精神科Q&A
【1019】「報道されない抗うつ薬副作用の恐怖」(SPA!の記事)について
その後、【1019】の質問者の方から次のメールをいただきました:
【1019】ではSPAの記事に関するご回答をいただきありがとうございました。また、ご紹介いただきましたダカーポの記事(こころのあおぞら 第100回「報道されない恐怖・報道される不安」)も拝見させていただきました。
ご回答を拝見しながら、考えさせられたことの変化などをお伝えしたく再度、メールを差し上げました。
当初、不安を煽る記事に憤りを感じさせられました。しかし時間の経過と共に捉え方が次第に変化していることを感じております。様々な立場からこの記事を見つめようとしていることに気づかされました。
抗うつ薬は、うつ病を治すための一つの道具と捕らえています。喩えが適しているかどうかわかりませんが、「包丁」と同じ道具なのだと思います。使い方を間違えば怪我もするし、時として人を殺める道具にも成り得ます。しかし、通常の使用においては、便利で役に立つものです。今回の報道は、ごく希にしかおきない「包丁による殺人」の部分を誇張して伝えているのと同じだと判断しました。
服用者の立場からすれば、滅多にあるかないかのことをこんなに誇張されて報道されてしまっては、かなわないな・・・・・というのが本音です。こんなこと書かれたら、服用者への偏見が助長されてしまうじゃない・・・・あるいは寝た子を起こすことにもなりかねない・・・とも感じさせられておりました。
医学研究の多くは「○○には○○の効果がある」という発表のあとに「○○の効果は疑問」「○○の弊害」といった反証の研究であるといいます。こうしたメリット、デメリットの相反する情報が、報道を通して私たちの元にも届きます。
これらの情報の受け手として感じさせられていたことは、報道されることをそのまま鵜呑みにせず、データの背景に存在することにも目を向けること。隠れている事実を見抜く力を持ち、自分の立ち位置を変えながら俯瞰して眺め直してみること。新たな情報を通して、自分にとって必要なものは何かを考え選択し判断していくことが大切だということでした。
薬に限らず、どんなものにもリスクベネフィットの考え方があります。デメリットを超えるメリットが大きければ、それらは生活の中に自然に受け入れられているというのが現状です。
当初、服用者としての自分はこの記事をどう受け止めるかという視点でしか見ておりませんでした。次ぎに私と同じ服用者はこの記事をどう読んだのだろうかと考えてみました。さらにその周囲の人たちは何を感じたのだろうか?治療の現場にいる医師は?作り手の製薬メーカーは?流通させる立場の人は?全く関係のない第三者がこの記事を見たらどう思うのだろう?そして、記事を作る編集側、そこに寄稿するコラムニストの立場でも考えてみたら・・・?自分の視点をいろいろに置き換えてずらしていくうちに、それぞれの立場から見える景色があることに気づかされます。
服用者にしてみれば、こんな記事は勘弁願いたい内容です。しかし雑誌には売り上げを考えなければならいという使命を抱えています。そのためにキャッチが必要なのだ思えば、誇張した表現も理解できなくはありません。書き手にはそうした編集側が求めるスタイルに応じなければならないということもあるのかもしれません。
薬を世に送り出す段階、それを流通させる過程においておきている問題も耳にします。これも我が身をその立場に置き変えれば、見え方も変わります。それらを知った上で、どう受け止めるかなのだと思いました。
当初、こんなことを書かれたら世の中の偏見が自分に向けられてしまいそうな危機感を覚え、嫌悪感となりました。しかし、自分がうつ病や抗うつ薬とは縁のない立場だったとしたら、この記事をどう受け止めたでしょうか?果たして目に止まったかどうかすら疑問です。たとえ目にしたとしても、おそらく素通りしていたと思われます。それは病気や薬にかかわりがないからです。また嫌悪感を抱くまでのバックグランドもないのです。
そこで思ったことは、この記事を望ましくないと感じているのは、「服用者や関係者」だけではないのか?ということでした。もっと言えば、きちんと読んでいるのは、関係者だけなのかもしれません。自分が危機感を感じているほど、世間は注目していないということでした。
しかし、このことには意味があると思います。当事者しか、関心を示さない記事かもしれませんが、その関係者が確実に増えているという現実が存在しているということです。
うつ病に関する啓蒙がなされ、以前と比べれば認知も理解もされ、受診者も増えています。それに伴い患者が増加し、精神科、心療内科以外でも、比較的簡単に薬の投与が行われていると聞きます。そんな状況に抗うつ薬のマイナス情報が投げ込まれれば、波紋の広がる範囲も、当然大きくなるということではないでしょうか。この記事に反応する絶対数が確実に増えているという現実。それがこの記事の向こう側に存在している背景なのだと思いました。
様々な立場から見ることで、自分の位置が俯瞰できてきたように思います。先端や最新と言われる情報と、一般の治療には隔たりがあることを認識し、その上で自分の選択することの大切さを改めて感じております。
うすぼんやりとしか見えていなかった病気や薬を取り巻く背景や真実、問題点を自分なりにもう一度、考えて消化する機会を得られたように思います。
長くなってしまいましたが、最後に加えさせていただきたいと思います。
前回と今回メールをさしあげましたのは、自分自身がこれまで精神科医療や薬に対して持っていたイメージに対する、反省の意味がありました。一般論やイメージで語ることの弊害も自覚しました。当事者になって始めてわかることばかりです。
病気前の自分が、うつ病や薬に対してどんな捉え方をしてきたのか。ある種の偏見にも似たイメージを持っていたことを、記事によってあぶり出されてしまったと言えます。病気になって始めて気づいたこれまでの自分の視線に対する反省と反発。これらが複雑に絡み合って記事への怒りとなり、そのままにしておけなくなってしまったのでした。
かつての自分も含めて、多くの人が持っているイメージを払拭することが、病気を患った自分がしなければいけないことのように思えたのです。しかし、そのすべがなく、質問という形を通して、先生に代弁していただけたらと思ったのでした。
多くのアクセスがあると言われる先生のサイトで、取り上げていただき、お答えを示していただければ、世間の目を少しずつでも変えるきっかけになるのでは?と思ったのです。
しかし、今はこのようにも考えています。自分自身や身近な人が病気にならなければ、先生のサイトも見られることはないのかもしれません。(現に病気前は、全く存知あげておりませんでした)
「読まれなければ見識ある内容も存在しないのと同じ」とダカーポの中でおっしゃっていらっしゃるように、読まれるための手法の一つが、アジテーションを含む表現なのだと理解致しました。正攻法で伝えていただけでは、埋もれてしまうということなのですね。たとえ好ましい形でなくても、人の目を惹きつけるといういう効果において、意味を持つのだと理解しました。
確かにセンセーショナルな記事を目にしたことで感じさせられた「報道される不安」がありました。しかし先生もおっしゃるように、アイキャッチを持った記事によって、そこから広がる世界があったことを考えれば、私にとっては大きな意味を持つ記事だったと言えます。情報を受け取る私たちが、そこから何を見つめ、どう受け止めて判断するかが大切なのだと感じさせられました。
「報道されない恐怖・報道される不安」という暗雲が立ちこめていても、その後ろに広がっている、こころのあおぞらが見えた気が致しました。
林: このメールをいただいたことに深く感謝いたします。読ませていただき私も得るものが大きかったと感じております。ありがとうございました。
それから、【1019】では、記事についてのコメントに没頭してしまい大切なことをひとつ書き忘れていました。末筆ながらここにお書きいたします: あなたのうつ病が改善し、安定されることを願っております。