で度々出てくるが、美と醜が重ね合わされ、駒子の唇が蛭に喩えられる箇所の精妙さとつながっている。英国のある優秀な週刊誌の書評者が、この後者のイメージの使い方を取り上げて、暗に翻訳の不適切さを咎めようとした。しかし、私はこの場面の翻訳が、原文への忠実さにおいても芸術性においても、ともに適切だという確信をいだいている。英語において、人を驚かすイメージだとすれば、日本語においても同様であり、しかも或る効果を収めている。こうした唐突な並置は、川端が、あの物悲しい、束の間に意味を失って消え去ってゆく東洋的な美の世界を、また内に忘却をつつんでいる薄い透明な網の、あるか無きかの色合いを喚起するための技法に不可欠のものだ。

原文にどこまでも忠実に。そして原文の芸術性に忠実に。サイデンステッカーのこの基本方針の反映が、 “like a beautiful little circle of leeches” という訳文に具現している。

ところで、上記『現代日本作家論』p.67でサイデンステッカーが言及している「『雪国』の終わり近くで、鉄瓶の鳴る音が、一瞬松風に転じ、さらには女の足音にかわってゆく場面」というのはこれだ。

p.153
こんど帰ったらもうかりそめにこの温泉へは来られないだろうという気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢によりかかっていると、宿の主人が特に出してくれた京出来の古い鉄瓶で、やわらかい松風の音がしていた。銀の花鳥が器用にちりばめてあった。松風の音は二つ重なって、近くのと遠くのとに聞きわけられたが、その遠くの松風のまた少し向うに小さい鈴がかすかに鳴りつづけているようだった。島村は鉄瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴の鳴りしきるあたりの遠くに鈴の音ほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、最早ここを去らねばならぬと心立った。

He leaned against the brazier, provided against the coming of the snowy season, and thought how unlikely it was that he would come again once he had left. The innkeeper had lent him an old Kyoto teakettle, skillfully inlaid in silver with flowers and birds, and from it came the sound of wind in the pines. He could make out two pine breezes, as a matter of fact, a near one and a far one. Just beyond the far breeze he heard faintly the tinkling of a bell. He put his ear to the kettle and listened. Far away, where the bell tinkled on, he suddenly saw Komako’s feet, tripping in time with the bell. He drew back. The time had come to leave.

この文には全体として整然とした形式美がある。冒頭は、「こんど帰ったらもうかりそめにこの温泉へは来られないという気がして」という思い。そして結びは「最早ここを去らねばならぬと心立った」という決意。島村のこの二つの思考の間に、鉄瓶の音〜松風〜遠い松風〜鈴〜駒子の足 という、現実の感覚から幻に移行していく描写、しかもそれを物理的な距離と重ね合わせた描写が挿入されている。訳文はこの微妙な描写を正確に反映するとともに、それに伴う島村の心の動きも原文の通りに映し出している。特に結びの「最早ここを去らねばならぬと心立った」を “He drew back. The time had come to leave.” と、ここだけは原文の構造からやや離れ、しかし英語としての力強い表現にしたところが感動させられる。

 

4

話がやや逸れた。駒子が三味線の稽古をしている場面に戻ろう。
三味線の稽古を終え、それまでの凜とした姿勢を崩した駒子は島村の目に次のように映った。

p.72
急に色気がこぼれて来た。

極限まで短く、含みと強さがあるこういう日本語をどう訳すか。

Her manner quickly took on a touch of the seductive and alluring.

説明的な訳であった。「色気」が「こぼれる」という表現は、英語にはないのであろう。原文の短さ、含み、強さは、残念ながらこの訳文には表れていない。

サイデンステッカーは翻訳について、次のようにも書いている。
『日本語らしい表現から英語らしい表現へ』 サイデンステッカー、那須聖
培風館 東京 昭和37年
pp.212-213.
文学作品というものは、元来作家が自国語を駆使して、文章にも独特の味とあやを持たせて、書き上げてゆくものであるから、それぞれの作家と作品によって、特別の意味と価値があるものである。このようにそれぞれの作品や、その文章、ことばが担っている意味とか観念はそれぞれに独特のものであって、これをそのとおりに他のことばに訳すことは不可能であるといっていい。厳密な意味で、外国語に翻訳することは不可能だということである。複雑、微妙な意味あいの文章を直訳調、ないし翻訳調の外国語に訳すことは、その作品の文学的特徴ないし価値を犠牲にすることになる。
 そこで文学作品などは、作家がある文章、節、あるいは章で、何を言おうとしているのかを正しく理解し、英語では、そういう場合に、どう言い、どう書くかを考えて、翻訳すべきである。つまり日本語の文学作品を英訳することは、同じ内容で、同じ文学的価値をもった英語の本を書くのと同じことである。
 このように翻訳者が、原著の文学的価値と同等なものを翻訳の中にだしたいと思うならば、ある場合には翻訳によって失われたものをつけ加えなければならない。また翻訳することによって、原著の文学的価値以上の、不必要なものが表現される場合には、その部分を削除しなければならない。またある場合には、英語小説として自然な形にするために、原著の構造に変更を加えなければならないことさえある

上記引用の最後の部分、「英語小説として自然な形にするために、原著の構造に変更を加えなければならないことさえある」の具体例が、「急に色気がこぼれてきた」に対する “Her manner quickly took on a touch of the seductive and alluring. ” という訳文だといえるであろう。

逆に、「また翻訳することによって、原著の文学的価値以上の、不必要なものが表現される場合には、その部分を削除しなければならない」の具体例が、本稿冒頭で指摘した、『雪国』のあまりに有名な書き出しの一文、

p.5
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

に対する訳文である。

The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

本稿冒頭で指摘したように、ここには「国境」という単語が削除されている。その理由は、この英文に 国境 Border Range という語を入れると、あまりに目立ちすぎ、文のバランスが崩れてしまい、原文の静謐さが失われるためであると思われる。
後述するが、『雪国』にはもう一箇所、島村が汽車で国境のトンネルを抜ける場面がある。そこではBorder Rangeという単語が明記されている。その英文では、Border Rangeは比較的自己主張の弱い姿をしていることが見て取れる。「国境」という単語ひとつの扱い方にも、サイデンステッカーの繊細な翻訳作業が光っている。

 

5

いま4で引用した『日本語らしい表現から英語らしい表現へ』で、サイデンステッカーは、一部、より具体的に自らの翻訳手法を解説している。例示しているのは駒子が宴会(芸者としての職場である)から抜け出して、島村の部屋を訪れた場面である。駒子は島村に、「あの子」(葉子)はものすごいやきもち焼きだと告げる。

p.130
「誰が?」
「殺されちゃいますよ。」
「あの娘さんも手伝ってるんだね。」
「お銚子を運んで来て、廊下の陰に立って、じいっと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんたああいう目が好きなんでしょう。」
「あさましいありさまだと思って見てたんだよ。」
「だから、これ持ってらっしゃいって、書いてよこしたんだわ。水飲みたい、水頂戴。どっちがあさましいか、女は口説き落してみないことには、分からないわよ。私酔ってる?」

“Who?”
“Someone will be murdered one of these days.”
“She’s working here?”
“She brings sake, and then stands there staring in at us, with her eyes flashing. I suppose you like her sort of eyes.”
“She probably thinks you’re a disgrace.”
“That’s why I gave her a note to bring to you. I want water. Give me water. Who’s a disgrace?  Try seducing her too before you answer my question. Am I drunk?”

どうということのない訳文のようだが、サイデンステッカーの解説がある。

『日本語らしい表現から英語らしい表現へ』p.85
この場合、普通の言い方をすれば、”I want some water. Give me some water.” と “some”を入れるか、”a glass of” を入れなければならないところだが、ここではただ “I want water.” というように、酔っぱらいの荒っぽいことばづかいにした。
さてここまでが荒っぽい文体になっているのに、ここへ来て突然「女は口説き落としてみないことには分らない」と改まった調子になってくる。このために英訳も “Try seducing her too before you answer my question.” と形式を整えた。特に後半でそうした。

water に “a glass of” をつけるかつけないかにも、細心の注意が払われていることがわかる。
そして、サイデンステッカーが、

ここからさきは、この小説のクライマックスの一つである。( 『日本語らしい表現から英語らしい表現へ』p.85)

と書いている、次の場面。

p.145
やがて島村は女の熱いからだにすっかり幼く安心してしまった。
 駒子はなにかきまり悪そうに、例えばまだ子供を産んだことのない娘が人の子を抱くようなしぐさになって来た。首を擡げて子供の眠るのを見ているという風だった。
 島村がしばらくしてぽつりと言った。
「君はいい子だね」
「どうして? どこがいいの」
「いい子だよ」

A childlike feeling of security came to him from the warmth of her body.
 She seemed ill at ease, like a young woman, still childless, who takes a baby up in her arms. She raised her head and looked down, as at the sleeping child.
“You’re a good girl.”
“Why? Why am I good?  What’s good about me?”
“You’re a good girl.”

幼く安心してしまった
A childlike feeling of security came to him”は、説明的な訳文である。これも先の「英語小説として自然な形にするために、原著の構造に変更を加えなければならないことさえある」にあたるといえよう。
女の熱いからだ」の「熱い」は、warmthという単語だと柔らかすぎる気がするが、ここでhotという単語を使うのは英語では不適切なのであろう。
それに続く
いい子」を “a good girl” と訳している。サイデンステッカーが「クライマックスの一つ」というのはここからを指している。サイデンステッカー自身の説明が『日本語らしい表現から英語らしい表現へ』にある:

p.85
そこで、この部分のかげにかくされた意味を、英文にも表現するように、この「いい子」を “a good girl” とし、このあとにでてくる「いい女」を “a good woman” と文字どおり訳した。これで洞察力の鋭い読者には、うらの意味を汲みとってもらえると思う。

このあとにでてくる「いい女」」とはここだ。

p.146
「君はいい女だね」
「どういいの」
「いい女だよ」
「おかしなひと」と、肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと片肘を立てて首を上げると、
「それどういう意味? ねえ、なんのこと?」
 島村は驚いて駒子を見た。
「言ってちょうだい。それで通ってらしたの?  あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね」
真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りにふるえて来て、すうっと青ざめると、涙をぽろぽろ落した。
「くやしい、ああっ、くやしい」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐った。
島村は駒子の聞きちがいに思いあたると、はっと胸を突かれたけれど、目を閉じて黙っていた。

“You’re a good woman.”
“How am I good?”
“A good woman.”
“What an odd person.” Her face was hidden from him, as though she were rubbing her jaw against an itching shoulder. Then suddenly, Shimamura had no idea shy, she raised herself angrily to an slbow.
“A good woman — what do you mean by that? What do you mean?”
He only stared at her.
“Admit it. That’s why you came to see me. You were lauging at me. You were laughting at me after all.”
She glared at him, scarlet with anger. Her shoulders were shaking. But the flush receded as quickly as it had come, and tears were falling over her blanched face.
“I hate you. How I hate you.”  She rolled out of bed and sat with her back to him.
Shimamura felt a stabbing in his chest as he saw what the mistake had been. He lay silent, his eyes closed.

『日本語らしい表現から英語らしい表現へ』p.85
ここは “a good girl” としないで、”a good woman” とした。二人の間にしばらく沈黙がつづいて、その間に何かあったことを暗示するためには、”a good girl” よりも、”a good woman” の方が適切だから、こうしたわけである。

翻訳書のまえがきにも、次のように記されている。

“You’re a good girl,” Shimamura says affectionately in the climactic scene of the novel. But when, a moment later, he unconsciously shifts to “You’re a good woman,” she sees that she has been used. She too knows that he must leave. It would be hard to think of another novel in which so slight a shift in tone reveals so much.

いい子」から「いい女」という、島村の無意識の言葉の選択の変化。この微妙な変化の中に、駒子は、自分が利用されているということを感じ取った。サイデンステッカーはそれを読み取り、訳語を good girl からgood woman に変化させたのである。

『雪国』は映画化もされている。映画ではこのような言葉の微妙な使い分けと駒子の心の動きを映像ではどう描写するのか、興味深いところである。

「雪国」 [DVD] SHOCHIKU Co.,Ltd.
岩下志麻 (出演), 木村功 (出演), 大庭秀雄 (監督)   1965年

映画では、島村(木村功)が、「君はいい女だね」と言った後、二人はキスをする。その直後、駒子(岩下志麻)は、はっとしたように急に表情を硬くする。そして言葉を投げつけるようにこう言う。
「一年に一度遊ぶには面白い女だっていうこと?  一年に一度は田舎芸者の味も悪くない、そうでしょ?」
そして嗚咽。

さすがに「いい子」と「いい女」という言葉の使い分けだけで、原作のこの場面の機微を表現することは、映像では不可能ということなのであろう。そこで、翻訳における「原著の文学的価値と同等なものを翻訳の中にだしたいと思うならば、ある場合には翻訳によって失われたものをつけ加えなければならない。」という手法と同様、原作には無い台詞と演技が追加されている。

6

場面を少し戻す。先に少し触れた、島村が国境のトンネルを抜ける場面。冒頭とは逆に、北から南へ向う汽車である。

p.83
国境の山を北から登って、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄光りはその地中の闇へ吸い取られてしまったかのように、また古ぼけた汽車は明るい殻をトンネルに脱ぎ落して来たかのように、もう峰と峰との重なりの間から暮色の立ちはじめる山峡を下って行くのだった。こちら側にはまだ雪がなかった。

The train climbed the north slope of the Border Range into the long tunnel. On the far side it moved down a mountain valley. The color of evening was descending from chasms between the peaks. The dim brightness of the winter afternoon seemed to have been sucked into the earth, and the battered old train had shed its bright shell in the tunnel. There was no snow on the south slope.

この文章でのBorder Rangeは、さほど目立たず、かつ、もし削除したら意味が伝わりにくくなる。対して小説書き出し部分では「国境」が訳出されていないのは、文章の雰囲気を壊さないための繊細な配慮であろう。

ところで、映画 (「雪国」岩下志麻 (出演), 木村功 (出演), 大庭秀雄 (監督)   1965年) では、冒頭ではなく、ストーリーの半ばに島村が南から北に汽車でトンネルを抜けるシーンがあり(つまり、駒子のいる雪国を再訪するための汽車)、そこに島村(木村功)の声で
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
というナレーションが入っている。

これは大きな妥協ですね。

駒子のいる雪国は、島村にとって、夢幻の別世界。
国境の長いトンネルは、現実と別世界の境界。
小説『雪国』は、一行目で別世界が目前に現われる。夜の別世界。底だけが白い別世界。この始まり方は絶対に変えられない。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、あくまでも冒頭に置かれてこそ意義を有する、不朽の一行なのである。

映画のように、途中に挿入したのでは意味がない。

しかしまあ仕方がない。映画は芸術作品とはいえ商品でもあるから、興行上、小説の最も有名な一文、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」が登場しない『雪国』は考えられないということなのだろう。そして、もし冒頭に持って来たら、夜の汽車の中、そして車窓の風景、その風景と重なる葉子を映像で示さなければならない。それは当時の技術では、おそらく美しい映像にすることはできなかったのであろう。

映画「雪国」は、それでも評価はかなり高かったらしい。当時の超一流女優、岩下志麻の力と、温泉の情景の映像によるところが大きいのではないかと思う。この映画を見た後に小説を読むと、駒子のイメージが岩下志麻のイメージになる。(一風変わった女である葉子の加賀まり子もまた名演である)

ところで、実際の駒子はどんな女性だったのか。
もちろん駒子は架空の人物だが、モデルは実在する。川端康成自身が次のように言ったと伝えられている。

近代文学作品論叢書22
川端康成 『雪国』作品論集成 I 岩田光子 編
大空社 東京 1996
解説 — 雪国 —      山本健吉
p.211
川端氏が語った次のような言葉があります。
『雪国』の駒子にしたところで、あの女があのまま実在するなどと思ったら大間違いである。ヒントになった実在の女性はある。いつか『雪国』が脚色上演された時、駒子になる花柳章太郎が、ぜひ本人を見て来るという。私は、見たらがっかりするからお止しなさいと言ったのだが、章太郎は、誰からか温泉(注、湯沢温泉)を聞き出して行ったそうだが、果たしてがっかりして帰っていた。 (『作家に聴く』 文学、昭和28年3月)
(原文は旧仮名づかい)

なんとも気の毒な話だ。いや気の毒なのは章太郎さんではなく、その芸者さんが。

 

7

小説とその翻訳文に戻る。

p.124
駒子の愛情は彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれどもかえってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。

文章が示す内容も、その内容のいわば容器である文章も、錯綜している。これを外国語に翻訳せよと言われたら、思わず投げ出してしまいそうだが ——–

He was conscious of an emptiness that made him see Komako’s life as beautiful but wasted, even though he himself was the object of her love; and yet the woman’s existence, her straining to live, came touching him like naked skin.

生きようとしている命が裸の肌のように触れて来
この綱渡りのような日本語を英訳するという難行を
the woman’s existence, her straining to live came touching him like naked skin.
という流れるような英語で回答している。 —- とは言え、さすがにこれは相当苦労して紡ぎ出した文章なのであろうと思う。

p.149
窓で区切られた灰色の空から大きい牡丹雪がほうっとこちらへ浮び流れて来る。なんだか静かな嘘のようだった。

From the gray sky, framed by the window, the snow floated toward them in great flakes, like white peonies. There was something quietly unreal about it.

なんだか静かな嘘のようだった」、弛緩寸前の日本語。これに対する “There was something quietly unreal about it” は正確だが平凡な表現で、翻訳としては妥協だが、ここはやむを得まい。

p.149
駒子の肌は洗い立てのように清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがえねばならぬ女とはとうてい思えないところに、かえって逆らい難い悲しみがあるかと見えた。

これは先の「君はいい女だね」の3ページ後である。すなわち「島村のふとした言葉」がそれであり、「あんな風に聞きちがえ」とは、小説では暗示されているだけの駒子の誤解、それは映画に明示されている通りと解釈できる。駒子がそのように敏感に聞きちがえる女であり、かつ、洗い立てのように清潔な肌を持っている女であるというところに、「かえって逆らい難い悲しみがある」と島村は感じている。

Her skin was as clean as if it had just been laundered. He had not dreamed that she was a woman who would find it necessary to take offense at such a trivial remark and that very fact lent her an irresistible sadness.

とうてい思えない」を”dream” としたのは、示されてみればごく自然に見える。
ふとした言葉もあんな風に聞きちがえ・・・」を “to take offense at such a trivial remark” としたのはどうか。“a trivial remark” が「ふとした言葉」に、 “take offense at” が「聞きちがえ」に対応しているが、これは少々原文から逸脱しているのではないか。いわば原文の草食的な表現が、より強い肉食的な表現に変化しているように思う。原文はあくまでも駒子が「ふとした言葉もあんな風に聞きちがえ」たことについて、「逆らい難い悲しみがある」と言っているのであって、聞きちがえた結果として駒子が怒ったことにはひとことも言及していない。にもかかわらず、 “offence” とするのは不適切であろう。「いい子」と「いい女」の違いという機微まで英語に反映させたサイデンステッカーにしては、乱暴な訳し方といえるのではないか。さらに言えば、先のp.146の場面(本稿 5 ) の原文「聞きちがい」を “mistake” と訳しているからには、このp.149の場面でも原文は「聞きちがえ」である以上、「原文の同じ単語には同じ訳語をあてる」という翻訳の基本原則からも逸脱している。
・・・もっとも、翻訳書全体の精妙さから見れば、trivialな指摘ではあるが。

p.149
雪のなかで糸をつくり、雪のなかで織り、雪の水に洗い、雪の上に晒す。

雪国の女たちの冬の仕事、縮みについての描写である。

The thread was spun in the snow, and the cloth woven in the snow, washed in the snow, and bleached in the snow.

原文のリズムが保たれた、気持ちの良い訳文になっている。

ところで、先の映画では、このシーンが秀逸である。このシーンだけのためでも、映画を見る価値がある。小説を読んだとき、私はこの情景をどうしてもイメージすることが出来なかったが、映画を見てからは、そのシーンが鮮やかに思い出される。

p.155
そう不思議でもないことが島村にはふと不思議であった。一心こめた愛の所行はいつかどこかで人を鞭打つものだろうか。

今は亡き、縮みの名工についての思いの描写である。

The labor into which a heart has poured its whole love — where will it have its say, to excite and inspire, and when?

.
駅から車に乗り、温泉場にさしかかると何人かの芸者が島村の目に入る。

p.157
駒子もいるなと思うと間もなく駒子ばかりが見えた。
車の速力が急に落ちた。島村と駒子のことをもう知っている運転手はなんとなく徐行したらしい。

一行目、いかにも共感でき、いかにもその気持ちにぴったりの描写であるが、英語にすることが出来るのか。

Komako will be among them — but almost before he had time to frame the thought he saw only Komako.
 The driver put on the brakes. Apparently he had heard rumors about the two.

駒子ばかりが見えた」というこの日本語が、ここまで忠実に英語に出来るとは思わなかった。
それに対して二行目、意味内容は正確だが、原文からは離れている。
ここは先の著書『日本語らしい表現から英語らしい表現へ』にあったように、「つまり日本語の文学作品を英訳することは、同じ内容で、同じ文学的価値をもった英語の本を書くのと同じことである。  このように翻訳者が、原著の文学的価値と同等なものを翻訳の中にだしたいと思うならば、ある場合には翻訳によって失われたものをつけ加えなければならない。」という訳文にしたということであろう。

 

8

最終、夜の火事の場面である。

p.163
天の河の明るさが島村を掬い上げそうに近かった。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河の大きさであったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして、直ぐそこに降りて来ている。恐ろしい艶めかしさだ。島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりでなく、ところどころに光雲の銀砂子も一粒一粒見えるほど澄み渡り、しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで行った。

The Milky Way. Shimamura too looked up, and he felt himself floating into the Milky Way. Its radiance was so near that it seemed to take him up into it. Was this the bright vastness the poet Basho saw when he wrote of the Milky Way arched over a stormy sea? The Milky Way came down just over there, to wrap the night earth in its naked embrace. There was a terrible voluptuousness about it. Shimamura fancied that his own small shadow was being cast up against it from the earth. Each individual star stood apart from the rest, and even the particles of silver dust in the luminous clouds could be picked out, so clear was the night. The limitless depth of the Milky Way pulled his gaze up into it.

旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河の大きさであったか」はもちろん松尾芭蕉の

荒海や佐渡に横たふ天の川

への言及であり、この俳句を知らない欧米の読者には何が書いてあるかわからないが、そこまで注をつけるわけにはいかなかったのであろう。

それに続く天の川(天の河)の描写、原文にある艶かしいという表現の通りで、ここから『雪国』のラストシーンまで、夜空の天の河は艶かしくなければならない。訳文では「艶めかしさ」に “voluptuousness” という単語があてられている。私には初めて見る単語だ。辞書には確かに 艶めかしい と書かれている。実際にはどのような文脈で使われる単語なのか。手元のポーの小説で検索してみる。こういう時、Kindle版は便利である。voluptuousnessという単語が出てくる文章を、ポーの全集から数秒で抽出できる。その中から二つほど示そう。

Metzengerstein
There, the dark, tall statures of the Princes Metzengerstein — their muscular war-coursers plunging over the carcasses of fallen foes — startled the steadiest nerves with their vigorous expression; and here, again, the voluptuous and swan-like figures of the dames of days gone by, floated away in the mazes of an unreal dance to the strains of imaginary melody.

ポオ全集2 (谷崎精二訳 春秋社、東京、昭和44年/昭和53年) p.16
『メッツェンゲルシュタイン』
かしこではメッェンゲルシュタイン公爵たち —– 彼らのたくましい軍馬は、倒れた敵の死体を跳び越えていた —– の黒い、丈高い姿が、その勇ましい表情で、強い神経を持ったものをさえぎょっとさせた。なおまたここでは、過ぎ去った日の貴婦人たちの妖艶な、白鳥のような姿が、夢幻の楽の音につれて、形なき舞踏を舞いながら漂い去るのであった。

過ぎ去った日の貴婦人たちの、白鳥のような姿。確かにこれは「妖艶な」「艶めかしい」がしっくり来る。

The Masque of the Red Death
It was a voluptuous scene, that masquerade. But first let me tell of the rooms in which it was held.

ポオ全集2 (谷崎精二訳 春秋社、東京、昭和44年/昭和53年), p.6
『赤き死の仮面』
その舞踏会は、実に浮き立つようなきらびやかなものだった。まず最初に部屋の様子を言おうなら、

この後に続く部屋の描写は、毒々しいほど派手なものである。ここでの谷崎精二の “voluptuous” の訳語は「浮き立つようなきらびやかな」だ。毒々しい装飾が施された部屋での、いわば自暴自棄の裏返しとしての狂乱的な舞踏会。艶かしいきらびやかさがあると見ていいであろう。

 

『雪国』の最終場面、天の河はもちろん舞台装置である。天の河の明るさと地上の暗さ。その暗さの中に浮かび上がる駒子。

p.166
しかし、鼻の形も明らかでないし、唇の色も消えていた。空をあふれて横切る明かりの層が、こんなに暗いのかと島村は信じられなかった。薄月夜よりも淡い星明りなのだろうが、どんな満月の空よりも天の河は明るく、地上になんの影もないほのかさに駒子の顔が古い面のように浮んで、女の匂いのすることが不思議だった。

最後の「女の匂い」の訳が注目される。

The Milky Way flowed over them in the direction they were running, and seemed to bathe Komako’s head in its light.
  The shape of her slightly aquiline nose was not clear, and the color was gone from her small lips. Was it so dim, then, the light that cut across the sky and overflowed it? Shimamura found that hard to believe. The light was dimmer even than on the night of the new moon, and yet the Milky Way was brighter than the brightest full moon. In the faint light that left no shadows on the earth, Komako’s face floated up like an old mask. It was strange that even in the mask there should be the scent of the woman.

「女の匂い」は “the scent of the woman” 。直訳であった。

p.167
大きい極光のようでもある天の河は島村の身を浸して流れて、地の果てに立っているかのようにも感じさせた。しいんと冷える寂しさでありながら、なにか艶めかしい驚きでもあった。

And the Milky Way, like great aurora, flowed through his body to stand at the edges of the earth. There was a quiet, chilly loneliness in it, and a sort of voluptuous astonishment.

「艶めかしい」の訳語は “voluptuous” で一貫している。

艶めかしいが静謐な天の河と対照的に、地上では火事。人々は声高にしゃべりあっている中の逆説的な静けさ。

p.169
みな火に向って無言でいるような、遠近の中心の抜けたような、一つの静かさが火事場を統一していた。

これもまた、訳者が頭をかかえそうな日本語だが、

And yet a sort of quiet unified the whole fiery scene, as though everyone were voiceless before the flames, as though the heart, the point of reference, had been torn away from each individual.

 

島村は自分と天の河に夢幻的な関係を感ずる。

p.170
その火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬い上げられていくようだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。

The sparks spread off into the Milky Way, and Shimamura was pulled up with them. As the smoke drifted away, the Milky Way seemed to dip and flow in the opposite direction.

ここには天の河とそれ以外を融合して見ている島村の視線がある。「さあっと流れ下りて」は “dip and flow”。「さあっと」が “dip” だ。浸すような感触。

そして、燃えている家から、女が落ちる。 葉子だ。

p.171
あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た。

The crowd gasped as one person. A woman’s body had fallen through the flames.

短い訳文だが、見事さに私は言葉を失った。
あっと人垣が息を呑んで」は、人間の集合体である人垣が、突然の意外な情景に直面して、全員が同時に驚愕したさまを表している。それに対する英語の “as one person” は、まさにぴったりの描写と言うべきであろう。また、「あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た。」は、時間の前後関係を正確に示すとすれば、女の体が落ちるのを見たのが先で、その一瞬の後に息を呑んだことになる。だがそのような語順で書いたら、原文の微妙さは失われる。そこで訳文は、第一文を過去形、第二文を過去完了形にすることで、論理的な時間関係は正確に記し、しかし文章を読んだときの読者の感覚は原文に非常に近いものにしている。

 

9

川端康成は『雪国』をこう結んでいる。

p.173
踏みこたえて目を上げたとたん、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ落ちるようであった。

つい先にも、天の河が落ちてくる描写として、「さあっと流れ下りて来た」があり、それは “dip and flowed…” と訳されていた。
そしてこの結びの文章にも、「さあと音を立てて」がある。これをどう訳すか。

As he caught his footing, his head fell back, and the Milky Way flowed down inside him with a roar.

さあと音を立てて」は “with a roar” であった。
roarか・・・
最後に来て、いや最後だけに、ここは考えたくなる。”roar” とは、「吠える」とか「咆哮」とか、かなり迫力のある大きな音を指すのではないか。ここで川端が書いた「さあと音を立てて」は、もっと透明で冷たさを持った音なのではないか。
と私は考えたのだが、念のため確認してみよう。”roar”とはどういう単語か。辞書を引くとやはり「怒号」「吠え声」「轟音」などと出ている。
実際の英文での使われ方はどうか。また手元のポーの小説で検索してみる。

A Descent into the Maelström
…, and jet-black wall of water, inclined to the horizon at an angle of some forty-five degrees, speeding dizzily round and round with a swaying and sweltering motion, and sending forth to the winds an appalling voice, half shriek, half roar, such as not even the mighty cataract of Niagara ever lifts up in its agony to Heaven.

ポオ全集3 (谷崎精二訳 春秋社、東京、昭和44年/昭和53年), p.69
『メルストロームの渦』
真黒な水の壁が約四十五度の角度で水平線へ傾いて、ゆらぎ、悶えながら、めまぐるしく回転して、ナイヤガラの大瀑布が天へひびきわたらせる叫喚も及ばぬほどの怒号と鳴動との入り乱れた、恐ろしい音響を風に向かって放っている。

half shriek, half roar,”、 渦の恐ろしい迫力の描写の際にroarが使われている。谷崎精二はこれを「怒号と鳴動との入り乱れた」と訳している。

The System of Doctor Tarr and Professor Fether
You would have roared with laughter to see him spin.

全集1, p.293
『タア博士とフェザー教授の治療法』
あれがぶんぶんまわるところをご覧になったら、抱腹絶倒なさるでしょう。

精神科の患者と治療を揶揄しているととれる作品。引用部分のroarは動詞。訳は「抱腹絶倒」。つまり大爆笑である。

.
Metzengerstein
One instant, and the clattering of hoofs resounded sharply and shrilly above the roaring of the flames and the shrieking of the winds —

全集2, p.23
『メッツェンゲルシュタイン』
瞬間、風の悲鳴と炎の咆哮との上に、蹄の音が戞々と鋭く響き、

The Fall of the House of Usher に似た雰囲気を持つ、この小説の結びにさしかかるシーン。 “roaring of the flames” = 「炎の咆哮」。巨大な恐ろしい炎である。(「戞々と」は「かつかつと」と読む)

やはりroarという単語は、恐怖すら感じさせる大迫力を孕んでいる。
『雪国』の最後の場面、島村にとって、落ちてくるように感じられた天の河は、はたしてそういう天の河であったか。確かに迫力はあったであろう。だが、静謐で怜悧な迫力だったのではないか。人を圧倒する迫力でありながら、美しく、同一化したくなる迫力だったのではないか。
もし roar とともに天の河が落ちてきたら、あわてて逃げるしかない。だが

さあと音を立てて天の河が島村のなかへ落ちるようであった。

こうして落ちてくるのなら、落ちてきた天の河とともに、地上で無になってもいい。

(本文は以上)

 

 

<不謹慎な追記>
私は不謹慎だと自認しているのだが、『雪国』と聞くとどうしても反射的に思い出してしまうことがある。思い出すのも不謹慎だが、それを書くのはもっと不謹慎だ。だが私はどうしてもそれを書かずにはいられない。
それは宮沢章夫のエッセイである。
『人生いろいろである』と題された短いエッセイ。宮沢章夫が、ある作家のエッセイの最後に「人生いろいろである」と書かれていたのを読んで、潔い終わり方に感動したという話から始まる。そして宮沢章夫は考える。この言葉を置けばどんな文章もすっと終わってしまうのではないかと。そして二つ三つそのような例を挙げ、たとえ文章の途中でも「人生いろいろである」という一文を持ってきさえすればものの見事にすっと終わることを示す。
ここからだ。宮沢章夫『人生いろいろである』原文を引用する。

人生いろいろ恐るべしだ。
だったら終わってはいけないところにそれを配置するとどうなるだろう。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。人生いろいろである」
終わっている。たしかにこれは終わっている。誰もが知っている有名な文学作品の冒頭だが、はじまった途端に終わってしまい、これでは川端康成もかたなしだ。「人生いろいろである」の前ではどんな文章も無力だ。
(宮沢章夫 『青空の方法』 朝日文庫 p.75)

この潔さを、おそらく私は一生忘れることはないだろう。人生いろいろである。

 

<不謹慎でない追記> 
本文には適切な書く場所がなかったので、ここ追記に書く。『雪国』を通して、最も強く感じられること。それは、
川端康成は、すごい女好きに違いない
ということである。違いない。間違いない。絶対である。
そうでなければ、あれほどまでに精妙に女を描写することが出来るはずがない。。
そもそも、駒子との再会時、島村のいきなりの言動が普通でない。

p.16
階段の下まで来ると、
「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

Abruptly, at the foot of the stairs, he shoved his left fist before her eyes, with only the forefinger extended.
“This remembered you best of all.”

指が一番よく覚えていたって、それは一体どういう意味なのか。まさかそういう意味ではないだろう。これは日本を代表する文豪の、代表作中の代表作なのだから。すると「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」というのはどういう意味か?
もう少し読み進めてみる。上の引用部分の続きである。

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
 火燵の前で手を離すと、彼女はさっと首まで赤くなって、それをごまかすためにあわててまた彼の手を拾いながら、
「これが覚えていてくれたの?」
「右じゃない、こっちだよ。」と、女の掌の間から右手を抜いて火燵に入れると、改めて左の握り拳を出した。彼女はすました顔で、
「ええ、分ってるわ。」
ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。
「これが覚えていてくれたの?」

“Oh?” The women took the finger in her hand and clung to it as though to lead him upstairs.
 She let go his hand as they came to the kotatsu in his room, and suddenly she was red from her forehead to her throat. As if to conceal her confusion, she clutched at his hand again.
“This remembered me?”
“Not the right hand. This.” He pushed his right hand into the kotatsu to warm it, and again gave her his left fist with the finger extended.
“I know.” Her face carefully composed, she laughter softly. She opened his hand, and pressed her cheek against it. “This remembered me?”

この二人の様子から見ると、「指が覚えていた」というのは、どうもそういう意味らしい。しかも「右じゃない、こっちだよ」と左を出すのは、いかにも二人だけの具体的な記憶喚起の雰囲気満載である。

ところで、「右手でなく左手」というこの場面、小説では「二人だけの具体的な記憶喚起の雰囲気」の描写以上のものではないが、映画になると重大な問題になる。以下の文書に出てくる映画は、先に言及したものよりさらに昔の1957年、島村を池部良が、駒子を岸恵子が演じた豊田四郎監督のモノクロ作品である。

「雪国」あそび  村松友視  恒文社21   2001年
p.118
映画関係者は島村の ”人差指” が左手であることに悩んでしまうのだ。それを伝えるのに好都合な文章を、映画「雪国」のビデオ化にさいして、作品で島村を演じた池部良氏が書かれている。ロケ当時を回想した文章だ。

二階の「火燵前」の撮影準備が出来るまで、応接間の長椅子に腰かけていたら、豊田監督が二階から降りて来た。
「良ちゃん。女子(おなご)と寝るとき、どっち側に寝る?」と聞く。
「結婚してないから、決ってないですけど、右利きだから、左側の方が」
「女の左側やろ」
「そうですね」
「とすると、女のブラジャを外したり、パンツを脱がせるのは、右手やな」
「・・・・・・・?」。僕は返事に窮した。
「お腹を、さすったり、あちこち撫でたりするのも右手で、とどのつまりは、右手の人差指、使うわな」と監督は、独り言を言って、
「良ちゃん、どないしょ」
「何を、ですか」
「川端先生は、左手の指が覚えている、と書かれておられるし、右じゃない、こっちだよ、と台詞も書いてある。小説に忠実だと、一般の男の常識とは逆になってしまう。良ちゃん、どうするんや」と大きな声を出されたから、
「川端先生は、左利きなんじゃないですかね。だから、島村も左利きになっちまったんでしょうか」と言ったら「左利きね。よっしゃ、そうしとこ。良ちゃん、頭がええわ」と言って、小さな身体で、敏捷に階段を上って行った。
 僕のぎくしゃくとした蟠りも、忽ちにして解決。解決したのは結構なことだったが、その後も前も、右手で酒を飲み、箸を使い、マッチを擦ったりしたのは、忸怩と慙愧に苛まれたが監督から、特に御注意がなかったので、島村は、あのときだけ左利きの男としておいた。
(「あのときだけ」の下線は、原文では強調の傍点)

池部良の文章をこのように引用した後、村松友視は次のように記している。

笑い出したくなるようなエピソードであるが、このあたりが文書を映像化するさいの微妙な問題とも言えるだろう。果して『雪国』の作者が左利きであるかどうかは、池部良氏ではなくて、作者と関わりのあった何人もの女性に取材せねばならぬことだろう。(以下略)

この本が出版された時点で川端康成は既に他界されているから、「作者と関わりのあった何人もの女性に取材せねばならぬことだろう」は正当な推論のようだが、ここは私としては村松さんに異を唱えたい。第一に、川端康成が左利きであるかどうかは、なにも彼と「関わりのあった」女性に尋ねる必要はなく、彼の日常を知る人々に尋ねればそれで足りる。このとき、「あのときだけ」に着目しなければならないのでそんな方法論は無効だという反論が発生するかもしれないが、論点は池部良が書いているように「酒を飲み、箸を使い、マッチを擦ったり」なのであるから、むしろ「あのとき」以外を知るほうが重要である。第二に、「あのとき」にそれが右であるか左であるか、女性はどこまで認識しているかという疑問があるが、そんな暇な論考はせずに次に進む。川端康成が無類の女好きであったに違いないという、この <不謹慎でない追記> の主題に戻る。

三島由紀夫がこんな文章を書いている。

近代文学作品論叢書22
川端康成 『雪国』作品論集成 I 岩田光子 編
大空社 東京 1996
永遠の旅人 — 川端康成氏の人と作品 —  三島由紀夫
p.262
この一見人工的な作家の放つエロティシズムは、氏の永い人気の一因でもあったが、これについて中村眞一郎氏が、私に面白い感想を語ったことがある。
「この間、川端さんの少女小説を沢山、まとめて一どきに読んだが、すごいね。すごくエロティックなんだ。川端さんの純文学の小説より、もっと生なエロティシズムなんだ。ああいうものを子供によませていいのかね。世間でみんなが、安全だと思って、川端さんの少女小説をわが子に読ませているのは、何か大まちがいをしているんじゃないだろうか」
(原文は旧仮名づかい)

「少女小説」とは、昨今では聞きなれない言葉だが、今ふうに言えば官能小説にあたるのであろう。文豪・川端康成は、そういう小説も書いていたらしい。

 

さて、この <不謹慎でない追記> は、この原文と訳文で結ぶのが適切であろう。「指」が登場する最初の場面だ。

p.8
もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、・・・

先の村松友視の本には、この場面について次のように書かれている。
p.117
川端康成研究家や文芸評論家のあいだでは、この “濡れる” が果して抽象的なイメージであるのか、駒子の肉体的感触の記憶であるのかが取沙汰される箇所だ。

そんなこと取沙汰してどうすると言いたくなるが、それはともかく訳文を見てみる。

It had been three hours earlier. In his boredom, Shimamura stared at his left hand as the forefinger bent and unbent. Only this hand seemed to have a vital and immediate memory of the woman he was going to see. The more his memory failed him, the farther she faded away, leaving him nothing to catch and hold. In the midst of this uncertainly only the one hand, and in particular the forefinger, even now seemed damp from her touch, seemed to be pulling him back to her from afar.

damp from her touch” つまり先の村松友視の表現に従えば、抽象ではなく具象、すなわち「駒子の肉体的感触の記憶」ということになる。それはサイデンステッカーの解釈がそうだということか、あるいは英語ではそこまで微妙な表現は無理ということか。
それからもう一つ、抽象的にせよ具体的にせよ、「覚えている」のは「指」だけなのかという疑問が残るが、こんな暇な論考はこのくらいにしておく。

 

<さらなる追記>
『雪国』の書き出しの訳文に、サイデンステッカー自身は必ずしも満足していないことを、私は後日知った。

伊井春樹 編 『世界文学としての源氏物語 サイデンステッカー氏に訊く』 
笠間書院東京 2005
第4部 谷崎・川端と『源氏物語』
(座談会の記録である)
p.138
伊井 まあ、しかし、『雪国』の出だしの翻訳は本当に大変だったでしょうね。ずいぶん考えられたんでしょうね。
サイデンステッカー もう少し考えるべきだと思ってます。あれは、私の翻訳の中で一番問題になっています。冗談のつもりで言いますが、本当のことですけれど、学生たちにこう言います。「翻訳をしたいなら、一番最初のところと一番最後のところに特別に気をつけてください。中のところは誰も読んでないですから」と(笑)。その通りと思います。でも、もう少し考えるべきでしたね、「長いトンネル」のところは。
加藤 主語を何にするか、とか?
(中略)
サイデンステッカー しかし、まず第一に、「国境」ということばは私の翻訳に出ていないんです。「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。」ここには「列車」が全然出ていないのです。でも、英語ではどうしても主語が必要ですよ。長いトンネルを出ていくのは列車でなければ何でしょうか? 列車かネズミですよ(笑)。とにかく、あれは一番問題になってるんです。だから、もう少し注意すべきだったと思います。翻訳した当時はそんなに有名とは知りませんでした。一番最初に訳した時は、「国境」という言葉は中に入っていたんです。それにすればよかったと思いますね。そうすればそんなに問題にならなかったかもしれない。
加藤 その次も、「夜の底が白くなった。」。
伊井 あれの表現もかなり分析されてますよね。
サイデンステッカー まあ、あまりいい翻訳とは思いませんね。自慢はいたしません。

そうか、私が名訳だと思った冒頭の一文、サイデンステッカー自身は決して満足していたわけではなかったのだ。
それにつけても私としては、小説の最後の一文の訳に roar という単語を使ったことに異を唱えたいのだが、これについてのサイデンステッカーの見解は見あたらなかった。

 

21. 5月 2014 by Hayashi
カテゴリー: コラム