精神科Q&A
【0542】薬害エイズの安部教授が心神喪失のはずはないと思うのですが
Q:
23歳男、医学生です。2003年12月の新聞で、薬害エイズの安部教授に、心神喪失の可能性があるため、精神鑑定を行うことになったいう記事を読みました。医学生としての私の知識からすると、安部教授が心神喪失ということはありえず、精神鑑定をするというのはおかしいと思いますがいかがでしょうか。
精神鑑定で心神喪失と判定されれば、被告人は無罪ですよね? いまごろになって安部教授の精神鑑定をするというのは、何か政治的な意図のようなものが背後にあるのでしょうか。
心神喪失というのは、「理非善悪の弁識をし、その弁識に従って行動する能力が完全に失われている」という意味であると、私の手元の参考書にあります。安部教授は一審は無罪ということで、それについてはいろいろな意見があるかとは思いますし、私は私の意見があるのですが、判断は裁判所に任せるべきだと考えています。しかし、彼の行動の善悪はともかくとして、心神喪失ということはありえないと思います。もし安部教授の精神鑑定の結果が、「心神喪失、したがって無罪」ということになるようなことがあれば、裁判による正義はないということにならないでしょうか。
林: 精神鑑定や心神喪失にかかわるあなたの理解には、二つの誤解があります。ひとつは、心神喪失という判定をするのは誰かということです。もうひとつは、心神喪失という言葉そのものについてです。順番に説明しましょう。
まず、心神喪失の判定は誰がするかということ。あなたは、
精神鑑定で心神喪失と判定されれば、被告人は無罪ですよね
と言っておられますので、判定をするのは鑑定人、すなわち精神科医だと思っておられるようですが、それは間違いです。心神喪失か否かの判定をするのは、裁判官です。精神鑑定というのは、あくまでも裁判のための参考資料の提出にすぎません。ですから精神鑑定結果は、事件に関する証拠のひとつということもできます。その証拠を信頼できるものとして採用するかどうかは、裁判官の判断ですから、精神鑑定でどのような判断がでようとも、裁判ではそれが却下されることが十分ありえます。
また、そもそも心神喪失という言葉自体が、医学概念ではなく、法律概念です。ですから本来は精神鑑定書では、心神喪失であるとかそうでないという結論は出せないのです。医学生であるあなたのお手元の参考書というのは、おそらく医学の参考書だと思われます。実際には心神喪失という言葉は医学の参考書にも出ていますが、本来は法律用語なのです。
そして心神喪失の定義としてあなたが引用されている文章、
理非善悪の弁識をし、その弁識に従って行動する能力が完全に失われている
は、確かにその通りです。ごく簡単にいえば、「何をしているか全くわからないままに、何かをしてしまった」というような事件の場合、心神喪失ということになります(繰り返しますが、その判定は裁判官が下します)。あなたの引用された定義は、大体どの医学参考書にも出ていると思います。
しかし、心神喪失という言葉には、もうひとつ別の意味があります。それが、あなたの第二の誤解であり、またご質問の安部教授の精神鑑定の焦点になっているのもそれだと思います。
そのもうひとつの別の意味とは、最高裁判所で平成7年2月28日に示された、次の内容です:
「心神喪失の状態」とは、訴訟能力、すなわち、被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当な防御をすることのできる能力を欠く状態をいうと解するのが相当である。
つまり、あなたの引用された文章は、責任能力についての事項ですが、このように訴訟能力についても心神喪失という用語を使うのです。「安部教授が心神喪失の疑い」というのは、これまでの報道から考えて、こちらの意味(責任能力ではなく、訴訟能力の意味)に間違いないでしょう。
私は個人的には、心神喪失という用語にこのようなふたつのかなり違う意味(かなり違う意味のように、私には思えるのですが、法律の専門家の意見もお聞きしたいところです)を持たせるのは、混乱を招くのであまりよくないと思います。が、それは私の個人的意見にすぎません。
以上をまとめますと、心神喪失という用語には次の二つの意味があります:
1. 理非善悪の弁識をし、その弁識に従って行動する能力が完全に失われている
2. 訴訟能力、すなわち、被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当な防御をすることのできる能力を欠く
もう少しだけ補足しますと、安部教授の精神鑑定についての新聞記事によると、
裁判長は、被告が審理の内容を理解できるかどうかを確認するため、専門家に精神鑑定を依頼することを決めた。
安部被告は・・・10月には、全く会話ができない状態になったという。
(Yomiuri On-Line, 2003/12/16/22:12)
ということですので、安部教授の精神鑑定は現時点での訴訟能力を明らかにするためのものと考えるのが妥当でしょう。
そしてここからは完全な推測ですが、87歳という年齢になってはじめてそのような状態が生じたとすると、痴呆性の疾患、たとえばアルツハイマー病や脳血管性痴呆のような疾患の可能性が見られるのだと思います。だとすれば、裁判にあたっては、まずは本当にその疾患であるかどうかの診断が必要になります。それがこの場合の精神鑑定です。さきほど解説しましたように、精神鑑定は裁判のための参考資料ですから、裁判官は精神鑑定による診断結果を参考にして、判断をすすめることになります。そして裁判官が(もう一度繰り返しますが、鑑定人ではなく、裁判官が、です)心神喪失と判定すれば、安部教授の裁判は刑事訴訟法の規定により停止になります。
続きを読む(2004.3.5.)
参考
最高裁判所判例解説刑事篇 (平成7年度)
財団法人 法曹会 編集 平成10年