精神科Q&A

 【1237】いいといわれることはすべて試しました。休養も十分とりました。けれども、夫のうつ病は4年間治りません。


Q:  夫が4年前(当時45歳)にうつ病と診断され、以来ずっと闘病を続けています。

うつ病を発症するまでの2年間、夫はきつい仕事と職場の人間関係に強いストレスを感じていたようで、盛んに愚痴をこぼすようになりました。そのうちにまるで仕事ができなくなり、体調の不全を訴え始めました。私は本当にどこかが悪いのかと思い心配しました。

愚痴を聞いては励まして仕事に送り出しておりましたが、主人は次第に眠れなくなり、生気がなくなってきました。X年11月のある日、主人は自ら車を運転してA病院へ行き、精神科のa先生の診察を受け、うつ病と診断されました。このとき処方された薬はルボックス25mg×3、デパス0.5r×1です。その時点では薬を飲みながら仕事は続けるように指示されたので、言われたとおりにしておりました。何日かして、主人は職場での難しい会議の最中に頭が真っ白になって完全に思考停止になってしまいました。実は自分はうつ病で、現在治療中で薬を飲んでいる旨上司に話したところ、すぐに医務室で診察を受けるよう指示されました。医務室のお医者様には、B病院精神科のb先生にかかるよう指示されました。b先生に診察していただいた結果、引き続きルボックス25mg×3、デパス0.5mg×1を飲むよう指示されました。

布団から起き上がれなくなり、その時点ではじめて4週間仕事を休みました。最初10日ほどは布団からまったく出られず、起き上がる気力も体力もない様子でした。起きられるようになっても、新聞に目を通すこともできず何もできない状態です。ただただ寝て、ご飯を食べるだけの毎日。ひたすら休養し何もせずごろごろしていましたところ、徐々に回復し、1ヶ月足らずで職場に出られるようになりました。ちょうどこのころ人事異動があり、病気を慮ってか主人は以前いた部署に戻ることができ、職場の人間関係のストレスからは少し開放されたのです。

b先生からは、その後1月にはルボックスを1日50mgに、2月には25mgに減らすよう指示され、X+1年4月には主人は服薬をすべて終了しております。うつ病について無知だった私は、これで治ったと単純によろこんでおりました。主人はb先生から、この薬はとてもいい薬だという話をされており、言われたことを素直によく守っていましたし、うつ病の本にも「早めに精神科にかかって薬を飲めばうつ病は治ります」と書いてあったからです。受験生だった長男も、第一志望の高校に無事合格し、一安心しておりました。

しかし、その後まもなく又うつ病の症状が出始め、主人も私も薬をやめるのが早すぎたことを悟りました。X+1年7月の末には、再びb先生の診察を受け、ルボックス75mgデパス0.5mgを飲むのを再開しました。以来X+2年の8月まで1年間ずっと同じ薬を同じ量飲んでいました。その間、不調、無気力ながらも仕事を何とか続け、休みませんでした。2週間ごとの診察のたび調子が悪いと訴えたものの、b先生にはこの病気はすぐには良くならない、もっと様子を見ようと言われ続けてきました。その間起きた家庭での特筆すべきできごととしては、1年近く介護状態にあった私の父が7ヶ月の入院生活の末同X+1年11月に死去したことです。私は頻繁に実家や病院を往復し、母を助けましたが、主人はうつ病をわずらっておりましたので見舞いもさせませんでした。主人には土日はほとんど寝てばかりのゆっくりした生活を送らせ、できるだけ負担をかけないようにしました。私の留守の間は、当時小学校5年生だった長女が、部活で夜遅い兄や病気の父親の分まで家事一切をやってくれていました。12月には家族全員がスキーが大好きなので、久しぶりに湯沢にスキーに行きました。子供たちが良く協力してくれたことへのご褒美でした。このときは主人も滑っています。

X+2年3月にはマンションを購入し引っ越しました。環境を変えることはうつ病にとってはよくないのではと心配でしたが、子供が大きくなり部屋がもうひとつ必要になったことと、買おうとしたマンションが駅に近く主人の通勤も楽になることなど考えて購入に踏み切りました。距離にして3キロくらい離れたところのマンションです。引越しはすべてお任せパックにし、掃除その他は私と子供とで済ませ、極力主人には負担をかけないようにしました。主人も新しい住まいがうれしいらしく、ベッドや照明選びは積極的でした。また移ってから気づいたのですが、周囲の視線を気にすることなく暮らせることが子供たちにとっても良かったようです。

そういうわけでそれからは新居からの出勤をしておりましたが、まもなく強い疲労感不安感などを訴え始め、気力、集中力に欠け、何をやる気も起こらなくなってしまいました。X+2年4月半ばから3週間職場を休み、復帰したものの、企画・立案にかかわる仕事はもう無理と自分で判断し、自ら望んで降任・降格・降給同意書にサインしました。このとき私は非常につらく悲しい気持ちでした。子供たちが小さいころ、休日も犠牲にして出勤する主人を支え、後は何の負担もかけないように、家族全員で主人を思いやって暮らしてきたのに、こんなことになるなんて想像もしなかったからです。苦労もなく好きにやりたいことをやって暮らしてきたわけではありませんでしたので、何年もかけて努力してやっと築いたキャリアがあっという間に崩れ去り、本当に惨めでした。しかし、この病気が治ることが第一で、キャリアには代えられない、子供たちの教育が終わるまではどんな仕事でもいい、ただ勤めていられればいいのだと思いました。欲を出してはいけないとひたすら自分に言い聞かせました。このころ家の中は実際すっかり変わってしまっていました。笑いが絶えない家族だったのに笑いが消え、人の出入りがとだえ、些細なことでも何かやろうとすると主人のことがネックになって、私も子供たちもあきらめてしまい、消極的で何事にも自信を失っていました。

X+2年7月からは、新しい職場に勤め始めました。仕事は簡単になったように私には見えました。しかし、主人は「仕事ができない」を繰り返し、病状は悪化していきました。

X+2年8月には、診察も2週間に一度だったものが月に1度となりました。このころ主人は職場でも家でも、椅子に座ると直角に曲げたその脚が上下にがくがくと震えて止まらなくなりました。自分の意思に反して動き出し、それはもう貧乏ゆすりとかの範囲ではありません。ばたつきとか、痙攣といった感じです。思い切り力を込めて封じ込めるようにすれば、しばらくは止めることができるのですが、気を抜いたり疲れたりすると震えだして止まりません。さらに集中力が低下し、何事にも取り組めない毎日でした。このつらさをb先生にたびたび訴え、8月にはルボックス以外の薬を何かふやしてもらったようですが、それが何なのか記録に残っていません。同年の12月、X+3年(昨年です)の1月ごろになると、靴の中の足が痛くて歩けないと訴え始めます。なぜ足が痛いのか、私にはまったく理解できませんでした。見ると左足の親指以外の4本の指の甲の部分が赤紫色に変色しています。靴はウォーキングにも快適なビジネスシューズを前々からはいておりましたし、サイズもきつくはありません。念のため皮膚科や整形外科などのお医者様に診てもらいましたが、器質的には何の異常もなくわからないとのことでした。しかし日に日に足の痛みは増し、気力はなくなり何をするのもおっくうがります。このころから薬はルボックス、デパスに加え、ドグマチール、コンスタンをふやしました。座れば足の震え、立てば足の痛みでどうすることもできず、とうとうX+3年3月(昨年)に職場を休み始め、以来現在までの約1年間、1日も仕事に出ていません。

休み始めてからは、状況は加速度をつけて悪くなっていきました。セレネース、アーテンなど試してはみるものの、心も体も状態が少しでも良くなることはなく、足の指は両足とも変色して膨れ上がり、両脚の震えは激しさを増して一緒のテーブルにはつけないほどです。なぜ足が腫れたのかはこのころになってやっと私にはわかりました。立つと、勝手に足首から先に力が入り、まるで床を足の平で捕まえるように曲がり、足の甲全体がお椀を伏せたような形に丸まってこわばるのです。これも思い切り力をこめて逆らうように伸ばすと足は伸びるのですが、一瞬でまた丸まってしまいます。本来床につくべき両足の平は、親指の先と踵しか床につきませんから、長身の主人は体重を支えることができません。靴を履けば、あまりに丸まるために指の甲が靴の中で天井に当たって圧迫、こすれて腫れたものと思われます。もう靴を履いて歩くどころか、家の中でも立てません。座ると足のこわばりは出ないのですが、震えが止まりません。何も症状が出ないのは布団に横になっているときだけで、起きるのは食事とトイレのみ、次第に一日中寝ているようになりました。部屋から部屋への移動もおっくうがり、歩みの速度も遅く、前かがみで、まるでパーキンソン患者のようでした。ほとんど動かないことが拍車をかけたのか、頭もボーッとしてはっきりせず、問いかけにも無反応、身なりも構わなくなり、生きることすべてに無気力無頓着になっていきました。私は、主人にうつ病というよりは、認知症の老人のような、廃人のような、鬼気迫る雰囲気を感じました。何をするにも介護が必要となり一人ではもう何もできませんでした。診察には私が同行しましたが、ひとりでは歩けないので、タクシーを呼び、エレベータやエスカレーターを極力利用して、電車の中では支えながら何とか受診しました。そしてこのひどい状況は何に由来するものなのかb先生にお聞きしましたが、これは単にうつ病のひとつの症状とおっしゃるばかりでうつ病を治せばなくなると取り合ってもらえませんでした。わたしは、パーキンソンの父の介護の経験がありました。その症状にあまりにも似ているので、うつ病のほかにも悪い病気にかかったのではないかと疑い、毎日毎晩、本やインターネットで同じような経験をした例がないかを夢中で調べました。薬についても調べました。このときに林先生のサイトを知り、隅から隅まで読み、Q&Aもすべて目を通しました。その結果、これまでの治療に大きな疑問がわいてきたのです。不信感、猜疑心といったほうがいいかもしれません。

主人は長いこと薬を飲んできたけれど、本当にこれでよかったのだろうか。増量したり、薬を変えて試したりということは十分に行われたといえるのだろうか。また、このパーキンソンに似た症状は、薬の副作用で、ドグマチールに由来するのではないだろうか。

この疑問を主人に言ってももはや主人に考える力はありませんでした。すべてをあきらめ、すべて人任せになっていたのです。またそれは無理もない状況でした。

さらに状況は悪くなり、もう明日からは歩けなくなる、と直感したX+3年5月の或る日、マンション至近の内科小児科医院を主人に無理やり受診してもらい、もう誰も何も信用できなくなっていた私は、この症状を診察してもらうよりも今までの経過を説明して失礼を承知でこう尋ねました。「身内にこういう症状の方が出たらどうなさいますか?」と。

先生は非常に深刻にうけとめてくださいましたが、自分の専門外だからと、C病院のc先生に紹介状を書いてくださいました。どういうご関係かは存じません。正直、B病院にも通えないのにC病院を紹介していただいても行く気がしませんでした。主人を連れて家から一歩でも出るのは大変でしたから。しかし、藁をもすがる思いで万難を排して行ってみたら何かが開けるかもしれない、行動を起こすことが何を言っても取り合ってくれなかったb先生に影響を与えるのではないかと考えました。

その晩主人と二人でよく話し合って出した結論は、もうB病院への通院は肉体的に無理だということです。そして、とにかく、だめでもともとでもC病院にかかってみて相談してみましょう、ということでした。                         

翌日は早朝からほんとに死に物狂いの思いをしてC病院まで行きました。主人の足を見つめる周囲の視線にも耐え、長い時間を待合室で待ち、診察室で事情をお話して診断を受けました。c先生は、はじめは何故私たちがこんなにも遠くの病院に受診しに来たのか理解できないご様子でしたが、脚の振るえと足のこわばりをじっくり診てくださり、ドグマチールをやめてアキネトンを飲んで様子をみましょうとおっしゃいました。しかし、ここまで通うのは無理だということで、妥当な病院としてA病院に紹介状を書いてくださいました。

薬は1週間ほど出してくれていましたが2日後には、主人と私は紹介状を持ってA病院に行きました。そのあとに次のB病院での受診予定日があったので、その前にA病院で診察を受け、予定日の診察をB病院最後としたかったのです。A病院での受診では、主人が発病してはじめてかかったa先生は異動になってすでにいらっしゃらず、z先生とおっしゃる若いお医者様が診てくださいました。z先生はカルテを見て、主人が2年半前にa先生の初診のみを受けて、その後通っていないのを不審がられました。これまでの経過を私が話しますと、「そういうのをドクターショッピングというのですよ」ときびしく断じました。私はすでに疲れきり、自分でもなんでこんなことをしているのか間違っているのではないかと自問自答しておりましたので、不覚にも涙がこぼれそうでしたが、「ドクターショッピングではありません」と、こらえて辛抱強く説明しました。やがてz先生は真剣に聞き入ってくださり、「自分は心療内科に長くいたのだけれどこういう症状はみたことがない、ジストニアかなあ」とおっしゃいました。そして、「本気で病院をA病院に変えるのであれば引き受けましょう、しかしあなたの書いた経過書ではだめです。ちゃんとB病院からできるだけ詳しい治療経過書というものをもらってきてください。」と言われました。

この日を最後に主人はとうとう外出はできなくなりました。B病院の受診予定日には私一人で行きました。もう主人は歩けなくなってしまったこと、この一週間でC病院、A病院に相談したところ、受け入れてくれるそうなので移りたい、ついては治療経過書をもらってくるように言われたので出していただけますかとお願いしました。b先生はそんなに足が悪いのかとお尋ねになり、歩けないならA病院ではなくB病院に入院しなさい、それなら通わなくてすむからとおっしゃいました。私はb先生のこれまでの治療に疑問を持っていましたので、すぐには返事ができませんでした。歩けないのだけが理由なら、確かに今までかかっていたB病院に入院するのが妥当でしょう。しかし、今病院を変わらなかったらチャンスを失うような気持ちがしました。歯向かうようですが、私はもう一度、自宅から近いA病院に移りたい、治療経過書をくださいとお願いしましたが、b先生はどうしてもB病院に入院させたいようでした。治療経過書を出すのもしぶっておられました。私はひどく迷いながらも、「こちらにもし入院したら足を真っ先に治していただけますか。」とお聞きしました。そのときは、本来のうつ病の悩みよりも、主人も私も足のことで頭がいっぱいで、足のせいで私たちの日常生活は破綻していたのです。さらに、ドグマチールをやめてアキネトンで様子をみるのを続けてほしい、足が治ったら抗うつ薬の増量、変更を試みてほしいと申し上げました。それが容れられればこちらに入院しますと申し上げますと、必ずそうすると約束してくださいました。

こうして主人は翌日から1ヶ月B病院に入院しました。翌週には、A病院のz先生の診察の予約が入っていましたので、私は一人で病院へ行き、z先生に事情を話し、謝りました。先生はよく理解してくださり、「あなたもたいへんでしょう、うつ病は実は周りのご家族のほうが大変なのです。どんなことをしてもあなたが誰よりも元気でいてください。」とおっしゃいました。またきつい言葉で責められるとばかり思っていた私は、思いもかけぬ温かい言葉に涙が止まらなくなってしまいました。そして先生は、「もしも、またこちらに来ることがあれば、私が担当しますから。」ともおっしゃってくださいました。

主人は入院中、脚の震え、足のこわばりも徐々に解消していき、翌月に退院したときには、少し残るものの外は自由に歩け、信号を待つならば歩道橋を登るほどに回復しました。退院したらすぐに主人の父と母が自宅まで見舞いに来てくれ、父は主人のひどい状態を見て知っていましたので劇的な回復ぶりが信じられない様子でした。帰りも主人は駅まで歩いて両親を送っています。相変わらず気分はすぐれないようでしたが、脚がほぼ治って自分で歩けるということが主人を明るくしていたようです。駅で別れた両親も元気に手を振る主人に見送られて、これからやっと良くなるような気がすると期待を持ったと言っておりました。

b先生による入院中からの抗うつ病薬(1日量)の変更は次のとおりです。ルボックス75mg→100mg→7日後125mg→2日後150mg→5日後75mgに減量しパキシル20mg→9日後(退院時)ルボックスをやめパキシル40mg→7日後パキシルを20mgに減量しトレドミン75mg→7日後パキシルをやめトレドミン150mg→13日後トレドミンをやめトフラニール75mg→13日後100mg→7日後150mg→11日後トフラニールをやめアナフラニール→10日後アナフラニールをやめアモキサン150mg。

以上のとおり約2年飲み続けたルボックスを急速に増量してすぐやめ、パキシル、トレドミン、トフラニール、アナフラニール、アモキサンと次々と薬を試していきました。こんなに早く効果がないとか、あわないと決めていいのかと思うほど変えました。このようにして2ヶ月たった時点で、抗うつ病薬を試すのは終了、すべて効果がないことがわかったからと、電気けいれん療法をすすめられました。「あなたのご主人は重いうつ病ですからそれしか方法はありません。」と言われました。

X+3年10月に電気けいれん療法をやっているD病院を紹介され、d先生の診察を受け、入院しました。私にもb先生が書いた紹介状を見せてもらったのですが、試した薬のうちの代表的なものいくつかが書いてあり、効果がないので電気けいれん療法を希望している旨書いてありました。「ここに書かれてあるとおり、すべて薬は試したと言えるのでしょうか?」とお聞きしたところ、d先生はそう言えると思いますとのお返事でした。主人は、電気けいれん療法を嫌がっていましたが、最後の手段と言われてうけることを決めたようでした。しばらくは薬の調節をして過ごし、それから週に2回ずつ合計10回の電気けいれん施術を受けました。その間気分は最悪で、元気はなく、記憶もとび、辛そうでした。私は病院へ行くたびに主人の記憶が消えている事実に戸惑いましたが、消えるのは短時記憶で大事なことは忘れないから大丈夫とおっしゃるd先生の言葉を信じ、また、うつ病で苦しんだ記憶なら消えてしまってもそれでかまわないではないかと思うようにしました。入院中に、主人の上司の方が見舞ってくださり、主人と私と3人で休みの扱いについての相談が病院で話し合われました。私が入ったのは話し合ったことを電気けいれん施術で主人が忘れてしまうことが予測されたからでした。年休、病休を使いきってしまったので、このまま休み続けるのであればまもなく休暇ではなく休職に入るということでした。主人は休職だけは避けたい様子で、このまま調子がよければ退院して程なく復帰したいと考えているようでしたが、私はそれはとても無理だろうと思っていました。

X+3年11月、10回の電気けいれん療法施術を終えたということで退院しました。その後ひと月ほどD病院とB病院と二つ並行して受診しておりましたが、またb先生のB病院に戻りました。主人がb先生に職場復帰のご相談をするとまだ早いだろうとのことでした。

退院してから2週間ほどは、早く仕事に戻りたいと盛んに言っていました。車を運転して床屋に行ったり、大好きなパン屋にパンを買いに行ったり、やたら元気になった風でした。記憶がとんでいるのを気にして手帳をめくり、過去の自分を調べていましたが、そのうちに、おれってこんなにひどかったんだ、こんなことすらできなかったんだと言いながら、現実にもだんだんできないことが多くなり、気分が沈みがちになりました。

そしてあっという間にもとの無気力な主人に逆戻りしてしまい、また落ち込みと不安とあせりに苛まれる日々に戻ってしまいました。このころは入院中から続けてアモキサン1日75mgを飲んでいましたが、さらにジェイゾロフト50mg×2を追加して試しました。しかし気分は上向かず、1ヶ月後にはb先生からジェイゾロフトも効かないようだからもう打つ手はないので、再び電気けいれん療法をやってみるようにと勧められました。私が、「電気けいれん療法をして退院した直後は、とても元気で、正直今度こそこのままゆっくりと順調に回復してゆくのかと思いました。」と申し上げたせいか、今度の電気けいれん療法で少しよくなったらそのまま自治体や民間のデイケア(職場復帰プログラム)に参加するようおっしゃいました。私は、それは少し乱暴ではないでしょうかと申し上げたのですが、b先生はやってみろとおっしゃいました。しかし、どちらかというとさじを投げられたという感じです。

そしてX+4年3月、D病院のd先生のところへ行きまして2度目の電気けいれんを希望したところ、記憶がなくなってしまったこと、電気けいれんの治療後に徐波が出るなど副作用があったことなどから、電気けいれん療法ではなく薬で治療したほうががいいのではないかとのお話でした。デイケアも考えるのはまだ早いとのことでした。そのとき、私はおもいきって今までの薬を書き出した資料を見せ、薬の増量の仕方と変更の仕方に疑問を持っていると正直に申し上げました。d先生は目を通すと一言だけ「ひどいね」とおっしゃり、ジェイゾロフトをまず抜きましょう、それからまた薬を考えて増やしますとおっしゃいました。そして、二つの病院にかからないでどちらの治療を選ぶか決めてほしいとおっっしゃいました。主人はD病院で治療しますと申し上げました。

それから2ヶ月、D病院に通っています。診察日は私が付いて行きます。主人一人で行ったこともあるのですが、うまく自分の状態が言葉にして伝えられなかったようで、奥さんも来て下さいと言われてしまいました。毎回私が主人の日常の細かい様子を話しています。ここ最近は、トレドミンを始め、増量もしましたが、私には増やしてからのほうが主人は調子がいいように思えます。

できることはすべてやりました。いいといわれることはすべて試しました。休養も十分とりました。仕事を休んで1年2ヶ月過ぎました。しかし一向に病気は良くなりません。このまま主人の休職が長引けば、やがては減給となり無給となり、解雇となります。

今後の治療について、どうしたらいいのかまったくわからなくなってしまいました。ぜひ先生のお考えをお聞かせいただきたいのです。お気づきのことがあればお教えください。特にお聞きしたいのは以下の三点です:

(1) 先生は、うつ病は適切な治療を受ければ必ず治る、とお書きになっていらっしゃいます。私の主人の受けた治療は、薬、その増量、変更、そして電気けいれん療法と、適切な治療だったのでしょうか?

(2) 一年前の、あの廃人同様の主人のひどい症状は、いったい何が原因だったのでしょうか?

(3) 二度目の電気けいれん療法を試してみるべきでしょうか?そして三度目も考えるべきでしょうか?この治療による致命的な回復不可能な副作用は本当にないのでしょうか?


林:
(1) 先生は、うつ病は適切な治療を受ければ必ず治る、とお書きになっていらっしゃいます。私の主人の受けた治療は、薬、その増量、変更、そして電気けいれん療法と、適切な治療だったのでしょうか?

時間を追ってお答えします。

■ X年11月に開始した治療 → 適切です。

b先生に診察していただいた結果、引き続きルボックス25mg×3、デパス0.5mg×1を飲むよう指示されました。

布団から起き上がれなくなり、その時点ではじめて4週間仕事を休みました。最初10日ほどは布団からまったく出られず、起き上がる気力も体力もない様子でした。起きられるようになっても、新聞に目を通すこともできず何もできない状態です。ただただ寝て、ご飯を食べるだけの毎日。ひたすら休養し何もせずごろごろしていましたところ、徐々に回復し、1ヶ月足らずで職場に出られるようになりました。


ルボックス1日75mgという抗うつ薬の量は、治療開始としてはごく普通で、適切です。そして1ヶ月程度の休養で回復したのも、ほぼ典型的な経過といえます。


■ X+1年1月から4月にかけての治療からの離脱 → 結果的には早すぎました

b先生からは、その後1月にはルボックスを1日50mgに、2月には25mgに減らすよう指示され、X+1年4月には主人は服薬をすべて終了しております。

回復・職場復帰してから1ヶ月足らずのうちに抗うつ薬の減量を開始するのは、一般的には早すぎます。が、不合理といえるほどではありません。こうしたスケジュールでうまくいく場合もしばしばあります。しかし結果的にはすぐに再発していますので、早すぎたということになります。ここまではあくまで結果論です。問題はそのあとです。


■ X+1年7月末までの治療中断 → 不適切です

しかし、その後まもなく又うつ病の症状が出始め、主人も私も薬をやめるのが早すぎたことを悟りました。X+1年7月の末には、再びb先生の診察を受け、

上記、「その後まもなく」がいつごろかが不明ですが、文脈からいって5月、遅くとも6月と推定できます。だとすると、7月末まで受診しなかったのは不適切でした。これは結果論ではありません。うつ病は再発の可能性がある病気ですから、服薬中断後にまた症状が出始めたら、すぐに再受診するのが常識というべきです。


■ X+1年7月末の治療再開 → 適切です

X+1年7月の末には、再びb先生の診察を受け、ルボックス75mgデパス0.5mgを飲むのを再開しました。

以前有効だった薬と量を踏襲するのは、適切な治療です。


■ X+1年7月末からX+2年8月までの治療 → 不適切です

以来X+2年の8月まで1年間ずっと同じ薬を同じ量飲んでいました。その間、不調、無気力ながらも仕事を何とか続け、休みませんでした。2週間ごとの診察のたび調子が悪いと訴えたものの、b先生にはこの病気はすぐには良くならない、もっと様子を見ようと言われ続けてきました。

不可解な治療方針です。抗うつ薬の増量、それで不十分なら薬を変更するのが当然です。うつ病の相談室の64ページからにお書きした通り、うつ病が長引く最大の原因は、抗うつ薬の量が不十分なことです。この【1237】のケースでX+1年7月からの1年間にわたり回復しなかったのは、抗うつ薬の量が不十分だったことが最大の原因といえるでしょう。

X+2年4月半ばから3週間職場を休み、復帰したものの、企画・立案にかかわる仕事はもう無理と自分で判断し、自ら望んで降任・降格・降給同意書にサインしました。このとき私は非常につらく悲しい気持ちでした。

このころ家の中は実際すっかり変わってしまっていました。笑いが絶えない家族だったのに笑いが消え、人の出入りがとだえ、些細なことでも何かやろうとすると主人のことがネックになって、私も子供たちもあきらめてしまい、消極的で何事にも自信を失っていました。


これらの原因は、うつ病の治療が適切になされていなかったためといえます。

X+2年7月からは、新しい職場に勤め始めました。仕事は簡単になったように私には見えました。しかし、主人は「仕事ができない」を繰り返し、病状は悪化していきました。

X+2年8月には、診察も2週間に一度だったものが月に1度となりました。


悪化に向っているのに、なぜ診察が少なくなっているのか、全く不可解です。


■ X+2年8月からX+3年3月 → 適切か不適切か不明です

足の症状が出始めどんどん悪化し、職場を1年以上にわたり休み始めるまでの時期ですが、処方内容の詳細が不明ですので、適切か否か判断できません。
また、足の症状に関しては、他の神経症状の有無などによっても診断は違ってきますので、残念ながらこれだけの情報からは判断できません。副作用の可能性は否定できませんが、だとするとかなり例外的な副作用ということになります。
もし私がこの時点でこの方を診察したとしたら、できれば入院していただき、いったん全ての薬を中止するという方策を取ったと思います。ただしこれはメールの情報だけからの判断であり、実際に診察したらどう判断したかはわかりません。


■ X+3年3月からX+3年5月の入院まで → 治療内容が不明ですので判断できません

そして、複雑な事情があったのかもしれませんが、B病院に入院されたのはどうだったでしょうか。

b先生はそんなに足が悪いのかとお尋ねになり、

全く不可解なお尋ねです。この時までの長い期間、足のことが最大の問題だったのではないでしょうか。あなたがb先生に足のことを十分お伝えしていなかったのか(そうは思えません)、それともb先生が話をよく聞いてくださらなかったのか。


■ X+3年5月の入院治療 → 治療内容が不明ですので判断できません

治療内容は不明ですが、結果としては1ヶ月の入院により、それまでどうしても治らなかった足の症状がほぼ全快したようですので、足の治療は適切だったといえるでしょう。どのような治療をされたかぜひ知りたいところです。(なぜあなたがこの最も重要ともいえる治療内容をお書きになっていないのか不可解です)


■ X+3年5月の入院〜外来治療 → 抗うつ薬の処方は、不適切です。

b先生による入院中からの抗うつ病薬(1日量)の変更は次のとおりです。ルボックス75mg→100mg→7日後125mg→2日後150mg→5日後75mgに減量しパキシル20mg→9日後(退院時)ルボックスをやめパキシル40mg→7日後パキシルを20mgに減量しトレドミン75mg→7日後パキシルをやめトレドミン150mg→13日後トレドミンをやめトフラニール75mg→13日後100mg→7日後150mg→11日後トフラニールをやめアナフラニール→10日後アナフラニールをやめアモキサン150mg。

以上のとおり約2年飲み続けたルボックスを急速に増量してすぐやめ、パキシル、トレドミン、トフラニール、アナフラニール、アモキサンと次々と薬を試していきました。こんなに早く効果がないとか、あわないと決めていいのかと思うほど変えました。


あなたのおっしゃる通りです。こんな処方の変更の仕方で、効果の有無の判定が出来るはずがありません。
X+1年からX+2年にかけて、症状改善が認められないのにもかかわらずずっと同じ処方を続けていたこととあわせ、このb先生は抗うつ薬治療の基本を知らないと言わざるを得ません。この先生の治療をいくら受けてもうつ病は治らないでしょう。

このようにして2ヶ月たった時点で、抗うつ病薬を試すのは終了、すべて効果がないことがわかったからと、電気けいれん療法をすすめられました。「あなたのご主人は重いうつ病ですからそれしか方法はありません。」と言われました

でたらめな説明です。効果がなかったのは治療法が悪かったからです。


■ X+3年10月の電気けいれん療法 → 適切です。

合計10回の電気けいれん施術後、著明に回復した様子ですので、これは誰が見ても適切といえるでしょう。ただし本当に電気けいれん療法が必要だったかどうかはわかりません。上述の通り、これまでの薬物療法が不適切だったからです。


■ X+3年11月、電気けいれん療法後の治療 → 適切か不適切か判断できません。

電気けいれん療法は、しばしば劇的に効果を発揮しますが、そのあとの再発をどう防ぐかが重大な問題で、現時点ではこうすれば再発を防げるという決まった方法はありません。実際には抗うつ薬の調整ということになります。

退院してから2週間ほどは、早く仕事に戻りたいと盛んに言っていました。車を運転して床屋に行ったり、大好きなパン屋にパンを買いに行ったり、やたら元気になった風でした。記憶がとんでいるのを気にして手帳をめくり、過去の自分を調べていましたが、そのうちに、おれってこんなにひどかったんだ、こんなことすらできなかったんだと言いながら、現実にもだんだんできないことが多くなり、気分が沈みがちになりました。

そしてあっという間にもとの無気力な主人に逆戻りしてしまい、また落ち込みと不安とあせりに苛まれる日々に戻ってしまいました。


これは明らかに再発です。活動しすぎが再発の一因かもしれませんが、ちょっとそこまでは判断できません。

このころは入院中から続けてアモキサン1日75mgを飲んでいましたが、さらにジェイゾロフト50mg×2を追加して試しました。

この処方は適切とも不適切ともいえません。しかし結果的には不適切だったと言う以外ありません。ただしこれはあくまで結果論です。

しかし気分は上向かず、1ヶ月後にはb先生からジェイゾロフトも効かないようだからもう打つ手はないので、再び電気けいれん療法をやってみるようにと勧められました。

先ほどはっきりとお書きしたように、b先生の治療を受けることには賛成できません。ということはb先生の指示に従うことも賛成できないということです。


■ X+4年3月からの治療 → 良い方向に向っています

そして、二つの病院にかからないでどちらの治療を選ぶか決めてほしいとおっっしゃいました。主人はD病院で治療しますと申し上げました。

適切な選択でした。

それから2ヶ月、D病院に通っています。診察日は私が付いて行きます。主人一人で行ったこともあるのですが、うまく自分の状態が言葉にして伝えられなかったようで、奥さんも来て下さいと言われてしまいました。毎回私が主人の日常の細かい様子を話しています。ここ最近は、トレドミンを始め、増量もしましたが、私には増やしてからのほうが主人は調子がいいように思えます。

D病院での治療を続けることで、改善が期待できると思います。

できることはすべてやりました。いいといわれることはすべて試しました。休養も十分とりました。仕事を休んで1年2ヶ月過ぎました。しかし一向に病気は良くなりません。

いくらできることをすべてやり、いいといわれることをすべて試し、休養を十分にとっても、うつ病の治療の根幹である抗うつ薬による治療が不適切では、うつ病の改善はなかなか期待できません。ご主人のうつ病が良くならなかったのは、これまでの治療の多くが不適切だったためだと思います。


(2) 一年前の、あの廃人同様の主人のひどい症状は、いったい何が原因だったのでしょうか?

うつ病の症状だと思います。
足の症状に関しては、先にお書きした通り、情報不足で判断できません。


(3) 二度目の電気けいれん療法を試してみるべきでしょうか?そして三度目も考えるべきでしょうか?この治療による致命的な回復不可能な副作用は本当にないのでしょうか?

電気けいれん療法は選択肢としてお考えになっていいと思います。しかし、これまで適切な薬物療法を受けておられないわけですから、今後はもっと薬物療法に期待していいと思います。その効果は十分に期待できます。
なお、

この治療による致命的な回復不可能な副作用は本当にないのでしょうか?

この質問はナンセンスです。いかなる治療にも(もちろん抗うつ薬による治療にも)、致命的な回復不可能な副作用はあり得ます。ただその確率はきわめて低く、無視しうるということにすぎません。もしも「絶対安全な治療」をお望みなら、治療を受けないという選択肢しかありません。



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