精神障害者の犯罪: 社説に映し出された問題点
2001年6月8日に、大阪の小学校で重大な事件が起きた。容疑者は過去に措置入院歴があったことから、法に触れた精神障害者の扱いについての議論、これまで常にくすぶっていた議論に火がつくことになった。ここでは、その後の新聞の社説から、事件をめぐる問題を考えてみたい。
まず、毎日新聞の社説では事件翌日の2001年6月9日に早々と取り上げられている。翌日ということで十分な吟味する時間がなかったことは想像できるが、それにしてもこの毎日の社説は重要なポイントの認識を誤っており、結果として読者を大いに惑わすものになっている。
認識の誤りそのものはただ一点である。それは、「精神保健福祉法で定められた措置入院は、法律にふれた精神障害者に対し刑事治療処分的な役割があるとされる(下線は林による)」という一文に表れている。
措置入院は「刑事治療処分」ではない。措置入院は医療である。医療ということは、患者自身のために行うものである。したがって、「刑事」とは関係ないし、「処分」でもない。医療である。患者本人のための医療であるから、「自傷他害のおそれ」に基づいて入院させることが認められているのである。そうでなければ、「おそれ」だけで人を拘束できるはずがない。
この社説の文では、「刑事治療処分的な役割があるとされる(下線は林による)」と曖昧な表現をすることで断定を避ける形を取っているが、断定する・しないはともかく、措置入院に刑事治療処分的な役割があることを前提にして、その後の議論が展開されていることに違いはない。誤った認識から出発した議論は、一見もっともなようでも、ポイントがどんどんずれていくものである。それは次の文に表れている。
「措置入院は司法判断ではなく、指定医の判断に基づいて都道府県知事の行政命令として出される。今回のような例のない凶悪事件が起きると、果たして措置入院と後に退院させた判断が妥当だったかが問われるのは当然であろう」
これは、多くの人が持つ素直な疑問であり、憤りであると思う。しかし、本当に問題を解決しようとするならば、素直な憤りは憤りとして、問題の真の所在を直視しなければならない。問題の所在は、また繰り返しになるが、措置入院は医療であって、医療以外のものではないということである。
医療はあくまでも患者本人のためのものである。わかりやすい例をあげよう。血も涙もない連続殺人犯が瀕死の重傷のため患者として病院に来たとする。この時、医師の仕事はその患者の命を救うために力を尽くすことである。命を救ったあとその犯人をどう裁くかは、検察官や裁判官が決めることである。医師には決める権限はないし、決める能力もない。命を救わないことが社会のためだなどと医師が判断することは許されることではない。患者自身のために行うのでなければ、それは医療ではない。
措置入院も同じことである。もしここで、「そうは言っても、退院して自傷・他害をすれば、それは結局は患者自身のためにならないではないか」と反論するならば、議論は循環し、いつまでたっても結論には達しない。
措置入院にはそういうジレンマがある。そのジレンマの中で関係者は努力しているのである。残念ながらこの毎日新聞の社説は、措置入院をめぐる根本的な問題を理解していない。あるいは理解していても故意に目をそらしているのかもしれない。それが「刑事治療処分的な役割があるとされる」という曖昧な前提を生み、この前提が誤った議論の展開につながっている。なるほど確かに毎日新聞のこの社説は、多くの人の直感的な意見を代弁しているという意味では共感を呼ぶものであるに違いない。しかし、多くの人の直感がいつも正しいのであれば、メディアの論説など必要ない。多くの人の直感が正しいのは、問題についての基本的認識が正しい場合に限っている。問題についての基本的認識に誤りがあれば、正しい認識を提供するのが、情報を発信するものの役割であろう。すでに新聞はそういう役割を失っているという人もいるかもしれない。この毎日新聞の社説を読むと、私もそう言いたくなる。しかし、次の読売新聞と日本経済新聞の社説は、さすがクオリティ・ペーパーと思わせるものであった。
読売は事件数日後の2001年6月12日に、日経は2001年6月14日にこの問題を社説で取り上げた。、読売の題は「再発防止論議にタブーは不要」日経は「刑罰と治療の谷間をどう埋めるか」である。どちらも正確な内容だが、結論を言うと読売の方が核心を鮮やかに衝いており、踏み込みも深い。両方を並べてみてみよう。
まず、日経の論説の出発点はこうである。
「いま議論が沸き起こったのは、精神障害者が殺人や傷害致死、放火といった重大な犯罪を犯した場合、責任能力がないとして刑罰も受けず、措置入院も短期間で終わることがあるからである。自分を傷つけたり、他人に害を及ぼしたりする症状がなくなれば、一週間でも退院可能、と精神病院関係者は指摘する」
これは正しい解説であるが、一点だけ注意して読む必要がある。それは、「責任能力がないとして刑罰も受けず、措置入院も短期間で終わることがあるからである(下線は林による)」の、「ことがある」という部分である。確かにそういう「ことがある」が、前のページに私が書いたように、実際にはそういうことはめったにない。もちろん、重要なのは頻度の問題ではない。重大な犯罪を犯した精神障害者のその後の扱いが、今の措置入院制度では不十分であることを問題にしているのである。その点においてこの日経の論旨は正確である。そして、今の制度の不十分さの根本については、次のように解説している。
「問題の核心は、社会の安全や犯罪の予防に責任を負う刑事司法制度と、精神障害者の治療や社会復帰を促進する精神保健制度の間に溝があり、相互補完の関係がないことにある」
司法と医療の間の溝。これこそが問題の核心なのである。読売の問題点の認識も同様である。ただし読売の文章の方が鋭くわかりやすい。
「問題は、検察官が不起訴処分にしたり裁判所が無罪を言い渡した後の犯罪者の処遇にある。不起訴や無罪になると、司法の手を離れて、医療に引き継がれる。措置入院は、精神保健福祉法に基づく制度であり、治療と社会復帰が目的だ。再犯防止の視点は一切入っていない。精神病院関係者も、重大犯罪を犯しても症状がなくなれば、一週間でも退院可能と判断することはある、と現行制度にひそむ問題点を認める。(下線は林による)」
一文一文が簡潔かつ十分に問題点を述べており、私が解説をつけ加える余地は何もない。繰り返しを承知で確認すると、「再犯防止の視点は一切入っていない」ことが最大のポイントである。もう一度繰り返す。措置入院は医療なのである。だから症状がなくなれば一週間でも退院可能なのであるし、退院させなければいけないのである。さらに言えば、無罪を言い渡された時点で症状がなければ、入院させる根拠もなくなってしまう。(ところで、無罪を言い渡されたら、もはや「犯罪者」ではないので、読売社説から引用した冒頭の文章は表現に誤りがある。しかしこの文脈に限っては些細な誤りであろう)
さて、日経も読売も、問題点の指摘にとどまらず、将来に向けての改善方法の提言も行っている。問題点を正確に認識している両者の提言は傾聴に値するものである。まずは日経の提言である。
「犯罪を犯した精神障害者に十分な治療を与え、国民の不安を取り除き、1人の医師に過重な決断を迫ることを避けるため、重大な犯罪を犯した精神障害者の措置入院と退院の際には、医師のほかに検察官も入った第三者審査機関の判断を求める仕組みを導入してはどうか。医療的判断と司法的判断の双方が反映されることで、障害者の人権と社会の安全のバランスが保てる」
措置入院の退院時に、司法的判断を加えよという提言である。これはひとつの有力な対策で、以前から専門家により提案されていた方法でもある。ただしこの方法には重大な矛盾がある。少なくとも私は矛盾があると考えている。それは、繰り返し述べてきたことだが、措置入院は「治療」であるということである。治療が目的なのに、犯罪再発の「おそれ」があるからといって、退院を延期することが許されるのだろうか。精神保健福祉法という医療の法律に、再犯防止のための入院という非医療的な概念を導入するのは、やはり無理だと私は思う。
だとすれば、今の制度を改善するためには、刑法に手をつけなければならないということになる。読売の社説はこの点まで踏み込んでいる。
「日本精神病院協会など医療関係者の間からも、入退院時には裁判所の判断を求めたい、という声が出ている。司法判断を反映させる制度の構築が急務だ」
ここまでは日経の提言とほぼ同じように見える。しかし注意してほしい。上の読売の文には、措置入院という言葉は出てきていないのである。もしこれが意図的に措置入院という言葉を避けているのだとすれば、意味深長である。続く文はこうである。
「法制審議会は一九七四年、法に触れた精神障害者を治療目的で隔離することなどをうたった「保安処分」を改正刑法草案の中で打ち出したが、「精神障害者一般に対する差別を招く」などと反対され、実現できなかった。以後、この種議論は長い間タブー視されてきた」(「この種議論」は、「の」が抜けていると思われるが、原文通り)
何気なく書かれているようだが、この「保安処分」という言葉は、長年精神医療ではタブー視されてきた、禁句に近いものだったのである。保安処分は、法に「触れた」精神障害者に適用されるもので、自傷他害の「おそれ」に基づく措置入院とは根本的に違う。法に「触れた」というのは事実に基づくものであり、自傷他害の「おそれ」は推定である。保安処分がタブーとされてきたことの主な理由は、上記のように、「精神障害者一般に対する差別を招く」という大合唱である。しかしこの理由は少なくとも論理的には全く不合理である。対象は決して精神障害者一般ではないのである。読売の社説もそれを指摘して、結びとしている。
「だが、議論の対象は、患者一般ではなく、あくまで重大犯罪を犯した精神障害者に限られる。悲惨な事件を直視し、いつまでもタブーにすべきではない」
タブーというものは、時代と社会の必要から生まれるものである。生まれた当時には確かに理屈を超えた意義があったはずである。しかし、どんなタブーも、「いつまでも」タブーにしていたら、矛盾や歪みの方が大きくなっていく。議論すること自体がタブーにされていたら尚更である。「悲惨な事件を直視し、いつまでもタブーにすべきではない」と明言した読売の社説を、私は高く評価したい。また、「精神に問題がある人が犯罪を起こしても、人権の問題とか医療の問題の難しさもあって、何もしないできた。反発があるからと言って、何もしないでは済まされない。全部見直す」(読売、2001年6月12日22:04)と述べた首相に大いに期待したい。
(社説は、各新聞のインターネット版に依拠した)