うつの8割に薬は無意味

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うつの8割に薬は無意味
井原裕著 朝日新書 2015

「うつ」についての、これはある意味での名著である。
いま初めてこのページを開いた方には、いますぐページを閉じて、この本を購入してお読みになることをお勧めする。
なぜなら、私はこれからこの本についての解説を書こうとしているのであるが、解説とは常に筆者の角度から見たものになることを避けられないから、解説を先に読むと、せっかくの名著の読み方がゆがんでしまうおそれがあるからだ。ぜひ先入観なしの状態で本を先にお読みください。「名著である」という記述が、すでに先入観を生むものであるが、まあそれは仕方ない。

 

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ここからは、『うつの8割には薬は無意味』と『「うつ」は病気か甘えか。』 (本サイト うつ病 に紹介) の2冊の本の記述内容を比較しつつ進めていく。

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その理由は、ひとことで言えば、どちらの本も、「うつ病とは何か」、さらにいえば「心の病とは何か」というテーマに、それぞれ別の角度から光を当てているからである。そしてこのテーマは、うつ病の人に適切な治療を受けて回復していただくためには最重要であると私は考えるからである。

 

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まずタイトルから始めよう。
『うつの8割には薬は無意味』
は、結論を述べている。それに対し、
『「うつ」は病気か甘えか。』
は、疑問文である。疑問文といっても、「甘えである」という答を暗示するタイトルであると読めないこともない。読めないこともないが、さすがにタイトルからそこまで読んでしまうのはやり過ぎであって、本文を読んだうえで判断すべきであろう。そして本文を読めば、結論は決してそうではないことがわかる。しかしだからといって「病気である」と結論しているわけでもない。「病気か甘えか。」は、疑問文であり、かつ、結論であるとも言えるタイトルになっていることが、本文を読めばわかる。
それに対し、『うつの8割には薬は無意味』は、この時点ですでに明快に結論を述べている。本文を読まなくても結論がわかる。一刀両断、非常にすっきりしたタイトルであり、かつ、本文を正確に反映したタイトルである。

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『うつの8割には薬は無意味』というタイトルをつけた著者の意図は、この本のp.20に書かれている。

『うつの8割には薬は無意味』 p.20
その真意は「だから抗うつ薬は使うべきではない」というつもりでも、「だから抗うつ薬は使うべきだ」というつもりでもありません。読者の皆さんには、ただ、事実を知っていただきたいのです。「うつの人の8割には薬は無意味。意味があるのは2割だけ」、そういうことです。

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但し、直後には次のように書かれている。

『うつの8割には薬は無意味』 p.20
本書は、「薬が無意味」な「うつの8割」の人のために書きました。

このp.20は序章の一部である。そして序章のタイトルは「8割」の方のために であるから、ここでも著者は旗幟鮮明である。

 

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したがって、この本が書かれた目的は、「うつの8割には薬は無意味」というメッセージを読者に伝えることである。「うつの2割には薬は有効」という裏のメッセージを伝えることではない。

 

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その意味で、この本は成功を収めている。
本稿1で私はこの本を「ある意味での名著」と言った。
「薬が無意味」な「うつの8割」の人にとっては、100%の名著である。
だがここには大きな問題が残る。それは、読者本人の一人ひとりにとって、はたして自分が「薬が無意味」な「うつの8割」の人か、それとも薬が有効な2割の人かがわからないということである。この問題の重大さについては、本稿を進めていく中で順次言及していきたいと思う。

 

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それはそうと、『うつの8割には薬は無意味』の著者の旗幟鮮明さは、天下一品である。「うつの8割には薬は無意味」という明快なタイトルから始まり、本全体がこのタイトルのもとに首尾一貫した雄弁な文体で統一されている。読者は迷うことなく安心して最後まで読み進めることができる。この点が、『「うつ」は病気か甘えか。』とは大きく異なっている。『「うつ」は病気か甘えか。』は、タイトルが結論不詳の疑問文であるのみならず、内容も二転三転しながら進んでいく。読み進める読者は困惑するであろう。あるいは『「うつ」は病気か甘えか。』の著者は優柔不断な性格で、『うつの8割には薬は無意味』の著者は積極果断な性格なのかもしれない。

 

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『うつの8割には薬は無意味』 第1章 あれもうつ病、これもうつ病
p.24
うつ病の概念は、私の研修医時代とは比較にならないほど拡大し、拡散し、その結果、「うつ病」の姿は輪郭不鮮明なものとなってしまいました。

と書かれ、その様子が図表1として示されている。

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『「うつ」は病気か甘えか。』p.295
にも同様の図がある。
『うつの8割には薬は無意味』では冒頭の章、『「うつ」は病気か甘えか。』では最後の章という違いはあるが、「うつ病概念の拡散」を強く指摘しているという点では、どちらも共通している。そしてこの指摘は特に目新しいことではなく、うつ病についての現代の多くの本で指摘されている事実である。だがその背景について、2冊ともそれぞれ示唆に富む記述がなされている。

 

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その背景についての記述とは、ひとつは次の通りである。

『うつの8割には薬は無意味』 p.35
医学部生は・・・「人を見たら病気と思え」が習い性になっています。いわば、職業病です。

 

『「うつ」は病気か甘えか。』 p.169から
ハンマーバイアス
・・・「ハンマーを手にしていれば、物は何でも釘に見える」だ。・・・自分の能力を、あらゆる局面で発揮したいと思うこと。そしてついには、発揮すべきでない場面にまでも出しゃばりたくなること。一種の専門馬鹿を諭したことわざである。
・・・過剰診断は精神科全般に深く静かに浸透している。

表現の仕方はだいぶ違うが、2冊とも共通する指摘をしている。

 

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うつ病概念の拡散についての、もうひとつの記述。

『うつの8割には薬は無意味』 p.40、p.42
善意あふれるヤブ医者ぐらいハタ迷惑なものはない
・・・
患者さんに対する思いやりと優しさにあふれています。でも、思いやりだって、優しさだって、それが思慮を欠いたまま発揮されれば、危険きわまりない。

 

『「うつ」は病気か甘えか。』 第4章 どっちもカンタン、ニセ医者・ニセ患者 p.91から
に、ニセ医者のやり方と称して、実際には精神科のヤブ医者の姿が描かれている。たとえば p.96から
「患者中心」は、美しい言葉だ。勝てば官軍といえば戦争だが、医療では勝たなくても官軍になることができる。その方法は「患者中心」という御旗を掲げること。
・・・
「すべてのゲストがVIP」
ニセ医者にとっての患者中心とは、そういうことである。そして常にゲストの期待を超えることを目指す。期待を満たすのは、だから最低限の出発点として必ずおさえる。薬を期待して来た人には薬を。検査を期待して来た人には検査を。休職の診断書を期待して来た人には休職の診断書を。

やはり表現の仕方はだいぶ違うが、2冊とも共通する指摘をしている。

 

 

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すなわち、うつ病概念が拡散したこと、つまり、「あれもこれもうつ病」という事態になってしまったことの原因として、精神科医の側の要因を指摘している。
そのひとつは、「医師は人を見るとその人が病気だと考えたがる傾向があること」(上記13)であり、もうひとつは、「無条件で患者の味方になるという医師の基本姿勢」(上記14)である。これについては、『「うつ」は病気か甘えか。』 では、「ヒポクラテスバイアス」として、p.161からにも記されている。

 

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『うつの8割には薬は無意味』 p.48
ハワイでサーフィンする新型うつ病
と題したセクションの中に、次の記述がある。

本来のうつ病は、気が滅入って、好きなことにも興味をなくし、何をするのも億劫になってしまう病気です。

ここで注目したいのは「本来のうつ病」という表現である。私は上記の2行に全面的に賛同する。いや「賛同する」というのはおかしな話で、上記の2行がうつ病についての精神医学的に正しい記述というものである。ここで表現されている「本来のうつ病」を、私はサイトや本の中で「真のうつ病」あるいは「うつ病」と呼んできた。それ以外の、「うつ病ではないが、うつ病と称しているもの、または、うつ病とされているもの」を「擬態うつ病」と呼んできた。「擬態うつ病」を出版したのは2001年だから、以来、ほぼ15年にわたってこの姿勢を堅持してきた。今もこの姿勢は不変である。真のうつ病の方々のためにも、擬態うつ病の方々のためにも、両方をまとめて「うつ病」と呼ぶことは大きなマイナスであると考えるからである。

 

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『うつの8割には薬は無意味』 の著者の姿勢も、上記16の引用文を読むと、同様であるように思える。だがしかし、「うつ病」という言葉の使い方は、私とは方針が異なることが、その後の記載から読み取ることができる。

『うつの8割には薬は無意味』 p.49
「うつ病かどうか」と問うから間違うのであって、「休職・自宅療法の必要があるか」を問えばよかったのです。病気であっても、休職の必要も、自宅療養の必要もない場合はいくらでもあります。

つまり、「本来のうつ病」以外のものについても、「うつ病」と呼ぶこと自体には異を唱えていない。病名は同じでも、適切な対応は異なるというのが『うつの8割には薬は無意味』 の述べるところである。

そして、「ハワイでサーフィンをする新型うつ病」については、

答えは簡単です。「うつ状態だが、休職の必要も、自宅療養の必要もない」です。

と明快に記されている。

 

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説明が前後したが、「ハワイでサーフィンをする新型うつ病」は、次のようなケースのことを指している。

『うつの8割には薬は無意味』 p.48
新型うつ病が一種の社会問題化したのは、巷間かまびすしく批判されている「会社へは行けないけれど、旅行はできる」タイプの行動でしょう。「会社には行けないけれど、ハワイに行ってサーフィンはできる」、そんなことを聞けば、誰だって不審に思います。うつ病なのに、会社を休んで旅行? サーフィン? 疑問に思って当然です。

 

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すると、そんなものはうつ病ではないと言っているように読めるが、直後には次のように書かれている。「新型うつ病は、うつ病か?」と問うのは、問いの立て方が間違いであり、そんな問いに答えようとするのは時間の無駄である、という趣旨に続けて、

『うつの8割には薬は無意味』 p.49
「うつ病かどうか」と問うから間違うのであって、「休職・自宅療養の必要があるか」を問えばよかったのです。病気であっても、休職の必要も、自宅療養の必要もない場合はいくらでもあります。

上記引用部分のうち、後半については私は全く異論はない。だが前半部分、「うつ病かどうか」については、「問いが間違っている」という立場を私は取らない。
新型うつ病は、うつ病ではない。
『擬態うつ病/新型うつ病  実例からみる対応法』に私はそう明記している(p.100)。

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それに対し『うつの8割には薬は無意味』 の著者は、上記19の記述からすると、うつ病と呼ぶこと自体には反対していない。「新型うつ病をうつ病と呼ぶのは構わないが、だからといって休職や自宅療養が必要となるわけではない」が著者の述べるところである。そしてハワイでサーフィンをする新型うつ病への正しい対応を次の通り示している。

『うつの8割には薬は無意味』p.50
答えは簡単です。「うつ状態だが、休職の必要も、自宅療養の必要もない」です。

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これはしかし「ん?」である。「うつ状態」と書かれている。「うつ状態」? なぜ「うつ病」と書かないのか? 『うつの8割には薬は無意味』の著者もやはり、新型うつ病をうつ病と呼ぶことには相当な抵抗をおもちなのだと思われる言葉の選び方である。

 

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『うつの8割には薬は無意味』 第2章 「心の風邪」キャンペーンは誰のためか
「誰のためか」という問いの形の章題を受けて、この章には、「それは製薬会社のためが主である」と述べられている。キーワードは「疾患喧伝 disease mongering」である。
p.66
疾患喧伝とは、薬剤の販売促進を意図した「病気の宣伝」です。本来、病気とはいえない程度の身体の些細な不調をとりあげて、「病気だ、病気だ」と騒ぎ立て、やれ「医者にかかれ」だの「治療しないとまずい」だのとかまびすしく説いて回ることをいいます。

 

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そして、疾患喧伝の対象となる疾患の共通点の第一として、次の点を指摘している。

『うつの8割には薬は無意味』 p.66
正常と異常との境界領域を狙うということ。ここに巨大な市場が隠されています。

『「うつ」は病気か甘えか。』にもこれに対応する記述がある。 p.43
「誰にだってある」ことを商品にすれば、全人口が顧客だ。
そしてp.46、「心の病は、きりがない」という見出しに続けて、p.50
「きり」が「ない」という言葉の文字通りの意味、それは「どこまでも無限に続く」だ。「嫉妬病」や「不機嫌病」的に「心の病」を列挙すれば、きりがない。無限に続く。なぜなら人間の感情や苦悩をリストアップしているだけだから。こういう「誰にでもある」ことを病気と名づけ、その対策を商品にすれば、市場はどこまでも拡大できる。

病気未満の状態をターゲットにすればそこには巨大な市場が開ける。ここでも2冊は同じことを指摘している。

 

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そしてさらに「心の風邪」キャンペーンに言及されている。このキャンペーンの裏には、薬の売上げを伸ばそうという意図があるとの指摘である。

『うつの8割には薬は無意味』 p.67
SSRIの販売促進を行おうとしたとき、製薬会社は直接薬剤の宣伝を行う代わりに、「うつ病」という疾患の宣伝を行いました。これは、日本では法的な制約があって、医薬品の宣伝には厳しい規制がかけられているからです。薬のかわりに病気の宣伝をして、人々を不安な気持ちにさせて、薬を出してくれる病院へと送りだそうとしました。その際に使った誘い文句が「うつは心の風邪」というものです。

「うつは心の風邪」というフレーズについては、私も2009年に出した本に書いている。
『それは、「うつ病」ではありません!』 林公一 宝島社新書
のp.222-223。この本の最後のページだ。
そういえば、
「うつ病はこころの風邪」
というフレーズがありました。いいフレーズでした。広まりました。浸透しました。うつ病は、恥でもなんでもない。病気の一つである。その事実を多くの人に知っていただいた結果、受診につながり、救われた人々は数知れないことでしょう。
でも、このフレーズは二十世紀の遺物です。
ストレス社会のなか、こころが、いわば風邪をひき、ブルーになる人は、これからも増えるかもしれません。しかし、それはうつ病ではないのです。人間としての自然な反応です。それを脳の病気であるうつ病と混同するのは、もう終わりにしなければなりません。こころの風邪という範疇を超えた落ち込みこそが、本物のうつ病なのです。「うつ病はこころの風邪」というフレーズは、役割を終えたのです。これ以上このフレーズを振り回すのは、カオスを増すだけです。廃止しましょう。
それに代わる二十一世紀のフレーズはこうです。

こころの風邪は、うつ病ではない。

「うつは心の風邪」というフレーズを批判しているという大きな意味では、『うつの8割には薬は無意味』の著者と林は同じ方向を向いている。但し、上の引用部分を比べれば明らかな通り、次の点が異なっている:

『うつの8割には薬は無意味』 の著者:
薬の販売という商売に利用したものであるとして、このフレーズの提唱そのものを批判。

林:
このフレーズは当初は有意義だったが、現代では役割を終えているとして、現代もなお使われていることを批判

(続きは後日書きます)

14. 9月 2015 by Hayashi
カテゴリー: コラム