喫緊の課題は未来

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いまは2021年7月である。
いま、喫緊の課題は未来である。
未来とは、新型コロナウィルスの国民へのワクチン接種が完了した後のことを指している。

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私はこの文章を2021年7月4日の夜に書いている。
いま、日本でもワクチン接種が着々と進みつつある。ワクチン供給の遅れや不均衡など数々の問題はあるが、コロナ禍はここ100年間における未曾有のパンデミックなのだから、誰にも完璧な対策などできようはずがない。世界は、そして日本政府は、そして日本の人々は、最大限の努力をし、最善に近い対応を続けてきている。その一つが迅速なワクチン接種だ。日本のワクチン接種は世界に比べて遅れたものの、今年中のどこかの時点で完了するであろう(注1)。だがそれは真のコロナ対策の第一歩にすぎない。ワクチンは感染対策の万能の切り札には決してなり得ない。すでにずっと以前からワクチンがあるインフルエンザでも、毎年世界で数十万人が死亡しているのだ(注2)。

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そもそもこのコロナのワクチンにはまだ不明な点が多すぎる。接種によって、仮に十分な免疫が獲得できたとして、それはどれだけの期間維持されるのか。終生免疫獲得は期待できない。少なくとも現時点でそう期待するだけの根拠はない。すると毎年ワクチン接種するのか。今年は膨大な人々の献身的な努力によって、前例のない集団接種が前例のないスピードで進んでいる。素晴らしいことであるが、毎年このような形を取り続けることはできまい。すると未来における集団接種の具体的な方法の検討と確立が必要である。それがいま、喫緊の課題である。

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ワクチンを新型コロナ対策の切り札と菅義偉首相は言った。
それは明白な嘘である。少なくとも誇張である。たとえ全国民がワクチン接種を受けても、コロナとの戦いは終わらない。人類がコロナウイルスに敗北する可能性も否定できない。だが国民に希望を持たせるためには、「ワクチンはコロナ対策の切り札」というフレーズは、必要な嘘であったと私は思う。あの段階で、ウイルスと戦う手段が人類にはないなどと言うことは、人々の気持ちをどん底に陥れ、一人一人が努力すればできる対策さえできなくなってしまったであろう。政治家は、特に最高責任者である首相は、時には嘘や誇張も言わなければならないのである。嘘や誇張こそが国民の最大の利益に繋がることもあるのである。

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とりあえずは嘘や誇張で場を繋ぐことが、政治という最大限に複雑な仕事では必要な場合もあろう。ただしそれはあくまで場を繋ぐための便法であって、一国の指導者たる者、同時に目を未来に向けなければならない。ワクチンを切り札と名付け、ワクチンの威力を強調することによって、ワクチン接種は加速された。2回の接種を完了した人々が安心の気持ちを表明している。コロナとの戦いにおける記念碑的に大きな進歩であった。

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だがその安心のすぐ先には次の、はるかに大きいかもしれない不安が来る。3で述べたこのワクチンの有効期間。そして今後次々に現れるに違いない様々な変異株にどこまで有効なのか。ワクチンに名付けられた切り札というネーミングは急速に色褪せていくことは間違いない。すると次の手は何か。できるかできないかわからない特効薬に期待するのか。仮にできるとしても、できるまでの期間はどうするのか。コロナウィルスと共存せざるを得ない新たな世界での、人々に求められる新たな行動とはどのようなものか。それをいかにして人々に理解していただき、新たな世界を作っていくかが求められている。いま、喫緊の課題は未来にある。ワクチン接種完了後の未来にある。

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ところが2021年7月、我が国では五輪の開催が予定されている。

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五輪が開催されれば何万人という人が動く。パンデミックの状態である以上、何万人もの人が動くイベントは行わないのが当然である。何万人もの人々が動けば、ウィルスの蔓延を防止することは不可能である。ところが菅首相をはじめとする関係者は、五輪は開催するのだと言い続け、いま、開催月の2021年7月が来てしまった。

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いま五輪を開催することは、ギャンブルである。賭け金は国民の命だ。そしてこのギャンブルの結果は二つしかない。明瞭な負けと、隠微な負けである。

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明瞭な負けとは言うまでもなく、感染の急激かつ爆発的な拡大である。医療のキャパシティが限界を超え、直接・間接に膨大な数の死者が出る。日本だけではない。五輪には世界の様々な国の人が日本を訪れ、世界の様々な国に帰って行くのである。五輪株はこれまでにない脅威として世界中に広がり、直接・間接に膨大な数の死者が出る。9で、五輪というギャンブルの賭け金は国民の命だと言ったがこれは控えめに言ったのであって、真の賭け金は世界の人々の命である。

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隠微な負けとは、感染がこれまでの増減の範囲内にとどまることを指す。
これは一見すると負けではなく、「五輪を開催したけれど、感染は拡大しなかった。開催して良かった」という印象を与える結果であるが、その印象は誤っている。
なぜなら、もし五輪を行わなければ、感染の波はもっと小さく抑えられ、犠牲者数も減ったことが確実だからである。五輪に費やした人的資源、特に医療資源、そして金を、五輪以外に向ければ、より有効なコロナ対策が実行できたことが確実だからである。

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これまで、国や自治体のコロナ対応は、場当たり的であるとか右往左往しているなどとの批判を受けてきている。「場当たり的」「右往左往」はその通りかもしれないが、だからといって「批判」にはあたらない。コロナ禍はここ100年間における未曾有のパンデミックなのだから、誰にも完璧な対策などできようはずがない。完璧な対策のためには完璧な予測が必須だが、いかに科学を駆使しても、予測は確率論を超えることはできず、完璧な予測など誰にもできない。可能な予測の範囲で動くしかない。失敗も当然ある。失敗すれば方針変更を余儀なくされる。場当たり的に見える。右往左往しているように見える。だがこれは人知の限界である。誰にも予測できないという事実を真摯に認めること。それがこのパンデミックに立ち向かう時の動かぬ大前提である。

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菅首相はこの大前提を踏み外している。少なくとも踏み外しているとしか思えない発言を繰り返している。五輪が安心安全に行えるという発言がそれである。今さら私が指摘するまでもないが、この発言には根拠がない。日常の中での国内のコロナ感染をコントロールできていないという厳然たる事実があるのに、五輪という桁違いの大規模イベントを開催してコロナ感染をコントロールできるという根拠などあるはずがない。逆に、仮に日常の国内のコロナ感染がコントロールできた状態になっていたとしても尚、五輪を開催すればそのコントロールが破綻するかもしれないと考えるのが正しい姿勢というものであろう。

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だから2021年7月の五輪は、国民の命を賭け金にしたギャンブルである。そんなギャンブルを正当化できる理由などありえない。それでももうここまで来てしまった。ここに至る日本政府の愚行を指摘してももうはじまらない。このギャンブルを中止するために、今できることを考えなければならない。できることはまだある。

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それは、五輪出場を予定しているアスリートが、出場を辞退することである。

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何ヶ月か前に、このような辞退要求が発生していることが報道されていたことがあった。報道の論調は、アスリートへのそのような要求は筋違いだというものであった。アスリートを中傷する言葉を連ねた要求もあったとされている。「中傷」はいかなる場合も論外というべき悪である。「要求」も当時は筋違いであったと言えるであろう。当時はまだ、かすかな期待はあった。コロナ感染を抑え込めるかもしれないという期待があった。その期待が現実化すれば、五輪開催はギャンブルとは言えなかった。するとアスリートに課された役割は、開催を信じて努力を続けることであって、辞退を検討することではなかった。今は違う。

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この感染状況で五輪を開催するのは明確なギャンブルである。国民の命を賭け金にしたギャンブルである。その主役はアスリートであり、彼らが全員辞退すれば五輪は中止できる。主役である彼らにはこれを真剣に考えてほしい。

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彼らが五輪を夢見て大変な努力を続けて来たということはよくわかる。逆境を跳ね返してきた人たちもたくさんいらっしゃるのであろう。多くの人々の支持もあったのであろう。支持してきてくださった人々のためにも、五輪という舞台がとても大切であるということもよくわかる。ここまで来て、いま辞退すれば様々な問題が発生することもよくわかる。
だがそうしたことのすべては国民の命を賭け金にしたギャンブルをするだけの理由になるのか。人より0秒1速いことが、国民の命より大切だというのか。

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メダルが栄光の象徴だというのであれば、出場を辞退したアスリートこそが授与されるのにふさわしい。人々の命のために、勇気ある辞退をしたアスリートの胸でこそ、メダルは限りなく美しく輝くであろう。

20 (削除) (注3)

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私には、根拠なく信じたいと思っていることが一つある。
それは、菅首相が、我が国の歴史上に例のない、倫理観というものが欠如した指導者であるということである。(注4)

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誤解を避けるためもう一度言う。これは私の根拠のない思いである。菅首相に例外的に倫理観が欠如していると断言しているわけではない。そう信じたい、根拠はないがそう信じたいと言っているだけである。

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なぜなら、国民の命を賭け金にギャンブルを強行することが、日本の首相としてごく普通の決断だとは信じたくないからである。菅首相は、強行するという自らの方針を、根拠を示すことなく正しいと強弁し続け、後戻りできないところまで国民を連行してきた。これは国を戦争に導くのと同じである。そこには倫理観のかけらもない。そんな首相は、例外中の例外であるに決まっている。そう信じたい。

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私は基本的には政治家を信頼している。特に内閣総理大臣ともなれば、多数の最高度に複雑な問題に対して、最高度に複雑な決断を日々下しているはずである。利害関係が錯綜した国民という集団においては、そこに発生する問題には正解というものはなく、いかなる決断を下しても、誰かにとっては喜ばれ、誰かにとっては失望され、憤慨されるであろう。倫理的問題には葛藤がつきものであって、特に政治のような複雑な世界においては、何が倫理的に正しいかについて軽々しく語ることはできない。もちろん個人的には賛同し難い政府決定というものはいくつもある。精神医療の分野だけをとってみても、政治が変われば精神障害の当事者の方々がもっと幸福になれると思われる事項はいくつもある。そうした事項について私たちには政治を批判する姿勢が必要であるが、他方で、政治の複雑さも認識しなければならない。文字通りすべての人々にとって理想が達成される政治などあり得ず、政治家はそうした矛盾の中で最大限の努力をされている。と信じて私は政治家を基本的に信頼している。

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しかしいま五輪を開催することが国民の命を賭け金にしたギャンブルであることはあまりに明明白白で、そんな強行を推し進める菅首相は、政治家の中で例外的に倫理観を欠如した人物である。私はそう信じたい。

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なぜパンデミック下で五輪を開催しなければならないのか、なぜそんな決定をするのか、それについて何の説明もせず、彼は五輪の準備を押し進めてきた。期日が迫れば迫るほど中止は困難になることは当然に読んでいたであろう。G7で各国首脳の同意を取り付ければ、もう後戻りはできないと国民は観念することも予定の行動だったのであろう。国民の命を預かる責任者のすることとは到底思えない。こんな非倫理的な指導者が、これまでの日本にいたことがあったであろうか。なかったと私は信じたい。

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このギャンブル、もし結果が隠微な負けであれば、首相の側からすれば、負けではなかったと誤魔化すことが可能で、打ち勝ったと宣言するつもりなのかもしれない。

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では明瞭な負けのときはどうするのか。感染爆発の理由を他に求めるのか。安心安全のために万全の対策を講じたが、予想を超えた高気温に襲われて目算が外れたとでもいうのか。たまたま7月に何らかの自然災害があったらそのせいにするのか。それとも明瞭な負けのときは負けを認めて辞職するのか。辞職してもらっても何にもならない。本人としては責任をとったつもりでも、責任を取ったことにはならない。国民の命を賭け金にしてギャンブルを行ったことについて、責任を取る方法などない。

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もし菅首相が例外的に倫理観の欠如した政治家でなく、政治家として普通だというのであれば、もはやこの国の政治には希望はない。
彼には一日も早く辞職し、まっとうな倫理観を持った人物が首相の地位に就き、私の根拠のない思いが正しかったことが証明されることを、2021年7月5日のいま、私は強く望んでいる。

 

注1
ここでいう「ワクチン接種完了」とは、とりあえず接種を希望するすべての人への接種が完了したことを指す。それだけで集団へのワクチン接種の目的が達成されたと言えるかどうかは疑問だが、本論のテーマからは外れるのでそれには触れない。

 

注2
Luliano AD et al: Estimates of global seasonal influenza-associated respiratory mortality: a modelling study.  Lancet 2018 March 31; 391 (10127): 1285-1300.

 

注3
五輪の主役はアスリートではなく、IOCであるとか、スポンサーであるなどとする考え方もあり、それも正鵠を射ているかもしれない。そんな状況の中で、本論でアスリートだけに言及しているのは不条理であるとするご批判もあるかもしれない。アスリートこそは犠牲者であるという同情論もあるかもしれない。しかしそうしたことすべてを勘案しても、2021年7月初旬の今、五輪強行からの後戻りが日に日に困難になっている今、たとえ建前上の主役であったとしても、主役であることに違いはないアスリートに、行動を求めるしかない地点まで来てしまっている。
20はそれを強調する一節であったが、迷った末に削除することにした。ここに削除した原文を示す:

20
逆にこの強行五輪に参加して競技に勝利したとする。そして表彰台に登ったとき、その表彰台をよく見てほしい。感じてほしい。その表彰台は、コロナで直接・間接に犠牲になった人々の屍でできている。

 

注4
菅首相はこの強行の代表者あるいは象徴であるのにすぎず、実際は彼の周囲、五輪相や組織委員会会長、そしてさらにその周囲の多数の人々が、強行を推し進めていることに違いなく、菅首相ひとりの倫理観欠如が問題なのではないが、そこまで記述するとあまりに冗長な文章になってしまうので、代表者としての菅首相のみに、本論では言及することにした。菅義偉さん個人には申し訳ないと思っている。

(2021.7.5.)

05. 7月 2021 by Hayashi
カテゴリー: コラム