精神科Q&A

【1674】もっと知識があったらと悔やまれる母の死‏


Q: 53歳で他界した母親についてです。 長文失礼いたします。 このように時系列に整理したのは、私も初めてで、まして我家に起こったことをこのよう書くのも初めてです。 もしこのような症状で闘病されている方やご家族がおられれば、ぜひこの事例が参考になれば幸いです。 一体、当時のあの症状は何だったのか、私として、もしその時に行動を起こすことができていたらと振り返ることがあります。 当時の私には正直理解できず、大学に入学してからは遠くに暮らしておりましたので、現実から逃避してしまい、また家族、親戚も苦言を言う程度で本当の行動を起こせなかったと思います。 ただ母親は、精神科に通院をしていました。断片的には「うつ病」などと伝聞で聞いていましたが、家族や親戚が、主治医と一緒に取り組まなかったのは、私にとって後悔しています。ただ小中学生の私には当初、親の病気について自分がケアをするという認識すらなかったのも事実です。 少しとりとめが無く、恐縮ですが、こちらのサイトで、他にこんなにも多く家族で病気と戦っている方々いるという事実を知りまして、当時の母親の症状の進行の事実を書いてみたいと思った次第です。病気とは関係の無いことあるかもしれません。その際はご指摘いただければと思います。
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私の家族構成は、父、母(専業主婦)、弟と私の4人父親は仕事の関係で1年中、ほとんど遠方におり、母子家庭のような暮らしをしていました。 転機は小学6年の夏に、新興住宅街に一戸建てを購入し引っ越した時でした。これ以前は特に母親の行動や生活については、異常と私は認識したことはありませんが、この時点で少し様子がおかしかったのかもしれません。私が小学校があと少しで卒業で、半年待っても良いのに、なぜか引越しを急いでいました。しかも数千万円の自宅購入に学年途中に二人の転校を伴う、本当に負担の多い引越しでした。 引越し後に、私の目にも親戚にも異常と思われる行動が現れました。 ・引越し1ヵ月後に「もうここには住みたくない、この街は怖くてたまらない」と言い出しました。・急に泣き出すことが多くなりました。・親戚達に2、3ヶ月後「もうあの家から引っ越したい」と相談するようになりました。みんなには理解されませんでした。 私も無理に転校までして、しかも新しい家まで買って数ヵ月後に、「この街が怖いから元の街に戻りたい」というのに憤りを覚えました。小学生の自分には病気が原因という理解ができませんでした。 引越し後1年ほどたって、私は中学生になりました。 ・夜眠れないと私に言うようになりました。・夜中に何度も、起きているらしく、物音が聞こえました。何をしているかはわかりません。・掃除をしなくなりました。床やトイレが汚くなっていました。・真夜中2時ごろに突然、怯えた様子で、私の部屋に飛び込んできました。母親はこう言いました「寝れない、怖い、どうしよう、どうしよう、おかあちゃん(祖母)に電話しようかな」なだめましたが、真夜中に親戚に電話をしていました。・昼間、親戚中に電話を掛けているようです。話している途中に無意識に電話横のメモ用紙に不思議な人の顔をかいたり、私や弟の名前を何度も書いて、なぞってありました。 引越し後3年ほどたって、中学後半、高校進学をしました。 ・急に同じ種類の飲み物を、しかも小さな350ml缶で何度も自動販売機を往復して買ってくるようになりました。・最初は炭酸柑橘系飲料だったのが、ついにビールになり、朝は酩酊状態となる日も多くなりました。・外には、その同じ種類の缶が、ポリ袋に何個も入っていました。・学校に行くのが1分でも遅れると、急にソワソワしだし、突然ヒステリックに怒り出し、発狂したことが1度ありました。・上記の飲料のせいで、すさまじく太り始めました。・相変わらず掃除には関心がなく、容姿にも気を使わず、風呂にも入りたがらない日も多くなってきました。・お金が無い、たいへんだ。ローンがまだこんなにあると言っていました。(通帳を見ると実際は父親からそれなりの収入が振り込まれていました。)・車がないと生活が面倒だし、お母さんも免許とったら?といったらすさまじい剣幕で怒られました。・母親が新しい電気ポットを買い、箱のまま置いてあったので、それを出して使わないの?といったら、それもすさまじい剣幕で怒られました。(結局3年後位に使用) ついに引越し後5年で、あまりにも症状が酷くなったと親戚達も認識して、当初の希望通りに、ここから引っ越せば症状は全て治ると期待して親戚達も再度の引越しに同意するようになりました。決まったとたんに母親は、急いで小さなアパートを探し、私は高校だったので転校ありませんでしたが、弟は中学で2度目の転校となりました。 ・しかし、近くの酒屋やコンビニで前と同様に同じ種類のビールや飲み物を大量に買ってきて、飲んでいました。・飲んで、吐いて、また飲んでいました。・夕食などを作らなくなりはじめました。お金を貰い、買って食べるようになりましたが、たまには作ってくれたりしました。 ここで私は他県に大学進学のために、家を出ました。数ヶ月に1回程度、実家に帰ることがありました。 ・弟は食事はほとんどお金をわたされて買って食べていました。・相変わらず掃除はされておらず、引越し時のダンボールがまだそのまま積んでありました。・壁紙には吐いた後があったり、流し台もトイレの汚れもすごかったです。・弟が母親のビールを取り上げたりしているようでした。・近所の床屋にいったら「お母さん、いつもジュースを袋にいれて、この前を通るよ」といわれました。・久しぶりに家に帰って母の部屋を見に行ったら、酩酊状態で畳の上で正座して、固まったように1点を見つめていました。 私が社会人になってからさらに症状が酷くなりました。このとき父親が仕事先で倒れ、寝たきりになってしまいました。県外にすんでいる私は、仕事をやめて実家に戻るべきだったのかもしれません、でもそれができませんでした。 ・親戚から、母親が歩行困難になって助けを求めて電話がありました。食事を自らしなくなったためとのことでした。・母親は母親の実家に戻りました。・真夜中に、親戚の目をさけて、抜け出してビールを買って、途中の道端などで 嘔吐を繰り返したりしていたそうです。・昼間にもそういう姿が付近の住民に目撃されるようになったとのことでした。 こんな状態だったのですが、少々症状が良くなったらしく自宅に戻ったときのことでした。 弟が自宅に居たのですが、この頃は夜勤にでており昼間熟睡し夜に声を掛けたところ、倒れていたとのことでした。 最期は、いくつもの吐いた跡と、ベランダに数百本のビールの空き缶の山を残して、倒れている姿で発見されました。 すでに息を引き取っておりました。検死をしていただきました結果は、心不全、死後数時間でした。 
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きっと、この10年近くの中で母親が出していた警報の一つ一つについてしっかりと家族と通院していたお医者様とお話をして対処していけば、良かったのだと思います。 最後まで主治医の先生と相談する機会を作りませんでした。薬をもらいに行っている場所というくらいの認識でした。 また、これらの症状は私が伝えて聞かされていたとおり「うつ病」の症状に当てはまりますでしょうか。



林: 貴重なご体験をご報告いただきありがとうございました。お母様はうつ病であったのだと思います。このようなケースは、入院して電気けいれん療法を行うのが、最も推奨される治療法です。治療しなければ自殺のおそれが高く、また、薬により治療では回復までに時間がかかるため、治療中の自殺を最小限にするためにも、電気けいれん療法の選択が望まれるのです。擬態うつ病のp.82にも、そのようなうつ病の実例をやや詳しく説明してあります。

そしてこの【1675】では、さらにアルコール依存症が合併しています。酩酊状態が多くなってからの症状は、どこまでがうつ病でどこまでがアルコールによるものか、一般的にも区別がつきにくく、ましてやメールの記載からはほとんど不可能です。しかし、両者が合併していたことは確かでしょう。そして、うつ病とアルコール依存症が合併すると、自殺の率はさらに高くなります。

このような説明をしたところで、この【1675】の質問者本人には今さらどうすることもできず、ただ後悔が深まるだけでしょう。そのため、ご家族が自殺されたケースでは、「今さら何を言っても・・・」と、振り返ることをなさらないことが多く、それはよく理解できることです。けれども、他の方々にとっては、どのような経緯であったかは貴重な情報で、どうすれば自殺を防げるかを考える貴重な資料になるのは言うまでもありません。

もしこのような症状で闘病されている方やご家族がおられれば、ぜひこの事例が参考になれば幸いです。

多くの読者にとって、はかりしれない程の参考になると思います。ありがとうございました。


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