精神科Q&A

 【0916】自殺した娘の香典の寄付先を教えていただけないでしょうか


Q: 私は49歳の男性です。私も妻も、それぞれ診断名は異なりますが、精神科で治療中です。 

本題は娘のことです。
数ヶ月前、境界型人格障害の一人娘(18歳)が自室(9階)から投身自殺しました。 
思いのほか多くの香典を頂戴し、香典返しを寄付に代えたいと妻と相談して決めました。 

娘と同様な病気の研究あるいは治療に役立つ機関に寄付したいのですが、どういうところが良いのかまったく分かりません。 
そこで、先生のお教えを請いたいと思い、メールをさせていただきました。 
以下、娘および病気の経緯を述べさせていただきます。 

娘は高校卒業後、厳しい就職戦線を経て、昨年4月、第一志望だった外資系ホテルに就職。中学以来の夢であったパン職人となりました。 
パン職人は夜勤もある仕事ですが、毎日、本当に楽しそうに働いておりました。 
職場の人間関係も良好で、会社で唯一の未成年であった彼女は、先輩や上司の方々に可愛がられたようです。 
ところが、わずか3ヵ月後、職場のホテル前で「足が動かず、どうしても中に入れない」と泣きながら妻に電話してきました。 
「うつ病では」と直感した妻は、娘にタクシーで帰宅するように伝えるとともに、自宅に近いクリニックを受診させ、そこでうつ病と診断されました。
そのクリニックの医師は、いわばうつ病のプロのような感じで、その医師の深い知識と人間性に妻はほれ込んだようです。 
人の好き嫌いが激しかった娘も「この先生なら」とすぐに信頼できたようです。 
以来、娘は妻とともにそのクリニックに週1〜2回のペースで通いながら自宅療養を続け、会社は1年間の休職扱いにしていただきました。 
一方、妻は、その1ヶ月前に乳がんの手術をしたばかり。術後のホルモン療法に伴う副作用(強まる抑うつや体の痛み)と闘いながら、文字通り、娘と一心同体となって支えてきました。 
私はといえば、実は上記の期間は入院中で、娘の発病を知ったのは1ヶ月の入院を終えてからでした。 

娘は一日も早く元気になって職場に戻りたいという一心で、自宅療養の日々を送りました。 
調子のよいときは、主治医に自作のパンを持っていったこともありました。 
私たち夫婦は、「うつ病は薬で治る病気だから」「薬の助けを借りて、ゆっくり焦らずエネルギーを蓄えれば職場に復帰できるから」と娘を励ましていました。 
当初は、一年も休職することはないだろうと楽観的でもありました。 
しかし、秋が来て冬になり、春を迎えても娘はよくなるどころか、徐々に強い薬に変わり、その量も増えていきました。 
「死なせてほしい」と泣いて訴えることも少なくありませんでした。 

娘がクリニックに行くエネルギーもなかった4月始め、妻が独りで薬をもらいに行ったとき、主治医は「うつ病ではなく境界型人格障害という病気の可能性が高い」と言われました。 

また、「薬では治らない難しい病気だが、パン作りに打ち込む娘さんの職場復帰がうまくいけば治る可能性も5割あります」と。 
「境界型人格障害」がどういう病気かを、私たちは先生のサイトを読んで初めて知りました。 
もちろん、主治医の言う5割に賭けて・・・。 
主治医によれば、境界型人格障害の患者が抑うつ状態に落ち込むと、「砂漠にたった独りで取り残され、誰も助けに来てくれない、筆舌に尽くしがたい絶望感に襲われる」とか。 
ただ、リストカットや自殺未遂といった行為はありませんでした。 

夏になり、職場復帰のために主治医に診断書を書いてもらい、娘は職場復帰の打ち合わせをするため、独りで会社(ホテル)に行きました。 
娘は生理前の月初がもっとも不調で、5日もはたして会社で行けるかどうかという状態でした。 
ハラハラしながら待っていた自宅に、娘はうれしそうな声で電話をかけてきました。 
「とってもいい条件で、復帰できることになったんだよ」と。 
2週間後から、週3日5時間の日勤で様子を見ましょうという条件でした。 

ところが、その日の夕食はほとんど口にせず、妻に「会社に戻りたくない」と。翌日も食事はほとんどとらず、1日3回限度の頓服も夕方には飲みつくしてしまいました。 
「様子がおかしい」と感じた私たちは交代で起きていることにしました。午前1時過ぎに地震があり、1時半ごろ妻が「1人では眠れない」と言うので、娘の部屋を確認して、私も寝室で眠りました。 
午前4時前、ふと目覚めた妻が娘の部屋に行ってみると、電気がつき、ベランダ側の窓が開いていました。 
私がベランダに出て、下を見ると・・・。 

娘は、パジャマからお気に入りのワンピースに着替え、いつも一緒に寝ていたぬいぐるみを抱えて、とびおりました。 
遺書も残していました(娘の自室ではなく、食卓においてあり、当初は気づきませんでした)。 
顔に外傷はなく、今にも目覚めそうな安らかな顔だったことが、せめてもの救いでした。 

あとで娘の部屋の卓上カレンダーを見ると、職場復帰予定日の欄には「出勤」と書いてありました。 
職場復帰の喜び以上に、絶望的な不安感に襲われたのでしょうか? どんな気持ちだったのか・・・。 
ちなみに娘に、境界型人格障害のことは知らせていませんでした。 

子供時代の娘は「あのおもちゃを買って」などといった駄々をこねることが一度もなく、たくましくとても活発でした。 
私たちを困らせたのは唯一、中学3年の終わりのことでした。 
授業の一環として行われた職業体験で、知的障害者の方たちが運営するパン屋さんで実習したことがパン職人を志望するきっかけだったようです。 
娘の学校は中高一貫の女子校で、形だけの入学願書を提出する必要がありました。 
その期限が迫ってきた中学3年の2月、娘は突然、「高校へは行かず、パン屋で修行する」と。 
私は思案の挙句、次のように答えました。 
「あなたがパン屋になりたいのは知っていたが、そこまで真剣だとは思わなかった。 あなたのことだから、よくよく考えて決断したことだろう。だから、決して反対するわけではない。 ただ、高校時代は人生の中で最も感受性の強い時期で、父さんもそうだった。映画や音楽、文学、社会問題・・・いろんなことに興味を持つようになる。 もしかしたら、おまえもパン職人以外の道に惹かれるようになるかもしれない。 あるいは、パン屋に就職して『こんなはずじゃなかった』と後悔しても、後戻りはすごく大変になる。 子供の可能性をできるだけ広くしておくことが、親の責任だと父さんは考える。 どうしてもパン職人になりたかったら、高校に通いながら、パンの専門学校の夜間部を探して入学してはどうか? それを1年間やってみて、やはり高校を辞めたいと思うなら、辞めてもいい」と。 

結局、娘は自分で探した専門学校夜間部に週3日・2年間通い、高校も無事卒業しました。 
高校を辞めなかったのは体操部に所属していたからだと思います。小学校からずっと新体操を続けていましたから。 
高校2年の冬休みには一人でパリに行きました。体操部の先輩がパリに留学していて、パン屋になりたいのだったら「パン屋のたくさんあるパリに来て見れば」と誘ってくださったからです。 
就職が決まった高校3年の1月から3ヶ月はアメリカに語学留学しました。 
「英語の勉強はこれで仕上げにして、就職後に余裕ができたらフランス語を勉強したい」といっていました。 

長々と書き連ねてしまいました。申し訳ありません。 
娘の自殺後、妻は後追いしかねない状態となり、かつ、食事と睡眠が取れないため、先月精神科に入院しました。 

娘は自殺という結果となりましたが、自宅の近くに信頼できる医師のいたことは非常に幸運だったと痛感しています。 
ほとんどの家族は、遠くの医師(病院)に通われていることでしょう。 
単に研究機関だけではなく、そうした地域医療に役立つような寄付先があれば、と思っています。 

このサイトの本来的趣旨とは異なる質問ですが、ご教示いただければ幸いです。 
よろしくお願いいたします。


: まだ悲しみが癒えない時期に、このようなご丁寧なご報告をいただきありがとうございました。

そのように申し上げる一方で、ご要望にそえず申し訳ありません。私のサイトでは医療機関の宣伝 (あるいはそれに類すること) につながるご紹介は一切しないという方針をとっております。理由は【0019】をご参照ください。

それでもこうして掲載させていただくことにした私の意図は、

娘と同様な病気の研究あるいは治療に役立つ機関に寄付したい

というあなたのご意向の根本にあるもの、すなわち、娘さんと同様な病気の方のお役に立つということが、あなたのメールをここに掲載することで達せられると私が考えるためです。

こころの病の方の実際のご経験を多くの方に知っていただくことが、ひいては適切な治療(治療を受けるということから、治療の研究の支持に至るまで)につながると私は考えております。それがこのサイトを続けている意図でもあります。

そうした事情で、この【0916】を掲載させていただきました。ご理解いただきますようお願い申し上げます。

最後になりましたが、お嬢様のご冥福をお祈り申し上げます。





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