精神科Q&A

 【1323】統合失調症である私は結婚し子どもを持つことができるでしょうか


Q:  私は30歳の女性です。 
御本や、ホームページや、Q&Aを時間をかけて読ませていただいて、ますます、自分の病気についての認識を新たにしています。 

私は、25歳のときに統合失調症を発症致しました。 
25歳まで、自分はおかしいのではないか、という不安は子供のときからずっとありました。 
小さなときから、引っ込み思案な子供という印象を、周囲は受けていたと思います。 
私は小学校1年生くらいのときから自分はとても嫉妬深い人間なので、他人とあまり深くかかわってはいけないと思っていました。 
それでも、他の子より鈍い子供(成績の悪い子供)だったのは小学校2年生までで、引っ越したことと3年生になったときの先生と相性が良かったのか、成績も人並みになり、性格も幾分は明るくなり、そのときそのとき少ないながらも友達もいました。 
時々は、世の中わずらわしいことばかりで、死んだほうが楽だと思うことがあったりもしましたが、うつなどではなかったと思います。 
他人といるより、一人でいるほうが好きでしたし、マンガの本などにのめりこむ性質でしたが、妄想や幻覚幻聴、自傷行為や摂食障害等とは無縁でした。 
中学2年生の時に、祖母が自殺しました。 
祖母は脳卒中で倒れ、言語障害等が残りましたので、一人暮らしをやめて、私の家族と同居することになったのですが、家が狭いこと等の理由により、私は反対でした。 
結局、同居して一月ほどで亡くなってしまったので、表に出さないようにしていたつもりでも、私の心の中の醜い部分が原因で、祖母が自殺したのではないかと、とても悔やみました。 

それからは、ますます他人と接する事が苦手になりました。 
その時その時、友人はいても、すぐ離れていってしまう人々で、友人関係が長続きすることがありませんでした。 
高校生になり、友人だと思っていた人に無視されるようになったりして、ますますしんどい思いをしました。 
それでも卒業し、大学の夜間部に進学しました。 
このころから、私を嫌う人が増え、私自身も、自己臭症や対人恐怖症、腸過敏症のような症状を自覚していました。 
カウンセラーや精神科にかかるべきだと思いながらも、敷居が高く、また、家族は、私はしっかりしている、大丈夫だ、うちの子に限って心配ない、と言うもので、アルバイトをしながら、大学はサボりながらも何とか卒業しました。 
こういう状態の時に、精神科にかかっていれば、統合失調症にはならなかったのかもしれないと思います。 

自分に自信が持てず、就職活動が出来なかったので、アルバイトで事務員をしていました。 
社長一人、社員は私一人、の会社で、電話受けとお茶くみと掃除が私の仕事でした。 
20歳から25歳まで、一人で事務所の留守番をする日々でした。 
特にする仕事もなく、話し相手もなく、ただただ一人で、周囲から取り残されていってる不安に怯えていました。 
資格を取るための勉強をしたりもして、いくつかの試験を通ったりもしましたが、自信は相変わらずなく、仕事もなく、一人で考える日々でした。 
エステや、英会話や、大金を払って挫折したものがたくさんありました。 
自分を変えなければいけないと、笑顔教室やコンピュータの入門教室や、話し方教室に通いました。 
速聴や速読の高価な教材にも手を出しました。 

そうしているうちに、私も他人と接することが出来るんだ、と変な自信が出てきました。 
私はもっとしたいことが出来る、偉くなれると思いました。 
仏教の入門書や聖書の入門書を読み漁りました。 
家で一人でいると、風の音や、外の子供の声などがとても大きく聞こえました。 
音楽に興味などなかったのに、頭の中で音楽が流れるようになりました。 
トイレなどで、身体が勝手に踊っていました。 
会社を休んで、何時間も家の周囲を歩きました。 
この段階で、私がおかしいことに気づいたのは弟でした。 
精神科に連れて行ったほうがいいと、母に言ったそうです。 
母は、まさかと思ったそうです。 

最初に入院したのは7月11日でした。 
その日は、朝、早く目が覚めました。 
とても心が澄み渡っているような気がしていました。 
シャワーをして(禊のつもりでした)、自分の一番気に入っているスーツを着て、 家を出ました。 
切符を買って電車に乗りました。仕事に行くつもりでした。 
電車の中で、涙が出ました。 
一緒に電車に乗っている人々の苦しみや悩みを、私が抱えてあげる、そんな気持ちで泣いていました。 
会社のある駅で、切符をなくしているのに気づきました。 
(実際にはなくしてはいませんでしたが、そのときは見つからなかったのです) 
駅員さんに申し訳ない、切符をなくしてどうしたらいいでしょうと問うと、「いいですよ」と、通してくれたので、助かったと思いました。 
そして、道路へ出て、会社へ行くために歩き出したのですが、道の端に自縛霊がいるような気がして、私が清めて歩かなければいけないと思い、道(車道です)の真ん中をらせん状に歩きながら、会社を通り越し、四天王寺さんの境内で、踊りを踊りました。身体が勝手に動くのです。 
私は悟った人だと思いました。 
そうしてからまた車道をふらふら歩き、会社からずいぶん離れた駅の入り口で、動けなくなりました。 
晴れた日ですが、傘を持っていましたので、傘を何度も地面に打ちつけ、靴を脱いで、植木のところに腰掛けているところを駅員さんと警察に保護され、救急車で病院に運ばれました。 
病院では、私は真理に目覚めてしまったので安楽死させられると思い、ものすごい恐怖心がありました。 
両親が現れて、両親とともに救急車に乗せられ運ばれていく中、私は両親を責めていました。 
両親は心配そうな泣きそうな顔をしていました。 

入院施設中心の精神科病院につき、注射をされ、保護室に入れられました。 
そのときは私は全く状況が解っていませんでした。ひどく疲れて、眠りました。 
翌日、目が覚めたときは、私は冷静さを取り戻していました。 
あぁ、病院に入れられたのだなということが解りました。 
世間的に見て、私は病気なのだと言うことを理解しましたが、私は病気ではないと思っていました。 
そして、約一ヶ月間、入院しておりました。 
両親に告げられた病名は統合失調症です。 
ただ、薬の影響か、作業能力の低下する症状等はなかったことと、入院した翌日には普通に会話が出来、食事や睡眠にも障害がなかったことと、気分の抑うつもなかったことで、一過性のものでしょうということになりました。 

入院中に出されていた薬はリスパダール1ミリが朝・夕。 
アキネトンが朝・夕。です。 

入院施設は実家から遠かったことがあり、近所の市民病院の精神科に通うことになりました。 

仕事は、その時はアルバイトで不動産会社の事務員をしていましたが、退職しなければならなくなりました。 
ただ家でぶらぶらしていることが不安でたまらず、まだじっとしていなさいという医師や家族の声を聞かず、ハローワークに行き不動産会社の事務員で、正社員の職を見つけ、仕事を始めました。 

入社日は9月8日です。 
会社には精神病院に通っていることは内緒でした。 
薬はリスパダール1ミリが、夕方に一錠になりました。副作用が出る可能性も少なそうだというので、アキネトンは必要ないということになりました。 
仕事と家の往復でした。 
自分では、仕事が出来ていないのではないかと不安でしたが、毎日休まず出社して2年が経ち、市民病院の先生に薬がもういらないのではないかと伝えたところ、大丈夫そうなら減らしてみましょうということになり、2日に一度の服薬、そして、薬の廃止になり、通院もやめていいということになりました。 

そして一月ほどで再発し、家族や会社や親戚に散々迷惑をかけて、再入院ということになりました。 
この時は、被害妄想等があったのと、入院時の記憶がいろいろと混乱していたので、あやふやです。 
ただ、入院前に一・二度通院して、私は病気じゃないと医師に訴えました。 
先生は、不安があるから病院に来たんでしょう、と仰って、リスパダール1ミリを1錠、もしくは2錠飲むように言われました。 
私は薬は飲みましたが、症状は急性期になってしまって、入院することになってしまいました。 
5日から1週間、保護室にいました。 
この時もすぐに冷静になって、保護室から出たいと訴えましたが、様子を見るということで、5日ほどは保護室にいました。 
食事や睡眠に問題はありませんでしたし、この時は、記憶がなかったのと、ありえない妄想だと自覚したので、病識がやっと出来ました。 

この時も、薬は、リスパダール1ミリを夜に1錠だけでした。 
保護室から出てからは、正社員の職を失って、貯金もなくて、どうやって生活していこうかと悩みました。 
その時は実家から出て、一人暮らしをしていましたので、実家に帰るのは残念でした。 

何も仕事が出来なかったら、私はどうやって生きていったらいいのか、と思うことはありましたが、ここまでどん底ならもう上がるしかないという気持ちでもいました。 

入院先の先生の診断は躁うつ病でした。 

3週間の入院ですみました。 
退院する前に、職場で、もう一度働く気があるなら、働かせてくれるという、社長の判断を聞きました。 
母が、会社に事情を説明して、働かせてくれるように頼んだそうです。 
私は、入院した日から一月と少しの期間で、復帰しました。 

被害妄想でわけのわからないことを叫んだり、迷惑をかけた会社で、また働くことになったのです。 

会社の人は、きちがいだと言う目で私のことを見ていると思いました。 
病気には誰も触れませんが、早くやめてくれ、というような態度を隠そうとしない人もいました。 
これは、被害妄想ではなく、世間一般の精神分裂病にたいする認識を持っている人が会社にいたということです。 
そして、私の妄想による叫びで、他人を傷つけたり怖がらせたりしたということでもあります。 

家族は、私を病気のまま、会社を辞めたら、次の就職先でも同じ病気が出るのではないかと恐れたそうです。 
ちゃんと仕事が出来て、それでも、どうしても嫌になったら、別の仕事を探したらいいと思ったようでした。 

この段階で、私には病識が出ておりましたが、家族も私も、心の病気で、精神を鍛えれば乗り越えられると思っていたのです。 
私以外の統合失調症の患者さんが、どのような経過をたどられるか、私は全く知りませんでした。 

何はともあれ、私は休まず職場に通いました。 
仕事は、はっきり言って出来ておりませんでした。くびにはなりませんでしたが、苦しい日々でした。 
二回目の入院は大学病院でしたが、退院後は市民病院に戻りました。 
ところが、市民病院は、主治医の転勤で、私の急性期をみた医師ではなくなりました。 

新しい医師は「変わりないですか?」と聞かれますが、 
私が、いろいろと不安があります。仕事ができていなくて会社にいづらいです。 
掃除や洗濯を親に頼っていて、情けないです。と訴えても、 
「誰にでも不安はあります。薬を出します。また来月来て下さい。」 
と仰るだけで、3分にも満たない診療時間でした。 
これでは、どうにもならないと思い、転院を申し出ました。 

インターネット等で調べて、電話をしてみて、カウンセラーのいる精神科の個人病院を受診しました。 
今度の主治医の先生は、話をよく聞いてくださって、信頼できる先生でした。 
仕事に対する不安等も聞いてくれましたが、私に自信がなくて、会話が後ろ向きであることを指摘されたりもしました。 

薬は相変わらず、リスパダール1ミリを夜1錠だけ出していただいており、しんどい時は2錠飲んでもよい、ということでした。 

それから3年弱が経ち、今年に入って、同じ職場で頑張っている自分に自信を持ってもいいような気がしてきました。 
仕事も、何とか出来ているのではないかという自己評価もできるようになりました。 
春ごろ、ヨガと気功を始めました。 
結婚もしたくなって、結婚相談所のドアを叩きました。 
男性とお付き合いをするようになりました。 
主治医にも変ったと言われるようになりました。 
ただ、ヨガと気功はやめた方がいいと言われました。 
占い師のもとに行き、結婚について相談するうち、占い師から薬はやめた方が言いと言われました。 
霊媒師(気光師)のもとに行って、憑き物落しをしてもらいました。 
薬に頼るのは良くないと言われました。 
悪いものは落としたので、もう大丈夫だと言われ、子供が欲しいなら薬は、徐々に減らしたほうが言いといわれて、私はその日のうちに、薬を飲むのを止めました。 
ヨガや気功よりもジムに通うほうがいいと言われて、ジムに変更して、プールで泳ぐようになりました。 

主治医の先生に、薬は飲みたくないですと、お伝えし、代わりに、カウンセラーの方と面談をさせていただくようになり、主治医の先生にも、一月に一度から、半月に一度に受診を増やしていただきました。 

私は、自分は強くなったし、明るくなったと思っていました。 
お付き合いしている男性や、家族や職場の人たちに感謝していました。 
ですが、薬を止めて一月がたち、お付き合いしている男性との別れを決意した日から、感情が高ぶり始めました。 
そして、3度目の急性期を経験しました。 
感情の高ぶりを感じたのが、7月24日です。周囲に感情の高ぶりを訴えたのが、26日です。仕事を早退して、主治医の先生にも訴えました。 
薬を飲むように言われて、リスパダールの水薬、1ミリを1服のみ始めました。 
27日は仕事の休日で、本を読んで、眠って過ごしました。 
28日は仕事中にも感情が高ぶり、泣きそうになりながらも、定時まで仕事をしました。 

29日は熱が出て、仕事を休みました。 
妄想が出てきました。神さま妄想です。ファンタジー小説を読んでいましたが、まるで、内容が自分のことを書いてあるように感じて仕方がなかったです。 
テレビを見ても、私の心の中を代弁されているようで、すぐに消してしまいました。 
30日は土曜日で、仕事が休みの日で、家でじっとして、自分のこれから先がどうなるのか不安を覚えながら、答えは、読んでいる本の先に書かれているように確信を持ちながら、こわごわと読み進めました。 
母に電話をして、長電話したりもしました。 
家族が心配でした。家族が迫害されたりしていないか心配でした。 
母と電話しているのに、学生時代の友人の声が聞こえたりしました。 
食事はしていましたが、味が感じられなかったです。 

8月1日の日曜日、幕が上がっていました。 
仕事に行きましたが、職場で、神さまと会話してました。 
大声で、私はキリストの次の預言者だけれどもただの人間でしかなくて… 
などという事を大声で叫んでいました。 
泣いたり笑ったり、一人芝居をしていました。 
私が預言者なのだということを、職場の人たちも、世界中の人たちも分かっていると思いました。 
定時になって、会社の人が車で家まで送ってくれました。 
それも、私が預言者だからだと思いました。(それだけ私が普通ではなく 
病気だったということなのですね。) 

8月2日の月曜日、仕事に行こうとしましたが、自転車で通勤中に、 
大声で叫びながらあちこちをふらふらしました。 
職場にはたどり着きましたが、仕事の出来る状態でないと判断して、家へ帰りました。 
休みの連絡を入れ、一人暮らしのアパートで、実家の母のパートの終わる時間をじっと待ちました。パートの終わった母に電話をして、私の病気がひどいので、すぐに来てくれる様に頼みました。 
その際、母だけでなく、仕事中の父と、弟と、三人そろって来てくれるように強く懇願しました。 
母だけがすぐに来てくれましたが、私は、一時でも母から目を離せませんでした。 
母から目を離せば、母が死んでしまうと思いました。 
母に、主治医の先生を呼んでくれるように頼みました。 
父と弟にすぐにでも家に来てくれるように頼みました。 
母は私がおかしいことにすぐに気づき、父と弟が仕事を切り上げて来てくれる様に頼み、病院にも連絡を入れました。 
担当の主治医の先生の診察日は火曜日で、その日は月曜日でしたので、 
先生は違いましたが、家族に連れられて、病院に着きました。 
車に乗っている間は、ただただ怖かったです。 
事故にあう妄想が消えませんでした。 
病院に着いても、神さま妄想は消えず、殺される不安に怯えていました。 
アパートで、母にリスパダールの水薬を2服飲まされていましたので、 
病院でも水薬を1服、寝る前に1服、それ以上は危険だと言うことでした。 
月曜日の先生は入院が必要だと言われたそうです。 
ただ、入院施設のない病院だったことと、主治医の先生ではなかったことで、 
翌日の主治医の先生の診療を受けることを、私は母に訴えていたので、 
母からその旨を説明し、家族で様子をみて、翌日の診療予約をとって帰りました。 
担当カウンセラーの方が、ひどく心配してくださっていました。 

8月3日、主治医の先生に診療を受けました。 
私は、主治医の先生に何もかも任せていました。 
そういう気持ちで、ひたすらに、母に主治医の先生にあわせてくれるように頼んでいました。 
私を助けてくれるのは先生しかいないのだと思っていました。 
先生が薬を出してくれて、それを飲めば、私は良くなるんだと思いました。 
そして、母とともに診療を受けました。 
私はほとんど何も言いませんでした。 
先生は母に、入院はしなくてもいいといいました。 
薬を止めるのが早すぎたんだといいました。 
リスパダールの水薬を1服か2服飲むように言われました。 
その日は、実家に帰って、死ぬふりをしたりして心配をかけましたが、 
その後はただただ眠りました。 

8月4日、水曜日で、私と父の仕事が休みでしたので、父と家にいていろいろな話をしました。 
大分落ち着いていましたので、父も大丈夫だと判断してくれたようで、アパートへ帰ることを許されました。 母が心配してアパートへ来てくれましたが、じっとしているのが嫌で、母を誘って美容院へ髪を切りに行きました。 私が落ち着いていたのと、妄想等が出ていないと判断して、 母は好きにさせてくれました。 

8月5日、仕事に行きました。 
職場には熱に浮かされてわけの分からないことを口走ってすみませんと謝りました。 
そうして、仕事をしました。 
妄想や幻聴幻覚は感じませんでした。 
仕事が出来ることに喜びを感じました。 

何日間か、眠って起きると神さま妄想の中にいるような気がしましたが、起きて数分するとそれも覚めました。 

8月10日、主治医の先生とカウンセラーに、迷惑と心配をかけたことを謝り、仕事をしていることを伝えました。仕事があってありがたいとも伝えました。 
カウンセラーの方はしんどい期間と同じだけの期間は最低でも休んだほうがいいとされているのだと聞かされました。 
主治医の先生は、薬は、しんどい時だけに飲んで効果があるものではなので、普段から、継続して飲まなければだめだと言われました。 
カウンセラーの方にも、主治医の先生にも、私は、今回の急性期は、自らおこしたものだと自覚していると伝えました。 ただ、前向きに努力して、結果として病気が出てしまったけれども、前向きな姿勢を変えるつもりはない。 異性とも同性とも、付き合いを増やして、幸せな生活を送れるように努力したいと言いました。 

8月17日、主治医の先生にとても身体が疲れると訴えました。今になって、仕事に行くのが先週より辛くなったと訴えました。でも辞めるつもりはないとも言いました。 
主治医の先生は、当然辞めたらだめだと仰いました。 
疲れが出ているのだねとも仰いましたが、なんだか不機嫌な感じで、失望されたように思い悲しくなりました。 

8月18日、書店で林先生の御本、統合失調症 患者・家族を支えた実例集を見て購入しました。 
その日、夜中までかかって全部読んで、初めて、統合失調症という病気がどういう病気なのか理解しました。 
それまでの私の認識がとても中途半端で間違ったものだということに気づきました。 
そして、私の家族の認識も、間違ったものだったということが分かりました。 
もっと早くにこの御本に出会っていたら、と思わずにいられません。 

それから、ホームページを貪るように読ませていただきました。 
母にも本を薦めました。 
母に、これまでの対応が間違っていたから2度も再発したんだと八つ当たりしたり、泣いたりもしてしまいました。 ですが、これからは、家族とともに、正しい認識を持って治療を続けて行きたいと思っています。 

このような私ですが、いつか、結婚して子供を持つようなことが出来ると思われますか? 
そして、林先生の御本を読んだことを主治医の先生やカウンセラーの方に伝えても、問題はないと思われますか? 

もしよろしければお答えいただけましたら幸いです。 

ただ、この長文は(乱文で申し訳ありませんが…)、 
私という人間について、病気について、誰かに話してみたいという衝動と、先生の御本に対する、感想と感謝の気持ちによって書いたものです。 
質問は切実ではありますが、おまけ的なものでもあります。 

ここまで、読んでいただけたら嬉しいですが、貴重なお時間を割いて読んでいただくような文章でもないので、申し訳ないような気もしてしまいます。 
すみません、そして、ありがとうございます。 
失礼いたしました。 


林: 詳細に症状と経過をお書きいただきありがとうございました。
経過を要約しますと、

(1)もともと引っ込み思案な性格
(2)20歳前後の自己臭症、対人恐怖症に類した症状
(3)25歳発症: 奇妙な爽快感、誇大的観念が前景(客観的にはかなり重症に見えたと推定されます)、1ヶ月入院し、軽快
(4)その一ヵ月後に就職したものの、さらに一ヵ月後に再発し再入院(3週間)
(5)その後3年間は服薬し安定していたが、薬を中断し、1ヵ月後に再発したが、服薬再開等の処置により短期間で軽快
(6)本を読んで統合失調症についてはじめて知識を得、現在に至る

ということになり、これは統合失調症としてきわめて典型的な経過です。
(1)のような性格の方が、思春期から成人初期に(2)のように自己臭症、対人恐怖といった、自我の境界に関連する症状をきたすのは、統合失調症の病前・前駆症状として非常によくあるものです。
そして(3)の発症。入院までの経過からみて、客観的にはかなり支離滅裂に見えたと推定されますが、本人はいわば非現実的な爽快感があり、その一方で被害妄想の色彩もある、そういう体験をしていることは、統合失調症の急性発症期にはしばしばあります。
入院治療で順調に回復したものの、(4)の再発。これは就職がストレスになったものと思われます。【1320】にもお書きしたように、早すぎる社会復帰は再発の原因になることが非常に多いものです。
(5)の服薬中断が、占い師・霊媒師といった、医学的知識を持たない人からのアドバイスによってなされ、その当然の結果として再発することも、非常によくあることです。あなたもおっしゃっているように、もっと早くあなた自身が(6)のようにして統合失調症の知識を持っておられれば、この再発はなかったかもしれません。

この経過全体を通して感じられることは、この【1323】は、統合失調症としても比較的予後の良いタイプであるということです。それは、発症がかなり急激で、しかもその時には感情面の症状がかなり強く(メールからは主観的な情報しかないのではっきりとは言えませんが、この【1323】は、失調感情障害に近いと思われます。(「失調感情障害」は、schizoaffetive disorderの訳語です。かつて「分裂感情障害」、さらに昔には非定型精神病と呼ばれていたものにほぼ該当します。「失調感情障害」は、最近の正式とされている訳語ですが、明らかに不適切な訳語ですので、間もなくまた変わると思われます)。2回目の入院時の診断が躁うつ病であったことも、それを裏づけると言えます。
 そして、病名はともかくとして(つまり、あなたが統合失調症か、厳密には診断基準上は失調感情障害かはともかくとして)、このように急激な悪化を繰り返し、悪化時には感情面の症状が目立ち、悪化時以外は対照的にきわめて安定する場合、長期的にみて人格変化はあまり見られず、予後が良いことが統計的に知られています。
したがって、

いつか、結婚して子供を持つようなことが出来ると思われますか? 

それは十分に可能だと思います。
ただし、妊娠に際して、服薬をどのようにするかは、主治医の先生とよく相談して決めることが必要です。

そして、林先生の御本を読んだことを主治医の先生やカウンセラーの方に伝えても、問題はないと思われますか?

全く問題はないと思います。
ただし、【0579】の回答にも関係しますが、あくまでも直接みていただいている主治医の先生の意見を尊重する姿勢が必須です。


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